自然感覚を磨く

古民家の掃除をする中で、現代建築のものとかつての古いものの手入れの仕方に大きな違いがあることに色々と気づきます。今まで使ったことのない掃除の技術ですが、実際は私の方が馴染んでいないだけでかつての日本人たちは掃除の技術も今とは異なっていることに気づきます。

例えば、古いものを扱う時、力の加減というものがあります。プラスチックやステンレスのように均一ではなく、昔のものは強いか弱いかは直接触れて扱ってみないとわかりません。それが一体何でできたものか、土でできたものか、鐵か銅か、もしくは木でできているものか、その作り手のプロセスを感じ取らなければならないのです。それは現代の画一された物とは異なりとても個性があり弱くそして強く造られています。この弱くて強いものという感覚は、触ってみてはじめてわかるものでありそれは現代の大量生産されている物とは完全に異なります。

また凹凸というものがあります。現代のフローリングには凹凸がありません。しかしかつての古い家には、壁から床、ありとあらゆるところに凹凸があります。それは掃除してみればわかるもので、平らなものとは異なり凹凸に触れることで掃除の感覚もまた変わってくるのです。

後は水の使い方というものがあります。掃除機やクイックルワイパーなどではできないところは拭き掃除ですが、ぞうきんをよくよく絞っておかなければかえって逆効果なところもあり、掃除する場所によっては様々な工夫が要ります。同じ木のものでも時には乾拭きしたり、時にははたいたり、時には陰干しなど、そのものによっては全く接し方が異なるのです。

こういう一つ一つの中に、暮らしの中の技術があります。それが「もったいない」生活とつながり、古い自然のものに触れるとき私たちの本能は磨かれていくのです。平らなものや新しいもの、均一の強度のものにばかり触れていると日々の感覚も失われていきます。今は感覚を使わなくても済むものばかり、多少の知識があればだれでも便利に安易に使えるものばかりが溢れています。しかしそれではますます自然に触れる機会が少なくなります。

自然に触れるというのは、たとえば私たちの会社ではお昼ご飯の際に電気を落として自然光で過ごしてみることや、室内に季節を室礼して四季のめぐりを味わうこと、そういう暮らし方、生き方を通して自然感覚を日々に磨き上げ、本来の自然の一部として謙虚に生きていることを忘れていないように自戒しているのです。

実践は大げさでもなく特殊でもない、日々の暮らしの中にある一つ一つの丁寧な所作と関わり方によって実践は積み上がっていきます。本来の日本人の生き方とは何か、引き続き深め子どもに伝承していきたいと思います。

  1. コメント

    時折、掃除機を使っていると拭き掃除をしたくなる時があります。自分の体を使い動かさそうと思うのは、本来持っている姿勢なのかもしれません。掃除の大事さを説く本もありますが、体を動かして初めて感じるものもあります。そして同時に、自分が何を大事にしているのかが少しわかるような気がします。わかった気にならず、身近なところからやって感じるその体感を大事にしていきたいと思います。

  2. コメント

    「人を見て法を説く」ように、あらゆる対応はや「相手に応じて」が原則でしょう。そういう意味では、「掃除」も状況に応じて「対応」すべきものであり、マニュアルにしたがって形式的にやるものではありません。人の手を使い、指先の感覚を生かしながら、細心の注意を払って丁寧に応じる。こういう機会を、日常生活のなかでもう一度増やすことが大事かもしれません。

  3. コメント

    均一のものでないからこそ一つひとつと丁寧に関わるようになるのだと思うと、本来は日々の暮らしの中から大切なことを学んでいたのだと思います。全ては繋がっているからこそ、あちらは上手くやってこちらは知らぬ顔という訳にはいかず、逆に言えば、あちらに心を籠めて丁寧に関わればこちらも自然と心は籠るのかもしれません。そのものとしか見ないのではなく、その繋がりを広く観ていきたいと思います。

  4. コメント

    陰日向の実践はずっとずっと続くもの。
    一時だけや、誰かにだけという実践にならない様に、お陰様を自分都合で使わない様に、気をつけて行きたいです。まずは身近なところから取り組みます。

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