本気の正対

先日、もうお付き合いして長くなる方が鹿児島から園経営の相談のために遠路東京の弊社までご来社いただいた。

これからの園と未来の子どものことを思うと、今、此処で何とかしなければという危機感から突き動かされてお越しになった。

その日は、ずっとお話をお聴きしながら丁寧にコンサルティングについてお伝えした。

こちらが本気になっているから、相手も本気になる。
本気で相談を受ける覚悟があるから、本気で相手も相談する。

そしてそれは当然、相手も本気だからここまで突き動かされてご縁を開く。

私の人生もそのままに、自分の度量がどれだけ本気かどうかで引き寄せる人も、引き寄せる機会もすべては変わってくるのがよく分かる。

人と人との出会いとは、どれだけそのモノゴトに対してお互いの目的の成就のために本気で関わるかで邂逅が左右する。

ちょっと良いところ取りや、自分に都合が良いところだけなどと中途半端に機に対する心構えができていなければ所詮その程度の出会いや学びしか得られない。

本当に人の出会いとは、その実践からの苦しみや艱難の共感こそがお互いを引き合わせお互いを良い方向へ導くようになるのだと私は思う。

お互いに熟していなければどんなに重要な出会いでも気づくこともできない。

そして本当の問題を見つける力があるかどうかはその問題に向き合う本気の正対があるからこそできる。

誰も言わなければ気づかない問題、誰も光を当てなければ通り過ぎる問題こそ、そこに根幹の原因がある。

そのことに気づけるかどうかも、本気になれなければできるはずがない。

そして受け止める側も、本気だということを聞き届けることができなければその相手の本質も見抜くことはできない。

そうなると見立てた未来のことも肌で感じることができないのでそこから話は進展していくことはない。

カグヤのコンサルティングとは何ですか?と普通に聞かれると言葉で説明するのはすぐにはできる。

しかし実践するのが私たちなのだから、ようは「本気」だということを語ればそれでいいと私は思う。

時折、その相手のトラウマや感情の禍根など色々なことを鑑みて避けたいと思うときも在る。そして、そこから様々なトラブルを引き起こしていたりする。たとえば、保護者や事故、職員との関係や、身内との関係、とんでもないものもたくさんある。

でも変わろうとしていることが本気であれば必ずそれは成し遂げることができると信じることができるから私たちも請けることができる。

そして子どもがそこにいるから私たちもやれるのであって、子どもがいなければとても向き合えないと思えるようなことも向き合える。

子どもが好きな会社というのは、子どもにも本気だということ。

今回の出会いも、お互いにそれが伝わったことがとても嬉しい。

私が好きな坂村真民さんの遺した詩がある。

「本気になると世界が変わってくる。

  自分が変わってくる。

 変わってこなかったら、まだ本気なっていない証拠だ。

  本気な恋、本気な仕事。

 ああ、人間一度はこいつをつかまないことには。」

私たちは、プロとして今の仕事でご飯を食べている。

そこにはただ相談がうまいではなく、結果を残すために透徹する本気の持続力、継続力を柱とし、実践のみでモノゴトを語るようにしていきたい。

だからこそ、子ども達の未来の仕事の模範になるように自分の襟をただし、心身を鍛錬し、我欲を律して歩みを強めて少しでも感動されるような社会貢献と支援をしてこうと誓う。

開発する悦び

毎年この時期に、見守るほいくソフトをバージョンアップしている。

子どものためにと一念発起して、開発してからはや4年。
今では多くの人たちに利用していただくようになった。

開発の頃のことを思うと懐かしい。

今まで向き合わなかった保育と向き合い、世の中と向き合い、過去と向き合い、未来と向き合い、そして自分と向き合っていた。

分からないことばかりで、本当にこれでいいのか?本当にこのまま進めていいのか?と自問自答ばかりしながら現場の話に耳を傾けていた日々だった。

有難いことに真剣さが本気さが魂に宿ったのか身近に本当に素晴らしい出会いに見守られ、感動の日々に助けられその葛藤を乗り越える勇気になっていった。

そして一つのことを扱って一つの道で一つを探求していくことで時間の経過とともに周囲のことが少しだけ見渡せるようになっていった。

そのうちに、園が抱える全ての問題が身体に自然に入ってくるようになってきた。

それを解決していきたい、一緒に向き合って生きたいと思うようになり気がつくと今では私の「ライフワーク」そのものになってしまっている。

このソフトとの出会いが、道につながり、このソフトをずっと見守り育てていくことで一つの道が深く広がり高まって多くの出会いや邂逅と感動を与え続けてくれる。

まだまだできることがたくさんあるし、補える部分は追求できる。
この今も、開発者としての責任とその理念が沸々と湧き続けている。

開発者にとって、開発したものを理解してくれて使ってもらうことほど嬉しいことはない。

そしてお金ではなく子どものために苦心して開発したことを使ってもらう人たちに認められたときほど嬉しいことはない。

どれだけ本気で子どもと向き合い、道具を活かしてもらいたいと願ったか。

その願いが報われた瞬間なのだ。

そして、道具が人間にしかできないことを補い、それで子どものことを思いやれて自立の援助ができているのならばその方々に感謝をせずにはおられない。

これからも私は自分をしっかりと律し、開発の手は一切緩めず、怠らず、世界の子ども達の担任を目指す保育者を縁の下から支えられるようにより理念を醸成していきたい。

そして、師匠のよく言う「不易と流行」をよく見定める観る目を育て本質的に今の時代にあわせた子どもにとって過不足ないちょうど良い道具をこれからも開発していこうと誓う。

まもなく、見守るほいくソフトはバージョン4になる。

実践主義

先日、熊本の園にコンサルティングをしている園長を連れて訪問をした。

オトナでも子どもと同じように発達段階があって、その前後の課題と向き合っている方と出会うことで自分の現状が明確になる。

なぜ私たちが、園同士を繋ぎいろいろな協同的な学びを推し進めるかというとそういった異発達保育をすることが成長においてはもっとも主体的に学びあえ実践で伸びることができるからだ。

しかし、通常子どもだとすぐに馴染む異年齢保育も大人となるとそうはいかない。

大人は自分の置かれた立場や環境から色々な柵や刷り込みなどがあり、どうしても子どものように素直に学びあえないような心境になる場合が多い。

これも色々な執着が故に、囚われてしまうのだとしたら如何に志高く自分を律することができながら仁の心を持って人を治めることが大事なことだと改めて思う。

ただ今回の熊本訪問では、志高く子どもを思うことにかけて真摯に学んで自分を律して理想の実現に向けて日々努力精進している園との邂逅になった。

そして以前より、弊社のクルーから話を聴いていた園だったので是非一度お伺いしたいと予てから思っていた園を訪問できたことが何よりも大きなご縁になった。

その園長との話の中で非常に感銘を受ける言葉があった。

私も常々、実践のみが真実だと自律することで自立していく思想を尊び、師の後姿に従って道を歩むことを天道として、そこに今ある自分のあるがままに順じながら一歩一歩前進することを人道として戒めている。

この園長も同じく、日々の保育を通してそのような道を歩んでいた方でした。

話を伺うといろいろな艱難と出会いながらも、子どもから離れず自分の為すべきことを向き合い、そこから逃げずに向き合いながら数年以上かけて日々の生活を律して理想を実現しようとしている方で藤森先生を慕い見守る保育を実践しています。

そこへ伺ってとても共感したメモをここで紹介する。

・・・・・

自分が背伸びしてもできないものはできないと開き直った、そして人間学からはじめ学ぶことをはじめた。そして先輩から学んだ、すると先輩が掃除をしていた。それを真似しだした。ショールームを掃除することからはじめた。喜ばれることをすればいいんだということが分かった。

保育園でも同じようなことをやろうとした。
保育園では、子どものためにやることをした。

子どもの将来のことを考えて何ができるかどうかを考えた。

保護者のためにすることもできるし、子どものためにもできる。どちらが自分の方の理念に沿っているかを思うとき、便利な保育園ではなく、子ども達のための保育園にしようとした。理念を軸に作った。

小さい園では休憩する時間が少ない、だから工夫した。お茶を飲む時間をみんなで創ろうとした。行事などもあるけれど、ちょっとだけでも話をする時間をたくさん作った。粛々として進める会議は土曜日だけにした。

カタチの職員会議をしない。
本音が聞けるようにしていくように工夫している。困っていることとか汲んであげたいなと思う。目標に向かって一緒にやろうとした。

観えない努力があるから花が咲く、花のほうばかり見ていたら人は育たない。

(園長の一日の流れ)

朝来て、園内の様子を見て周る。
昼間はゆっくりしているように、意識して過ごしている。
その後、事務仕事をしてまわる。昼間はほとんど、仕事にならないので子どもなどの相手をしている。

最後までいて、最後に鍵を閉めて帰宅する。

その後、深夜2時頃おきて昼間できない業務をこなす。

・・・・・

まだまだ書き足りないが、私が園を廻る意味もそしてカグヤがこれからやろうとしている内容もこのメモで十分に説明ができていると思う。

まだ30代半ばの園長先生がこれからどのような園長になるのかを思うとき、本当に自分たちがまだまだやらないといけないことがたくさんあることを改めて知り、身が引き締まるとともに大きな希望をいただいた訪問になった。

掃除道の話も、命の食の話も、とても私の実生活に繋がっておりその深き哲学の醸成と脚下の実践に心から共感いたしました。

本当にありがとうございました。

師匠の実践をここで鑑みまた思う。

園長業とは誰でもできない本当に大変な仕事。

そして、子どもを見守ることで生き甲斐や遣り甲斐を感じることができるもっとも崇高でなくてはならない今の時代の大切な職業だと思う。

私たちカグヤはこの素晴らしい職業の傍で、援助やコンサルティングができることに改めて幸せであることを感じる。

それ故に此処で真に思うことがある。

だからこそこの仕事を本気でやろうとしている人に必要な支援や援助が今の世ではまだまだ足りていないしたくさんのことがまだやれていない。

巷では園の援助をする企業は、それなりに目に視得る場所を大事にする。

私たちだって、すべての園を毎日訪問して一緒に理想の実現のためにともに歩んで生きたい。

しかし、人間の能力には限りがあって思いがいくらあってもすべての園を同じように一斉にサービスを展開することは本質に近づけば近づくほど遠ざかってしまう。

だからこそ、本当に困っている園、本当に今私たちが必要な園にはどんなことがあっても伺うことができるようにしようと色々な正義と誠意と向き合い、内省により深く自分のできることを整理しながら創意工夫していく日々。

ただ、、まだまだ私たちに力が足りない。

そう痛烈に危機感を感じるとともに、今できること、やれることをとにかく一歩一歩やるしかないという正道を歩んでいくしかないと耐え忍び思う。

真に求められることに真に応えられるよう、理念を軸にこの会社を本質的に立派な存在にしていくことを私のミッションとして日々の仕事に向き合っていこうと改めて誓う。

子ども達にも、師の示すような仁の模範になる園長がたくさんいることを地域や社会を通して明確に正しく伝えていくために社業をもっと強めて力をつけていきたいと思う。

思いやる心

毎月、カグヤではその分野の専門の講師や私たちのビジョンに影響を与えて問題意識と危機感を醸成し、刷り込みを見直す本質的な研修を行っている。

今回は、見守るほいくプラスを協同で開発した野田先生に来ていただき現場に基づき内容の濃いディスカッションをカグヤクルー全員で行うことができた。

私たちが提供している、見守るほいくプラスは軽度発達障がいという世間では「気になる子」といわれる集団にうまくとけ込めない理由を抱える子ども達に対して周囲が「気づき」や「見通し」「見立て」を行っていくキッカケになるために開発したものだ。

誰も、言われなければ気にとめないようなところにこそ本当の問題の根源がある。

私たちはこの幼児業界でもっとも気づきにくく、そして指摘されていない隠れた部分に光を当てることでもっとも人間としてあるべきようの本質を世の中へ訴えようとしている。

そういう場所は常に、子ども達の現場に陰を落としていることを知っているからだ。

オトナ目線で常にモノゴトを考え続けた結果、子ども達の気持ちや心のヒダが理解できなくなり、またカタチから教育者を覚えて刷り込みの渦中にいればどうしても「正しく観る」力は衰えてくる。

人間は、本当に知識だけを入れて実践を省みなければすぐに自分中心になってしまい謙虚さを失ってしまう生きものだなと改めて思う。

今回、野田先生との話の中で印象に残ることがあった。

国連が出している、「世界子どもの権利条例」を日本が守っていない箇所がたくさんあり、すでに国連から二度も改善勧告をうけているそうだ。

その内容は、簡単に言えば障害者やそういう個性を持つ気になる子に対してフォローできる体制を教育機関として用意して保障することになっているのに日本は守っていないということだ。

確かに今の幼児教育の現場を観ても、一斉画一での弊害と専門家不足や時間の余裕のなさ、加配人数の不足などでとてもそういう気になる子を支える力がない。

そしてもしそういう気になる子がいても、行政も対応が後手にまわり園任せになっている。保育園幼稚園小学校との連携もうまくいっていないところがほとんどで、その責任を押し付けあっているだけ。

そうやって議論は進まないまま、ただただ時間だけが過ぎていく。
その間に、排除論が正当化されたり、必要悪だの議論はとんでもない方向へ向かっていく。

そんな他人任せではこの業界は、本当にいつになったら良くなるのだろうかと思って立ち上がって開発したのがこの見守るほいくプラスなのだ。

日本では現状、専門家などを配置する予算もなければその経験を持っている人もとても少ない。

でもその人たち任せで自分が何もしないなどは正しいはずがない。

自分にだってできることがあるし、大事なのはそういう子に対する「思いやり」があるかどうかが先生の資質にとって重要だと私は思える。

保育現場を廻っていて分かるのだが、今の保育現場ではその「気になる子」すら見つける力がない。

たとえば、「噛み付き」や「引っ掻き」などする子どもがよく観察すると「社会性」や「言語」が発達に着いていけずにそのストレスからどうしても耐えられずプツンと暴れてしまうこともある。

ただ暴力的だとか、あそこは両親が野蛮だとかそういうオトナがただ見たくれで知っている知識だけで解決しようとするのに何が専門性があると言えるのだろうか?

子どもが何かをするのは、その時は意味不明でも必ずその理由の根源がどこかにある。それを観つけるのが本当の専門性だ。

そして園で観つかる問題のそのほとんどが、自分の発達や個性を受容してもらえない社会側(オトナ)にあると気づくことがまず子ども目線での入り口ではないかと私は思っている。

この気になる子については、このブログでも何度も書いているがまだまだ世の中に提案して易えていくために賛同を集めていこうと思う。

最後に

世界では、気になる子や障害者を守るために周囲が努力する。
日本では、気になる子や障害者に努力させて自分達は見てみぬ振りをする。

障害者にだけ努力させて自分達はそのままでいいなんて道理がこの豊かな和を尊ぶ日本国には絶対にあってはいけないことだと私は改めて義憤しこの今も信念を強くする。

子ども達には将来、この国が世界でももっとも模範を示せる道理立つ国にしていくためにも世界で通用する立派な「思いやる心」のモデルを身に着けたオトナに成ってほしいと願う。

まだまだこれからも知られていない子どもの現状をカグヤの社業(ミッション)を通して一生遣り抜いていこうと誓う。