世界とのパートナーシップ

学びの本質は、何かとの関係性によって成り立つものである。

それはもちろん人との関係をはじめ、物との関係、空間との関係や時間との関係まであらゆるものとの繫がりの中ではじめて自分というものを認識しつつその相手との間によってさらに新たな自分へと磨かれていくのだと思う。

様々なものに正対していく中で、気づき感動し人は成長していく。

そして人はその成長のプロセスの中に、誰と一緒に学ぶのかを選ぶことができる。

今回の海外で研修をしていく中でも、私たち日本人は相手の国の人たちとのパートナーシップをいかに持つかというものがある。一般的には、御互いの国の片思いばかりでなかなか両想いになることはない。

これは人間関係全てに言えることで、親子の道、師弟の道、夫婦の道、仲間との道も同じく、御互いに両想いであるかどうかはお互いが正しくその道理を実践するから成り立つのである。

この道理というものは、相手の問題ではなくすべてを受容しているという自分の距離感の問題になる。

特に離れた距離同士の人たちが、関わり合おうとすれば物理的な問題から言語の問題、文化、価値観の問題と多様にすれ違いが発生してしまうものである。

その距離を超えて関係を築くためには、思いやりの関係をどのように構築していくかということになる。

そしてその基盤となる信頼関係とは、自分が信頼足りうる実践をし続けているかということになる。

当然、人は自分を信頼しない人では他人からは信頼されることはないように、自分が信頼を寄せるからこそ相手から信頼を寄せられるのは人間関係の原理原則である。

自分で決めたパートナーシップの在り方として、何を交流していくかというのは互いに目指す道が同じだからこそその垣根を超えた新しい価値観や新しい境地を共有していくことができるのだと思います。

それは以前私がオランダ訪問で感じた、世界の善いとこ取りといった柔軟な感性が求められていくのだとも思います。

これからの時代は、より世界が身近になることで東西南北の垣根を超えた新しい存在である必要がでてきます。頑固に自分のことや自国のことにばかりにこだわっていてはその感性が鈍ってくるものです。

この新しい存在であるためには、そういう世界の人々と共にこの世界をどのようにしていくかということを互いに尊重し合い、共に仲間として交流し続けることができるような普遍的な人物が世界各国に育っていく必要があります。

人類は、これからも文明を長く発展と繁栄をさせていくためにもそれぞれの生き方を通して新しい存在を育てていくことこそが平和を維持することにも繋がります。

子ども達にはどのような保育や教育が必要なのかは世界を観ていれば感じることができると思います。目先のことに悪戦苦闘し一喜一憂している場合ではなく、長い目で大局的に捉えていくには「育つ」という観点は欠かせません。

これからも自分の土俵で、新時代の世界のパートナーになりうるよう貢献していきたいと思います。

心の音

ドイツでの研修を無事に終え今は機内でブログを書いています。

人が人と協力をし何かを一緒に創り上げるということは人間の持っている本来の特性を引き出すようにも思います。共に何かを行う中で、人はそれぞれの学びを得て共振化していくのだとも思います。

音楽が空間の中で様々なものに触れ合い鳴り響くように、周囲に共鳴共感しながら全体にシンフォニーを奏でてくれるのだと思います。

生きものはそれぞれに自分の鳴らしたい生命の音を奏でているのだと思います。
耳を澄ませば、生きているものたちのたくさんの音が耳に入ってきます。

どの命もとても心地好い音を奏でています。

あるがままの自分の音がどんな音でも自然であるといった安心できる環境の中でこそ、本音が引きだされるのだとも思います。その安心とは、自分の音を出してもいいと信じることができているということをいいます。

そしてその空間の指揮者がその音楽を自由にするようにその真心や人格が周囲との共鳴を味わいのある豊かなものへと変換していくのだと思います。

この音楽という字も、「音」と「楽」という字の組み合わせできています。

渾然一体となっている一人一人の自由な音が自然のように鳴り出せば絶対的な心の楽しみが訪れるからです。

自然のつながりの中で自分から謳歌する命の今に、人々は心から安心する幸せな社会のビジョンを持っているのです。そしてそれは、自分が自然の一部であったことを知っているからともいえます。

人間はどんなに努力をしても自然から離れることは絶対にできません。

音楽をその人の旅路だとしたらその奏でられている心音は、関わる者たちの縁と指揮者の生きざまによって喚起され空間に鳴り響き続けるのだとも思います。そして今を生きる私たちに残っている余韻がその音楽をまた聴きたいと思える命の原動力になっていくのです。

だからこそどんな音であっても振動を繰り返していく中でそれぞれに必要な役割を持ち、それを自ら活かそうとする心が全体との調和を創造するのだとも思います。音は消えますが奏でた音楽は偉大な意義があるのです。

そこには時空を超えた宇宙があるようにも感じます。

人が自分らしく生きるとは素直な気持ちや本心を語り合うことでできるようになるのです。その飾らない本音が社会に鳴り響くことではじめて、人は安心する世界を創造していくのだと思います。

命は決して表面上をあわせていくことでシンフォニーを奏でることはできません、それぞれの音を自然に鳴り響かせながら楽しんでいく日々にこそ調和し鳴り響くのです。

これからも自分の心音を風に乗せて楽しんでいきたいと思います。

今回の素晴らしい研修も有難うございました。

師友同窓

ドイツ研修の最終日を迎えた。

旅の仲間たちとの心の通じ合いも体験を通した学びも、一期一会の邂逅が思い出となってこれから生き続けることになります。

同じ時間や同じ人との「間」は、二度はありません。

この一度きりというものだからこその真の学びの意義があり、その一つ一つを大切に卒業して次の学びへと移りそれぞれが自らの道に戻っていくのだと思います。

同じ道を志せばたとえ物理的な別れはあっても、本質的な別れはなく、同じ道の中で互いの便りが聞こえてきたり、その道のどこかで再会することもあるのだと思います。

心は全てを観ることができ、必然的に繋がりを用意してくれます。

この長く短い唯一の道のりの中で、師と友に出会うということは素敵なことで往来する時空の中で一人一人の感動がいつまでも心に刻まれていくのだと思います。

心はとても不思議で無限の響きを持っています。

子ども心のままに、先生と友というものから何を学び、先生と友というものから何を頂き、先生と友というものから何を掴んだか。

私たち学び舎の中で先生と友はいつもお互いに道の中での絆を結び、見守りあいながら旅をするのだと思います。如何にそれが豊かなことかと感じない日はありません、人は一人ではないのです。

これだけの仲間がいると思えることや、いつも誰かが自分を見守ってくれていると感じることでその道を心強く歩み続ける勇気を得るものです。

時に諦めそうなこともあろう。
そして時に、悲しみに負けそうなときもあろう。
そして時には、一人で立ち尽くすこともあろう。
そして時には、誇りを失いそうなときも。

しかしそんな時にこそ、今、歩んでいる一期一会の旅の師友が自分を支えてくれるのだと思います。

二度とない旅路に、誰かと共に歩めた道程こそが私たちの真実だと思います。
一度しかない旅路だからこそ、同窓と楽しんで歩んでいくことだと思います。

今回のドイツ研修も、もう一度、師と道の確認ができました。このタイミングで素晴らしい出逢いを再びいただけたこと、心から感謝しています。

これからもありとあらゆるものを心が無限に永久に感じつつ、好奇な観念を全開にし楽しみながら「かんながらの道」を邁進していこうと思います。

子どもが鏡

ドイツ研修も5日目を迎えた。

森の幼稚園からはじまり、ミュンヘンで2番目に規模の大きな幼稚園を視察した。

学校の理念が保育に顕われ、それが子どもたちに顕われてくるものでどの施設を視察しても目には見え難いところでそれぞれの園の環境を感じることができる。

小さな社会が空間に存在し、その社会をどのように見守るのか。

いつの時代も、子どもを見ながら私たち大人が如何に今を真摯に生き切るかというのは鏡のように反射して映し出すものであろうとも思う。

鏡と鏡に映る間にこそ、そこに浮き上がってくる本当の姿というものがある。

それを如何に洞察しバランスのとれた自然の姿かを観照するか。

人は生き方そのものでしか、人を感化できず、まずは子どもにとって恥ずかしくないような自分らしい命を尽くしていくことが根本に据えておく必要があるのではないかと改めて感じる。

どのような自然の状態の時、子ども達の本性が発揮されるか。
そこにどれだけ自分の心の鏡に「信」の空間が存在しているかによる。

子ども達同士の関係性もその空間に信が入っていれば見守るとなり、そうでなければ放任となる。一見、何もしていないように見えたとしてもそこに信が入っているかどうかはすぐに分かるもの。

子どもが情緒が安定するのも、信じてくれていると本人たちが感じているからである。

それを自らで信じていないはずだと思っていては情緒が安定するはずはない。

如何に信じてくれるものに対して見守っているというサインを送るか、そのサインは「信」の行動や環境によって合わせていくのである。親子の道ではないけれど、親が子を見守るように丸ごとでなければそれはできないのである。

そして子としての自分を見守ることができる人が、自他を見守ることができる。それはまるで鏡のように自分の生き方や生きざまが、保育に顕われているのである。

その道をどのように歩むのか、保育者のその歩み方に勇気づけられ、保育者のその生きざまに憧れ、保育者のその歩む後ろ姿に大人としての畏敬の念、自然そのものを感じられるのであろうとも思う。

今回の研修で得た視察もまた、どのような生き方であるかであったように思う。

まだまだ分からないことばかり、これから年を経て師ののようにたくさんの体験をし、その歩み方で信を感じている妙味の境地もいつの日か味わえるのではないかとワクワクしながら子どものように無邪気に自分らしい命を輝かせていこうと思います。

子どもこそが自分の映し鏡である。

私たちの目の前にいる子ども達も、そしてこの自分の心の子どもも周囲の人々も自分を含む空間の中の今というものを映しているのです。

有難い旅に出逢い、自分と向き合い、そして学び直しの日々はまさに今も充実しています。

命のふるさと

ドイツ研修も4日目を迎えた。

冷たい小雨がしとしとと降っていて、夕方の雨上がりの空気はとても心地好く旅の渇きを潤してくれました。

ゆったりと穏やかに冬を迎えていくこの感じに、ドイツの気候の生んだ生命の様子を実感することができます。

人間を含む様々な命は、この森羅万象の地域風土によってそれぞれに根付いた命が育み順応していくのだと思います。

その風土が生んだ見事に仕上がっているその地域の文化に触れることは、自分の立っている場所や歩んできた文化を改めて感じる機会にもなります。

その人々がどのような「生き方」をしてきたか、世界は広いのを知るのです。
もう一つは、「ふるさと」というものを知ることだと思います。

このふるさとは自分が生まれ育ってきた身近な環境との繫がり、どこの自然の傍であることなのだと思います。風土と心が一体になったこの今にこそ自分が本当に帰る場所、そのふるさとがある気がします。

遠く離れた異国にいても心にふるさとがあると思えるから自分というアイデンティティを持っていられるのだとも思います。繋がっている場所こそが、安全基地であり安心基地であるのはそこに自然の一部から切り離されていない絶対的な安楽が存在しているからだとも思います。

そう思えば自分を形成してくれた偉大な存在に心から感謝の念が湧いてきます。

繫がりを広げていく中で自分をもっともっと発展させ繁栄させつつ天の命じるままに育てていきたいと思えるということ、その真の自立というものの素晴らしさ、私たちが学んでいる「保育」を通じて感じ、一瞬一瞬を大切に生き切ることの人生の意義や意味を感じています。

人はだれしも自分で生きていく中で、周囲と繋がり合う中で、時間と空間の境界に命を生み出していくのであろうとも私は感じます。

ふるさとを思えば、いつも心の中に自然と繋がる命があるのです。
自然が私たちを見守っていることを今も味わっています。

最後に、ドイツと日本との共通のものもたくさん発見し味わっています。

どんなに言葉が異なっていても、見た目が異なっていても、相手を思いやるという心には国境はありません。

愛や、友情、感謝や感動、信頼や勇気など、人間として普遍の倫理道徳は私たちが偉大と感じる自然の中にあるものです。このドイツでも、たくさんの人たちの生活を通じて思いやりを味わえます。

自然の一部である私たちに本来国境などは必要ありません。

私たちのふるさとは地球です。

この地球の中で、真の平等や真の平和に貢献していけるよう子どもを見守る保育を広げていきたいと思います。

世界の保育

ドイツでの研修も3日目を迎えた。

ドイツの園での視察では、色々な工夫が見られ具体的に取り組んでいる保育実践は日本での実践と照らし参考になるものがある。

今回の視察先の園長の言葉を聞いていても、現場の保育を洞察してみてもドイツやヨーロッパで視察するような園は、即席に便利な人を創るよりも人格を育てようとすることが保育の基準になっているようにも思う。

ドイツの陶冶プログラムもきっと、産業ですぐに消費できるような人のための教育ではなく、人間として社会に役立つ人間力や社会性を育てようというそもそも教育とは何かというところから生み出されたものではないかと思う。

日本の一斉画一のものを見慣れていれば驚きもあるのだろうけれど、いつも見守る保育の実践の園ばかりを見ているせいかあまり何かとの比較はできず最初はどこを視ようかと戸惑うことも多く感じた。

しかし、よく観ていると同じような理念で取り組んでいる園がこちらではどのような変化が見て取れるのか、そこを観照することで視察している観点がはっきりするのではないかと感じている。

同じ理念で取り組んだとき、環境によって顕われてくるものの中には共通する実践が入り込んでくる、それを学び取り組めばその保育環境を互いに切磋琢磨していけるのであろうとも思う。

将来は、ドイツをはじめ世界にGT会員が増えていくのではないかという予感さえもし日本の保育が世界に広がっていくことが待ち遠しく楽しくなりました。

さて、せっかくなので日本という国をここから洞察してみる。

与えられた場所で自分で人生の選択をできるような環境というのは何を国家が優先しているのかということでもある。

一部の人たちのものが国家というものならば、そうではない人たちの自由な人権は与えらえず搾取の対象となる。これは歴史を観てもそうだし、一部の人たちが公共のものという共生の原理から外れればすぐに独裁の方へと傾いていく。

もともと国家とは、共生の原理にそって皆で創りあげていくものであるのならそれぞれに選択の自由があり、それぞれに自分の幸福を自分で決める人権を持っているということになる。

私たちは、いつから自分の人生を誰かに委ねて生きるようになったのか。どうしようもないと諦めてしまい、自分で決めることをしないで生きることが当たり前になってしまったのか。

人と生きるということは、集団の中で自分を殺して埋没させることではない。

人と生きるということの本質は、それぞれが皆で自分を活かしそれぞれの100パーセントの実践人生が周囲との共生を創りあげていくということ。そういう中にこそ、真の譲り合い、真の助け合い、真の思いやりというものはでてくるのであろうとも思う。

どのような理念で国家を治めるか。
どのような理念で国民一人一人が自分を修めるか。

どちらも、100パーセントの責任を果たすことで幸せな生き方を目指すのが私たち人間の文化発展の肝であると思います。

当たり前のことも見えなくなるくらい忙しいことは、決して自分のためにも国家のたにも世界のためにもなりません。心の余裕とは、自分で考え切る中で生まれるものだと思います。

子ども達と共に生きていく中でこれからの新しい世界を一緒に考え切っていきたいと思います。

自然体と清澄観念

ドイツでの保育研修も2日目を過ごした。

外国で過ごす最初の日は、ほとんどの物が真新しく感じて見るものが多く自分の価値観から認識できるものを探そうとしてみるものである。

あの建物がどうだとか、あの保育の遊具がどうだとか、きっとこうなのだろうという推測や思い込みが先に出てしまうと本来のそのものの姿を捉えることは難しくなるものである。

例えば、飲み物というひとつでも量も違えば、味も異なる、そして生活にどのように定着しているのか、また出し方などのマナーやそれが出ている経緯など、その一つのものを観たとしても自分が思っているものとは実際は同じではない。

しかし人は、自分の体験からでしか物事の推察ができずに勘違いをすることになる。

そう考えると、世の中のほとんどが勘違いだと言えないだろうか。自分の体験により刷り込まれた先入観や固定概念が、其処から自分を抜け出させない。

そのために共通の同じ言葉を聞いても、共通の同じものを観ても、それが本性を顕しているのではなく表面上の浅い特徴だけを観てしまっていることになる。

自分の過去の体験というか、気づきがどれだけ純粋なものであるか、そのモノゴトを如何にそのまま正直に感じることができるかは、いつまでも自分の心が捉われのない澄んだ清らかな感性や感覚でいるかどうかにもよる。

知識によって知ったことや、それを認識した体験で分かるということはその感性を曇らせていく。そうやって生きていく中で人は様々なものを自分の観念を通して歪めてしまうのである。

真に生きているということは自然体になることで、それはあの曇りなき澄んだ青空、あの優しい透明な感性、純粋な清らかな心があるがままの本質や本性を観照するのであろうとも思う。

それをどれだけいつも持続できるか、その自然との関係性ともいえる生死の仲の平常心が日々の修養や陶冶によって実現していくのであろうとも思う。自分を守るために知識を得る人ばかりだけれど、本来守るのは本当の自分、それは魂ともいうべき自然と一体化している真心の自分のことである。

私はこの保育というものの空間にこそ、その心との関係性によりできる真理信性が人々の心を陶冶しているのではないかと感じる。

生きていく中での誰とともに歩んでいくのかが大事なのは此処に保育があるからである。

時代が変わっても、その時代を丸ごと受け容れてその時代に生きる者たちと共に生きていくことで命の種たちの生長を見守り大切に育てることが人間陶冶ではないか。

ドイツでは陶冶プログラムというものがあるようで、それを全施設が取り入れているのだけれど実際はそれがどんなものなのかはよくわからない。

しかし、人は西洋問わず、年齢問わず、男女問わず、真に澄んだ清らかな心こその「間」にその誠の道が顕われている。

今までの体験を超えた体験はすべて子ども心が知っている。

繋がりの中に続いているものを如何に見出せるか、子どものような気楽なステップを踏みながら好奇心を発揮し、新たな道の手ごたえを学びたいと思います。

今日は3日目、旅の発見をまだまだ振り返りつつみんなで楽しみたいと思います。

新たな道のはじまり

久しぶりにドイツのミュンヘンに来ている。今年は縁あって2回もこのヨーロッパに学びにくることができている。思ってもみないのに思いやりさえ持っていればいつも素敵な機会をいただけるというのは、自分がそこに向かうようにと天啓を得ているのだと思います。

子どもの心や好奇心、自然体ほどに自分が全体の一部であるのを実感します。

私の西洋との出会いは、街並み、風土、文化、食、芸術、気候や価値観など見るもの聞くもの触るものすべてで感動してきたけれど、私はここの西洋思想から最も影響を受けたのは「人権」というものについてであろうとも思う。

そこからヤヌシュ・コルチャックの生き方にも出逢い、子どもの権利というものを真摯に学び機会もいただいた。

人は誰でも幸せになる権利がある。

それは私は自然の豊かさの中で、自分で気づき考えて正直に行動する自由を尊重されることだと思っている。あの動植物たちと同じく、普遍的なルールの中でみんなが幸せを謳歌しているように生きられるということである。

これは人間がそれをしているのではなく、元々それがあったということである。

それを声高に言われるのは今まで当たり前だったことが、一部の大人たちの言い分に無条件で疑わず従っていればいいといった歪んだものにすり替わっているからであろうとも思う。

人間がそういうものを設定してはならないのに、神にでもなったかのように生命を上下に格差をつけ不平等をルールにすることで心物がおかしなことになってしまうのだとも思う。

人権にも気づけなければ人は自分の人生であるのにそれをすぐに他人に委ねることを盲目になっていくものである。

ここから日本を眺めると、惰性的に考えずに流され生きていても誰も其処は疑問に思わない気持ち悪い環境があるようにも感じられる。

生きるということは元々が自分がやるべきものであり、幸せとは自分自身の中にあるものである。

それと、与えられたものや与えられるものだと勘違いし、それに反論してはいけないと刷り込まれ根本的なはじまりの問いに蓋をしてしまっては本当の今が観えなくなるのである。

私が子どもの心で物事と正対するとき、暗闇に光が差し込むように新たな世界や新しい観方、原点というものが顕われてきて、本来の今ということに気づくことができる。

しかし、子ども心を抑え込んでしまったのなら身近な仕事でも生活でもそうだけれど自分の凝り固まった固定概念の中で基準を持ち正しいと信じ込み、その中から抜け出せずいつも自分の価値観の微修正ばかりで自己満足の日々を過ごしてしまうのである。

そうなると恐怖や不安から逃げようとして今までの価値観にしがみ付き如何に自分がおかしなことをやっているのかも気づかずに間違いにも気づかなくなるのである。

そもそも問題はそのような自分の浅はかな正しいという場所に答えがあるのではなく、それ以前に正しいはずだと信じたその固定概念に問題があるのだと気づくことである。

それは疑うのではなく、間違いだったと気づくことである。

人は、自分が何処に立っているのかわからなくなるときこそ自分の価値観に気づくチャンスである。そして自分の間違いに気づき、未熟さを受け容れるとき新たな道が開くのであろうとも思います。

空間の間に、棲んでいる世界があるのなら今の自分の心が棲む場所こそが新たな空間なのである。

自分の戦略に気づく旅のはじまりになりました。

新たな道を切り開き、子ども達に真実の今をあるがままに譲っていきたいと思います。

善い日旅立ち

今日からドイツでの保育研修があり、今から出国へ向けて移動をする。
人にはその人に与えられている命があり、役割というものがある。

今日、この日にどのような旅立ちをする人がいるのかと思うと世界中では自分とはまったく異なる道をそれぞれの人たちがそれぞれの意思で歩んでいるようにも思う。

この旅路というものは、はじまりもおわりもなく今にこそあるものである。

その旅路の中で、交錯して出会い一点の特異な場において新たなものに触れそれぞれの旅路が豊かになって調和していくのであろうとも思う。

人が出会うのは、時間だけではなくその空間にも出会っている。

日々がどのような旅であるのか、その旅を自分がどう歩んでいるのか。

旅とは自分の今の心が旅をしているのである。

一度しかない自分の人生を、どのような気持ちで旅をするか。

それこそが旅立ちの日ということになる。

毎日を悔いなく生きることは、いつも善い日に旅立ちをしていることになる。

どのようなワクワクすることが見つかるのだろうか、どのような新たな発見があるのだろうか、どのようなドラマが感動を連れてくるのだろうか、また新たに生きていることの歓び、思いやりの素晴らしさとの邂逅があるのだろうか、そういう偉大な愛に包まれているこの人生の旅路。

旅立ちとは、自然の一部として私たちがこの場にあることを感じさせてくれる。

いつでも真心は善い日、旅立ちの日として生きていきたいと思います。

人生の旅を自分がしっかりと立てていこうと思います。
すべての出来事が後で繋がってくるし、意味を帯びてくるのが自然。

子ども達の未来に繋がっているこの今、この場だからこそどんなことも心で感じて、素直な澄んだ瞳で見守っていこうと思います。

維新

今までの人生を振り返り、いつも日々を維新していくということは難しい。

自分というものに対してどうしてもこれでいいと妥協をしてしまい、理想と建前をそこで使い分ければそこに本来の自分としてやり直す機会を次第に失っていくものである。

人の細胞も毎日、生き死にしている。

日々は、もしも今日が最期の日ならと思えばそういう生き方をしようと思い生き直すのだろうけれど前の日を引きずり引きずりとしているうちに曖昧な日々を過ごしていくことに慣れてしまうものなのであろうとも思う。

今までの自分を、これではいけないと維新していくことができればいつだって学びは新鮮で自分の心も素直なままに命のあるべきままに活かしていくことができるのであろうとも思う。

古典の『淮南子』に、「蘧伯玉、行年五十にして四十九年の非を知り、六十にして六十化す」という文章がある。

そしてこの文章を安岡正篤先生がこう意訳している。(安岡正篤一日一言より)

「これは人間に通じて来ないとわからない。年をとるにつれて身に泌(し)む言葉だ。

人間は五十歳にもなれば或(あ)る程度人生の結論に達する。と同時に心のどこかに自らを恕(ゆる)す、肯定しようとする意志が働く。

その時に「五十にして四十九年の非を知る」、今までの自己を一度否定することは、これは非常に難しい。

だが過去の非を知り、自分が自分に結論を下すことは、新たにやり直すことであって五十になってやり直し、六十になればなったでまた変化する。

いくつになっても溌剌(はつらつ)として維新してゆくことだ。」

とある。

人間は何歳になったとしても、今までの自分に満足するのではなく常に新しくしていくということの大切さについて語られている。

今まで生きてきたことがすべてである人生が今にある、しかしまだまだせっかく生きているのだから生きているうちに生き直しをしていく方が、何度も何度も人生の妙味を楽しめるのである。

これでいいと妥協してしまったり、これが自分なのだと諦めてしまって維新していくことを忘れたならばそれまでに定着した過去の柵や刷り込みで残りの人生も生きてしまうことになる。

一度きりの人生なのだから、今のままが全てならそれではあまりにも勿体ない。

人生の残り時間にどのように生きたいのかは、自分自身の日々を新たに自分の今の境地を切り開いていくかということになる。

今までの未熟であった自分に気づき、それを一度すべて受け容れてそれまでの不肖を恥じて精進していこうと心新たにゼロから学び直すのである。

節目節目に学び直すというのは、新たな境地を開拓することでもある。

これまでに学んだことは実は間違いだったのだと受け容れる勇気と具体的な新たな挑戦こそが新しい境地へ入る道の中であろうとも思います。

人は何歳になったって変われるものだし、人はいつどの瞬間にでも人生はやり直せるものです。今までの人生にしがみ付き、後悔ばかりの過去に囚われるのではなく、昨日までの間違いに気づき今、この瞬間から新しいことをはじめていくことで変わっていくのが真理だと思います。

日々を維新し、世界を維新し、人生を維新し、子ども達のために維新していくことをいつも生業にしていようと思います。