経験の堆積

人は過去に様々な経験を積んで今というものを観ているものです。
今、目の前にある情景や状況もすべては過去の堆積によってできたものです。

例えば、土を見るとき私たちはその土の上にある世界を観ていることになります。しかし実際は、過去の土の上に今の土があるのだから今の土は過去の堆積された事実の上に存在しているのです。土で言えば、一般に1センチで100年と言われるようにかなりの長い時間をかけて今の土になっているのです。

これは土だけによらず仕事でも何でも同じです。
今、自分が見えている仕事も今だけを見れば目に映るものだけでそのものを理解し判断しますが実際は過去の色々な経験の堆積によって出来上がっているともいいます。

その過去の堆積した経験が次に活かされ、そしてその今の仕事を創りあげているのです。
そのとき、よく陥るのが過去の経験にしがみ付き、新しく新しい経験を堆積させようとはせず、その今までの経験だけで乗り切ろうとするときに問題が起きるのです。

この経験というものは、常に堆積していくのだから今までどのような積み上げで今そうなっているのを感じる力が必要です。その人のことを理解することも、その仕事そのものがなぜそうなのかを理解するのも、今までどのような取り組みや経験があってそうなったのかを感じるからこそできるともいいます。

そして一番それを実感するには、やはり同じ体験や経験に近いものを持っているか似たような実践を日々に堆積させているのかということにもなるのです。

もしも堆積していくという意識がなく、自分の居心地が良い土の上にいつまでもいて上書きされていなければ経験は積み上がっていきません。もしも、その人の体験を理解するのなら同じようにたくさんの経験や実践に取り組んで近づいていくしかないのです。

それはとてもシンプルで、具体的にその人が体験したことを自分も体験すればいいのです。
頭で分かろうとすると、奇異な場所に囚われそのカタチは何とか見せられても中身がついてこないということもあるのです。

思うだけではなく、具体的な行動に換える事や、考えるだけではなく、具体的に可視化していくことや、調べるだけではなく、具体的に取り組んでみる事の方が経験を堆積していると言えるのです。

土づくりをやっていますが、善い土壌とは以上と等しく様々な経験により堆積した腐葉土がたくさんの菌によって発酵してふかふかのベッドになっているようなものです。同じく、時間をかけてじっくりとひとつひとつの経験を大切に味わい身に着けていくことは堆積しつつ芳醇な人生を送ることにも繋がっているのだと思います。

土づくりの奥深さに触れ、改めてこれまでの取り組みこれからの取り組みに思いを馳せます。

知足着実

足るを知る心と、足らざるを知るという心がある。
ここにそのどちらにも共通するものが存在していることが分かります。

地に足を着いてとはよくいうもので、やはり心がけが地道でなければ不明を恥じるのです。

まず足るを知るには、今、どれだけ自分が恵まれているのか、どれだけ周囲の環境の恩恵を享受されているのか、どれだけ有難い存在に見守られているかと思えば次第に感謝の心が込み上がってきます。人は目先の自分の欲が果たせないことに執着し、感情が前後左右されとても苦しむものです。足るを知ると思えないのは、自分の思いに呑まれているからともいえると思いますがこれを打破するのはそれよりも包まれていることを感じることだと思います。

そして足らざるを知るというのは、今、自分自身の不肖をどれだけ恥じているか、どれだけ自己中心的かと気づいているか、どれだけ生き方が傲慢になっているか、自分自身の未熟さで他人様にどれだけ迷惑をおかけしているか、自分に矢印を向けて自己錬磨されていない自分を知るということです。こういう謙虚な気持ちになっていれば、次第に感謝の心が込み上がってきます。足らざるを知ることができないのは、どこかまだ誰かのせいや何かのせいにして言い訳をしている甘えた気持ちが残っているからです。これを打破するのは、すべての問題は自分にあるのだと気づこうとすることだと思います。

この足るを知るも足らざるを知るも、一本の共通の糸で紡がれています。

それが「感謝」であるのだと思います。
感謝の心で生きていくということは、その両方を生きていることになっているのです。

感謝の心でとは言葉では簡単に言えますが、実際は地に足を着けていないとそうならないのです。日々の生活や暮らし、営みの中で以上のような実践が持続し続け、頭で生きている自分の妄想から目覚めるかということなのだろうと思います。

忙しい時はなかなかできませんが、それでもそういう時こそ修行のチャンスでもあります。
知足着実にかんながらの道の歩みを真心と感謝とともに取り組んでいきます。

主人公の気づき

最初に私を育ててくださった経営者の方から、「山に入ったら必ず何かを持ち帰りなさい」というものがった。

今思えばとても大切な教えで、この今もそれを活かすことができているから物事を自分のものにしていくことを学んでいるのだろうと思います。いつも自分がその気持ちでいれば、すべてのことが師匠や先生になりそこから学び自分のものに変換していくことができるのです。

先日、ドイツ研修の同窓会があり先生から同じようなお話があり感銘を受けました。

「いつも世界へ見学や視察に行く人たちはたくさんいます、しかし現地に行ったからといって特に何かを持ち帰って自分のものにして取り組んでいる人がどれくらいいるのだろうか。それを見ていたらほとんどの人が観光のようになっていてあまり変化がありません。そうではなく、現地にせっかくいくのだからそれをどれだけ自分が現在の環境に活かし実践していけるかというのが大切なのです。」

というような内容です。

私も同じように思うのですが、勿体ないという言葉は時間にも言えるのです。同じ時間を過ごすのに映画を鑑賞する人のようにしている人と、その映画の主人公とではまったく意味が異なります。

人生の主題、主演、主体、主役は当然、自分なのだからどんな時もそうであるべきだと思うのが私の生き方でもあります。誰かのことではなく、自分のこと、誰かの問題ではなく、自分の問題、誰かの事例ではなく、自分の事例といった、それは自分自身が学ぼうとする心構えが何よりも主人公となっているということなのです。

すぐに人は状況に依存して流されてしまうものです、つい楽をしたり考えなくなるとただその雰囲気を味わっただけで流されている場合もあるのです。一度そうなってしまえば、同じ時を共有しても一緒におらず、同じ場所を共有しても一緒に学べない、同じ環境下にあっても生き方に巨大な差が開いていくのであろうとも思います。

経営者というものはその人生すべてで何事からも全身全霊で学ぶのです。
だからこそ、常に他人事にならないよう主人公の気づきを日々に積み上げていこうと思います。

 

覚知

人は何かの刷り込みがあるとものの本質を理解することができない。

どの仕事もそうだし、それは現状把握もそうだけれど根本的なところから取り組む人と、途中から誰かに聞いて知った気になるのとでは同じではない。

例えば、保育でもそうだけれど最初の発達を善く理解し、そもそも保育とは何かというところから学ぶ人と、そういうことは考えもせず他人から保育とはこうだと思い込まされている人はそれが正しいことなのだと勘違いするものです。

これは他のことでも全部言えます、そもそも何かを自分で探求して辿り着いた人は刷り込みの影響はあまり受けません。すべての意味があるものがそれが何なのかを正しく最初から理解できる人は常に本質的であるともいえます。

今の時代は、最初から考えさせるというよりも途中から教え込むという過去の発見した事実を暗記させる方を優先するからいよいよ刷り込みや思い込みを持ってしまう人が増えてしまうのです。そういう本質も時代とともに変わっていくのです、普遍的なものがあろうが自分が普遍的ではないのだから正しくそれは再考し見直す必要があるのです。

先日、弊社のランチを提供してくださっているミルクランドの経営者と面談する中で真実の卵の話をしていて刷り込みの話で盛り上がった。「卵焼きや目玉焼きでの卵しか知らない人にいくらその真実の卵の話をしても理解できないのではない。刷り込みがある人にいくら話だけしても伝わらない。最初から鶏を育てて卵をかえしまた育てまた次代へ譲るすべてを体験したものでなければ、その卵そのものが刷り込まれていない状態として「観えない」のであろう」と。

1から10までそしてまた1から10へと一巡するまでのすべてで丸ごと一つと見た時に、それを通しで体験して理解し、そもそも本当は何かを伝えるということは大変な時間と労力が必要になるのです。それをかけなければ刷り込まれないようにはならないともいうのです。

しかしそれがなされないのは今のような速度を優先して競い合うような時代、時間がないと焦りスローにじっくりなどとやっていたら間に合わないと思うのでしょう。

実際は、それを通しで体験しないことで永遠に本質に辿りつかず余計な手間も無駄も生まれてしまうことで大きな不合理が生まれ続けて混乱してしまうのです。その混乱から余計に止めることのできない人道の破滅に繋がっているのが今の状態であろうとも感じます。

刷り込みを取るには、常に一番最初から最後まで円環している原理を理解することが必要です。それは暗記ではなく、それはそもそも何かということを丸ごと全体を通しで見極め廻りを覚ることが必要なのです。

常に1からやり直し最後まで通して行い巡りを体験することが刷り込みを取り除きます。
これを私は覚知と定義します。

これをできるようにするのが私の仕事なのでしょう。今までの学び方の刷り込みに周囲がいつまでも流されなくなるよう、さらなる覚知の考案を探究していこうと思います。

オープン民主主義

昨日、久しぶりに田坂広志先生の講演を拝聴してきた。
以前、田坂塾に通ったこともありその思想に触れ大きく啓発されたものです。

知らなかったけれど原子力の論文を書き、その業界でお仕事をなさっていたそうで今回の大震災で官邸に招聘されて改革の指揮なども取られていたのが驚きました。

その中で、田坂先生が気づいたこと、何が本当の問題なのかということを生々しい実体験と人生の経験からお伝え頂きました。

そもそも国家の危険はすべてに楽観的空気から生まれます。昨日書いた平和ボケと同じで、どれだけの危機かと叫んでもそんなことはないだろうといった希望的観測を認知することで大切なことが素通りするのです。そして常にそういうことをやっていると、上層部にあるのがわけのわからない言語が飛び交うことです。これは保育や教育の方でも言えますが、語尾を微妙にすることでさもそれで善いのだというように誤魔化します。

大綱化や、何とか状態、直ちにではない、などなどキリがないけれど曖昧な表現をすることで言わなかったとはしないといった責任転嫁の言語体系が蔓延るのです。昨日も書きましたが、それはすべてさ「先送り」と言えばいいのに言わないのです。問題を常に先送りする上層部やリーダーに着いていく国民や部下は大変なことです。

また、物事の最初の情報と最後の情報を隠蔽すれば人はみんなお任せ状態の依存型の関係が発生するのです。根本的に何が問題だったのかをオープンに議論せず、結論としてどうあるべきなのかをオープンに議論せず、いちいち発生することだけを何回も議論してそれも隠れ部屋のようなところで繰り返す。

これに何の意味があるのかと憤慨するものですが、事実はこういう社会になっているのです。

以前、オランダに訪問した際に、子どものときから如何にオープンにしていくか、そして子どもに根本的な問題を投げかけ、そして最終的な問いを遺すようにするという参加型民主主義を見てきたことがあります。

今のクローズされた民主主義では決して話し合いや議論、国民が参加できることはないと私も思います。だからこそ、今こそ社会変革が必要でそれは子ども達も一緒になって取り組んでいく必要があるのです。

私が行う一円対話には、そういうことをすべて凝縮したものを詰め込んでいるのです。
これからもこの世界の行く末を見守りながら、自分から生き方と働き方を変えていくつもりです。

久々に田坂節を拝見でき、あの時の気持ちを思い出しました。
道を歩めばいつのときも「Unfinished Business」。

私も避けずに正面から向き合っていきたいと思います。
有難うございました。

平和ボケ

平和ボケというものがある。

一般的には、戦争から長く離れていたから戦争のことが分からなくなっているという風に言われているけれどそれ以外にもこの言葉の真意は別の意図もあると思います。

例えば、何かの問題を議論するとき、右寄りか、左寄りかという言い方がある。戦争でいえば戦争賛成派か戦争反対派か、それで右翼だ左翼だとすぐに言い合いになっているけれどそれこそが平和ボケという意味ではないかと私は思う。

子どもの問題でも、何か制度の話があればすぐに極端にどちらかの議論ばかりになり中間と言って決定したものはそのほとんどがどちらにとっても顔を立てた内容になっていてもっともらしいけれど、実際は単に先送りですと書けばいいのにと思ったりもする。

時間をかけてそんなことをやっていたら全員疲弊してやった気になるだけで言い訳しか残りません。こういうものも平和ボケというのではないかと思う。

本質的なものとは常に割り切れないものがあり、情緒的な言い方であるけれど矛盾を維持する魂の決定力が必要になる。つまりは、中庸というものは本質を正しく捉えているかというものがある。当然、民主主義なのだから議論して決めるのだけれど、なぜ議論が深まらずそこまで辿りつかないかというのはやはり平和ボケしているからであろうと思う。

人は本当の意味で切羽詰らないと本気で本質を遣ろうという決断をしなくなるものです。
ある大企業で改革を成功した人も、そのうち平和ボケしまっていることが多々あります。成功すると、平和ボケするというのは歴史を観ても必然であろうとも思います。

真のリーダーは常に切羽詰っている状態を維持しながら心は穏やかに遠望熟慮できるし環境に左右されずいつも正確な判断を失わず常に自らが中庸や本質であろうとするだと思います。

そしてそういう状態の事を決して平和ボケしているとは言いません。

つまりは周りの環境に流されて、本当は何かを見失っていることがこの「ボケ」という定義なのです。

だからこれは平和ボケだけではなく、戦争ボケ、平均ボケ、集団ボケ、時間ボケなど、「ボケ」にはキリがありませんが、本来は何をすべきか、どうあるべきか、正しい判断ができなくなるほどに「周囲の環境に刷り込まれている」ことを私はボケていると定義するのです。本来どうあるべきかということを考えない、根源的にどうなのか思わない、根本的なところに戻ろうとしない、それが問題なのです。

しかし事は深刻なのです、目覚めてもらわなければ子ども達が大変なことになるのです。
人類はいつもこのままではといいながら、このままではの結果になっているのです。
では何のための議論なのか、悲しいことです。

失敗から学ぶ事がなくなり、過去の悲惨な出来事を忘れてしまうこと。
そういうことをなくす怠慢な今の実状こそがボケなのです。

まだまだ私には力不足で世界のボケを目覚めさせるほどはありません。
しかし、子どもを思う心に一点の曇りなく一滴の雫の大切さを信じて取り組むだけです。

当然、いのちを使うのだからまずは自分がボケないよう常に平常心で真摯に理念とビジョンを実行していこうと思います。

ボケないよう今を極めます。

 

真善と偽善

先日伺った自然養鶏でとても興味深い話を聴いた。

善い卵というものは、美味しいものというわけではないということ。
つまりは、 世間でいう善い卵は人工的に卵が美味しくなるように動物性たんぱく質などをを添加し人間の味覚に美味しくしようとするものだけれど、鶏にとっての善い卵は雑草や虫、土などをたくさん食べた卵であるという。

これは卵でも前者のものは孵化率が低く生まれた雛もあまり健康ではない、しかし後者の卵は孵化率も高く雛も健康であるということ。言い換えれば、人間の食べるための卵が善い卵という定義と、鶏にとって善い卵かどうかということでもある。

そう考えると、善いものというものは人間にとって都合が善いものと、そのものにとって本来善いものというものがあるということです。

善いというのは、元々であったから善いということ。
本来の姿が一番善いという意味でもあろうとも思います。

子ども達のことを考えてみても、もともとの子どもらしさが善いという声もあるなか周りは様々な子どもにとって善いだろうというもので保育や教育をするものです。しかし実際は、師からの話でもありますが保育や教育とは本来のものを忘れないようにすることや引き出すことであるというものです。

自分たちの都合の善いようにと教育していくことは確かに人間にとっては善いことなのかもしれません、自分たちのために働いてほしいからです。しかしそれが果たして相手やその生き物にとっての幸福であるとは限りません。その時の関係は服従関係となるのです。

しかしもし本来そのものがそうしたいと生きていて幸せであるものを活かし、その中でお互いに助け合い生きるのであればそれは幸せを享受しあえているともいえます。その時の関係は共生関係となるのです。

私たちはあまりにも自分たちの都合の善い方へと、それが善いことだと言い切って断行しますがそれはあまりにも視野が狭いのではないでしょうか。

人間だけで生きているのであればその視野になるでしょうし、今の大人の社会だけが中心であればそういう視野もあるでしょう。しかし地球全体でや自然をトータルでや、持続している方の社会から物事をよくよく俯瞰して観察すれば如何におかしなことをやっているかはすぐに気づけるはずなのです。

善いといっても、誰にとって善いのか?それが自分たちだけになっているのは常に視野狭窄であるのだと思います。自分の存在が如何に世界のお役に立てるのか、すべての生命はそれを感じているようにも見えます。

あの植物もあの昆虫も、そして動物、菌、石も太陽も月も、みんなそう願っているかのようです。そういうものと一緒に生きられるということはとても幸せなことであろうとも思います。今のような時代、大切なことを忘れてしまうのはその善いことという落とし穴である気がします。

まだまだ刷り込みを取り除くことに専念していきたいと思います。

自然からの強さ

昨日、自然養鶏を実践している笹村さんのお話をお伺いすることができた。
実体験からの智慧と慧眼からたくさん学ぶことができました。
本当に有難うございました。

色々な話があるけれど、元々の鶏の状態についてのお話も見直すものがあった。

鳥インフルエンザなど新しい病原菌というものは、鶏の免疫力が低下しているからこそ発生しているのであり、そもそも過去にはたくさんの病気を乗り越えて今の種があるのだから、負けないように育てていくことが大事だといい、その環境を用意して結果が出ていることに改めて感激いたしました。

よく考えて観れば、今の私たちがここまで生き抜くまでにどれだけの自然環境の変化があったでしょうか、温度が変わり、気候が変わり、土壌が変わり、空気が変わりと、そのたびに、出てくる細菌やウイルス、その他の身の危険を幾度どなく繰り返し、一部は淘汰され、今残っているのはその際に乗り越えてきたものだとも思えます。

いのちがめぐるということは、それだけの危機に遭遇してきた歴史があるということなのです。進化というものは、側面として新しい困難を乗り越えるという意味でもあります。

永い時間をかけて、海から陸へ、陸から空へ、空から地中へ、外から中へ、中から外へと、あらゆる環境下で、私たちは生き残るものを強さだと定義してここまで生き延びてきたともいうのです。その叡智たるもの、私たちの文明の利器や知識を凌駕するほどの奇蹟の連続であったとも思います。

その存在が今、この時代を生きている。
これは本当にすごいことであろうとも思います。

それが今の時代は、今の時代だけの人間の姿を切り取り分析することで過去からの継承してきたものを観ようとはせずに対処療法ばかりが蔓延しているともいいます。そのためのワクチンや予防接種などもしますが、本来は強かったものをあらゆる過保護な環境下に置くことで弱体化させ昔あったような病原菌が復活しているともいえるのではないでしょうか。

そしてその病原菌をさもワクチンでとあるけれど、そうではなくやはりそれは自力で取り除いていくことが自然の姿であろうと思います。今の社会の風潮は、それは身体だけではなく精神も薄弱化しすぐに何か困難があると、対処療法に惹かれていく傾向があります。

困難を乗り越えてきた歴史を忘れ自信をなくし、すぐに楽な方に甘えるのもそういう薬に頼るような体質ができているからともいうのではないかと思います。確かに急速な変化に対応するにはそういうものもいりますが、本来は自然治癒できるのです。

これからはもっと弱体化していきながら、昔乗り越えた困難にまた挑むことになります。
弱い種にならないよう、生きる力をどう育むか。

自立というものに関わるものとして、自然からの強さというものを学び直していきたいと思います。

 

厳しい愛で育ち慈しみの愛で育てる

子どもは親の鏡というけれど、その親の姿で子どもはいかようにも変化するものです。
厳父と慈母というものがあります。

厳しくすることと慈しむことはセットで存在しているのです。
そしてそのバランスの中で、子どもは自立ということを学ぶのであろうとも思います。

自然界も厳しい大自然と母なる慈しみの大地の恵みの中で生き物は育ちます。現実には、生きる力というものや自分で発奮して乗り越える力というものはそういった厳しさと慈しみの中で自ら学び、自ら獲得していくのだと思います。

子どもから見ても、厳しさというものを避けたり逃げることは甘えられるということです。
そして慈しみというものを感じられなければ、不安になり孤立してしまうということです。

どちらにしてもここから私たちは一体何を学ぶかというのは「愛」であるのです。

私は以前、顧問だった方にそのことを何度も教わりました。
何度も言われてもわからないことは体験すると理解できるようになります。
しかし 実践は難しく、その両方を意識すればするほどにできなくなるものです。

つまりは愛というものは相手を見てやることではなく、自分が愛であることなのです。
経営者だけではなく、親というものはすべてに愛が必要です。

その愛は、時には厳しく、時には優しく、いつも子ども達を愛で包みます。
そしてその子ども達は愛を感じていつの日か、懐かしくも思い自らが実践するのです。

過去の色々なトラウマから愛を感じられなくなっている人もいます。
そういうときは、厳しさと慈しみの中に自らを置くこと、つまりは自然な姿を思うことです。

社会や世間の中で、または組織の中で生きていくには厳しさから学ばなければなりません。
そして人を信じて大切なものを守るのは、慈しみや悲しみを学ばなければなりません。

身近な大人の姿でそれを感じ、子どもはその両方の実践の姿から愛を学ぶからです。

厳父と慈母には経営者としての学びの本質があるのです。
今こそ遠慮せず自然体で愛を発動していけるようあの課題に正対します。

 

 

大切な何か

原発事故があってからエネルギーのことなどを考え直すことがあった。日々の生活の中で私たちが一体何に依存して、何によって安心しているのかと分かり、その刷り込みに気付いてから改めて様々なことを見直すことを決めた。

そう思った人は何人もいたはずである。

しかし日常が過ぎ去っていけば、次第にまた金融都市化された中で大切なことを思い出す暇もないほどに忙しくしそのうちに元の生活にまた慣れてしまうのが人間であろうとも思う。

よほどの強い意志や心で決めた人でなければ周囲の環境の影響を受けてしまうのだから変わるということは難しいのです。

人は目先で感じる急激な変化に対しては反応しますが長い時間かけて緩やかに変化するのを感じるのは苦手であることが多いのです。環境というものの変化は、毎時ゆったりとしっかりと変わっていくものであるからつい気付かないのだと思います。

木々が伸びたり、水かさが増えたり、草花が広がっていることにあるときにハッとされるようなもので変化が大きなものは目先ではないところで起きているのです。

成長も同じく、変わっていないように感じても実は確実に伸びているのです。

よく観ると先日の原発事故から確かに変わっていることがあるように思います。
眼には見えないところで多くの人たちの心に何かが起きています。

もう一度、大切な何かを取り戻そうとする動きは心と心を通じて人々の様々な言葉や表現から感じ取ることができます。

私たち日本人がこの西洋型文化を取り入れたのもついこの間の話です。それ以前はまったくそうではない生活があったと思えば、決して忘れてはいないのだと思います。

遠くの大きな変化が見えれば観えるほどにこれからがとても楽しみです。