英彦山守静坊の甦生 感謝祭

明日は、いよいよ英彦山の守静坊の甦生感謝祭を行います。振り返ってみたら、本当に多くの方々に見守られ無事に宿坊を甦生することができました。結に参加してくださった方々のことを一生忘れません。この場をお借りして、改めて深く感謝しています。

思い返してみたら、今回の宿坊の甦生は困難の連続でした。工事に取り組み始めてからも何十回、もしくは何百回も神様に真摯に拝み、尽力することはやりつくすのでどうかお力をおかしくださいと祈り続けました。少し進んだと思うと、大きく後退し、善いことが起きたと思ったら八方ふさがりのような状態に陥ったり、一喜一憂してばかりの日々を過ごしてきました。

そんな中でも、本当に有難かったのは身近でいつも支えてくれたスタッフや家族、どんな時でも丸ごと信じて応援してくれた叔父さん。そしていつも見守ってくれていた仲間たち、結に参加してくれて見返りを求めずに徳を一緒に積んでくださった同朋のみなさま。小さなお気遣いから、大きな思いやり、取り組みに深い関心を寄せてくださった方々に心を支えていただいていました。

今回の宿坊の甦生で、故長野先生はじめこの宿坊に関わったこられた歴史の先人の皆様。そして英彦山に少しでも御恩返しすることはできたでしょうか。喜んでくださっているでしょうか、もしもそうなら努力が報われた想いになります。

私たち徳積財団、及び結の仲間は宗教組織ではありません。むかしの先人たちが暮らしのなかで信仰していたように、お山を拝み、お水を拝み、いのちを大切にし、お祈りを実践し、生活を助け合うなかで心をむすぶために信じあう仲間たちの結(ゆい)です。この結というのは、つながりや結びつきの中で暮らしていくという古来からの日本人の知恵の一つで「和」ともいいます。

私は、和が永続することを「平和」だと思っています。そしてそれは徳を積むことで得られると信じています。この徳を積むというのは、自分の喜びがみんなの喜びになり、みんなの喜びが自分の喜びになるという意味です。自然をお手本にして、全体のいのちが充実していくように、暮らしを充実させていくことです。それが暮らしフルネスの実践であり、徳が循環していく安心の世の中にすることです。

今の私たちは歴史を生き続けている存在です。終わった歴史ではなく、これは今も私たちが結び続ける責任を生きています。今までの先人たちの徳の集積を、さらに磨いてこの先の子どもたちに繋いでいくのが今の世代を生きる私たちの本当の使命です。

最後に、感謝祭に来てくださってお祝いをしてくださる友人たちがむかしの家族的な雰囲気で舞や唄を披露してくれます。この宿坊の谷は、弁財天さまの谷で弁財天は芸能の神様でもあります。むかしのように囲炉裏を囲み、みんなで一緒に同じ釜の飯を食べ、笑い、踊り、唄を歌う。心地よい法螺貝の音色が宿坊全体に広がっていくように豊かで仕合せなひと時を皆様と一緒に過ごせたらこれ以上の喜びはありません。

これから親友で同志のエバレットブラウンさんが、宿坊に滞在し英彦山の徳を出版や湿版写真等で伝承してくれます。そして私は、一人ひとりの徳を尊重し合い磨き合う場として仙人倶楽部というものをこれから徳積堂にてはじめます。私が心から尊敬する師の一人、二宮尊徳はこれを万象具徳といい、それを顕現させるのが報徳ともいい、その思想を一円観といいました。私はこれを現代にも甦生させ、「平和が永続する知恵」を子どもたちに伝承していきたいと思っています。

本日がその一つの節目になります。このひと時を永遠の今にしていけるように皆様と祈りをカタチにし、懐かしい未来を味わいたいと思います。

ここまで本当にありがとうございました、そしてこれからもどうぞよろしくお願いします。

心の師

人は人と比べる人生ではなく、自分らしく生きていくために初心や目的を振り返るものです。何のために生きるのか、どうありたいかは自分自身が決めることができます。ある意味、この自分の中の自由というものを磨いていくことで私たちは思いを醸成し世界をよりよくしていくことができるともいえます。

しかし実際には、思いを醸成するには多くの時間が必要です。思いついた思いではなく、まさに大木や植物がじっくりと根をはり育っていくような日々の積み重ねが必要です。

原点回帰ともいうべき、その日々の成長の繰り返しによって思いは育っていきます。その思いの強さや思いの豊かさが周囲をよりよい場にしていきます。

私が尊敬している方がいます。

その方は、毎朝日が昇る前に起きて太陽を拝み祈ります。昨日のことをよく反省し、よく努力したなかで善かったこと善くなかったこと丸ごと受け容れて御礼をし、また今日、真摯に取り組みますと思いを励んでおられます。

今、この一瞬、その時々を一期一会に生きては反省し精進するのです。

決して思い通りになることはなく、世の中はあまりいいニュースが流れません。しかしその方は、人間のことを深く信じ、深く愛し、世の中の平和を信頼しています。決してただの楽観的な方というのではなく、悲しみや苦しみに寄り添いながらもそれでも人間は学ぶ、人間は成長すると信じているのです。

話をしていると自然に安心して心の不安も消えていきます。

こんな人物のように生き方で周囲を安心させる存在になりたいと心から憧れたものです。実際の私は本当にまだまだで、心の不安も自分のことで精いっぱい、そしてよい波動が出せているのかと、それに自分の言動も未熟です。周囲のことを気にし、空気を不安がることもあります。

自分がこうありたいと決めた生き方に対して、真摯には取り組んでいますが自分自身の心をどれだけ磨いているのか。自分を見つめる毎日を送っています。有難いことは、私の心の中に尊敬する方々の生き方や後ろ姿、また言葉や眼差し、記憶が共にあることです。

道を歩んでいく中で、仲間も増え、そして心も育ってきました。道の中で一円観を実践し、円満にしていく場をととのえていくのもまた私の祈るところです。心して、天に恥じないようにこの今を大切に生き切っていきたいと思います。

器を磨く

守静坊にお世話になった方々への感謝祭の準備をしていますが、故長野覚先生の親しかった方々が多数参加してくださることになりました。不思議なことですが、宿坊と関わってから生前にお世話になった方々から先生のことをお聞きします。

どの方々からもとてもよくしていただいたことや、人格的に素晴らしかったことなどをお聞きすることばかりです。私はほとんどお話する時間がありませんでしたが、こうやって生前の生き方や人柄を人伝いでお聞きすることで先生がどのような方がったのかが見知ってきます。

昨日も、感謝祭のために英彦山で真摯に昔ながらの製法で真摯にこんにゃくを伝承されている方とお会いしましたがずっと長野先生に大切に関わって可愛がってもらったと感謝しておられました。

それがこのタイミングでつながり、宿坊甦生のお披露目の精進料理のメインとして使わせていただくことに不思議なご縁を感じます。

以前、ある方から私の生き方は依り代のようだといわれたことがあります。確かに思い返してみると、器のように何でもその時々でまるで自分ではないように行動します。私は真心という言い方をしますが、その時の判断の中にはほとんど我が入っていないことがあります。気が付くと、その人の心になったかのように行動できたりもします。

私は想いに敏感なのかもしれませんが、むかしから大義で生きた人の心やその想いにすぐに共感して器に影響を受けていきます。かつての先人たちの生き様や、その生涯での偉業などをみては魂が揺さぶられていきます。

私のこの道は、一体どこに往くのかは今はまったくわかりません。しかし我が道をこのまま信じて歩んでいくだけです。器を磨いて、器を整えて、子どもたちの未来のために私のなすべきことに集中していきたいと思います。

価値観を磨く

価値観という言葉があります。辞書を引くと、「人が自分を含めた世界や、その中の万物に対してもつ評価の根本的態度、見方。」そして「物事を評価する際に基準とする、何にどういう価値を認めるかという判断。」などがあります。

それぞれに人は価値観が異なるのは、その人の生まれて育ってきた環境もあれば、ご縁により影響を受けたもの、または文化など与えてきたものでも変わります。例えば、アマゾンの奥地で言葉がほとんどないような場所にいる価値観と、現代社会で都市部に住んでいる人では常識はほとんど異なります。

私たちは知らず知らずのうちに常識に吞まれていますから、価値観の影響を空気のように受け続けているともいえます。特に風土の影響は大きく、また周囲の人たちの存在も受けています。その土地の当たり前はその土地の常識ですが、少しでも離れたらそれは非常識というものもあります。他にも、今の子どもたち世代では常識であることが高齢者の世代では非常識になることがあります。結局、時代も変わり、環境も変わり、すると価値観も変わっていきますからお互いの常識のぶつかり合いで古いものと新しいものがいつまでも融合することができません。

価値観が変わるというのは、変化そのものです。ある一定の価値観を守っていこうとすれば、変化は悪いことになります。しかしお互いに価値観を守ることに強く固執し柔軟性を欠いてしまえば結局、その価値観は時代に否定され消失してしまいます。

本当は価値観を尊重し合い、折り合いをつけ、間を探すことでお互いの価値観をもう一段、ブラッシュアップすることもできます。そこには横糸と縦糸が結び合うように、大切なことがお互いに結び合えて真の意味で新たな価値観が誕生するからです。

これが価値観を磨くということだと私は思います。

私も周囲に何をやっているのかよくわからないや、変人や正体不明で何をしようとしているのかとよく聞かれます。しかし、いつも初心は明確でそのことだけに集中しています。

分かりにくいのは、もちろん言葉に説明できない言葉と言葉の中間にあることを実践していることもありますが今の世の中の常識の価値観とは少し異なる考え方を持っているからかもしれません。

子どもたちの未来から逆算して、今、こうすることが相応しいのではないかと思うと今の時代の常識からみたら不都合なことばかりです。未来と今で対立するのではなく、どうよりよい今を誕生させていくかをみんなで納得したうえで共に創造し、相乗効果を産み出していくかは私たちの大きな課題です。

引き続き、あらゆる声を聴きながら徳を磨き続けていきたいと思います。

ご縁の循環

人のご縁というものはとても不思議なものです。長い時間をかけて、そのご縁の意味がなんであったかはあとから現れてくるものです。その時は、何ともなかったご縁でも、時間が経てばそれがとても大事なご縁であったことがわかります。

振り返ってみると、まさかここでこのタイミングでということで助けていただいたご縁がたくさんあります。過去に誰かに親切にしたことが、巡り廻って自分のところにもやってくるのです。ことわざに、「情けは人のためならず」があります。これは人に対して情けを掛けておけば巡り巡って自分に良い報いが返ってくるという意味の言葉です。親切の連鎖ほど、ご縁を有難く感じるものはあります。

そしてそれはいつからはじまったご縁なのかということに思いを馳せます。

自分がはじめて会った他人だと思っていた人でも、実は長い時間をかけて先祖や親族が親切にしてきた人かもしれません。偶然助けていただいた方でも、その方もひょっとしたら随分長い時間をかけてご縁が結ばれた人かもしれません。

一つ一つのご縁を大切にするのは、まだ見ぬ未来を明るくしていくためでもあります。それが時間をかけて育ってくるのを待ち、自分、もしくは未来に善い循環の流れをつくっていきます。

地球は循環を已みませんが、どのような循環をつくっていくかはその人の生き方次第です。毎日、それは試されていますしこの瞬間も実践する機会があります。そんなに人生悟ったようにはならないからこそ、ご縁を磨いていくような心がけが必要なのかもしれません。

子どもたちの仕合せを願うように、ご縁を大切にしていきたいと思います。

叡智を研ぎ澄ます

知恵というものは使うことによってのみ知恵になるものです。知識は使わなくても知識として持っていられますが、知恵はそれを使う時のみ持っていられるものです。

もちろん知識か知恵かではなく、知恵があるからそれを知識で分析することができます。また知識も知恵によって真の知識となりえるものです。

私は真の知識にとても興味があります。それは知識と知恵を併せ持った叡智のようなものです。叡智には深さがあり、そこには真理があります。

物事や時代も発展していくのに進化するという言葉があります。しかし進化だけしていてもそれが本当の意味で叡智にまでは到達しているような気がしません。それは今の時代の様子をみてもすぐにわかると思います。

毎日、SNSやテレビ、情報社会の中であらゆる新しい情報が氾濫していきます。情報過多でそれをまた整理し、また進化させようとします。急ぐことばかり、時間をかけないで結果を出す事、わかった気になるために必死に情報合戦を繰り広げていきます。目新しいものはなんども良いもののように扱い、古いものは時代遅れとまで言われます。ダーウィンもですが、進化論というのは結局は分類わけの一つの手法のようにも感じます。分類分けしていくことを進化というのなら、そこに深さはありません。ただ分けて整理できた、そして整理がうまければ上手に進化したということになるのかもしれません。

実際には、その進化ではなく深化といって深淵にたどり着き真価を悟るというものもあります。現在でいえば、豊かさということを見直す話が出ていますが果たして本当に豊かさとは何かということをこの時代に叡智まで高めて磨いた人がどれだけいるのだろうかとも思います。

だからこそ、先人の知恵を学び直し、先人の知恵から深さを知り、叡智に辿り着く必要性を感じます。言葉遊びにならないように、そしてお題目のようにならないように私たちは知恵を使い続けていくなかで学び直して改善し、この時代の叡智を磨いていく必要があるように思います。

暮らしフルネスの実践はそれをするのにとても大きな役割を果たしていくと確信しています。子どもたちのためにも、この今の叡智を研ぎ澄ませていきたいと思います。

 

出会いの哲学

昨日、久しぶりに恩師の一人である吉川宗男先生が訪ねてきてくださいました。コロナもですが、色々なことがありなかなかお会いできなくて本当に久しぶりでした。思い返せば、まだ20代のときに同じような生き方を目指している先生に出会うことで私のインスピレーションも膨らみました。

今、場の道場を始めたきっかけも宗男先生とのご縁でした。その当時、先生からは、伝統的日本の文化である「場と間と和」の話を聞かせてもらい、ありとあらゆるものがメビウス上につながっているというメビウス理論を学び心が震えました。

先生の著書には5つの知の統合こそが人間力の知(HQ : Humanity Quotient)だといわれます。①知力、ヘッドナレッジ、IQ(Intelligence Quotient)頭で知る力。②感力、ハートナレッジ、EQ(Emotion Quotient)心で知る、観る、感じる力。心眼知。③行力、ボディナレッジ、BQ(Body or Behavior Quotient)身体の力。身についた技能。身体知。④活力、シナジーナレッジ、SQ(Synergy Quotient)そして上記の三力を源泉として生まれる生命力・活力・共生力。⑤場力、フィールドナレッジ、FQ(Field Quotient)場の暗黙知を感知し、場にライブ感を創り出す力。

このトータルな人間力の知は「全人格人間力の知」と定義しています。

昨日も、私が暮らしフルネスで創造した場の石風呂に入りながら色々とお話を伺いました。「味わう」ということの大切さ、そして出会いを哲学する人生をずっと歩んでこられたこの今の姿からも改めて生き方を学ばせてもらうことばかりでした。

人間は何歳になっても、出会いは無限です。

出会いに対して純粋な姿、ご縁を結びそのご縁を深く味わい余すところなくそれを好奇心で追い求めていく道を歩む姿勢。メビウス理論や場と間と和のどの話も、宗男先生と一緒に体験していく中で得られる知恵そものです。

説明ももちろんわかりやすく、非常に言葉も磨かれておられますがもっとも磨かれておられるのはその純粋なありのままの出会いの哲学です。

ちょうど色々と私も悩んでいた時期、遠方より師が来るで元氣をたくさんいただきました。大切なことを忘れずに、一期一会の人生を歩み切っていきたいと思います。

ありがとうございます。

経糸のような生き方

むかしの日本の歴史を調べていたら、素晴らしい生き方をされている方々のことが伝わっているものがあちこちにあります。その地域の偉人ともいう人ですが、今でいう医者であったり、教育者であったり、僧侶だったりします。

そこにはお金をもらうために職業を選択するのではなく生き方に憧れて職業に就くというものがあったのでしょう。尊敬される人たちが、その場、その場で徳を積みそして場を高めたことでそののちにその土地からまた偉大な人物が登場したりするものです。

私は大分県の耶馬渓にある青の洞門が好きで、時々、訪れます。禅海和尚が人生を懸けて取り組まれたところで、色々と苦しいときや辛い時は想いを馳せて共感します。この土地でその後、福沢諭吉が育ってきます。時代が異なっても、その土地に遺徳は場として生き続けていきますから生き方もまた伝承していきます。

尊敬される人が出るというのは、その尊敬の陰に憧れた人たちがいますからその人たちがあとを継ぎ、つなげ、また同じような存在となり時代を超えて人々のために働いてくれます。

むかしの人たちは、そうやって生き方を選び恩返しをしてきました。そこには横軸ではなく縦軸として時を超えて働いていこうとする経糸のような生き方があったように思います。

その時々で、人は周囲に恩返しをして生計を立てていきます。僧侶や医師や教師は、むかしは今でいうボランティアのような生活をしていたとあります。江戸時代の武士も同じように尊敬される生き方を志して学んでいたとあります。寺小屋でもまた、立派な人物になるようにみんなで切磋琢磨学んだように思います。

理論と実践というか、むかしはお手本が身近にありその人に触れて薫陶を受ける機会を求めて学問を磨いた人が多かったように思います。志は師友の出会いで道が拓けていきますから、いつの時代もその生き方を継いできた人たちによって日本も守られてきました。

話は戻りますが、耶馬渓の風景の中にはその場で醸成された生き方の余韻があるように私は感じます。最後に、福沢諭吉の言葉です。

「社会共存の道は、人々自ら権利をまもり幸福を求むると同時に、他人の権利幸福を尊重し、いやしくもこれを侵すことなく、もって自他の独立自尊を傷つけざるにあり」

自他一体に全体快適に生きる場を、この時代でもととのえていきたいと思います。

徳への御恩返し

振り返ってみると、今取り組んでいることのすべては最初のご縁やキッカケがあることに気づきます。時間が経てば次第に繋がってきますが、それがどの時点であったのかは後から次第にわかってくるものもあります。

例えば、私が徳というものに興味関心が湧いたのは致知出版の本社で藤尾社長から徳の講義を受けたことからはじまります。そこで志に徳が入り、徳の道に気づいたことです。それから何年もかけて、気づきの実践から徳を見つめ直します。さらに、冨屋旅館の鳥濱トメさんの教えに触れる機会を経て、さらにその徳の意味を学び直して徳の意味を知ります。

他にも出会った方々が、それぞれに徳の話をしてくださり徳に益々のめりこんでいきました。その後は、徳積財団をつくり古民家甦生や伝統文化の甦生などに関わり徳を磨くことを実践していきます。気が付くと、徳積帳をブロックチェーンで開発し、いよいよ徳循環経済へと転換に挑戦することになっています。

今思い返すと、最初は一体どこだったのか。故郷の近くにあるお地蔵さんだったのではないかとも感じます。きっとこれもあと数年、もしくは数十年後に意味に気づける日がくるのでしょう。

歴史というものを観察していると、その原因が数百年前のことが今につながりそれを私が一緒になって取り組んでいることがあります。もうだいぶ経っていますからその人たちは当然生きてはいません。しかし、今私がやっていることに絶妙に繋がっているのです。

こうやって人は、後から意味に気づいて理解していけますからやっている最中はきっと何か大切な意味があるのだろうとよくわからなくても自分を動かしている何かと一緒に歩んでいくしかありません。

私の生まれてきた意味や、やっていることの意味もまた、後から繋がって気づかれるものです。今、わからなくても、今、理解されなくてもこれは確かな何かにつながっています。こんなことを書くと、いい加減のように思われるかもしれませんがこの世はすべてを説明できることはできません。大切な何かに今、気づき続けているという学問は一生終わることもなく、磨き続けるのみです。

至誠や真心、そして真摯に実践をすることで徳への御恩返しをしていきたいと思います。

謙虚に精進

人は、負の連鎖というものを持っているものです。これは親子や先祖代々などから続いているものもあります。一般的には悪循環のことを言いますが、実際には同じことを何度も繰り返しながら同じパターンに陥ることです。

例えば、ある出来事が起きた時、それがよくないものであっても許し、それを別の物に転じるという考えがあります。故事にある禍転じて福にするという発想です。別の言い方では禍福一円というものです。

物事の善悪正否は、一円の中に置いて観るという思想です。これは二宮尊徳が実践したものです。世間や外側からみたらそれが負の連鎖であっても、それをどう福に転じるかということに重きを置くのです。

私は子どもに関わる仕事をしていますから、特に幼児期の刷り込みを目の当たりにすることが多くあります。無意識に、親から子へとトラウマが伝承されたり、潜在意識の深いところに価値観やイメージを刷り込まれてしまうのです。

それが時間をかけて成長し、その人の人生にとても大きな影響を与えます。ある人は、それに苦しみ、ある人はそれを乗り越え、またある人はそれを福に転じます。それはご縁や出会いによって変わっていきますが、その人の生き方が決めます。

大事なことはそういうことに気づけるかということです。気づかないままループするのと、気づいて少し変えてみようと試行錯誤するのではプロセスも異なります。人は自分の思い込みやトラウマを他人にぶつけていくものです。それを受けた人は、それに傷つき同じことをしようとしてしまうこともあります。それは同質のトラウマや刷り込みがその人にあるからです。

本来、その時、一緒に乗り越えていこうとする人に出会ったり、もしくは先に乗り越えた人に出会ったり、寄り添ってくれたりすることもあります。その逆に、お互いにやり返しあったり、仕返ししあったり、攻撃し合ったりと紛争になっていくこともあります。それは深いところでは、個人の心の中にあるそのトラウマとの葛藤が周囲を巻き込んでいくのです。

平和も戦争も、元はその個人の心の中にある種が芽生えているものがつながって発生してくるのかもしれません。だからこそ、特に大切な幼児期に見守られ、許され、それを寄り添い受け容れてくれた人の存在が助けになることもあります。主体性や自立もまた、その負の連鎖を福に換える偉大な仕組みの一つでもあります。

社会の今を観て、長い目で観て一石を投じていくところに保育や環境、場づくりの氏名や役割もあるように思います。私自身が、禍転じて福にしていけるように謙虚に精進していきたいと思います。