家と主人

昨日、千葉県白子町の江戸末期からある名主さんの古民家を拝見するご縁をいただきました。人に品格があるように、家にも品格があります。そしてその人物の品格には徳が備わっており、その徳はもちろん家にも同様に備わっています。その徳は、先祖から連綿とつなげて積み重ねてきた善行の循環によって子孫へと伝承されていくものです。

家は、代々主人が代わっていきますがその主人を守るのは家の意志でもあります。家は主人を養育し薫風しながらその家格にあった主人を見守り育てます。

私にとっての古民家は先祖であり両親であり徳祖でもあります。この家の修繕というものは、代々の主人が行うものです。自然界には「相利共生」というものがあります。これは生物間の共生者の双方が互いに生活上の利益を受ける関係をいいます。

たとえば、ヤドカリの入っている貝殻に付着するイソギンチャクはヤドカリの移動によって摂食の機会が増加し、ヤドカリはイソギンチャクの刺細胞の毒によって外敵から保護される関係だったり、他にも弱さをうまく補い合い、強さを利用し合うしたたかな関係を築いています。

一緒に生き残るためには、なんでも活かそうとする。お互いに利害が一致して助け合う関係のことです。これは厳しい自然を生きるために互いにとってきた戦略です。同時にお互いのどちらかがいなくなれば生きていくことができない種を超えた強い絆を持っているのです。

私にとって古民家は単なる共生の支え合い助け合う関係を超えて、相利関係に近いものがあるように感じています。私が磨くことで、家も磨かれる。家が磨かれることで私も磨かれる。その結果として徳が磨かれお互いに生活上の利益を享受しあうことができるのです。

私が家をパートナーと呼ぶのは、この相利関係を持っているからかもしれません。したたかな力は生きる力です。そのままにしていたら朽ちてしまう徳も、しっかりと引き出し合いその先祖の善行や子孫への推譲をしっかりと結んでいこうとするのは私たち人類の親祖の代からの生存戦略なのです。

明治以降、歪んだ個人主義を押し付けられ時間の奴隷のような生活をしても目標達成のためにここまでこの国を発展させてきました。

しかし果たしてこのままでいいのでしょうか、もう充分でしょう。

もう充分と思ったのなら、私たちは生き方や暮らし方を換えなければならないのです。それが生存戦略であり、未来の子どもたちを守ることになるのです。家が主人を見守るように、私たちは子どもを見守る必要があるのです。

まだ間に合いますから、気づいた人、醒めた人は行動を起こすべきです。

私も今、できることを真摯に取り組み、周囲がいかに可笑しなことをしていると変人ように思われようと信念をもって子どもたちのためにできることから変革していこうと取り組んでいます。

共生のかたちは、自然界の常識です。コロナ後のニューノーマルというのなら、もういちど自然から学び直すことからはじめていくことだと私は思います。子どものために大切なご縁を感じ取って結んでいきたいと思います。どのような物語になるのか、まだわかりませんが未来が楽しみです。

  1. コメント

    「共生」というのは、「生き方の共生」を言うのでしょう。「いのち」はそれぞれでも生きてはいますが、常に誰かと(何かと)そのいのちを通い合わせながら生きています。人間は自分たちの都合で、その関係を切りバラバラにしてきたようです。「繋ぐ」のではなく「繋がっているものを見失わない」そういう努力を通して、本来の「大きな共生の世界」を素直に生きたいと思います。

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