独善と満善~聴聞認識の実践~

独善的という言葉があります。

これは独り善がりという言い方での解釈をされていますが、自分だけが正しいと勘違いしてしまうことを今の世の中では言うように思います。本来は、孟子(盡心上)の中で使われた言葉ですが昔と今ではその漢字の意味も異なってしまうものです。

本来の独善とは、孟子は「幸いにして権力をもつ地位についている人は皆に善いことをするよう勧めよ、一方、志が満たされず権力と無縁の状況に置かれた人は「独りで善いことをしなさい」と説きました。

これは誰も見ていようが見ていまいが、天が観ているのだから独り慎み独りでも善を行いなさいという意味で用いられたということです。陰徳のようなものであり、これは見返りを求めない天の恩徳と等しい実践を行うことを述べているように私は思います。

しかし実際の世の中で今使われる独善というものは、自分だけが正しいと思い込んでいるものです。これは他人との違いを認めないところから発生してくるように思います。

この独善に陥るのはなぜかといえば、相手の立場で物事を考えることができなくなるからです。人は自分が考えたことが正しいと思い込んでしまうものです、それは自分の価値基準で物事を査定し、自分の判断基準で事物を認識するようにできているからです。

自分が見た世界からみればそれは間違っていないと思うことでも、相手の世界からみたら間違っているということが分からなくなるのです。例えば、この独善に陥りやすいのは組織で言えばトップであり、社會でいえば人間社会を管理する立場の人たちのように思います。

これが起きる原因は何かといえば、「現状認識のズレ」によります。

現状が歪むのは、そこに自我や自分の価値観が入り混じるからであり人はそれを他と共有することがなくなってくると正しいことばかりを優先するようになってしまいます。例えば現状とは、トップと現場の現実感覚の差であったり、行政と現場の現実感覚の差であったり、それは何処にでも発生しています。

ただ困るのが、悪気がない中で現場のためになんとかしてあげようといくら思っていてもそれが正論であっても、現状認識がズレて現場とギャップが開いていたらいくらそれが善い案であっても現場では使えるものにはなりません。また逆にいくら現場が善いと思っても、それがトップの現状認識とズレてギャップが開いたらそれもまた現実には活かすことはできません。

常にお互いにそのギャップが開かないように互いを確認することが組織において何よりも重要であると私は思っています。

独善に陥るというのは、それぞれが自分の思い込みを優先して現状認識からズレたということです。言い換えれば、御互いの現状認識に差があり過ぎるということです。これを常に修正し取り除いたときにこそ、「価値観の共有」が実現し、独善ではなく満善ということになるように思います。

正しくありたいのであれば、自分が正しいというよりも全体で正しいということがまず優先されること、その上で現状認識が歪まないようにと常に修正し続けることだと思います。

独善ではなく満善を、そしてそれぞれが現状認識を持った中での「最善至善」を大切にしていけば自ずから協力する風土は確立できると思います。なぜならそこに寛容と思いやりの関係が築けるからです。

自分自身が現状認識からズレないように、常に独り善がりにならないように留意して日ごろの聴聞認識の実践を続けていきたいと思います。

ふるさと~自然父母の恩徳~

昨日は、古里について考える機会がありました。今年は里がテーマですが、里もまた自然そのものであることをご縁のたびに確信しています。

古里とは、辞書では「1  自分の生まれ育った土地。2  荒れ果てた古い土地。3 以前住んでいた土地。4 宮仕えや旅先に対しての自分の家、自宅。(goo辞書)とあります。

明治に入ってから、西洋からの新しい価値観を優先している中でかつての自然も次第に荒廃が進んでいます。開拓できるところはすべて開拓するという欧米的な発想が、かつての田舎までも都市化していきます。これらの都市化というのは、人間中心の社会のことであろうと思います。

私たちは古里を思う時、何かといえばかつてそこで生まれ育った場所ということです。言い換えれば、幼児期や幼少期に暮らした自然と両親の見守りです。そういう見守りの中で、私たちは将来を見据えて準備をしていきました。

動植物も同じく、幼少時は安全安心な中で大切に社會で自立していくための基礎を学びます。それは優しく温かい自然の恩恵を受けられる時機地場空間だったはずです。

そこで感じた慈愛を根っこにして、自分の存在を確かめ信を抱き巣立っていきます。そしていつの日にかまた帰ろうとするのです。これを帰巣本能ともいい、犬も鳥も魚も必ずどこで生まれ育ったのかをいつまでも忘れません。

私たちは古里というものを一体何で憶えているかということなのです。
古里と言えば、有名な日本の童謡作曲:岡野貞一作詞:髙野辰之の故郷があります。

兎(うさぎ)追いし かの山
小鮒(こぶな)釣りし かの川
夢は今も めぐりて
忘れがたき 故郷(ふるさと)

如何(いか)に在(い)ます 父母(ちちはは)
恙(つつが)なしや 友がき
雨に風に つけても
思い出(い)ずる 故郷

志(こころざし)を はたして
いつの日にか 帰らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷

これは幼い頃に親しんだとても美しく澄んだ童謡の一つです。メロディーが流れれば、そこに懐かしい日本の原風景が顕われてきます。日本古来の原風景を如何に伝承するか、民俗学の本質もまたそこにあるのではないかとも思います。

この故郷とは何か、古里とは自然(かんながら)なのです。自分の生れ育った産まれたところの風土が赤ちゃんの初乳であり、お米で言うところの苗土なのです。いのちは自分が出てきた場所を忘れません。それはいのちが続いていることを本能が知覚するからです。

そのふるさとを守りたいという心は、人間社會で生きていくなかで信を忘れないようにと願う父母の恩徳を守りたいという真心と一体ということなのでしょう。私にとっての故郷は、神社の木々の中で澄んだ清らかな水の流れ、そして眩い透明な光と草の香りがするそよ風、小さな昆虫や動物の声の聴こえるところです。

古里を心に、自然恩徳を忘れず、日々を健やかに逞しくやわらかに生きていたいと思います。

子どもたちに一つでも多くのふるさとを遺してあげたいと不退転の決意を新たにしました。
有難うございます。

 

善転の行~天人合一~

昨日は、日田の広瀬淡窓の咸宜園を紹介しましたがこの私塾には目的がありました。

この咸宜園の咸宜は、「ことごとくみな善ろし」という意味であり、よくブログで書く二宮尊徳の一円観と同じです。他にも天人合一という言い方でもいいですが元々の思想の中に、「敬天」という考え方に根差しているように思います。

これは天の心と同じように天に仕える心を持って生きるという生き方のように思います。それが万物一体善という考え方であり、善い悪いではなく丸ごと善いことなのだという天の大きさで全てを捉える力を涵養するということなのでしょう。

本来の教育の意義を広瀬淡窓は、「人材を教育するのは、善の大なるものなり」と定義しています。まさに本来の教育の本質を捉えている言葉のように思います。全てを善いことにするという思想には、自然に生きるという本来のいのちの活かしかたが入っています。

この広瀬淡窓は、幼少期から病に苦しみ、様々な逆境を善いことへと転じて生涯を歩みました。特にご縁をいただいたキッカケとなったのが、咸宜園で拝見した「万善簿」というものです。これは今の私の日々の感謝日記にも取りいれていますが、意識をするだけで善いことに転じようとする実践も高まってくるから不思議です。

どういう仕組みかというと、1日の終わった段階で、その日に行った善行が白丸で○。悪行が黒丸で●というものを帳面につけて1万回の内省を続けました。約30年間をかけて、日々に●よりも○が勝ち越すようにと念じつつ実践した痕跡が帳簿に残っています。

そして善行と悪行の数を差し引いて、月ごとにいくつ善行を行ったのか集計しました。67歳で万行が達するまで、日々に自ら取り組み実践する後ろ姿から私淑を受けた塾生が沢山いたのではないのでしょうか。時を超えて今では教えを受ける私もその一人です。

志の高さが人材を引き寄せ、そしてその時代を活かす人財を育成していったのでしょう。

最後に、休道の詩を紹介します。これは咸宜園で共に道を学ぶ人たちに師が励ました詩であると言われます。何よりも同門同胞、師友との関係の中で大切なものが得られることを述べて戒めているようにも感じました。そこにはこうあります。

休道他郷多苦辛
道(い)うを休(や)めよ 他郷(たきょう)苦辛(くしん)多しと

同袍有友自相親
同袍(どうほう)友有り 自ら(おのずから)相親しむ

柴扉暁出霜如雪
柴扉(さいひ)暁(あかつき)に出づれば 霜雪(しもゆき)の如し

君汲川流我拾薪
君は川柳(せんりゅう)を汲め 我は薪を拾わん

意訳ですが、道を歩む学問をしながら其処で苦しい辛いと嘆き愚痴を言うのはやめましょう、一枚の衣服をを共に分かち合い一緒に使うくらい仲のよい生涯の同志や親友ができて、自然と仲よく親しくなるはずです。早朝のまだ暗い時間に玄関の扉をあけて外に出てみたら、真っ白な霜が雪のように広がっている。とても寒くても日々の炊事生活に励み、あなたは小川の流れに水を汲んで来てください、私は山の中で薪を拾ってきます。

日々の修学修養は大変だけれどもそこに道を歩む道楽がある。苦しみの中に楽しみがあり、辛いことの中に歓びがある。学問を求道するのに必要な心得が入っているように思います。

今の時代は私塾ではないのでしょうが、日々に「道うを休めよ」という響きに心が揺さぶられました。そこに善転の行の鍵が入っているようにも思います。

日々に学びを楽しんでいきたいと思います。

 

個が活きる

今までの教育では個を強くすることに重きを置かれてきました。

個だけを意識し、個が如何に平均より以上に優秀になるかということで教育を施されました。しかし社会に出てみれば、かつての強烈なリーダーが引っ張っていく時代というよりも如何に協力して豊かにしていくかということに価値観も変化しています。

高度経済成長の時は、環境が成長できるようにできていましたから集団を優先しては個はその集団に合わせるという考え方があったように思います。

しかし、集団を優先して個を合わせているうちに集団についていけない個は排斥するという考え方になってきました。これは西洋から入った価値観と思想であり、個人主義のもとに集団を形成している「管理」という考え方に根差しています。

本来は、私たちは個も集団も優先するという考え方で生きてきた民族です。それは個を善くして集団を形成するという「協力」という考え方に根差します。

集団を形成して生き残ってきた私たちは、個が時として強くなるときと弱くなるときを知っていたように思います。これは、状況に合わせて使う力が異なっているからです。

かつて日本三大私塾の一つに、日田の咸宜園がありました。広瀬淡窓が開設したのですが、そこにこんな言葉が残っています。

「鋭きも 鈍きもともに 捨てがたし 錐(きり)と槌(つち)とに 使い分けなば」

これは人間には、人それぞれ異なった能力がある。頭脳を鋭く早く回転させることが出来る者も居れば、頭の回転が鈍いものも当然いる。しかし、頭の回転の早い者だけが世の役に立ち、頭の回転が鈍い者は役に立たないものであるかと言えばそういうわけではないのだからその能力にあった使い方をすれば、役に立たないという者など居ないという意味になる。

これも同じく個を完璧にするという考え方から、集団の中で個を活かすという考え方が真に個を活かすということになるのです。

なんでも一人でできる人を育てるよりも、集団の中で如何に状況に合わせて光る個を創りだすか。それが環境であり、それが理念であり、それが優先していく心をのあり方であろうとも思います。

個を強くの思想にはどうも個を完璧にという方向にもっていこうとする固定概念に縛られているように思います。そうではなく、如何にその個がその個らしくいるかが真の強さなのかもしれません。

個が強くなるには、集団もまたその思想を受け容れる程に強くある必要があります。皆がそのように御互いの個性を尊重してこそ、真に個が活かされます。みんなで同じことをするよりも、みんなで同じ目標を設定して取り組むことに価値を感じます。

個人の目標は集団と如何につながっているか、集団の目標が如何に個を活かすのかを考えて配慮していくのがこれからの時代のマネジメントになるのでしょう。

今年は新たに挑戦を続けていきたいと思います。

努力を育む

何かに打ち込み努力をする際に、心を入れたか、魂を籠めたかというのがあります。これらは努力してから何かを決めるという発想ではできないことです。

よく学校で勉強するときは、よく分からなくても努力はできる癖を持たされるものです。意味も分からないのに暗記させられたり、目的が定まらないのに宿題や課題などで努力をするようにと諭されます。しかしこれは努力というものではなく、勉強というものです。勉強というものは、中国に行った際に中国語で無理やり何かをさせるという意味になっています。

読んで字の如く、勉強とは無理に何かをさせることを言うのです。

しかし実際の努力というものは、この勉強ではありません。なぜなら努力するために必要な心も魂も最初に決めなければはじまらないからです。努力は無理にさせられるものでもするものでもないのです。

なぜなら努力には「思い」が入るか入らないかの違いがあるからです。

例えば、スポーツでもそうですが思いが入るのと入らないのではまったくその練習の価値が異なります。思いが入る練習はまるで一つ一つの祈りのように芯が磨かれ育まれて強い信念が醸成されていきます。しかし思いが入らない練習は、ただ体を動かしているだけで身体は強くなっても心まで磨かれるわけではありません。

心が同時に磨かれなければ本番ですぐに心が折れるようになります。言い換えれば、勝負で頑張れない、続かない、迷い続ける、もしくは負け癖になるのです。努力は決めないままにしようとするのは理性を使いますが、理性では大事な場面でメンタルやハートの力を借りれません。

やはりどんなことも体を動かすだけではなく同時にそこに心と魂を籠めるといった、強い「思い」をカタチにしていくときにこそ本物の努力はなるのです。

努力をするのと努力がなるのとではまた異なり、努力はできても努力が為るにはやはり先に覚悟を決めるということが肝要なのでしょう。先に決めてさえいれば、体を動かしながらも思いも同時に強くなりますから努力として為るのです。

だからこそ決める時によく自問自答し、それは信条としてこの命を懸けられるほどのものだと定義したならば、どうやったら自分が活かせるか、どうやったら自分が活きるのか、まず貢献できるか、諦めず開き直っては辛い中でもその辛さを自ら逞しく乗り越えていくとき、努力は次第に本物になるように思います。

心を思うとき、思いやりが入るのですからやはり誰かや何か、もしくは他人のために努力できる人こそが、真に自分のための努力ができる人なのかもしれません。

決心したならば本物の努力はすでにはじまっています。そうすれば悩まずに、決心したままで取り組んでさえいれば後は時間が経てば、努力が育まれ必ずそれなりの姿になると思います。

決心して努力する人たちにエールを送りつつ、自らも思いを強くしていきたいと思います。

今~遠近を超えて往く~

人生全般をふり返る時、遠近について考えることがあります。人は遠くの出来事や遠くの未来のことに思いを馳せたり、近くの出来事や近くの未来に一喜一憂するものです。

道を歩んでいく中で、遠くを見ているだけでは近くが見えず、近くばかりを見ていたら遠くが見えない。近くを見たり遠くを見たりしながら、今、自分がどの辺にいるのか、どのあたりを歩いているのかを実感するのです。

時折、悪路に出会い、いつまでこれは続くのだろうと苦しんだり、とても素晴らしい風景に立ち止まりたくなったりもします。また素晴らしい出会いがあって感動して涙したり、悲しい出会いもあっていつまでも引きずることもあるのです。

しかしそういうことを何度も何度もふり返り、遠くの夢を観ては足元の石に躓き転び、近くの現実ばかりを見ていたら灯台の光も分からず船酔いばかりしてしまいます。

人間というものは、今というものをどれだけ味わい切っているかによるのかもしれません。

この今というものがどれだけの奇跡であるのか、この今というプロセスをどれだけ味わい尽くしているのかで遠近を超えた本質的な今を生き切ることができるのです。

今というものを歩むというのは、遠くも近くも一緒に観るということなのです。

人生は振り返ることで、近くと遠くを繰り返します。時には、ふり返りたくない現実もあるかもしれません、もしくはふり返りたくない夢もあのるのかもしれません。しかし、歩ませていただいている道があること、そして旅は続いていくこと、共に生きる人々がいることに心が安堵するのです。

じっくりと焦らず、ゆったりと力強く、足早に休憩をこまめに、根気と真心で進む道にこそ、今を生きる術があるのかもしれません。

今年はプロセスを大事に歩むと決めていますが、一つの人生は一つの道草のようなものですから野草たちに見習いこの今に感謝を盡していきたいと思います。

 

 

現場感覚

組織人事の問題の解消を幾度となく繰り返していくと共通するところに発見があります。

どの組織でも共通するものに、共通理解というものがあります。

何かの物事を自分一人で進めようとすることで次第に周りとの距離感が離れていくものです。誰かと共にや仲間と共にと歩んでいこうとすれば、理解している範囲も感情を伴って考えていくものです。つまり意思決定のみが価値ではなく、意思決定のプロセスが真の価値だと言えるのです。

例えば会議などでも、出た答えだけを回覧してもその答えが出たプロセスがどうであったかの方を理解しないとその意思決定に自分が入り込んだわけではないからです。すぐに答えだけを求めるのは学校で教わった勉強の刷り込みがあるからです。

答えあわせをしますが、その答えさえ合っていればテストでは評価されるのです。しかしそこにいたるまでのプロセスを一緒に出していく歓びや、答えがない問題に皆で真剣に取り組む楽しい体験をさせないのでは本来の人生での共生や貢献という人間の価値に気づけません。

そもそも答えなどはないのです、仕事でも答えがないと取り組めないという人がいますがそんなことの方が不可能で答えがない問題にみんなで一生懸命に一緒に取り組む中にこそ真価があるともいえます。

真価とは何かと問われれば、どう生きたかということでしょうがそれは答えを知ることが目的ではなくそれぞれが一緒に共通の目標を握り合い叱咤激励しつつ自らの道を歩み続けることが組織の醍醐味なのでしょう。

言い換えれば、ご縁を活かしたということです。

そう考える時、リーダーはビジョンを持ち願望がありますがその願望は一人で達成するわけではなく共に歩む仲間と共に達成するためのリーダーの意義です。そうであれば達成するためには今の仲間たちがどのような状態なのか、現実はどうなっているのかが自分の感覚とズレテしまったら共に歩むことができなくなります。

リーダーは的確に周りの仲間たちが今、どのような現状なのか、どのような課題で困っているのか、どのような気持ちなのかを理解していく必要があるように思います。違った価値観を共有しながら協力するというのは大きな目標に向けて互いの感覚を一つに近づいていくことに似ています。

感覚を近づけていけば共に意思疎通が取れるようになるからです。これらの感覚とは、近づけることも大切ですがもっと大切なのは「ズレナイ」ということなのです。

頭で分かるのと感覚が近づくのは使う場所も異なるように、常に感覚を優先しその後、頭を使うというように順番は気を付けないといけません。頭がよくなり賢くなればなるほどに、実際の人生の歩みは停滞していくように思います。

知識で分かることができることを目指すのは「する」という発想で無理が生じますが、真心で実践することや共に遣ってみようと試行錯誤チャレンジすることは「なる」という発想になるから自然体になるのでしょう。

知識よりももっと大切なものは、現場感覚なのです。現場感覚とは、それぞれの人達の現実に対する感覚を理解することでまるで生きものであるかのようにその組織にはいのちが吹きこまれていくのです。

あの動植物も、空の鳥たちも、集団で生きるものたちはみんな知識で共に飛び泳ぎ走るのではなくすべては感覚を近づけているから一体になっているのです。群れのリーダーは、勝手なことをしては感覚が鈍ってきますから如何に周囲との感覚をチューニングするのかが肝要なのでしょう。

集団や組織にとって何が自然か、頭でっかちに間違わないように私自身がいつも「現場感覚」を優先して取り組んでいきたいと思います。

 

 

価値の質量

大量生産大量消費ということについて考えることがあります。

そもそも何かを大量に生産し大量を消費するというのは、大量に消費しなければならないから大量に生産しなければならないのです。こうやって消費を常に優先すれば、消費が目的ですから消費するための量が必要になるのです。実はこういうところからもゴミという考え方が広がっていくともいえます。

そして、大量にしようと思ったら何をするかといえば例えば時間を短縮し、画一的にし、早くそのものをつくり、そして水増しするというような発想になります。その中身はどうであれ、見た目だけの量を増やしていくということに価値が置かれれば多くの無駄やムラがこれからも生まれてくるのです。

それとは別に質になってくれば、例えば時間をじっくりとかけたり、そのものの特性を大事にしたり、一つ一つを精査していくというような発想になっていきます。これはそのものの価値を上げていくということに力を入れていくことに似ています。

本来は、質と量があり、どちらかだけに偏るのではなくその両方を両輪として取り組むことが大事なのでしょうが今の時代はどうしても偏り過ぎているようにも思います。それは今の経済のあり方が沢山売れば売るほど儲かるという発想がモノサシになっている社会だからかもしれません。

昨日もお米の話をしながら思うことがありましたが、本来は少量で八十八の手間暇かけて育て作っていたお米が色々な工程を排除し機械や農薬で一気につくり出来高量を水増しできても、そのお米本来の美味しさというものは変わってくるということ、それにそうやって水増ししたことで結局はお米の価格が下落し結果的に苦しくなってしまうということです。

これらの水増し貧乏というのは、本来の価値を下げた自分がいたということになるのです。本来の価値とは何かと言えば、正しく時間をかけ正しい量を行い、質量ともに正直に取り組んでいくことではないかと私は思います。

いくら要領よく量を調整しても質が変わりますし、質を高めようと思ったらある程度の量の体験が必要なのです。これは仕事も同じですが、いくら頭で思っても量を実践しそこで身に着くまで徹底して行うことで質もそれに相応しい実力が備わってくるのと同じです。

量で質が下がったのを誤魔化すという発想が本来の価値の質量を歪ませたのです。

大事なのは、正直に取り組むことですが今の時代は大量生産大量消費の世の中ですからそれを維持するには周囲の誘惑に負けずに質を高める精進、工夫やアイデアといった努力が求められるのでしょう。

常に質を高めていくことで正しい価値を持てる人たちになってきます。そして量を適正にすることでその価値は認められる高さを維持していけます。世の中の見た目の裕福さに刷り込まれないように、正直な裕福さ、真の豊かさに気づいているままに自分を練り上げていきたいと思います。

ありのままにあるがままに

人は他人を見るのに、こうなってほしいという願望が入っているものです。

本来のその人がその人のままに観えるというのは、自分の都合で正否を分けずにその人を観る時にその人になるのです。しかし実際は、人間には我がありますからどうしても自分にとって都合が悪くは見たくはありませんし、むしろ都合よくあってほしいという気持ちが入っていくものです。

そういう自分の願望からその人に入ってしまうと、本来のその人の気持ちやその人が今どのような状態かというものが正しく視えなくなっていくのもそのためなのです。

先日のブログで、上級者は指導する人達が初心者であることを忘れてはならないということを書いたように思いましたがこれは初心者の気持ちを忘れるなということなのかもしれません。

初心者であると思えるというのは、自分が相手のことを相手のままに見守っているからそうなるのですが自分の願望が入りこうなってほしいと強い思いがあればその人のことを過大過小に評価してしまうのです。そしてそれは言い換えれば人間は自分を評価してほしいという無自覚の願望があるということです。

だからこそまず相手がどのように感じているか、何を思っているか、そういうものをありのままにあるがままに感じる力があってこそ正しく相手のことを理解していくのでしょう。自然が自然のままに観えるには何が自然かということを自覚することを基本にしていく必要があります。

そして自分の願望の押し付けではなく、相手のことを思いやることで本来の関係や本来の信頼が強くなっていくように思います。相手に分かってもらおうとするよりも、相手を分かってあげたいという優しさ、そして自分が信じられるかどうかよりも、相手を相手の夢の高さで信じてあげたいという強さが御互いに自立し育ち合う土壌を醸成していくのかもしれません。

常に自他一体に、分けないで物事や人物と接していきたいと思います。知らずしらずに我に偏るのはまだまだ精進が足りないからかもしれません、子どもたちや世の中のために実践を積みかさね信を練磨していきたいと思います。

最善最良のパートナー

人は自分の持っているものをどれだけ他人に与えているかで物事の成否が変わってくるものです。例えば、いつも他人に求めているだけの人、もしくは持っているものを出し惜しみしている人では与えるという感覚よりも奪ったり減らないことばかりを考えている思考に陥ってしまうものです。

与えるということは、持っているということを認識する力です。

与えることができる人というのは、自分が何を持っているか、それが他人にどのように喜んでもらえるかを知っています。自分の笑顔や親切であったり、自分の信じる力や声掛けであったり、もしくは物理的な資金や料理や裁縫などであったり、歌であったり真心であったりと自分の中にあるものを探してきては少しでも与えようとします。

実はこの与えるということは、共生の原理でありよりよく生きる仕組みであろうと思います。活かされているというものに立脚してこの世の中を見渡せば、如何に自分を活かしていくかということが幸せにつながるのは自明の理です。

その中で奪うことを求める人と、与えることを求める人では、その生き方において人生の意味づけの成果がまったく違ってくるように思うからです。人生の通り方が同じだとしても、前者は、同じことが起きてもいつも貧しく、後者は同じことでもいつも豊かであるのです。

与えるということは、与えるのが好きだということです。そしてそれは最初から豊かなままであるということです。お金があるかないかではなく、その人が豊かであるということです、豊かであるから困らないだけでお金がないから困らないわけではないということです。もしも御互いに与え続ける関係ができればそれが最善最良のパートナーなのかもしれません。

与えるには、まず求めなければならないように思います。何を求めるかといえば例えば営業でも同じことですが、いつも自分が持っている最善最良のものを与えようとします。すると、それは自分の真心や誠意であったり、自分が探求して掴んだ真理であったり、その人の不安を解消するものであったり、悩みや苦難を取り除くものであったりと自分から相手のために与えられるものを持っていなければ与えられません。

そしてそこには物質的なものから精神的なものまで、どれだけ自分から与えられたかがその後のつながりに顕われてくるのです。営業で言えば与えてもいないのに奪い続けていたらジリ貧になってきます。その逆に与え続けていれば種を蒔き続けるのですから豊かに実ってくるのです。

何か与えたい、何か御役に立ちたいと強く願うこと、そして万人に感謝しその一人として自分を有用に使ってくださいと学び続けることでその機会もまた得られるように思います。

自分を世の中に役立てたいと真に願うならその人に仕事がないということはありません。逆に、自分はこんなに優秀なのにといつも不平不満をもっていたら人も仕事も集まってくることはありません。

自分の都合でこのくらいとか、過去のパターンでこの辺でという出し惜しみはすでに与える喜びから離れてきている証拠です。どんなことにも一生懸命、何事にも誠心誠意全力で、自分の最良最善でと願い続け継続実践することこそが好循環を呼び込むコツだと思います。

毎日を遣い切る、自分を出し切るということは、言い換えれば毎日真剣に与え続けたということになります。

あの自然の草花に見習い、誰が見ていようが見まいが最善最良を出し切っていきたいと思います。