苦労の本体

昨日、自然農で収穫したお米の稲架け(はさかけ)を行いました。これは古来からある伝統的な方法で現代では人工的に機械で乾燥させるため見かける機会も減ってきました。

稲刈り直後のもみは約20%の水分を含みますが乾燥後のもみの水分は15%程度まで減少するため脱穀・調製やその後の貯蔵にとても効果があります。さらにこの稲架けの乾燥方式はお米の品質に及ぼす影響が大きいといわれ普通20~30日かけてゆっくり十分に乾燥させると品質、味覚がよい米に仕上がるといわれています。

また「はさ」の意味は、 挟(はさ)むの意とされています。今回は、長い竹を切ってそれを木に吊るし、その竹に一束ずつ藁紐で縛った稲を真ん中から広げてそれを竹に挟んでいます。

以前、稲架けしたときに雀が大量に飛来してきて食べていったので今回は釣り糸を用いて対策をしています。

次第に乾燥して色合いが変化し、黄金色の稲になっていく様子は格別です。また田植えから草取りなどを仲間と一緒に苦労し合ったことが懐かしく思え、この稲架けをみるたびに心が豊かに満たされていきます。

現代の農法は、ほとんど機械を使って一人で大量に生産します。私の自然農は、機械は一切用いずに肥料も農薬も一切入れませんからすべて手作業です。この農法は実際にはかなりの手間暇もかかり苦労ばかりです。

しかし一緒に取り組んでくれている仲間との豊かな思い出や、見守ってくださっている協力者のお陰様を身近に感じ、食べ物の大切をさを学び、自然の仕組み学び、生き物たちの共生と貢献の姿に癒され、水や太陽の恵みに感謝し、季節のめぐりの有難さ、五感で味わうお米作りの喜び、心の安心と安堵感、生きていくための智慧、お米の持つ偉大な力、野生のしたたかさ、風の持つ価値、土の魅力、まだまだきりがないほど出てきます。

苦労というものの本体は、一体何なのか。

苦労とは、いのちの味わいを与えてくれるものかもしれません。いのちが何を味わいたいと思っているのか、そして味わったことで感じる自分のいのちの仕合せは何なのか。

私たちは活かされているということを結局は学び、生きることを味わうことをやりたいのです。人間や人類は、この世にきてとても大切なことを忘れないために存在している生きものなのかもしれません。

だからこそ、どのような生き方をするのかは生死を度外視しても必要不可欠なもののように思います。一瞬一瞬、一期一会にこのいのちを大切に苦労していきたいと思います。

ありがとうございました。

自然の智慧

昨日、自然農の田んぼの稲刈りを行いました。東日本大震災からはじめていますからもう8年目になります。

私はほとんど出張や東京にいますからあまり田んぼに出ることができません。一般的な農業をされる方々は、家の近くの田畑の手入れをしているものです。私のように遠隔で田んぼに関わるというのは、本来は無理なことへの挑戦です。

誰もができるはずがないと思われることに挑戦することは私の生き甲斐であり遣り甲斐です。

他にも暮らしの甦生に取り組み、古民家甦生と年中行事を行っていますがこれもまた東京と福岡を行き来していますから旬を逃さずに取り組んでいます。

最初は無理で不可能だと思っていたことでも、挑戦する範囲が増えれば増えるほどに取り組みそのものが有機的につながってきます。それは仕事の進め方や取り組み方、時間の使い方、もっとも効果があるものへの集中、周囲の力を活かすこと、タイミングを外さないことなどあらゆることが重なりあってきます。

一つの事だけでも大変なのによくそんなにといわれますが、多くのことをやるからこそ一つのことを維持しなければならないということもあるのです。

人生は一度きりですし、一期一会です。自分の心が決めたことや自分の初心が忘れたくないことを現実の世界で応援できるのは最も身近にいる自分自身であることは自明の理です。

だからこそできないとすぐに諦めるのではなく、どうやったらできるだろうかと可能性を探り挑戦を続けていくことが自分を信じるということになります。そして多くの失敗を通して何度も何度も挫折しますが、その都度にそこから学ぶものは何だったかと学問を深める豊かさや喜びも得られます。

特にこの8年、多くの人たちが関わりそして去っていきました。まるで旅のように、その時々で出会いと別れを繰り返し今も私は道を歩み続けています。

昨日は稲の収穫をしましたが、当然無肥料無農薬で機械も一切使っていませんから虫に食べられ、雑草に追いやられ、イノシシにも少し荒らされ収量は世間の農家さんの田んぼを比較するととても少なく微々たるものです。

しかし収量は度外視するのなら、これだけ豊かな田んぼはあるのだろうかと感嘆を覚えます。自分のことだけを考えて収量を増やすのではなく、虫たちや野草たちと一緒に生きていく中でみんなが分け合い、残ったものを私たちが食べるということ。自然でいえばすべての循環を邪魔するのではなく、循環の豊かさを維持しながら生きていけるという仕合せ。

この時代の人間観では収量が少ないことは貧しいことかもしれませんが、絶対的な自然界では分け合い生きる共生と協働の世界は収量がたとえ少なくても豊かなことです。

いのちというものは、必ず死を迎える日が来ます。生きている間だけ富を独占したり、収量をこれでもかと根こそぎ奪い取ったりしても自分のものになるのはほんの少しの間だけです。そんなことをしても、自分の代は贅沢できたと思っても、子孫という永く継承されていくいのち全般を観たら収量はいつも一定であるのは誰でもわかります。

たとえば老舗企業が500年かけて稼ぐ金額と、新興企業が10年で稼ぐ莫大な金額は時間の問題だけで500年の軸で換算すれば総額はほとんど同じなのです。

だからこそどれだけ長い目線で物事に取り組むかが自然の智慧を上手く取り入れることであり、人類が永く生き残るための仕組みになっていくことと歴史を鑑みればそれがよくわかります。

私の取り組む自然農も、暮らしも、これはすべて生き方のことを言っています。

子どもたちに譲り遺していきたい智慧を伝承していきたいと思います。

煙の智慧

スモークサウナを深める中で、燻製のことを書きましたが同時にそもそも煙とは何かということを考えてみる必要があります。私たちは煙というものを見ても、それが一体何の煙であるのか、煙はどうなるのかを考えることが少ないようにも思います。

身近では焚火で出る煙、たばこなどの煙、車の排気の煙、火事の煙、工場の煙、他にもお灸の煙、お香の煙、蚊取り線香の煙など煙にも色々とあります。その煙は、見た目は同じに見えても実際に排出されているものはまったく成分が異なります。

煙は一般的には不完全燃焼によって発生した固体や液体の微粒子を含んだ空気のことを言います。煙は気体だけではなくそこには煤をはじめ個体や時には液体も混じります。あまりに微粒子過ぎて目には観えませんが煙になってそれが空気と合わさって広がっていきます。完全燃焼して煙が見えないときも、実際にはその微粒子は空気に広がっています。

黒煙や、濁った煙がでるときそのものは不完全燃焼しています。この不完全燃焼とは空気中の酸素が足りずに炭素とうまく合体できない状態ことを言います。炭素は酸素と合体すれば二酸化炭素になりますが酸素不足になるから一酸化炭素になるのです。そしてこの一酸化炭素が有毒の気体になりこれが窒息死などの原因になります。

人間は酸素を吸い続けなければすぐに死んでしまう生きものですから酸素不足になればすぐに呼吸困難になるということです。

二酸化炭素はCO2で一酸化炭素はCOですから、酸素Oが足りていない状態が一酸化炭素ですからその酸素を求めている状態が不完全燃焼を示すのです。

むかしの家は隙間だらけでしたから囲炉裏や竈があっても一酸化炭素中毒になることはありませんでした。しかし今の家は、気密性が高くほとんど魔法瓶ですから窓を閉め切った状態で火を熾せばすぐに一酸化炭素中毒になってしまいます。

そして煙には無色透明なもの、白いもの、黒いものがあります。完全燃焼すれば無色透明ですがそれでも煙は出ていることになります。そして白いものは湯気のように水分です。黒いものについては炭素の微粒子です。つまり湯気が液体で炭素は個体なのです。スモークサウナでいえば煙は炭素で、蒸気は水分ということです。

煙の中の炭素の中には、カルボニル化合物やフェノール、有機酸などあらゆるものが含まれます。その成分が防腐効果や殺菌効果なども発揮します。つまり有毒のものであっても使い方次第では、燻製にするための材料にもしたのです。

万物には、善悪があるように一長一短がありますし使い道次第では効能もあれば害毒もあります。

むかしの人々はそれをよく観察し、上手く暮らしに活かしたところに深い智慧があるように思います。引き続き子どもたちのためにも、残したいもの譲りたいものをうまく建築や仕事に取り入れて伝承していきたいと思います。

炭好き

私は個人的に炭が大好きで、炭オタクのように言われています。炭の魅力は言い尽くせないほどで、ありとあらゆるシーンで私は炭を活用しています。特に炭火については暮らしの中心に据えており、炭火があれば暮らしは必ず豊かになると信じています。

そして今度、炭火を活用したサウナに初挑戦するためフィンランドのキングオブサウナと呼ばれるスモークサウナを研究してくる予定です。

そもそもサウナの原型であったスモークサウナは、紀元前からずっと続いていたものですが20世紀に入り薪の燃焼によって排出される煙を煙突から逃がすサウナストーブの発明や、煙の出ない電気サウナストーブの設置が主流になりそのほとんどが消えていきました。日本でも、洞窟や石窟内での蒸気浴が主流でしたがそれがお湯を貯める風呂になり今ではほとんど消えています。

私は何をはじめるのにも原点や原型にこだわるタイプで、そのもののはじまりに道理や真理、そして自然の摂理や意味を深めます。その理由は、はじまりがあって発展し、それが終わりを迎えるからです。簡単に言えば歴史を学ぶことで、そのものの本質をつかむことがまず先でそれができればあとは自由に設計することができるからです。

学ぶというものは、単に知識を得るものもありますが物事の本質を深めるというものもあります。知ったかぶりといわれないように、そのものの歴史を学び直し、謙虚に自分の知識が智慧に及んでいないことを体験することで自然への畏敬、科学や発明への尊重が産まれます。

物づくりは物のいのちを扱う仕事ですから、何よりもその取り組みの姿勢にこだわるのが私の流儀なのです。またこんなことを書いていると宗教とか変人とか言われますが、「物が語る」ということを聴くことが如何にたいせつなことか、先人たちの生き方を子どもたちに伝承していきたいと思っているのです。

話を戻せば、石を温めるというのは後程紹介しますがまず煙という存在の面白さです。私は古民家でお香を焚いていますが家が穏やかになり清浄になっていきます。しかし囲炉裏や竈の近くは燻されますからまた独特の雰囲気を醸し出します。」

燻すことで有名なものに燻製がありますが、燻煙には殺菌や防腐効果、抗菌作用や味を引き立てる力があります。成分はフェノール系化合物やアルデヒドで、木材中の主要3成分のセルロース、ヘミセルローズ、リグニンが熱分解してできるものです。

私は山や田畑に出るとき、虫に刺されたりしないように野生動物や病原菌が寄り付かないように体を煙で燻していたことがあります。なぜか煙で燻すことで、その周囲には虫があまり近寄ってこなくなります。自然の智慧を観て、昔の人たちはそれを暮らしに活用したように思います。

これから10日間かけて、先人の智慧を深め炭を究めていきたいと思います。

拾う未来

私は世の中の動静を長期的に直観していると、この世には捨てる未来と捨てない未来があるように思います。今、私たちの社会は常に大量に生産し大量に消費することによって経済を成り立てています。捨て続けてはゴミが増え、そのゴミは循環を破壊してあらゆる貧困を巻き起こしています。

ここまで世界を捨てる未来が席巻してしまうともはや元の状態が何であったのかを思い返すことも難しいのかもしれません。同時に個人主義が私個人の利益だけを求めるという歪な欲望が渦巻き、競争や比較の中でさらに不安を増加させては加速を上げています。自分の家が汚れたり破壊されたり住みにくくなることには抵抗するのに、地球全体の問題はどこかほかの家での話のように認識しているかのようです。

長い目で観て、私たちの未来はそのまま子どもたちの未来になります。資源を使い切り、汚染するだけ汚染して、お金を使うだけ使っては死んでいく。空き家の問題もお墓の問題も、介護の問題も、精神を病む問題も、これは全部一つのところから発生していることに気づく必要があります。

知識というものは短期的で限定的なものです。人類は知識を得ては文明を発展させていきました。科学という技術を発達させることで、自然のエネルギーや力を上手く取り出しては自然を凌駕したと思い込み自然を征服していきました。

しかしそのどれもが本来は自然のエネルギーを一時的に取りだしたのであって、膨大で永遠な自然の力のほんの微細な点にすぎません。水を創ることも、火をつくることも、いのちを創ることもできません。偉大な智慧にはとても敵わないのです。

いくら征服したと思ってみてもその思い違いはすぐにやってきます。征服するから不安が募り、支配するから恐怖がきます。そうではなく共生して協働するのなら安心が増え、心の豊かさが訪れます。

人類は長い間、自然と共生してきました。

物質的に豊かになっても、自然由来の豊かさには決して敵いません。そしていくら便利になったとしても、深い味わいは自然の手間暇には敵いません。

今こそ、よく考えて私たちはこれからの未来を拾う必要があると私は思います。未来を拾うことは、子どもたちの未来を拾うことです。みんなで捨てるのをやめ、しっかりと今を手入れし、磨いてそれを子どもたちに譲り渡していくこと。

「徳を積む」とも言いますが、今こそ新しい経済に舵を切る時機です。

私にできることを考えて、構想を認め、仲間や同志を集めていきたいと思います。

想念実現の教え

今月19日、元ヤオハングループ代表の和田一夫さんがお亡くなりになりました。私は17年前に約1年間、郷里の飯塚で同志と共に国内外の展開の秘書のようなものを務めながら傍で様々なことを教えていただいた記憶があります。その教えは今も生きていて、私にとっても素晴らしい経験になっています。

今でも、その当時に見せていただいた「感謝ノート」のことは鮮明に覚えており私もその「感謝ノート」を毎日欠かさず書いています。この感謝ノートは私と和田さんとの絆でもあり、今でも私の人生を支え導いてくださっています。

思い返せば、非常に純粋で好奇心があり、偉大な意識をお持ちの方だったように思います。いつも私に「もっと大きく考えなさい」と指導してくださり、私が何を提案しても「まだ小さいな」といわれ、「大きいものには魔術まである」ともいい、物事を捉えるときに常に「偉大な視座で取り組むように」とご指導してくださいました。

またどのようなご縁も点ではなく面でとらえるように言われ、すべての機会を完全に漏らさず活用するようにご指導してくださいました。傍にいて誰も気づかないようなどのような小さく霞んだ点であってもそれを「必然」として迷うことなくご縁をつながれていきました。

また「想念実現」という言葉を深く愛しておられ、「想いは必ず実現する」と信じて疑われておられませんでした。和田一夫さんと私の親友の同志と一緒に峰隆太さんが司会だったケーブルテレビの番組に出演したことは今でも懐かしく、楽しい思い出の一つです。

また仕事への姿勢、プロの厳しさも教えていただき、どのようなことも「命がけで真剣勝負」であることを学びました。いつも会議はまるで命がけの外科手術の現場のように一切のミスも許されない緊張感がありました。意識の持ち方、情熱を傾けること、利他であること、世の中のためになること、またプロ意識や一流人の仕事の流儀のようなものも体験させていただきました。同志となんども企画書をやり直し、一緒にミスがないように何度も何度もチェックして徹夜ばかりしていたことも今では懐かしい思い出です。

今思えば、接したお時間は短かったけれどいただいたものは本当に多くあることに気づきます。1年後、私も創業したてでしたのでそのまま郷里を離れ東京へと挑戦するために和田一夫さんの中国への移住に同行することはできませんでしたが最後にご自宅に呼ばれ、それまでの感謝や謝礼をいただいて温かい握手をしていただいたことも今でも忘れがたい貴重な思い出です。

振り返れば振り返るほどに私が出会った中の人でもっとも人間らしく、純粋無垢で子どものような瑞々しい感性や魂がむき出したようなまさに善い意味で人であり人ではないまるで神さまに近い方でした。

今もその当時に一緒に行動を共にし種を蒔いて育ててきた想念と共に、友と一緒に郷里で夢の実現に取り組んでいます。いただいた御恩は決して忘れることはなく、今の私の想念と共にこの世に生き続けています。子どもたちの未来のために、これからも御恩返しをしていきたいと思います。

心からご冥福をお祈りいたします。

ありがとうございました。

模様替え

先日、社内の模様替えをする話があがりました。日々に様々な仕事が変化する中で、片付けをしていくことや、整理していくこと、何が元の状態かを明確にすることは気持ちの上でも働くうえでもとても効果があるものです。

模様替えという言葉を調べてみるとコトバンクには『建物、室内の装飾、家具の配置などを変えること。「部屋を模様替えする」 物事の仕組み・方法・順序などを変えること。「組織の模様替え」』と書かれています。

この模様という言葉は、図柄や様子を現わす言葉でもありますが兆しを示す言葉でもあります。何かの変化がある際に、その変化に対応して環境を整えていくことは自分たちが変化するために効果があるものです。

人間はすぐに慣れ親しんだ環境の中でマンネリ化しやすいものです。マンネリ化は以前、ブログでも書きましたが次第に変化を嫌がり避けてしまうものです。変化というのは、本来は成長や変化をたのしむものでそれを可視化することで自分自身の暮らしの改善も確認できます。

そしてこの改善は「磨く」ことで、新しい自分の意識や今までにない自分の姿を環境から再認識することもできます。環境によって自分を変えることもできますが、模様替えに取り組むことで新たな変化を身近に感じることができるように思います。

むかしの家の間取りは、ハレの日とケの日によって模様替えを行いました。その都度、変化を味わい、そして平素に帰りました。このハレとケの行き来によって、日々の暮らしを味わい、変化や成長を深めていきました。

色々な模様がある日々を彩ることは、豊かな日常を大切にしてかけがえのない場をみんなで大切に守っていくことに似ています。

模様替えから新たな変化を楽しんでいきたいと思います。

土地の本質

星の王子様の著者のサン・デグジュペリが「地球は先祖から受け継いでいるのではない、子どもたちから借りたものだ」という言葉を遺しています。以前、ネイティブアメリカンの言葉か何かで「土地は、先祖から受け継いだものではなく、子孫からの借り物である」という言葉を知ったことがあります。

現在、古民家甦生を含め、ブロックチェーンストリート構想など色々と手掛けていますが本来、私たちが住んでいるこの「場」とは一体何かということを改めて考え直させる言葉であることに気づきます。

現在、不動産を含め土地というものは一つの商品のように扱われています。むかしは土地といえば自分の故郷であり、その風土はアイデンティティそのものでもありました。地名がそのまま私たちの苗字になったり、伝統を表現する名称になったりしたのはそれだけその風土に根差した暮らしを行っていたからです。

暮らしが消失し、土地が人間の単なる売り買いされる物のようになってからその土地の意味も価値も変化してきたとも言えます。

実際には先祖代々の土地といって田舎にいけば活用できない土地が溢れ、空き家も増え、単なるや物置やゴミ置き場、駐車場、もしくは雑草だらけになっているところも多くあります。子どもたちもそのような土地を欲しくないといい、固定資産税もかかり管理も大変なことからみんな処分に迷惑しているところも多いといいます。これは都市部だけでなく農地でいっても休耕田をはじめ土地が活用できずに困っています。

しかし先ほどの『子どもたちから借りたもの、借り物』としたらどうでしょうか。

農地であっても農薬漬けにしてボロボロになって作物も育たないような汚染された土地を子どもたちに返すでしょうか。そして手入れもせずにゴミ置き場のようになった土地を子どもに返すでしょうか。自分の子どもにそんなことが果たしてできるのでしょうか。

土地というものは、先祖がくれたものではなく子どもたちから借りたものでそれは次の世代に必ず善い形にして返していく必要があります。そうやって代々、借りたものを磨き善くしてきたことで子孫は安心してその宝を受け継ぎそれを守り、それを育て譲り繁栄を続けて今に来ているのです。

当たり前のことをもう一度、見直し、意識を換えていかなければこのままでは子どもたちは負の遺産ばかりを渡されてしまうことになります。良識のある人たちや、子どもの志事をする方々はもう一度、この意味を深く考え直してほしいと思います。

私が古民家甦生をするのも、古い懐かしい土地を磨き直すのもまた、「子ども第一義」の理念に取り組んでいるからです。そしてこれは私の生き方であり磨かれた家家や土地は未来への子どもたちへの深い愛情の実践なのです。

子どもたちから借りたものをもっと善いものにして譲っていくことこそ、先祖の徳に報いていくことです。引き続き、何が本来のもので何を伝承することが子どものためというのかを磨き直していきたいと思います。

文化の融合

かつて文化が融合し独自の進化を遂げてきたものがたくさんあります。例えば、食文化でいえばインドのカレーや中国の餃子やラーメン、他にもお好み焼きやちゃんぽん、よく見てみたらきりがないほどにあらゆる文化を日本人は融合させて自国のものにしていきました。

海外になってくると、カリフォルニアロールや甘い緑茶、そのほかにもフランスなどでの弁当箱が流行るなどいろいろな日本の文化が現地で融合して現地の文化に取り込まれています。

そう考えてみると、文化というものは歴史を鑑みてもありとあらゆるところで上手く現地化してその国のものになり今に受け継がれてきています。これを文化交流ともいうのでしょうが、それぞれの文化の発祥が異なっていてもそれをお互いに学び合い自分のものとして昇華し吸収していくことで相互に発展し合ってきたように思います。

特に食文化は、現在では世界中のものが食べれるようになり自分たちの風土や性質に合ったものに料理人が改良を加え続けて新しくしています。身近な食生活が変わることで私たちはその国の文化を上手く自分たちのものに転換して元々あったものとは異なる新しい価値のものにしていくのが進化だと思います。

ちょうどBAに日本の伝統的な浄化場サウナを建造するために来週からフィンランドに訪問します。実際にはフィンランドのサウナと日本のサウナは文化が異なり、日本人はフィンランドから来たものを自分たちの文化に別の形で吸収していきました。

それは例えば、フィンランドはサウナがメインで水風呂はあまり使いませんが日本では水風呂とサウナは必須の組み合わせになっています。日本人がオリジナリティを発揮して、独自のサウナの使い方や用い方をしていくのはもともとあった蒸気浴や風呂の文化が根元にあるからです。根元から枝分かれして発展し、それがまた異質な文化と融合するとき、私たちは何が発祥でどのように進化してきたかを学び直します。

原点に学び、その経過を洞察し、何を進化してきたかを学び直すことは自分たちの文化の源泉を学び直す偉大な旅です。自分たちの民族のオリジナリティを追求することは世界への貢献であり、人類の進化でもあります。

時代の変わり目に、新しいものに取り組んでいけることに好奇心がわくわくします。復古創新した新しい「場」を学び直していきたいと思います。

時の濾過力

天然地下水のことを深めていると改めて地球の不思議に気づくことができます。当たり前に飲んでいる水が如何に自然の力を借りて循環し浄化され流動しているのかを知ると、私たちの身体でも起きている「濾過」について考え直すことができます。

私たちの身体もまた地球の一部であり、地球の水は私たち生命を支えていますから水を学ぶことはいのちの根源を学び直すことかもしれません。

もともと地下水はここ数日のブログでも書きましたが、雨や雪が永い間をかけて地中に沁みこみそれが鉱物や植物の化石、微生物や地球そのものの浸透圧などによって濾過されたものです。それが粘土層によって貯蓄され、それが湧き出てくるのを湧き水といい、地下を掘って出したものを井戸水といいます。

どちらの水も濾過されたもので濾過の状態によってその成分が異なります。水は大変柔軟性がある存在ですから、どんなものも通過していく力があります。長い時間をかければかけるほどどんな小さな穴でも通っていきます。そして偉大なほどに小さな穴を通るとき、不純物はすべて取り除かれて分解されていきます。

自然界に陰陽があるように水にも陰陽があります。それが酸性とアルカリ性です。そして人間に中庸があるように、水にもまた中性というものがあります。自然界はバランスを保つところが中心ですから、その中心を保っているとき私たちはその水をもっとも美味しいと体が感じてバランスを整えるために摂取するようにも思います。

私たちの身体もまた、酸性に傾いているのか、アルカリ性に傾いているのかで自分の状態を確認します。地下水であれば、一般的には濾過が浅いものは酸性で深くなればなるほどアルカリ性であるとも言われます。このアルカリ性になる理由は、実はまだ科学でもはっきり解明されているわけではありません。いまだに諸説があり、本当は何によってアルカリ性になるのかが明確になってはないのです。

それだけ自然界というものは、まだまだ観えない存在によって不思議な力を隠し持っているということだと私は思います。

しかしはっきりと言えるのは、何千年、何万年を経て濾過された天然地下水の価値は濾過の力をはっきりと感じます。じっくりと時間をかけるというろ過装置は、時代の厚みや文化の価値と同様に叡智に優れているものばかりです。

時間をかけて濾過したものを今の私たちが五感で摂取できるというのは、時の濾過力を感じて心身が浄化されていくのでしょう。現代のようなスピード社會において、天然の永遠の水は私たちを深く癒すはずです。

浄化場づくりは私の天命であり天職です。

引き続き、子どもたちに譲れる懐かしい未来を譲り遺していきたいと思います。