未熟なままの素直であれ

無知というものについて深めてみる。

人は知識というものを沢山得れば知者になったと信じている人が多い。

しかし知識を得たからといって真理が分かることはなく、真理を理屈で理解した風になろうとするだけで実際はそのものの本質に気づいたわけではない。

先日、若いタクシーの運転手の方とのお話の中でこんなことを聴いた。

「この業界には50才代、60才代の新人社員が沢山いるんですよ。その人たちが新人なのに頑固というか変なプライドを持って自分は何でも知っているのだというオーラを出してくるのです。東京都内の道なら何でもしってるんだぞといった感じです。しかしこういう人たちが実際は仕事ができない場合が多いです。成績も悪いし結果も出ない、それに勤務態度も悪く人間関係もうまくいかずとても残念な感じです。」

とあった。

こういう話はどこでもよく聴く話で、年代に関わらず20才代でも30才代でもそういう先輩なんだという年配者によくありがちなプライドのような肩書持ちの人に出会うこともある。

このおかしなプライドの正体は一体何なのだろうか?

それは、いつまでも本当のことを知ろうとする勇気がないことである。
それは自分が未熟者であるということを受け容れられないということである。

自分はきっと未熟ではないと信じたいというエゴのことである。

なぜ素直になることができないのか、なぜ失敗から学ぶ事ができないのか、なぜに成長を止めてしまおうとするのか、それは未熟であることを無知であることを覚りたくないからである。

それをすることはとても勇気がいることだからである。

プライドがある人がよく話す「分かりません、知りませんと聴くことができない」というのはそのためである。そして自分を偽り知ったかぶりをしてきた年月こそがその人をより頑固にしていくのである。

なぜ教えてくださいと聴けないのか、なぜ指導してほしいと頼まないのか、徹底して拒絶抵抗するのかは未熟な自分だということから逃げたいからに他ならない。

自分で責任を持って何かをやろうとすれば、私自身も思えば本当に気づかなかった、自分が未熟者だった何かがあるたびに反省することばかりである。

その失敗から何を気づこうか、その経験からどう成長していこうか、そういう気持ちこそが「向上心」といい、その心が自分が無知でしたと素直に受け容れる勇気に変換されているのである。

人は、誰しもすべての事を知っている人などいないし知っていても意味がないのである。大切なのは、自分の人生の目的に気づく事であったり、自分が何のために生まれてきたのかを知るためでもある。それこそが良知である。

もっと表面上の分かるといった知るではなく、本質的に根本的に気づくという知るでなければその知は単に自分の心を完全防備する壁にしてしまうだけである。

その生き方は自分に正直ではないのだからとても苦しいのである、自分を説得するための知識だったのか、それとも気づいて成長しようとした知識になったのか、大事なことは無知であることに気づくこと、そしてそれを受け容れる実践、つまり素直になることは未熟でしたと知ったことである。

まずは私が示し、それを周囲に感化していけるよう子ども達にはそういう大人たちの歪んだ知識教育によりおかしな生き方に導かれないようにしてあげたい。

この人間の傲慢な知識教育の刷り込みこそがバランスを見失わせたのである。

教育者こそ、自分の未熟さに誰よりも先に気づく人であるべきである。

私は、一生そうありたい。

あの子ども達の姿こそ、あの子ども心こそ完熟していると思えるからである。

我が大人たる者の未熟さを恥じて、愛と勇気のヒーローのように素直な自分を受け容れて学び続けていこうと思います。