むかしの五穀田

先日、故郷でついに農業委員会の許可を経て正式に農業を営む人になりました。そして2026年3月5日、無事に新しくご縁をいただいた田んぼで初心と覚悟を魂串に載せて綱分八幡宮の宮司様と一緒に「地まつり」を行いました。美しい棚田と霊山関の山を仰ぎ、澄み切った風がお山から吹き下ろされ一期一会の清らかで純粋なお時間を過ごすことができました。

このような素晴らしい風景がある場所の田んぼとご縁をいただけたこと、心から地縁神恩に深く感謝しています。

ちょうどこの場所は今から5年前に江戸時代の古民家を甦生した「和楽」(わら)があります。懐かしい未来の和の暮らしを実践する暮らしフルネス道場の一つです。この歴史を生きる古民家和楽とその庭先にある田んぼがきっと子どもたちの未来に確かな徳を智慧を伝承してくれることと信じみんなで予祝をしました。

5月の田植えころには、徳が循環する結づくりのコミュニティの仲間や縁者の皆様といにしえから続く音や楽、そして食や幸福を感じる神事を実施する予定にしています。

思い返せば、私が無肥料無農薬のお米づくりをはじめたのは2011年の東日本大震災の時です。もうすぐ3月11日、いつまでも大切なことを決して忘れない日と決めているこの日が近づいてきました。あの震災を私は東京で被災し、多くの犠牲者がでて天災と人災の違い、悲しみから犠牲者の追悼をしました。今でもあの体験を、あのメッセージを受け取った一人として忘れないぞという覚悟で田んぼに向き合ってきました。

そこから千葉県神崎にある神崎神社の麓にある田んぼをお借りして14年間無肥料無農薬でお米づくりを自然酒の寺田本家の酒米をつくっていた見事な農家さんと共に歩んできました。そして昨年、福岡県朝倉にある大己貴神社の麓にある田んぼをお借りしそこで仲間たちにお声がけして一緒に無肥料無農薬で手植え手刈り稲架かけでお米をつくりました。そしていよいよ本年から福岡県飯塚市(旧庄内町)にて田んぼを取得しこれまでの集大成としてこの場を天命と定めました。

田んぼの命名は「むかしの五穀田」としました。

これはこの地域の氏神様が五穀神社であることからです。

この五穀は古来、日本の食文化の根幹をなし、米を中心に麦・粟・豆・黍(稗)などが挙げられました。日本人の精神の真髄その根源には常に『五穀豊穣を祈る』文化があります。

むかしとは、懐かしい心の風景のことをいいます。

古代より今まで私たちは生きるために食べてきました。食べるというのは、ただ食事をすることをいいません。共に仕合せに生きるために、共につくり、共に生き、共に助け合い、共に笑い合い、共に暮らす、共生と幸福の原点をいいます。

むかしから変わらないもの、変えてはならないもの、それを守ることが、子孫やこの地球の人々の過去と未来と今を見守ることにもなります。

世界が渾沌として戦争前夜のような重苦しい空気の中であっても、どう生きるか、どういう生きざまをするかは自分で決めることができます。

日本には「和合」という言葉があり、「和楽」という生き方もあります。

和をもって尊しとなすといった、聖徳太子、そして和の系譜を生きた尊敬する先人たちの先達者たち。その方々に恥じない生き方ができるようにこれから私も人事を盡して天命を喜ばせていきたいと思います。

これから「むかしの五穀田」を甦生して日子山を中心とする大和のクニから続く願いと祈りをしめ縄のように結っていきます。

皆様のご参加、賛同を心から楽しみにお待ちしています。

 

修行の本懐

忘己利他という言葉があります。これは天台宗の開祖、最澄様の残した言葉と生き方です。簡単に言えば、「自己を忘れ、他者の利益や幸福を第一に考えること」(山家学生式)そして最も目指す慈悲の極みこそが、この言葉であるともいいます。

原文ではこう記されます。「悪事は己に向かえ、好事は他に与え、己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり。」と。現代語訳にすれば、「どんな悪事も嫌なこともすべては自分が引き受けるといい、そして善いことであれば他者と分かち合え与えるのがいい。我欲や自我や自分などは忘れてしまい、人によかれと思うことをしつくしなさい。まさにそれこそが慈悲や思いやりの極みです。」と。

この反対の行為は我欲自利でしょうか。反対のことを書いてみればすぐにわかります。「嫌なことからすぐに逃げ、悪事はすべて他人のせいにし、善いことや手柄はすべて自分の力だと吹聴する。自分の利益だけを追求し、他者には一切それを分かち合おうとしない。目先の我欲や自我に呑まれ、執着を手放せず周囲に迷惑をかけつづける。それが無慈悲の極みである」

人間というものは、あっという間に初心や理念を見失うと道に迷うものです。道に迷わないようにするために、常に謙虚に内省を続け、素直にすべての人の話に耳を傾けて心を澄ましていき反省をしていきます。実践というものは、素直に自分の至らなさや誠が濁っていないかを確認しそれをすぐに改めることでもあります。

論語の中にこういう一説があります。

「子曰わく、君子重からざれば、則ち威あらず。学べば則ち固ならず。忠信を主とし、己に如かざる者を友とすること無かれ。過てば則ち改むるに憚ること勿かれ。」

これは意訳ですがこうです。「孔子は言われた、君子は軽々しい態度をとると威厳がなくなります。学んでいる人は謙虚になり頑固にはならない。真心を盡そうと精進することこそを最も大切な初心とし、自分よりも劣っている人たちを集めて囲われ、自分の気分がいいからとそれらの人たちを友達にしてはいけない。もしも過ちに気づいたのならすぐに改めることに遠慮などはいらない、間違いはすぐに直せばいいのだ。それが人として生き方である」と。

困難から逃げると嫌なことを逃げる人ばかりが集まってきます。困難を引き受けると、周囲は心の負担が軽くなり心安らかになっていきます。そして幸福や喜びを分かち合い、深い信頼関係と絆を得ることができます。それが恩恵を分かち合うことであり、忘己利他の極みなのかもしれません。

人は自分の利益のみを追い求めると、自利に走っていきます。自利とは自分勝手な欲望に呑まれることです。最澄様はまず自分勝手な欲望を手放すこと、それが修行の本懐であると言ったのかもしれません。

時代が変わっても人間の本質や性分はなかなか変わらないからこそ、自戒を持って歩んでいきましょうという今でも大切な道の生き方としての遺誡の一つになったのかもしれません。

私もかんながらの道の一人、そして目指す聴福人として、心で聴き対話を忘れない実践を続けていきたいと思います。

時の声

自然には時節というものがあります。時がすべてを調整して万事を運びます。これを運ともいいます。よいタイミングがよいことがあり、わるいタイミングではわるいことがある。よいものわるいも時の運ということです。時機ではないものに執着をして、必死になっても裏目に出てはかえって運もわるくなることがあります。そういう時は、時を待ち、よくよく時節を観察していくのがいいように私は思います。

松下幸之助さんがこのような言葉を遺しています。

「悪い時が過ぎれば、よい時は必ず来る。おしなべて、事を成す人は、必ず時の来るのを待つ。あせらずあわてず、静かに時の来るのを待つ。時を待つ心は、春を待つ桜の姿といえよう。だが何もせずに待つ事は僥倖を待つに等しい。静かに春を待つ桜は、一瞬の休みもなく力を蓄えている。たくわえられた力がなければ、時が来ても事は成就しないであろう。」と。

よい時が必ず来るからそれまで静かに待つこと。そして静かに待つというのは、力を蓄える時機であるという啓示。じっくりと、それまで自重して謙虚に内省と実践に専念していくということでしょう。備えあれば憂いなしということもあります。つまり備える時として丁寧に調えて準備していればそのうちまた好機が到来するということでしょう。さらにいえば、備えていたからこそ好機は向こうからやってくるということ。

自然界は、誰にも平等に何度も何度も挑戦する機会やご縁を与えてくれます。一つが終われば、また一つがやってくる。すべてはその時のための準備であったと言えるように、日々に怠らず努めては静かに待つことが肝要ということでしょう。

時を待つ境地というのは、時の経過で真実や答えを見せてくださる鬨までよくよく観察するということです。時は必ず本質をあぶり出し、真実を教えてくれます。時は静かに動き、時は穏やかに流れます。時薬というものもありますが、時が癒し全てを解決していくのです。

時はまるでお水のようです。

お水が流れていくことで、また静かに透明になります。濁ったものが流されると、何が濁っているのかがわかり、どこで濁ったのかもわかります。現在、妙見神社の治水工事が行われていますが、濁りの原因が取り除かれるのを今は静かに待っています。

これからも時の声を信じて歩んでいきたいと思います。

お水への感謝

浮羽の老舗兵四郎のお披露目会で古民家甦生の報告をすることができました。思えば、2年半の間、お水に見守られた有難いご縁になりました。浮羽は、大雪で吹雪いており時時に美しい太陽の清々しい光が舞い降り場を照らしてくれました。

今回の甦生で一番思い出に残っているシーンは、井戸掘りだったのは間違いありません。1年半もかけて、ずっとお水が甦生するように祈り、何度も井戸に入り、井戸に祈り、井戸を掘る職人と一緒に誠実に盡しました。最初は、井戸のあった場所が見つからず、周辺を何度も数メートルほどみんなで掘りましたが出てこず、諦めた頃にむかしの井戸であっただろう掘り穴が出てきました。またその井戸が空気抜きがされていないこともわかり、苦しかったであろうことも感じご供養祈祷をしました。

そこから砂や土を取り出し18メートルほど掘っているとお水が湧きました。そのお水が透明で美しく、顔を洗い口に入れるとその清らかさに感動して泣いていました。これだけ長い時間をかけて井戸を掘った理由は、井戸職人さんの体調をはじめ、道具を集めたり、無理せずに日を選んだり、定期的にご祈祷をして穏やかに取り組むようにしたこともあります。

井戸を掘っている間は、常にお酒やお塩、法螺貝を吹いては事故や怪我がないように祈り続けました。不思議なことに、一番奥ふかい場所から一つの勾玉のような石が出てきて台座もありました。誰かが井戸を埋める前に、安置したのではないかとし今でもその石と台座を大切にお祀りしています。

また井戸検査も見事な結果で、もちろん飲用もでき水質は近隣の名選百水の清水湧水に勝るとも劣らないほどです。

お水は調理や生活するには十分なほどの水量もあり、これから老舗兵四郎の店舗で用いられます。お水がまた流れはじめ、暮らしの中で循環すると思うと感無量で言葉にできません。

私たちはお水があってこそ生きていくことができます。

あまりにも身近にありすぎて、感謝をする機会も減っているように思います。しかし私は有難いことに井戸を掘る機会に恵まれたことでお水が湧きでることの本当の有難さを學ぶご縁をいただいてきました。

此の世のどのようなものよりもお水が尊い存在であることも井戸が教えてくれました。

昨日は、井戸の蓋を開けありがとうございますと話しかけました。清らかにあがってくる空気を感じながら、お酒を法螺貝に汲んで井戸と酌み交わしました。波動や鳴動で振動を揺らすと、余韻が場の全体に響き渡ります。

甦生したお水と古民家が、子どもたちの未来に向けて徳を発揮し、豊かさや喜びが場に満ちることを信じて蓋を閉じました。

一期一会の井戸とのご縁に深く深く感謝しています。

ありがとうございました。

老舗兵四郎の甦生

浮羽の古民家がお披露目会の準備に入りました。思えば、2年半もかけてたくさんの方々のお力をお借りしてここまで甦生できました。本当に感謝しかありません。最初に、叔父さんからお声がけがありこの古民家はどう思いますかと尋ねられました。その時、素晴らしい古民家ですよとお伝えしてから今があります。

古民家がどう素晴らしいかというのは、役割をまだ持っていてさらに生きようとする意志が家にあるということ。同時にその主人がその意志を活かそうと覚悟を決めていること。このふたつさえあれば、私は甦生できますと応えます。

もちろん、実際には取り掛かろうとするとあらゆる問題が山積みでちょっと手軽にや、片手間でなどできることではありません。まさに全身全霊、身を粉にして取り組みます。その理由は一緒に取り組んでくださる職人さんたちにとっても大変な仕事で、できないことや無理なことばかりを要求することが多くなるからです。

具体的な無理な要求とは、そのものを活かしてほしいや、できる限り壊さないこと、目的や理念から外れないこと、我を出さず家の声に合わせてもらうこと、禍転じて福にしていくような働き方で取り組んでもらうこと含め、様々な注文を出していきます。

だからこそ、それを言うあなたはどうなのか、その背中はどうなっているのかの信頼を姿かたち実践で共感してもらい安心してお志事に取り組んでいただく必要があるからです。

しかしそのプロセスを通して、一緒に苦しみ、一緒に歓び、一緒に智慧を出し、一緒に感動し、一緒に感謝するという場が産まれます。そういうことの一つ一つが、実を結び、最期には生き方のようなものを纏った家や場が完成するのです。

そして生き方を纏った家はまるで生き物のようにそこで暮らしをはじめます。その暮らしを共に生きるのがその場の主人と家族です。

物語は新たに続きだし、永遠となります。

つまり甦って生きるということ。

これらの日々の記憶は、真摯に真剣に至誠を生き切ったからこそ語り継がれます。

この浮羽の古民家、老舗兵四郎が日本をはじめ世界の子どもたちの成長を見守る偉大な存在としてこの先も甦生し続けることを祈念しています。

 

無理をしない

無理をしないというのはとてもいい言葉です。理に適っていないという意味になります。では何が理に適っているのか。物事は筋道というものがあったり、道理というものがあります。自然があるがままに道理に逆らわないように、不自然であることが理に適っていないということです。

例えば、真冬に田んぼにお米を蒔いても芽はでてきませんし、真夏に冬眠させることもできません。現代であれば、科学の力で人工物をつかったり電気や燃料を大量に用いては無理にでもそれを実現することができるのかもしれません。しかし、それは無理をしているのであり理に適っているわけではありません。

何か不自然だと大いに感じることがあるのなら、私は朝令暮改であっても善いと思っています。

自然というものは、不自然というものを教えてくれるものです。日々に季節の変化を眺めていたら、風が吹いていないときには船は帆があっても船は進んでいきません。風が吹くのを静かに待つしかありません。また土が育っていなければ作物は育ちません。土が育つのを丁寧に見守るしかありません。

そのように道理をよく観察してその道理に適っているかどうかをよくよく洞察するのです。

人生というのは、誰にしろ節目というものがあります。言い換えれタイミングというものです。タイミングが合っているかどうかを見極めるのは、自然かどうかを見究めるということです。

その見極めは、自然や自己との正対や内省が必要です。つまり、これは果たして自然かどうか、天道地理に沿っているか、義理人情の筋道は適っているか、天地人の状態はどうかなど、常に全体快適や一期一会のご縁の状況を結んで適宜判断していきます。

私の生き方、かんながらの道というのはそういうことです。

道を歩むというのは、日々の変化に順応して自己を変化し続けていくという実践です。カグヤという会社の御蔭で精進をさせていただけます。

誠に感謝です。

私たちは生き方が場に顕れてくるものです。どのような人がその場所でどう生きたかは、よくよく観察すると場に顕れます。そしてその場が残るのは、その場に生きた人たちが遺したものによっていつまでもいのちが継承されていくのです。

私は場道家として、場をつくることが本志です。

場をつくるには、場を調える必要があります。場を調えるにはまず場を澄ますことからはじまります。場を澄ますには、自分が場と同化して自己を澄ます実践が必要です。つまり、場と自己を磨き続けるという精進があってこそです。

では何を砥石にして場と自己を磨き続ければいいか。それは自我よりも偉大な存在に対して素直に従い、すべてを選ばずに承りながら道を歩む時に砥石は顕現します。この砥石は、かんながらの道でありあるがままの天命を生き切るときに自然発生してくるものです。

なので、正解もなく、固定もなく、思い込みもありません。ただあるがままの道を歩んでいるということです。

畢竟、人生というものは誰にでも誰にしかないものがありその使命を盡していのちを全うする存在そのものです。ただし、どれだけ透徹された透明さであるか、どこまで澄み切れたかというのはそれぞれに異なります。

自分の生れ落ちた場が選べなくても、自分の場を澄ませて透明にしていくことはできるということです。

いのちが透明であるというのは、いのちの正体を生きるということです。

場はそういう時にこそ、はじめて自他一体になり神人合一の境地に入るように私は思います。場と一体になるというのは、宇宙そのものであるともいえます。

引き続き、場を學び、場と歩んでいきたいと思います。

福徳円満の実践

円満という言葉があります。これは最も調和している状態のことをいいます。福徳円満という言葉もあります。もともとこの円満はどのようにして起こるのか。それを少し深めてみようと思います。

そもそも調和というものは、誰がするのか。

それは自然がするものです。言い換えるのなら、自然に調和するようにこの宇宙はできているということです。ではなぜ不調和が産まれるのか。それは宇宙の調和に対して抵抗したり邪魔をするから発生します。人間であれば、我を通したり、部分最適ばかりをしていると調和が離れていくものです。

かつて浄土真宗の親鸞上人は、「浄土に生まれん事、自然おのずからえんまんしなん」という言葉を遺しました。そこにはこう続きます。

「自然といふは 自はおのづからといふ 行者のはからひにあらず然といふは しからしむといふことばなり しからしむといふは 行者のはからいにあらず 如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ法爾といふは この如来の御ちかひなるがゆゑに しからしむるを法爾といふなり 法爾はこの御ちかひなりけるゆえに およそ行者のはからひのなきをもつて この法の徳のゆゑにしからしむといふなり すべて ひとのはじめてはからはざるなり このゆゑに 義なきを義としるべしとなり」

意訳ですが、自然あるがままにお任せするとき不思議な力が働く、それが法爾という。この法爾は宇宙の力でもありの徳に委ねてお任せすると本来のあるがままになっていく、いのちはすべてこの真理にすべてお任せすることだと。

つまり本来のあるがままがわかるかどうか、真理そのものに委ねることができているかどうかは、偉大な存在にあるがままにお任せするという生き方を実践することだと説いています。

それは努力をしないわけでも自分の力を一切使わないのではなく、「すべてお任せ」して身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれと、偉大な流れに自分をまかせていくという自然でいる努力精進を怠らないということです。

自然であるためには、自我に打ち克ち、欲を鎮め、心を調えて日々に自己を浄化して静かに止まる暮らしを実践していくことも必要です。

改めて、いただいている存在やご指導に深く感謝して「おのずからえんまんしなん」と生きていきたいと思います。

丙午の年

いよいよ今年は、「ひのえうま(丙午)」に入ります。これは十干十二支といって中国の古来の歴訪、そして日本の民間信仰が結びついてうまれたものです。一般的には自然の循環や時間の流れを整理し、理解するための東洋的な知恵の体系であるといわれます。

まず十干は、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類があります。これに五行(木・火・土・金・水)と陰と陽が組み合わせられます。そして十二支は、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類があります。具体的には時間帯や方角や季節を意味します。

今回の丙午は、五行では「火」を顕し、陰陽では「陽」を示します。つまり火の氣が重なる非常に情熱的な年になるということです。

風水では、エネルギーが最高潮に達するということで燃えるイメージになります。活動的でスピード感、発展や成長などがあります。同時にメリットにはデメリットもあるように反対側に衝突やトラブル、激情や極端になるともあります。

私の名前は、「火」の性質がとても強く、この丙午のような性質で人生を送ってきました。よいこともあればよくないこともある。燃えすぎる情熱は時として摩擦や人間関係の軋轢をつくります。昨年、レスキュー隊長の消防士が来られましたが燃えていて冷静という二つの性質を調和することで人命を救助できるお話をお聴きしました。

まさに今年は、黙っていても背中を押されるように熱気や気炎が盛んですからどう調和していくかというのが何よりも重要になります。

風水では、火を調和させるのは土と水の役割です。土と水といって最初に連想するのは「田んぼ」です。田んぼはまさに火と調和する素晴らしい智慧です。

有難いことに今年の私のテーマは、「水」。そして土づくりは私の使命の一つ。丁寧に火と調和し、子どもたちのいのち耀く元氣なお米(魂)が育つような環境を調える一年にしていきたいと思います。

本年もよろしくお願いします。

みずからの一年

今年も色々なことがはじまった一年でした。毎年、新しいことに挑戦させていただき実践が増えていきます。氣がつくと、今の私の暮らしフルネスの実践のほとんどがご縁から取り組んだことの集積であることに氣づきます。

今年はスリランカからはじまり本質的な仏縁も広がりました。英彦山の法螺貝においては、60貝を守静坊から新たに甦生するご縁にも恵まれました。大阪万博のいのち会議にもカグヤとして参加し、子ども第一義のこれまでの取り組みを発信することができました。BAでのブロックチェーンの活動も、次第に仲間も増え聖地のようになってきました。英彦山での仙人苦楽部でも面白い仙人との出会いが新たな自分の仙人活動の境地を開いてくれました。浮羽の古民家甦生もほとんど終え、いよいよ来年から田んぼを守り日本人の心を甦生する取り組みも本格化していきます。

また出会いと別れもたくさんありました。大切な家族の一員でもあった犬のサスケや烏骨鶏のナビキが亡くなりました。講をはじめて結成し、普遍的なかんながらの道を共に新たに一緒に生きていく仲間や同志も増えました。大和の遊行も少しずつですが確かに歩き始めてカタチも顕現してきました。

来年は会社のみんなで恒例のように定めているそれぞれの一文字を私は「水」としました。尊敬するお水に触れ、いのちの根源を学び直し、お水の場を丁寧に磨き澄ませていく一期一会の恩返しの一年にしようと思っています。

振り返ってみると私の人生はずっと美しいお水に守られてきました。いつも何かをはじめるとき、お水が見守ってくださっています。氣がつくと、お水の神様をあらゆるところにお祀りして毎朝、雨乞い神事の法螺貝をお水に鳴動奉納しています。

お水が深くかかることで、いのちも健やかに新鮮に活き活きと癒されていきます。

もっとも大切で何よりも当たり前だと思う存在にいつも感謝できるお水のような柔軟で素直な心で来年は一旅を味わい歩み続けていきたいと思います。

本年も間接的なことを含めあらゆることでお世話になっている御蔭様の八百万のみなさまに、改めて心から感謝申し上げます。来年も、子どもたち、子孫のために徳積循環の実践を積み重ねていきたいと思います。

どうぞよろしくお願いします。

すべてのいのちが循環し、喜び合える素晴らしい刻を過ごせますように。