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		<title>かんながらの道</title>
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		<title>時空</title>
		<description>人との関係に距離が在る。距離は、一般的に物理的なものとそうではない時空のものなどがある。離れていても心が通じていて、いつも同じようにまるですぐ傍にでもいるかのように感じている同志同友がいる。もしくは...</description>
		<content:encoded><![CDATA[人との関係に距離が在る。<br />
<br />
距離は、一般的に物理的なものとそうではない時空のものなどがある。<br />
<br />
離れていても心が通じていて、いつも同じようにまるですぐ傍にでもいるかのように感じている同志同友がいる。もしくは、離れてしまうとすぐに思い出しもしない人達もいる。<br />
<br />
例えば日々の古典の学びで出逢う論語などの言葉達。<br />
<br />
深く読み合いそのものを丸ごと噛み締めればまるでそこに一緒に一堂に仲間たちが集まりその師弟と論じているような語り調で、生き活きし学び問うという掛け替えのない無二の人生の醍醐味を至上に味わい幸せを感じることができる。<br />
<br />
またその中で、歴史に顕れた様々な至誠の偉人の足跡を追っていくとその時その場所でその偉人の心と通じ合うことができ、感動と感謝が込み上げ、真心で天と渾然一体になっていく無常の歓びを分かち合い、身奮いしなんとも言えない心が湧きたち宙へ舞い上がってしまいそうな至福の時を得る。<br />
<br />
そういう距離には時空がある。<br />
<br />
そういう時空を超えて巡り会う奇跡が人には在る。<br />
<br />
面白いことをしたい、面白くいたい、面白く生きていくことは出逢うということその距離を超えたものとの邂逅と、一期一会の覚悟の人生が巡り廻りこの場に訪れてくる。<br />
<br />
そんな時こそせっかく出会いそしてまた別れるのだから、何を最も大切にするのかは一目瞭然である。<br />
<br />
人がその時代に生きて同じ目的で同じ結果に責任を持つことの素晴らしさ、協力することの真の意味、そして其処までのプロセスに、この人と人の距離がなくなっていくのを感じると人間の持つフラットで平な繋がりの無限の可能性を感じてしまいワクワクしてくる。<br />
<br />
この距離は単なる縦だけではなく、横もある。<br />
<br />
その縦横が無尽に絹が張り巡らし紡ぎ合わせた一反の偉大な創造的反物で何を世界へ表現するのかが面白くすることの意味でありそのもののあるがままに生きている人間の本来の価値であると私は感じる。<br />
<br />
どのような結果が出ても、最期まで遣り抜く決意と覚悟こそが魂の力。<br />
<br />
私が共感している高杉晋作にこういう辞世の句がある。<br />
<br />
『おもしろきこともなき世をおもしろく　すみなすものは心なりけり』<br />
<br />
これは「おもしろいことがないこのつまらない世界をおもしろくするのだ、そのような生きかたが出来るかどうかは本人の心がけ次第なのだ」という意味になる。<br />
<br />
小さく生きるな、大きく生きろ。<br />
<br />
吉田松陰が遺した彼への伝言に、死ぬべき時に死になさいがある。<br />
それを忠実に守りとおした人生、先生にそれを伝えたかったのだろう。<br />
<br />
この原動力こそ、変化の根源「草奔崛起」の原点であると確信する。草奔崛起とは. 志のある者が立場をこえて同じ目的を持って、いっせいに立ち上がることであり、道心が廃れ無責任になった世の中に於いて真に為さねばならないことではないかと思う。<br />
<br />
つまらない単なる結果に甘んじて、本来遣らないといけないことから逃げるための言い訳のために小さくなって生きるくらいならば、いっそのこと逃げるのをやめて、大きなことのために命がけで本来の本懐のために捧げていくことが一番大事なものを守る大義・大志の生き方になる。<br />
<br />
そういう人と出会ったからこそ、最期までそういう生き方を演じて欲しい。<br />
<br />
そういう人が大義に目覚め、生きていくような世の中こそ志を持つ価値が在り世の中を面白くする価値になる。<br />
<br />
まだまだ遣りたいことも遣れることもたくさん残っていることに深く感謝し、そしてそれだけ自分が引き受ける機会に恵まれていることに天機を覚えます。<br />
<br />
一期一会]]></content:encoded>
		<dc:subject>かんながら</dc:subject>
		<dc:date>2010-09-09T11:51:36+09:00</dc:date>
		<dc:creator>野見山　広明</dc:creator>
		<dc:publisher>Serene Bach</dc:publisher>
		<dc:rights>野見山　広明</dc:rights>
	</item>
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		<title>責任</title>
		<description>何かを誰かとやろうと思えば、責任というものがついてくる。今の時代は、責任を取るということの意義を勘違いしている人がとても多い。責任の持てる人はビジネスでも日常でも人から信頼される。またその反対に無責...</description>
		<content:encoded><![CDATA[何かを誰かとやろうと思えば、責任というものがついてくる。今の時代は、責任を取るということの意義を勘違いしている人がとても多い。<br />
<br />
責任の持てる人はビジネスでも日常でも人から信頼される。またその反対に無責任とは、結果に対して他人や何かのせいにする人をいう。そうやって責任を持たないといつも周囲のせいにしているのだからそのうち誰からも信用されなくなる。<br />
<br />
任されたというのは自分が引き受けることを言い、そこには一切の甘えないのところで自分が結果責任に対してその引き受けた約束を最後まで手放さず持ち続け遣り果たしますと相手に宣言するのを言う。<br />
<br />
機械のように人に頼むのと、心遣って頼むのとでは意味が違う。<br />
<br />
今は、全体が見えにくくなり、全体の一部としての自分ではなく、一部としてのただの自分になってしまっていることもある、社会が歪んだ個を生み出しているからこそ心と心の通じ合うことが仕事の醍醐味ではなく、何かをやったかどうかだけに焦点がいっている。<br />
<br />
本来は、皆で取り組み皆で達成するからお互いに信頼しあう喜びを感じ、自分が遣り甲斐や生き甲斐を感じることができる。<br />
<br />
それがまるで道具のように、モノのように単にそれぞれが頭でだけ判断し自分の中だけで進めると全体に対して迷惑をかけてしまうことになる。<br />
<br />
責任を取らされるや責任を取って自殺したなどあるけれどこれは本当におかしいことで本末転倒であると思う。責任とはもっと楽しいものであり、責任を持たせていただけるということは自分が必要とされていると実感できるものである。追い込まれるといのは、無責任な周囲が擦り付けたいだけで本当は責任は一人ひとり皆が持っているからこそ本来の意味での引き受けるということが生まれる。<br />
<br />
例えば、あの昆虫の蟻や蜜蜂でもそうだけれど、周囲がそれぞれに一生懸命に協力し合い、それぞれが甘えを断ち自らの力で責任を果たし、助けあっているからこそ、共生することができる。<br />
<br />
もしも、これを自分だけはいいだろうと誰かが誰か任せにしていたらどうなるだろうか。みんなやらなくてもいいならばとなり、言われたらやってあげるとならないだろうか。<br />
<br />
責任の本質とは自分が絶対的に引き受けるものでその責任を自分が果たせないからこそ果たそうとし最後まで誠意を尽くすために誰か任せではなく取り組むことだと思う。<br />
<br />
これはよくビジネスの先達が言うところの「任せるけれど任せない」に通じている。つまりは、引き受けるということは本人の問題であり相手に転嫁はできず約束を守り自分が遣り切る関係ができることだということだと私は思う。<br />
<br />
もしもそうではなく、引き受けた人が単なるサービス精神でできればいいけれど出来なかったら知らないよと、自分との約束や信頼を放置・放棄したら人と人、人と全体とが関わっているということを尊重しないでまるで自分勝手に作業や物を扱うように処理するようなことになり、やはりそうであれば心が入っておらず誰の協力も得られず最終的には遣らずに逃げるということになる。<br />
<br />
そうやって放棄した責任の結果は、必ず周囲の誰かがその負担を背負うことになり、その自分の甘えが人と人との信頼や信用を壊していく。一度、そういう甘え癖がついてしまえば誰かすがれる人に依存するだけになり自分本来の力を使って真摯に取り組んでいるとは言い難くなってくる。<br />
<br />
大切なことは、どんな商売上の取引であれ、組織の関係であれ、お互いに自らで約束したかどうか、自らが結果責任を引き受けたのかどうかをお互いの信頼関係で永続的に維持できるかどうかによる。<br />
<br />
そうやって最後まで続けるには、約束を守り、誠心誠意、正々堂々と真面目に取り組むというように信用や信頼を守るための覚悟と決意が要る。そこに真摯に取り組む中で次第に御蔭さまの気持ちや、有難いや、もったいない、そして感謝していますという仕事の真の喜びがあるのではないかと私は思う。<br />
<br />
ビジネスの鉄則は、約束を守ること、信頼を裏切らないこと、責任を果たすこと、などと以前の上司に教わった。これは今でも変わらない絶対的なもの。<br />
<br />
その教えが正しいからこそその証明として今でもそれが会社存続の基礎であり、経営の基盤であるのは当然のことだと思う。<br />
<br />
だからこそ任せる任せないの相対的な考えを捨てて、丸ごと自分が遣り切るということを今後も自分自身が徹底していきたい。責任転嫁し誰かのせいにして、自分が決めたことに嘘をついてしまうような生き方はせっかく生まれてきている役割や意義に反していて、何よりも見守ってくださっている御縁御恩ある皆様、それにお天道様に申し訳がない。<br />
<br />
子どもたちのモデルとなるためにも、そういう大義や忠義、礼儀や孝行などといった引き受けたことに対して責任が取れるように実践を固守していきたい。<br />
<br />
様々な学びの機会に心から感謝しています。]]></content:encoded>
		<dc:subject>仕事と使命</dc:subject>
		<dc:date>2010-09-08T08:02:43+09:00</dc:date>
		<dc:creator>野見山　広明</dc:creator>
		<dc:publisher>Serene Bach</dc:publisher>
		<dc:rights>野見山　広明</dc:rights>
	</item>
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		<title>約束</title>
		<description>人間として、人間らしい徳目のひとつに「約束を守る」がある。嘘をつかない騙さない、裏切らない、誤魔化さないということは、信頼しあう関係において何よりも絶対的なものであると思う。これはよく勘違いしている...</description>
		<content:encoded><![CDATA[人間として、人間らしい徳目のひとつに「約束を守る」がある。<br />
<br />
嘘をつかない騙さない、裏切らない、誤魔化さないということは、信頼しあう関係において何よりも絶対的なものであると思う。<br />
<br />
これはよく勘違いしている人がいるけれど、それは相手にあわせてそういうことをしないのではなく、自分がそうしないと決めて実行していることが約束を守っているということになる。<br />
<br />
つまりはこれは単に頭で守るものではなく、その心で決めて守ることが本当の「守る」ということである。<br />
<br />
たとえば、みんなで決めたものであってもみんなのせいにせず、その刹那自らが主体的に物事を判断し自分の心にやると決めることが約束なのである。<br />
<br />
相手に関係ない処で自分が決めるには、自分に正直に素直でなければいけない。正直素直は頭ではできない、正直や素直は自らの心の姿勢のこと。<br />
<br />
つまりは、いつも誰もが観ていなくても自分の心が自分を見ているとしお天道様に恥じないような日々自らの心に正直に素直であり続け、それを絶対に守り続けることで自分が誰に対しても正直に素直に誰にも恥ずかしくないように生きていくことということになる。<br />
<br />
これを誰かにあわせてすぐに変えたり、またそういうお天道様が観ているとも感じようともしないで自分をも騙し、隠れたり、逃げたり、やったふりをしたりと只管に「偽」に行動をやることになる。そういう偽の人は自分が逃げ切れたと勘違いしていてもそういうものが日々の言動や行動に如実に出ているのだから周囲から信頼されるはずもない。<br />
<br />
善人と偽善人とは何が異なるのかといえば、善人は絶対的に自分に素直に正直であるように天を敬い人を愛して生きている人を言い、偽善人とは、誰かや周囲にばかりにあわせて正邪を相手任せにし、捻くれて人の話を斜めに聴いたり、もしくは頑固に意固地に自分の粗末な我念にこだわりその心の性根が腐るようなことをしていても気づきもしないで良いことをしていると勘違いしている人をいうのだと思う。<br />
<br />
そうならないためにも、自分で決めたことを自分で守るという絶対的な約束をすることが何よりも人としての道になるのだ。<br />
<br />
そういう人たちだけが心で通じ合い真に信頼するということの素晴らしさの本質を知り、そういう真正直な人たちが増えることが信頼し合う素晴らしいチーム、ひいては素晴らしい社会を築き上げていくことになるのだと私は思う。<br />
<br />
今の世の中は、どうしてもそういう天に恥じないようにと自分で約束を守る真正直で生きようとしている人が少なく感じる、また幼少期からそういう人間としてどうあるべきかという教えに触れる機会すらも減っている。これは何よりも人として本当に子どもたちにも悲しいことです。<br />
<br />
教育者とは教師のことをいうのではなく、そういう徳目を大事に生きている人たちのことを言います。大人は、子どもたちに恥じないようにそうであってほしいと思います。譲れるものもそれは富や芸術、文化、名誉や功績などではなく、そういう人として人間の徳を譲ることが何よりも大切であると思います。<br />
<br />
人と人と信頼し合い、助け合い、認め合い、寄り添い生きること。<br />
<br />
子どもたちは純粋にそういう生き方をしていきたいと心底望んでいるとこの私たちの本道であるカグヤの仕事を通じて感じています。<br />
<br />
我々大人がどのようなモデルを示すべきかは、今はまず何よりも約束を守り人格を磨くことが周囲を素晴らしいものにしていくのだとも私は思います。<br />
<br />
いつもいかなる時代も求道者とは常に、自らの戒律を自ら徹底して守ることでその真理と出会い、その一本だけの自らの正しい道にブレナイように自らの命を使い運ぼうとし遣り切るのであると私は思います。<br />
<br />
そういう日々の人間としての徳目を正しく行うことが本来の道でありこれを道徳であるとしているのだと思います。<br />
<br />
どんな時代も何よりも第一流や第一義の人はすべて道徳を兼ね備えている人であることは古典や歴史により明確であります。<br />
<br />
私たちは子どものたちのモデルとなるために、命を懸けて約束が守れるような実践をしていきたいと誓う、何より子どもに見せられる背中を私たちが自分の心に決めて歩んでいきたい。<br />
<br />
昨日もまた素晴らしい一日になりました。<br />
本当に有難うございました。<br />
<br />
一期一会]]></content:encoded>
		<dc:subject>仕事と使命</dc:subject>
		<dc:date>2010-09-04T06:34:13+09:00</dc:date>
		<dc:creator>野見山　広明</dc:creator>
		<dc:publisher>Serene Bach</dc:publisher>
		<dc:rights>野見山　広明</dc:rights>
	</item>
	<item rdf:about="http://www.caguya.com/kannagara/log/eid367.html">
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		<title>子どもを丸ごと信じること</title>
		<description>子どものためや子どもたちのためと色々とやっている人がいる。しかし本当はそれが子どものためかと思うと、単に自分のためにやっている人たちの方が大半である。子どものためというのは、どれだけ子どもを丸ごと信...</description>
		<content:encoded><![CDATA[子どものためや子どもたちのためと色々とやっている人がいる。<br />
<br />
しかし本当はそれが子どものためかと思うと、単に自分のためにやっている人たちの方が大半である。<br />
<br />
子どものためというのは、どれだけ子どもを丸ごと信じているかによる。<br />
<br />
子ども第一主義の理念に、子どもが第一という意味の第一は、「一」であるということ、つまりは絶対的な存在として丸ごと信じている意味での一がある。この一とは、何にも比較対象するものはないゼロとイチの一であり永遠に平行であるようなものでありそれは何にも変えられない絶対値のこと。<br />
<br />
そしてこの一に止まると書いて「正」しいと読む。<br />
<br />
つまりは、正しいことはこの第一の一に止まっている止揚であるということを意味し、それが何よりも中道や中庸という真理にあるということになる。<br />
<br />
子どもが正しいと思い、その子どものやりたいことややっていることを尊重しそれ自体に対してどのように自分が子どもの正しいままの大人になった姿とし、模範を示しているかというのが子どもを丸ごと信じているとうことに私はなっている。<br />
<br />
子どものことを丸ごと信じる模範となるには、弛みない求道精神と志を持ち、真摯に人生を幸福に導き、多くの生きとしいける命の中で輝き続けることが要る。<br />
<br />
そのためには、子どもの歩みをその子どもの望む道を叶えていくために様々なことを譲っていくことがこの子どもの傍にいる業界の人たちや、仕事の人たちの使命であるのだ。<br />
<br />
しかし今は、わざわざこの子どものいる傍で自分のエゴを満たそうとしそれをさも子どものためだと自分がやりたいだけなのに子どもに未来を勝手に押し付けようとする風潮さえもある。<br />
<br />
なぜ子どものことをもっと丸ごと信じないのかと義憤を感じる。<br />
<br />
我が師は、子どものことを見守り、子どもの育とうとすることを信じている。<br />
<br />
それこそが人類の未来であり、希望であると確信し、子どもたちのために広くその正しい道を自らが戒律を守り真摯に実践をしてリーダーシップを発揮し、後人の人たちのためにも道を切り開いてくださっている。<br />
<br />
子どもを丸ごと信じるとは、そういう子どもの存在、いわば人間を丸ごと信じていることに他ならない。<br />
<br />
カグヤは、その道を歩む人たちをともに導く模範となる仕事をすることを第一に優先する会社。<br />
<br />
これからも今の時代の常識に囚われず、常に迷わずに自分たちの道を往くものでありたい。<br />
<br />
これからも子どもを丸ごと信じるモデルとして、子どもに寄り添い、子どもの心でお仕事をさせていただける感謝のままに実践躬行に努めます。]]></content:encoded>
		<dc:subject>かんながら</dc:subject>
		<dc:date>2010-09-03T04:48:38+09:00</dc:date>
		<dc:creator>野見山　広明</dc:creator>
		<dc:publisher>Serene Bach</dc:publisher>
		<dc:rights>野見山　広明</dc:rights>
	</item>
	<item rdf:about="http://www.caguya.com/kannagara/log/eid366.html">
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		<title>心で立つ</title>
		<description>チームワークで大切なものにみんなで行うがある。これは何かの出来事を繋がりの中で皆で喜び合うということを通して、人は一人では生きてはいけないということを皆が大切に理解しているかが問われる。すべての生物...</description>
		<content:encoded><![CDATA[チームワークで大切なものにみんなで行うがある。これは何かの出来事を繋がりの中で皆で喜び合うということを通して、人は一人では生きてはいけないということを皆が大切に理解しているかが問われる。すべての生物は自分だけで存在できるということはない、全体の中に自の分という分がありそれを正しく理解するからこそ正しく自分が在ることができる。<br />
<br />
しかしそうではなく、その分を弁えず全体との繋がりを断絶し、単に自分のことだけをいつも優先し、自分のことばかりの成功失敗を追う人たちがいる。<br />
<br />
やることが多くて忙しいという言い訳と理由を使って、目の前の事に心を籠めず投げやりに行うその心の姿勢が、それまでのみんなの思いや今までの繋がりを無視し好き勝手にやっていることになっている。<br />
<br />
人は何かの仕事をするにも、何かをさせていただくにも、そのことに携わる多くの人たちの大切な思いを引き継ぎ繋がっていてそれが自分に頂いているということを感じることがなければ単なる流れ作業のようになってしまう。<br />
<br />
目の前の作業を頭で安易に判断しロボットのように単に仕分けているだけでは、繋がりやその本来の意味を感じることもない。<br />
<br />
意味をわざわざ感じるためにマニュアルを作るのも機械的な発想であり変な話だと思うけれど、そうではなく意義について分かち合うことや大切な思いを共有することを優先し、その心の余裕から周りがよく見え、そのみんなの思いやりを繋げ、大切に一つ一つのことに心を籠めているかどうかが本来意味を紡ぎだすのだと私は思っている。<br />
<br />
しかし今は、ある人は、やりっぱなしでその後のことを追いもしない、またある人は、自分勝手に正しいを頑固に主張しそれまでの繋がりに責任を持とうともしない、またある人は、これまで関わった人たちが大切に守ってきたものを粗雑粗暴にするということもある。<br />
<br />
これは全てに、「繋がりからの断絶」を意味し、自分自ら周りとの関係を断ち切っているその人自身の甘えと傲慢な生き方にこそある。その連鎖がより人と人との繋がっていたバトンや糸を断ち切ることになっているのだ。<br />
<br />
よくＩＴ系でプログラムなどの人が孤独になっていて精神的に病む人も多いのもこの理由によるものがほとんどだと思う、人は繋がりの中でしか生きてはいけない、いや、すべての命はバトンを受け渡しながらその命を繋いでいるだけともいえるのだ。それが消えることは、自らが孤立して孤独になっていくことを意味し、そこに生き甲斐や遣り甲斐などは発生することもない。<br />
<br />
そうやって次第に流され自分は自分だけで生きているとどこかで思っていると人は自分だけの世界に閉じこもる。そして自分さえよければいいと考え始めるのだと思う。<br />
<br />
どうせだれも自分を守ってくれないのだからと不貞腐れるか、もしくは誰かが守るだろうと誰か任せに無責任に次第になっていくのだと思う。<br />
<br />
今、自分があるのは何の御蔭なのかの見えない繋がりをよく考えることだと思う。<br />
<br />
自分自身、沢山の人たちの関わりの中で大切にされて色々な思いの中で生かされていることを心で感じそして一つ一つに心を籠めるのだと思う。<br />
<br />
生まれてきてから今まで、もし本当に一人で生きたと思うならばそれは大きな勘違いで自分が当たり前に生きていると間違っていて、両親はじめ友人、周囲の人たちなどの様々な御縁ある人たちや自然の恩恵、そういう無償の愛の輪の中で自分が存在させていただいているのだ。<br />
<br />
その繋がりを自らが断絶していることこそ、愛への冒涜になってしまうのではないか、そういう人が幸せを感じることが社会で果たしてできるのだろうか。仕事は機械が生み出すのではない、人の心が生み出しているのだということに気付くことからはじまる。<br />
<br />
そして本当の充実や感謝は、色々な人たちから自分へバトンを渡されているという実感から自分がみんなとともに結果を出すことであり、人を愛したいと思う思いやりから発心するのではないかと私は思う。<br />
<br />
いつまでも、自分だけで生きているなどと、誰かに心でもたれかかるような甘えた根性は捨てて社会の中で心を自ら立て自律することが、本当の意味でチームの中で共生することになり、幸福な社会を創り上げる一員としての社会人としての大切な自覚であると思う。<br />
<br />
今は、何歳になっていても立場があってもそういう自覚がない人が多い。<br />
<br />
子どもたちのことを思えば、なぜ今、生きているのか、生かされているのか、そして自分があるのは何の御蔭で成り立っているのか、有難いや勿体無い、見守りや御蔭さまなど心が繋がっているからこそ自分の心で立つということを実践で示していきたい。<br />
<br />
まだまだ周りにはそれに気付けない人ばかりです、大人として生きる生かされているバトンを正しく受け渡せる人たちをチームの大切さを通して表現していきたいと思います。]]></content:encoded>
		<dc:subject>学びと心花</dc:subject>
		<dc:date>2010-09-01T06:01:26+09:00</dc:date>
		<dc:creator>野見山　広明</dc:creator>
		<dc:publisher>Serene Bach</dc:publisher>
		<dc:rights>野見山　広明</dc:rights>
	</item>
	<item rdf:about="http://www.caguya.com/kannagara/log/eid365.html">
		<link>http://www.caguya.com/kannagara/log/eid365.html</link>
		<title>癒し</title>
		<description>昨日、親しい取引先の皆様と一緒に見守るファシリテーターの実践研修を行った。久し振りにお会いする方も居て、とても豊かで楽しい時間を過ごすことができた。もちろん研修なのだから勉強するのだけれど、本当の学...</description>
		<content:encoded><![CDATA[昨日、親しい取引先の皆様と一緒に見守るファシリテーターの実践研修を行った。<br />
久し振りにお会いする方も居て、とても豊かで楽しい時間を過ごすことができた。<br />
<br />
もちろん研修なのだから勉強するのだけれど、本当の学問とは笑いあい気付きあり、そして皆で肯定的に思いやり出逢えたことの歓びや感動の和、その豊かで充実した機会を楽しむことではないかとも私は思う。<br />
<br />
何か一生懸命に椅子に座ってじっと聴くのもいいのだけれど、そこに自然なものをあまり感じることができない。人はみんなで物事を考え、みんなで取り組む、みんなが一緒に達成することこそが癒しであり、そうやってみんなの中で自分が包まれていることこそ自分という存在を丸ごとを受け容れることが自身でできるのだと私は思う。<br />
<br />
昨日も、一円対話を通じてみんなで幸せと感謝などを語り合うことになった。<br />
<br />
やりたいことをさせてもらえるのは、天の御蔭であり、周囲の人たちとの出会いの中で見守られできるということ、相手がいなければできないことでもあるし、その人たちがいるから自分がそれをやろうと思うこともできる。<br />
<br />
そう考えると、いつも他人ばかりをどうにかしようと自分都合で相手を動かそうとするのではなく、今その状態丸ごとを信じることで如何に隠された深い意味を感じ取るかや、そこに価値があると思えるかが自分の人生を自分自身が決めて納得して生きているということになる。<br />
<br />
人生は、天に一切全托するとそこに自分がすべてのものから活かされているということを知るに至り、それを感じるままに丸ごと包み込まれてみると有難いなとそのあるがままにいることの素晴らしさを感じることができるのだと思う。<br />
<br />
たとえば、今の自分は好きなことをやらせてもらっていないと思うようだけれど、好きなことを遣るために苦労しているのであり、好きなことに向かって執着し努力していることになる。つまりはこれは、やれるやれないということよりもそういうことが出来ていること自体が好きなことでありそこに無限の安堵観と至上の喜びがある。<br />
<br />
善い悪いを超えた、そのままがもっとも素晴らしい、あるがままであることが有難い、今このときがあることが感謝、自分自身が生きていることが幸せだと感じることがより良い人生と共に人間を幸せにしていける見守るファシリテターであると私は思います。<br />
<br />
自分自身がそういう生き方をすること、そのモデルを示すことこそ真の子ども第一主義であると思います。<br />
<br />
子どもたちは大人たちの生き方から自分たちの生き方を学びます。<br />
<br />
大人がもしもそういう人生の喜びや感謝を感じつつ、自然体でいるのならば子どもは安心して見守られた社会の中で育つのだと私は信じます。<br />
<br />
今は、競争社会や一斉画一社会の中で、排他的で弱肉強食、間違った個人主義により個々に責任を無理やりに持たせ孤立している人たちがたくさんいます。<br />
<br />
だからといって自分がそうなるのではなく、もっと思いやりをもって環境に左右されずにすべての物事を生まれたての子どものように受容する心をもって世の中を易えていければと念じます。<br />
<br />
子どもたちには、一人ひとりが色々な個性あふれるその生涯をみんなが発揮し、みんなが歓びあうという癒しを味わい尽くし、かけがえのない一度きりの人生を輝かせられるように私たちはパートナーと一緒に使命を尽くし見守る社会を譲っていければと思います。<br />
<br />
これからも志を高くし、ともにこの道を歩んでいけると良いですね。<br />
<br />
昨日は本当に豊かな時間が過ごせました。<br />
皆様、遠路有難うございました。]]></content:encoded>
		<dc:subject>仕事と使命</dc:subject>
		<dc:date>2010-08-27T07:50:58+09:00</dc:date>
		<dc:creator>野見山　広明</dc:creator>
		<dc:publisher>Serene Bach</dc:publisher>
		<dc:rights>野見山　広明</dc:rights>
	</item>
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		<title>今はこれ</title>
		<description>昨日は、中京大学で世界会議が開催されそこに出席し開催者の講演を拝聴してきた。私は、メビウス理論の吉川先生のご招待でその哲学の実践事例の一環として参加をさせていただくことになった。講演では、今のような...</description>
		<content:encoded><![CDATA[昨日は、中京大学で世界会議が開催されそこに出席し開催者の講演を拝聴してきた。私は、メビウス理論の吉川先生のご招待でその哲学の実践事例の一環として参加をさせていただくことになった。<br />
<br />
講演では、今のようなまるで乱気流の時代にどのようにブレークスルーするのかなどについて語られていた。私は、自分が決めていればどの時代もそこには安んじるところがあり、外的環境で左右されることはないという師を持ってから不動心のようなものを学んでいるけれど、やはりリーダーはどの時代もそういう外的環境の中で本来あるべきを維持し譲り守れる人が選ばれるのだと思う。<br />
<br />
よくバランスを保つや、柔軟性を持つ、両輪が廻るなど、色々とリーダーとしての資質に必要なものに優先順位を決められるがある。部下はそれを信じて着いてくるし、人はそれを信じて追ってくる。だからこそ、人を導く側なのだから常に天下の王道に照らしてどうなのかを考え抜けているかどうかはとても大切なことだと思う。<br />
<br />
私も何かの仕事や相談を受けていると色々と矛盾することを言わないといけないことがたくさんある。その中で、皆がそれぞれに自ら何かこの言葉に深い意味があると受け取ってくれれば、そこからその意味を紡ぎあっちこっちという反応型の二択ではなく、こういうことかと思えるような内省型の一体の答えを導きだしていくことができる。<br />
<br />
しかしつい何かのことを行う時に人が陥りがちなのはそれを正しいか正しくないか、もしくは自分都合で判断し間違っていないと勝手に決め付け、どちらかに偏ってしまい柔軟的な発想や行動などがまったく判断できなくなってしまうことだ。それに対して、そうではないと言い続ければそのうちに反応することばかりで必死になり本来考え抜くというような本質を捉える重要性に気づけなくなり追われていくような日々を送ってしまうことになる。<br />
<br />
この柔軟性とは、自分が本当に全体のために遣りたいし遣らせていただけることに深い感謝とともにその根本的なものを自ら考え抜いて決意できており、常に「今はこれ」ということを道をともに進む仲間たちとともに判断できるようなことを言う。それを同志ともいう。<br />
<br />
それを決めずに、他人にあわせて自分で決めなければ今もこれ、常にこれ、いつまでもこれと言う風になってしまい、本来は理念など中心軸にあるものにあわせて自分で決めないといけないのにそれが観えなくなっているからこそ何を決めることもできなくなり、目の前に相手に頑固に自分の持っている先入観や価値観のみに囚われ、本来の大きな目的のために本来の自分を活かして感謝の輪を喜んでいただくことができなくなっていく。<br />
<br />
頑固であるとは、自分の価値観のみを優先し、この「今はこれ」を考え抜いていないことであり、柔軟であるとは「今はこれ」と常に優先順位を自分で決めていられることになる。<br />
<br />
最終的には自分で優先順位を決めなければ事物のタイミングや周囲との一体感も持てるはずもなく、それを客観的に一人で判断できるようになるには人間学や時務学をバランスよく学び天人合一するような王道の実践を丸ごと信じているからできるというものでもある。<br />
<br />
それはリーダーが行うのだから、フォロアーは理念を主軸にどれだけ全体にとって良いか、つまりは「三方よし」であるかを考え抜いてからリーダーに相談し自ら決めるという行為を主体的に決め続けていくことが大事になる。<br />
<br />
それが優先順位が理解できることであり、もし「今はこれ」を自分にさせていただけるとすれば当然それは自分の力ではなく多くの人たち、またはすべての御縁への深い感謝の心がそういうものを引き出していくし、またそこに思いやりを尽くせているからこそ自分と言うエゴを超越し自分の足るを知り世界や全ての周囲に自らを活かしていけるのだとも思う。<br />
<br />
最終的には、自分が正しいこと行うこと、つまりは仁義礼智心忠孝悌など人としての正しいと言われる人の道を誰にも見られていようがいなかろうが天が自分を見ているとし実践を怠らないで自然にそれができることになることが安心して自分の天命を立てることになるのだと思う。<br />
<br />
だからこそ、見ていないと自分が思っている時間の過ごし方やその心の在り方などを修養し、天が信じていると思い、天と同じように自分もいたいと至誠至純の心をもって思いやりをもって人を愛していくことだと思う。<br />
<br />
まだまだ私自身、分かってはいても師のような実践ができるはずもなく、しかしそれ自体が深い意味が在りここに学べるという有難い機会に感謝し、今日もまた一期一会の邂逅があることに何よりも感動と喜びを感じたいと思います。<br />
<br />
子どもたちには、そういう大人の実践が感化され生まれてきた意味やその生きるという素晴らしさを私自身の道で表現していければと思います。あるものを観れば感謝のことばかり、出会いや別れその美しき豊かな生に有難い天の恩恵を感じます。<br />
<br />
感謝再拝]]></content:encoded>
		<dc:subject>学びと心花</dc:subject>
		<dc:date>2010-08-26T06:05:49+09:00</dc:date>
		<dc:creator>野見山　広明</dc:creator>
		<dc:publisher>Serene Bach</dc:publisher>
		<dc:rights>野見山　広明</dc:rights>
	</item>
	<item rdf:about="http://www.caguya.com/kannagara/log/eid363.html">
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		<title>暗黙の了解という無責任</title>
		<description>昨日、岩手県からとある法人で抱えている職場の環境や人生のことについてなどを相談をしに来社された。通常は、こういう相談は自分の本来やるべき使命を優先して調整したりしないのだけれど今回の課題が理念につい...</description>
		<content:encoded><![CDATA[昨日、岩手県からとある法人で抱えている職場の環境や人生のことについてなどを相談をしに来社された。<br />
<br />
通常は、こういう相談は自分の本来やるべき使命を優先して調整したりしないのだけれど今回の課題が理念についてなどやマネジメント、その他、変化、改革についてなどであったこととその熱意に感動しお会いすることにした。<br />
<br />
そこでの、問題は本質的には自分の在り方が重要で環境に左右されずに本当に自分がやりたいことを決めることであり、その決めたことを実践することにより提案し感化していくしか周囲も含め変える方法はないのだけれど、それまでに出来上がった集団的無責任の職場環境が保守的であり大変なことになっているのもあった。<br />
<br />
もともとなぜ集団的無責任になるかというと、そこに暗黙の了解というものがある。誰も何もしないことが守ることであり、皆が何もしなければ誰かがやってくれると盲目に信じることにこそ守れると勘違いしているということ。<br />
<br />
無責任であるとは、自分が持ってしまうことで失敗するのではないか、自分がやってしまうことが周りの迷惑になるのではないか、自分が自分のせいにしてしまったら最終的には守れないのではないかという思考回路であるのだと思う。<br />
<br />
何かのことを誰か任せにするというのは、自分の人生を自分で決めないことでもあるだけではなく、協力しあって自分から主体的にやろうとはしないという決定を自分がしているということになる。<br />
<br />
最終的には強烈なリーダーに頼もうという他人本位の考え方であり、自分たち一人一人が守なければと思わず、カリスマ的なリーダーの登場ばかりを望む依頼信や依存心のことである。<br />
<br />
平均的にはこういう職場は公の仕事をしている人やサラリーマンに多いのだけれど、部署も変わるし、町長も変わる、みんな移動するのだから最期まで責任を持てないのだから先述したリーダーに周囲に仕向けられないように自分という私をどれだけ入れずに要求をするかに躍起になるのが仕事になっている人がいる。<br />
<br />
そういう組織は向上心で責任を持つことをとても怖がる傾向がある。もしもリーダーになったら自分の無責任と同じくしていた周囲の集団的無責任のすべての負担を背負わされると思うからかもしれない。<br />
<br />
しかし本来、何かやりたいことに皆で力をあわせて協力するとは、自分がどうしたいか自分が自分の意志でその目的や理念に「責任を持って参画する」ことであり、自分がその一部を担い背負うことではじまっていくのだと思う。<br />
<br />
それぞれがそういう責任を自覚し正しく担うことが、皆の負担を取り除くことであり、自分が決めて自分が行うことでやり遂げるという意志自体が集団に対して提案していることであると思う。<br />
<br />
これが単なるクレームや、何もしないということや、日和見や受身になるとそれ自体は提案でもなく単なる言い訳か周囲への自分勝手な要求となる。<br />
<br />
自分で決めないということは何もしないよりも悪いということ。<br />
<br />
流されるというのは、誰かにひっついていくということであり、自分の足で着いていくとはいかないからだ。人は自分の足で立たないといけない、自分の心で取り組まないといけないのだ。<br />
<br />
最終的には、その方も自分で決めてやり切ると決めて郷里に戻られた。<br />
<br />
自分が誰にも左右されずに、自分で決めるから人は柔軟性を持つことができる。素直になって正直になるにも、周囲のせいにすることもできず、自らの天命を信じて自分のやりたいことに必死に誠を貫けばそこに道が開けると思います。善いチームもそこから生まれてくると私も信じています。<br />
<br />
そしてそういう集団的無責任の人たちは自信のなさや自己肯定感の低さからくるものであったり、数々のトラウマや不一致、刷り込みやしがらみの中で立場立場で自分を押し殺して無理をして辛い思いをしているものです。<br />
<br />
しかし、大事なのは自分はどうあるべきかということであり、素直に純粋に大切にしたいことを自分が決めて実践していけば必ず周囲は変わっていくと思うし、その刹那、自分も変わっていると思います。<br />
<br />
離れていますが、志を高く持ち、大義に行動することに勇気を頂きました。<br />
お互いに立志天命を信じて、日々を大切に過ごしていくことだと思います。<br />
<br />
今後の発展と初志貫徹を祈念しています。]]></content:encoded>
		<dc:subject>好奇心と矛盾</dc:subject>
		<dc:date>2010-08-24T08:08:26+09:00</dc:date>
		<dc:creator>野見山　広明</dc:creator>
		<dc:publisher>Serene Bach</dc:publisher>
		<dc:rights>野見山　広明</dc:rights>
	</item>
	<item rdf:about="http://www.caguya.com/kannagara/log/eid362.html">
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		<title>信じることは守ること</title>
		<description>何かの価値や守りたい大事なものがあるから人は信じることをする。そしてそれを自分が守るからこそ信じることができる。今の時代は、仕事でもそうだけれど一般に雇用者と雇用主という関係で成り立っているところも...</description>
		<content:encoded><![CDATA[何かの価値や守りたい大事なものがあるから人は信じることをする。<br />
そしてそれを自分が守るからこそ信じることができる。<br />
<br />
今の時代は、仕事でもそうだけれど一般に雇用者と雇用主という関係で成り立っているところも多いけれど本来人と人の関係はそういうサラリーマンと言われるようなコストなどでは量れるものではない。<br />
<br />
人と人とが働くと言うことはお互いに幸福になるためにあるもの。そしてお客様とは、私たちの存在価値そのものでありそのお客様からの信頼や信用の根幹であるその価値や評価を自分が下げないことがその組織の信じているものを自分がその一員として責任を持ち守っているということでもある。<br />
<br />
しかし今、周囲を見回すとそういうことを誰か任せにし無責任になり、さらには自分自身の人生をも自分で決めないことによって誰かに守ってもらおうとする依存した人がとても増えているようにも思う。もしくは、自分が守るのではなく、自分を守ることが優先されているという自己都合で働いているような場合もある。<br />
<br />
例えば、一般的にこれは誰も通る道だけれどその親元を離れ自分が立派に社会の一員となり両親に心配をかけないようになるためにも守ってもらおうとするのではなく自分で立とうと思うことが自立ということでもある。<br />
<br />
しかし、いつまでも誰かに依存して甘えていようとする気持ちがあり自分で決めずに流されようとすることは自分で信じることをしないという行為ではないかとも思う。<br />
<br />
社会に出ると、自分で就職活動をし自分が本当にやりたいこと、自分の求めていることをやれるところを自分が探しだしそこに自分が就職する。<br />
<br />
自分が決めて納得した就職活動をした人は、自分が決めたのだから会社のせいにはせず、誰かのせいにはせず、自分が決めたことを自分が守り、そこから会社で大切にしていることや共感したことを誰よりも自分から徹底して守ることができる。<br />
<br />
自分が決めずに納得していないのに会社に居る人は、自分が決めないのだからいつも何かあるのを会社のせいや誰かのせい、待遇のせいやましてはお客様のせいにまでして、自分が決めないことをいいことに、会社で大切にしていることも破り、自分勝手に独善的な判断をし誰かにやらされたことだけはやるという指示待ち人間になってしまう。<br />
<br />
そしてこれが組織のチームワークそのものの問題にまで発展する。<br />
<br />
例えば、何かしらの方針を打ち出し大切なものをやるために経営者が決断してもそこをともに見ようともせず、自分がどう見られているかや分かってもらえるか、認めてもらえるかだけに躍起になり、最後にはお客様までも一緒にみていこうとしなくなり、そのお客様からも自分がどう見えているかばかりを気にして仕事をしてしまっている人もいる。<br />
<br />
よくよく考えると、お客様にご迷惑をかけないことが価値を守っていることでありさらに価値を伝えるならば自分が会社にもご迷惑をかけない存在になっていなければならない。<br />
<br />
そしてそれは、すべてに「約束を絶対に守る」ところからはじまる。<br />
<br />
人は、何を信じるかというのは守るかどうかを信じるのであると私は思う。<br />
<br />
相手にあわせて守ったかどうかなどは神様ではないからすべてを観ることはできない、しかしその人自身が自分で決めたことを守ったかどうか、皆で決めたことを守ったかどうかは見ることも知ることもできる。<br />
<br />
つまりは、そういう皆で決めたことを守ることが信じること、信頼しあう関係を創ることなのだと思う。<br />
<br />
これを勘違いし、自分から破る人は最初から守る気がない人であり、自分から弱いとか甘いとか言うけれどそれは自分のことだけしか考えないから自分が守られることばかりを周囲に求め、自分が守ろうとする意志がないことを自分で証明していることになる。<br />
<br />
こういう依存体質があれば、そのツケは周囲に周り迷惑をかけてしまう。<br />
<br />
いつもいつも迷惑を他人にかけて生きてきた人は、そういう信頼を自分が壊して孤立していくことに気付いてはいない、だからこそなぜ自分がいつもこんな目にと被害妄想をかきたて愚痴や責任転嫁の人生になってしまうのではないか。<br />
<br />
本当は、自分が自分を守るのではなく自分から決めて自分が守るという信じられるような実践を徹底することが周囲に迷惑をかけないでいられることだと気づくべきではないかと思う。<br />
<br />
人は決して一人では生きてはいけない、だからこそ何か大変なときにはできないことは誰かに頼まなければ助け合わなければ生きられない。<br />
<br />
だからこそ自分が迷惑をかけていると思う姿勢や、謙虚に何でもさせていただきますという実践がその信頼関係を築いていく基盤であるべきだと思う。<br />
<br />
そしてそういう組織のリーダーは守るものがもしもリーダーが自分を守りたいとあれば、それは大いなる過ちであり、人を調和する役割として価値を理念を守るために一人ひとりのみんなの力を引き出していき借りていかないと大切なものを守ることはできない。<br />
<br />
今は、園の経営改善などに関わるけれどそこに関わる人たち一人ひとりの自分が決めて自分が守るという信じる力が何よりも理念を立てるのに必要になる。<br />
<br />
見守る保育を広げる以上、信じるということの本質を理解し、実践し、それを感化していくためにも自分たちがモデルを示していきたい。<br />
<br />
信じる者がなぜ救われるのかの真実を悟り、自立するということの本当の意義を感じ尽くして社業に努めていきたい。<br />
<br />
感謝]]></content:encoded>
		<dc:subject>仕事と使命</dc:subject>
		<dc:date>2010-08-20T08:22:06+09:00</dc:date>
		<dc:creator>野見山　広明</dc:creator>
		<dc:publisher>Serene Bach</dc:publisher>
		<dc:rights>野見山　広明</dc:rights>
	</item>
	<item rdf:about="http://www.caguya.com/kannagara/log/eid361.html">
		<link>http://www.caguya.com/kannagara/log/eid361.html</link>
		<title>環境と自立</title>
		<description>環境というものがある。いくら良い素晴らしい環境というものを用意しても、自分で主体性を発揮せず依存しそこに甘んじる人がいる。どういう人がそういう人かというと、何かの出来事を常に周りの環境にせいにしてい...</description>
		<content:encoded><![CDATA[環境というものがある。<br />
<br />
いくら良い素晴らしい環境というものを用意しても、自分で主体性を発揮せず依存しそこに甘んじる人がいる。どういう人がそういう人かというと、何かの出来事を常に周りの環境にせいにしている人のことだ。<br />
<br />
「インビクタス〜負けざる者たち〜」という映画がある、この意味は「征服されない」というラテン語からきている。これはイギリスのウィリアム・アーネスト・ヘンリーの詩であり、マンデラ大統領自身の愛している言霊でもある。<br />
<br />
マンデラ大統領は、２７年間も監獄につながれその後、南アフリカ共和国の大統領になりノーベル平和賞など数々の功績が認められ、人種差別という人間の深い業に真摯に向き合い民衆を正しく指導した王道政治を行ったリーダーだ。<br />
<br />
自分がどんな環境にあったにせよ最後まで自分の人生を自分が決めているという環境に負けることのない「自立」という点で私も日々実践し構築している見守る環境というものの定義が生き方そのものを通して説明できる。<br />
<br />
その愛読の詩、インビクタスの最期の２行にもっとも環境に対して主でいることの重要性が説かれる。<br />
<br />
「・・・　私が我が運命の支配者　私が我が魂の指揮官なのだ　」<br />
<br />
人は、誰しも安易に周囲の環境をみて自分がどうするかを決めていこうとする。人、モノ、空間などでもまずそれが厳しい環境であればその環境にあわせて自分を厳しくし、もしも環境が甘ければそれに甘んじて甘えようとする。<br />
<br />
本人の自立しているかの資質とは、環境の中に置いてみるとすぐに分かる。<br />
<br />
人間学を積み、人間ができてくれば自ずから心を立てることができて何にも左右されることもなく、自分で決めることができる、そして守ることができるのだと思う。<br />
<br />
ある人は、自分で決めた日記を書くということを誰にもいわれずとも必ず書き続けることができ、またある人は自分で決めた掃除などの生活を誰にも言われずとも正しく厳守しやり続けることができる。<br />
<br />
しかしある人は、自分で決めたのにいつまでも忙しいからとやろうとはせず、またある人は自分で決めても環境にせいにし言い訳をして実行はせずに常にできない理由ばかりをのべてまったく続けることができない。<br />
<br />
これが環境というものに自分がどうあるのかが出てくる、出てくるのは本来の自分自身の主体性というものだと思う。<br />
<br />
たとえば、見守るという環境が在る。<br />
<br />
これは相手が自立し共生して社会を通して自分の人生を豊かにするためにその平和で幸福な一人ひとりを大切にした環境を国やもしくはリーダーが用意するとする。<br />
<br />
その中でもっとも大切なことは、「自分との約束を自分で守れるか、自分のことを自分で律せるか、つまりは環境がどうであれ常に自分で正しい判断と行動ができる善き人間であれるか」ということではないかと私は思う。<br />
<br />
例えば、教育でも個人教育や個性教育とは道徳教育と密接に繋がっている。<br />
<br />
なぜなら自分で自分を律することができるかなどはすべて自分で決める力を持つ一人ひとりが社会に自分の意志で参画し、正しい倫理観によって調和できるから平和な世界ができてくるのだと思う。個性とはつまり道徳のこと、人間ができるということだと私は思っている。<br />
<br />
それをするために、世界の教育では幼少期から「自分で正しい判断を持ち決める、それを自分で守る」ということを絶対評価にし、その絶学ともいう学びから正しい判断基準が持てるような人に育てていくことを重んじている。<br />
<br />
しかし今の大人はどうだろうか、誰かに管理されて厳しくされなければ自分を持てないや、環境が甘いので次第に自分都合に流されて自分で自分を甘んじていることをいいことにいつも言い訳ばかりをするようになってしまっている。<br />
<br />
小さな組織であれそういう人たちばかりであれば、これでは国家も同じくで、国民一人一人が自分で正しい判断で律していかなければある人は我儘ばかりになり、ある人は自分のことばかりしか大事にせず、またある人は言い訳ばかりで責任を転嫁していたら、確実に国家は滅びるのではないかとも思う、それに正直者が馬鹿をみるような社会がとてもお互いを信頼し合う幸福なものとも思えない。<br />
<br />
大学にある、まず国家を修めるにはまずその身を修め、一家を修めとあるけれど、まさにその最初の自分が修まらないのに決して世の中を善くしていくことなどはできはしない。自分との約束が守れなければ信頼と調和の平和はきやしない。<br />
<br />
弊社には理念ブックがある<br />
。<br />
理念ブックは、自分たちが守ると決めた道徳的倫理であり、それこそが私たちが自分でクルーでいるという約束でありその自覚こそがともに信頼しあうという証でもある。<br />
<br />
それを厳守する、またはお互いの小さな約束は自分が徹底して守り抜くからこそ誰かのせいや環境に甘んじない自分が主体とした自立する信頼関係ができあがるのだと思う。<br />
<br />
常に、環境というものを通して、「自分が甘んじない人＝自分との約束を自分で守れる人」そしてその判断が正しくできている人こそが自分で自分の人生を主導して支配していける自立した人ではないかと思う。<br />
<br />
仕事も同じく、報告や連絡、相談などもそうだし、責任や役割、貢献や共生などもそれをトップダウンなどではなく自分が誰にも言われずとも自分でできることが環境を与えられて甘んじない人なのだと思う。<br />
<br />
もちろん、自分で自分を正しく評価できるようになるには自分で考えて選択し全てに納得し決めていく力が育っている必要がある。<br />
<br />
その力は、先程の詩にあるように人生の主導権を自分が責任を持ち魂の支配者は自分だと揺るぎない自覚で日々を正しくすることだと思う。<br />
<br />
子どもでいえば、嘘はつかない、他人のものは盗まない、約束は破らない、言い訳はしない、他人を騙さない、他人を蔑にしないなど、人として当たり前であることを自分が守れる人であることからそういう正しい判断はできるもの。<br />
<br />
子どもたちに見守る保育を展開していくとしても、大いなる寛容の心と揺るぎない信念という柔和で芯のある模範を示し、その環境との関係性や相互作用によってその人格形成のお手伝いをしていくのも私たちの仕事の一つ。<br />
<br />
私自身、どんな厳しく甘える環境が周囲にあるとてそこには惑わず迷わず常に自分が納得し決めることを尊重し厳守し、それから学び、そこに潔癖なまでの魂の実践をもって歩んでいきたい。<br />
<br />
草奔崛起を志し、大和の精神を伝承していきたい。]]></content:encoded>
		<dc:subject>仕事と使命</dc:subject>
		<dc:date>2010-08-19T07:58:12+09:00</dc:date>
		<dc:creator>野見山　広明</dc:creator>
		<dc:publisher>Serene Bach</dc:publisher>
		<dc:rights>野見山　広明</dc:rights>
	</item>
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