始祖への糸を辿る

私たちは今を生きていますが、元々どのような由来で今があるのかということにあまり意識を継続することはありません。例えば、今までどのような生きものと生きてきたのか、今まで何を食べてきたのか、今まで何をしようとしてきたのか、そういうことも突き詰めずに生きていることがほとんどです。

それに自分の身の周りのことに囚われやすく、両親から祖父母、その先の先祖までは思ってもそのずっと以前がどうであったかということはあまり考えないものです。

しかし恵まれていることに私たち日本人には神話というものが残っており、自分たちの始祖がどのような目的で私たちを導こうとしたかということが今でも伝承されています。

これを創始理念とも言いますが、「はじめが何か」ということを大切にするということです。言い換えればそれを根ともいい、根は今でも創始理念に結びついて今の私達といった枝葉が出ているとも言えるのです。

根はどこで枝葉がどこかを知るということは、根を枝葉だと間違えないためにも重要なことです。自分一代のことのために自分を使う人と、身を捨てても根の養分を枝葉の繁栄のためにいきようとするのではその滾滾と湧き上がる根の養分を自分へ吸収していくことができません。

私達の民族の血の中には、始祖が決心した弥栄の理念があるのです。それを実現するために私たちは今でも発展と繁栄を願い日々に素直に尽力しているのです。穢れを祓い、禊し清め、いや栄えようと定めた真心があるのです。

私の思うかんながらの道ではこの始祖の理念を、清き明き直き心で実践することが何よりも理念を顕現していくことだろうと思っています。

人は考えませんが、なぜ今の自分が生まれていて今、なぜここで生きているのかを遡り、その理由を突き詰めればそこに理由というものがあることに気づけるものです。

その理由に気づけば、どうあればいいかは自ずと明らかになるように思います。

現在、日本のことを深めていますがなぜ世界に日本文化が必要なのか、私達日本人が世界で果たすお役目が何か、それをもう一度神話から見つめ直してみたいと思います。

始祖の動機が何だったのか、そして何を私たちが生成しているのか、つながっている糸を辿りその真意を確認しようと思います。

世界のはじまりは世界のおわりを意味します。世界が今もあるということは、必ず始祖があったということです。ここから世界共通の創始理念を紡ぎだして、世界へ正しく伝承できるものを掴みとりたいと思います。

日本を見直すためにも、まずは世界の発祥から考えてみたいと思います。

「話せる」ということ

アニマルコミュニケーターという職業があります。有名なのが、アメリカのハイジさんという女性です。この方は、小さい頃から動物と対話ができる力が備わっていましたが警察官を経て体調を崩したことから退職し、田舎で静かに暮らしていましたが何か自分が御役に立てることはないかとはじめたのがこの仕事だったそうです。

私も幼い頃から犬と生活したり、様々な動物と暮らしていましたから動物のことが大好きです。幼い頃の夢は動物園の飼育係であったのも、動物と意志疎通をとることが楽しかったからのように思います。今も身のまわりには常に動物や虫たち、植物がいますからそれだけで幸せを感じます。

先日、GTセミナーで講師をしてくださった赤ちゃん学会の麦谷綾子先生のお話の中で言語発達も日本語を学んでいく過程で日本語の母音や子音を身に着けていくことで最適化していくということがありました。つまりこれは人はもともと持っている能力を、次第に今の社会に適応するために力をそぎ落として最適化するという考え方です。赤ちゃん学会の講師のお話をお聴きすると、いつも次第に大人になるということは赤ちゃんの時の能力が最高で後は、次第に必要な力だけに削られていくということを仰っています。

しかし本来、人には様々な特殊な能力が赤ちゃんのときあって、それをそのまま残している人がいるというのも事実です。

このハイジとさんいう女性もきっとそういう持って生まれた力を残したように思います。人は何でも特殊な力を持っていてもそれをどう社会に活かすか、世の中の役に立てていくかということが大切であろうと思います。

そのハイジさんの著書「動物とはなせる女性ハイジ」には私の日頃考えて居る事との共通点が多くとても共感しました。一部を紹介するとこうあります。

「人間でも動物でも、相手の声を真摯に”聴く”には、こちら側の心が少しでも閉じていてはなりません。そのことを、いま一度、自覚しました。科学者たちは、脳内に言語と理解を司る前頭葉がないため、虫たちは考えることも理解もしないといいますが、決してそうではないと、私は思います。」

動物や虫たちにも複雑な感情があり、言葉は喋らなくても心はあります。八百万の神々という見方から物事を鑑みればすべてのカタチ在る無しに関わらず心はつながりの中で感じられるのです。

またこの一節も大変共感できます。

「動物と”会話”をするということは、人間をとても謙虚にしてくれます。動物たちは素晴らしい先生です。すべての動物~馬、鷹、犬、イルカ、アレチネズミからガチョウに至るまでの、ありとあらゆる動物たちが、考え、感じ、感情をもつ生き物だということを、すべての人間にわかってもらえること、それが私の希望であり夢です。人間たちが動物をより良く理解することを助けること、それが私の使命です。」

人は謙虚でなければ人間とも対話できません。自分の中に驕りが合ってどこか相手を分かった気になっていたり、何でも知った気でいたらそれが意固地になり傲慢な自分をつくりだしてしまうのです。

現代の社会で人間関係が世知辛く貧しくなったと言われたりするのは、このつながりの中にあるものに気づきにくくなってきているからです。謙虚さというものは、相手に心を開いていくこととです。

一円対話の中のオープンでいるというのも、平等でいるというのも、そこには自分がまず謙虚にならなければ相手を共感していくことはできないのです。きっと何かあると思えるかというのは、自分の中の謙虚さと向き合っているということです。

動物や植物などと対話するなどというと馬鹿にされることの方が多いのですが、何のために行うかということです。よりよく自然を理解していくことが、心を学び素直を研鑽し謙虚の実践になるということです。

発達障がいというのは、昔の力を遺しているということでしょう。

見守っていきたいと思います。

世界観の研鑽

何かを行うとき、その物事を自ら丸ごとで取り組むときと表面上で取り組むときがあります。

人は全ての問題を自分の問題だと捉えれらるときは丸ごとであり、それをどこか他人の問題だと思っているときは表面上になるのです。

なぜ表面上になるかというのは、どこまで責任を持つかという問いがあるからです。

例えば、お客様の問題であっても、子どもの問題であっても、世間の問題であっても、それを自分とはどこか関係がないと切り分けたり、仕分けたりしているうちはその問題は他人事の領域で責任はほとんど自分以外にしてしまうのです。

本来の責任とは、責任感のことです。

例えば、世界で起きる悲しい事件があるとします。今ではシリアの難民の問題や、日本での自殺の問題、社会で起きる様々な痛ましい事件のこともこれは自分の何かに問題があるのではないかと思える人と、どこか他所で起きているのだからと関心を持たないのでは責任感に大きな差があるのです。

世界の出来事や世間の事件に関心を持つ必要があるのは、それが自分がどうすればそれを解決できるだろうかと常に自問自答しつつ、それを自らの生き方の実践にまで昇華していかなければそもそも何のために自分が社会の中で自立しようとするのかが分からなくなるからです。

それに社会というものをどのようなものにしていくのかは、社会に参画している大人の責任でもあります。様々な問題の中で自分の役割を見出し、それをどのように自らが責任感をもって取り組んでいくかで自他が分かれない場所で様々な周囲とつながっていくように思います。

これは自分の問題ではないとか、あれは自分とか関係ないとか、そう思うのは目先の自分の立場に囚われているからです。本来は、それは何を繋がっている課題なのか、そして何を解決している事柄なのかと気づいていくものです。

また自分の身の上に起きることは、自分だけに起きる事ではありません。それは必ず社会のどこかで起きる問題とつながっていますし、そしてそれは未来の本当の問題を解決するための尊い体験になっているのです。そこから人は自分の本当の役割に出会っていくのです。

だからこそ一つ一つを自分のことだけにせずよく玩味して自らが課題と一体になっていくことが責任感を自覚することのように思います。みんな自分のことだけで精一杯と思ってしまうものですが、もう少し客観的にその体験は何の問題とつながっているのかを分けずに考えていくことが世界に視野を広げていくことになるように思います。

常に問題は自分のものとして、全ての出来事を自他一体に捉える世界観を研鑽していこうと思います。

丹誠の徳

二宮尊徳に報徳訓というものがある。この「訓」という字は、普遍的な教えのことでよく教訓という言い方で代々語り継がれているものです。言い換えれば、これもまた子孫を思いやる真心で創られた大切な生き方の智慧であろうとも思います。

人は一生の中でそういう教えに出会える人と、出会えない人がいます。伝承していくということは、そういう古来からの大切な日本の心を受け継いで守り次世代へと生き方そのものを譲っていくことであろうとも思います。

どんなこともそうですが、根源とか絶対とか普遍というものや自然は当たり前のことすぎて見向きもしないようなことばかりですがそこに忘れてはいけない離れてはならない叡智があります。

改めてそこに気づけるかどうかは、その教訓に触れて学び続けていくからのように思います。

報徳訓にはこうあります。

「 父母の根元は天地の令命に在り 身体の根元は父母の生育に在り
子孫の相続は夫婦の丹精に在り 父母の富貴は祖先の勤功に在り
吾身の富貴は父母の積善に在り 子孫の富貴は自己の勤労に在り
身命の長養は衣食住の三つに在り 衣食住の三つは田畑山林に在り
田畑山林は人民の勤耕に在り 今年の衣食は昨年の産業に在り
来年の衣食は今年の艱難に在り 年年歳歳報徳を忘るべからず」

今の自分があるのはなぜか、今の自分がいるのは何の御蔭であるか、そのためにその御恩に報いていこうとするのが最も大切であるということを説きます。「身体の根源は、父母の生育にある。父母の根源は、祖父母の丹精にある。祖父母の根源は、その又父母の丹精にある。こうして押しきわめてゆくと天地の大生命に帰する。そうすると天地は大父母だ。」と諭します。

これらの天地の丹精があるから、今があり、その自然の真心があって自分というものが生きているということが根源です。そういう大切なことを決して忘れてはならないからこそ報徳を実践するのだということを教えています。

日々に省みてみると、人は目先の損得や身近な利害ばかりに執着し、こういう当たり前のことを忘れてしまうことから私心に囚われ迷い苦しみを生み出していると思います。

天地開闢から今まで、私達日本人の古来の心、天地自然の神恩に如何に感謝するのかを実践で示した生き方がこの報徳訓には凝縮されています。

丹誠の徳というものをもう一度、正しく考えてみたいと思います。

 

信仰の研鑽

何かのご縁を実感するということは、人の話をどの場所で聴くかというものです。ご縁とは素直のことだからです。

素直になっていくと相手の話が自分が本来聞こうとしているよりもずっと高いところで聴けるものです。そういう自分の相手への信仰のようなものが、ご縁そのものを実感していくことなのかもしれません。

そもそも、ご縁を実感するというのはいつも何かを教えてくださっているのが出来事そのものであると実感したり、今日のあの言葉はきっと私も気づいていない大変なことを気づかせてくださっていると思うことからうまれるものであろうとも思うのです。

一つのことを流さないことも、一つのことを深めることも、それはご縁を大切に信仰しているかという自問自答そのものです。よりよく生きることは生きることへの真剣な道であり、その中で人と出会うご縁とは人間への信仰ともいえ、その人間への信仰は自分自身の中にある人間そのものとの一期一会を続け丸ごと自らの尊い命を遣り切るということであろうとも思うのです。

人の話を聞くのに、良いことを言っているなぁくらいの信仰なのか、それとも、またかけがえのない尊いことを教えていただきましたと感謝するのかはその人の信仰の度合いによるもののように思います。

どんなことからも学んでいこう、どんなことも気づいていこうとするのは積極的にご縁を活かそうとする姿勢のように思います。そうした姿勢そのものが自己研鑽であり、日々に身削ぎをして素直でいようとしていくことであろうとも思います。

最後に松下幸之助さんにこういう言葉があります。

「お客様の苦情から商品の欠陥が判る。お客様の要望が新商品のヒントになる。お客様とは本当に有難いものです。」

お客様は神様ですと言ったその意味は、何でもサービスを高めればいいということではなく、お客様の仰っている本当の意味を自分の耳で素直に聴いていく、つまりは崇高で純粋無垢な真心で受け止めていくことだろうとも思うのです。

商品を創らせていただけるのは、お客様の声を常に素直に私心なく聴ける実践からです。お客様の御蔭でいただいたご縁と御恩を感謝でカタチにしていくのが商品の本質だからです。

このように日々に自己研鑽を怠らないことは、人の言うことを素直に聴けるほどの信仰へ高めていくことであろうと思います。

まだまだ私は何かあるとすぐに分かった気になってしまう自分があります。
師の存在があることに大変有難く思います。

善いか悪いかなどにも囚われず、感謝と御恩返しを決して忘れず信仰の研鑽という実践をしていきたいと思います。

自ら同体験

同体験をするということは、体験からお互いのことを理解するということです。

人は体験を通して気づくのは、感覚があるからです。この感覚とは、全体の意味を深く捉えることができる力とも言えます。そうやって体験というもの中には、五感や六感と言われる直観を用いて知らずしらずに本質を捉えているのです。

例えば、同じところで同じものを食べて同じものを観て同じ場を共有するとします。すると、そこで見えたものは個々で異なっていますが感覚は同じものを捉えているのです。美味しいものを食べれば、それぞれが何か美味しいと感じるか直観しますし、同じ場で感じた自然の雰囲気なども誰かがそれを発するとすぐに他の誰かも直観で理解できるからです。

つまりは感覚というものは直観とつながっていて、その感覚を同じく体験することで頭ではわからなかったことが丸ごとお互いの感性のところで通じ合っていくのです。

それに同体験には、思い出の共有というものもあるのです。

人は思い出を共有することでその人を自分の中でつながりを実感するものです。共に何かをした記憶そのものの中に、互いの芯が生まれそこを合わせることで互いの信頼関係の基が築けるともいえるからです。

そして共に体験した記憶は、思い出せなくても自らの感覚がいつまでも覚えているものです。

だからこそ、共にあることを実感できる同体験を大切にすることが共生するということになるのです。その体験一つ一つの尊さに気づき、その体験に如何に価値を与えるかはその体験を高め、その体験を学び、その体験を楽しみ味わうことが大切です。

二度とない同体験だからこそ、そこに確かな絆があり一期一会の邂逅があるということ。

つい同じところに居て同じことをしているだけのような日々に流されそうになることがありますが、些細な小さな出来事ひとつひとつがとても尊いことを改めて実感します。

面白いことや楽しいことだけではなく、辛いこと哀しいこと、そして寂しいことも全部丸ごと自らで同体験することが人とのつながりや信頼、そして豊かな社会を築いていくのです。

自ら体験を昇華し、同じ体験をできたことに感謝していきたいと思います。

夢の価値

本田宗一郎氏の遺した言葉に「理念なき行動は凶器であり、 行動なき理念は無価値である。」があります。これは本当に的を得ている言葉であろうと思います。

そもそも人が何かを行うのに目的というものがあります。それは何のために行うのかという理由です。そしてそれを達成するのに手段があります。これはどのようなことで行うのかという方法です。

そして目的とは言い方を換えれば、その人の夢とも言えるものです。もしも夢のリーダーがその夢を持っている人たちに対して理念を立てずに行動だけを指示するならばそれは周りの人の夢を壊す凶器にしかならないというように私は思います。

またその手段としての今の自分が夢を実践していかなければその行動は何ら価値を生み出しているものではないとも私には思えます。この時の手段というものは、その与えられた場所で最善を尽くして夢を遣り切るときにはじめてその行動に意味が吹き込まれるからです。

理念と行動そのものが夢であり、夢とは理念を立ててこそ実践してこその夢なのです。

例えば、ある人の人生の目的が「感謝を伝えたい」とするとします。その手段は、看護婦であってもスポーツ選手であっても、会社員であっても、お坊さんであっても、与えられた尊いご縁のある自分の場所でいいのです。その与えられた場所で、自分が何の目的を持ち、それをどのように具体的に実践していくかということが何よりも大切だということです。

以前もブログで書いたと思いますが、夢というものは単なる手段に辿りつくことではありません。よくサッカー選手とか芸能人とか、社長とか、何かになったら夢が叶ったといいますがそれはただの結果の一つにすぎず本来の夢とは「目的を達するそのプロセス」のことでありそれが何かの手段によって形になったということを夢の実現というのです。

そう定義すればあの夢を諦めないという言葉も、夢を信じるという言葉も、それは初心を忘れないという意味と等しいのです。

人が何のために生きるのかを思う時、そこには必ず理念というものがあります。その理念は、その人が生きていける生きている理由でもあります。それを今在るところで精一杯行動していけばそのものそれが夢の価値を生じていくのです。

日本の持つ精神的な美学は、この全てを懸ける本気の生き方。働き方と生き方の一致にこそあるようにも思います。夢というものと現実を重ねあわせて生じる価値にこそ次世代へ継承する価値があるものです。

夢そのものが価値なのは、理念を実践するときに感じられるものです。
夢を信じて、夢を実践し、夢を顕現する日々を味わっていきたいと思います。

 

人の間の絆

昨日はある園で理念の確認をひとつひとつ行う中で、目指す子ども像についての話をしました。

子ども像というものは、未来の大人像のことであり、それは今の大人たちの課題になっていることや自分が生きてきた社会の中でとても大切だというものを子どもの時にできる限り体験させてあげたいと願う項目です。

そこには、思いやることができる子どもや、自分を大切にできる子ども、心身共に健康な子ども、豊かな心を持てるや自信を持てる子どもなどがありました。

その一つ一つをよく観てみたら、子どもを人に換えればいいだけで今の私達が人生で学んでいることと同じです。人はいくつになっても、社会を学び続けます。事件を起こしては、それをどうすればいいのかを共に考えて共に反省し、共に気づき共に乗り越えていこうとします。

いつの時代も、人は社会を学ぶ事に余念なく常に社会で学び続けているから存続しているのです。

人間は一人の大人として成長していくのに一つ一つ大切なことを学んでいきます。それは幼い頃から齢をとるまで何回もその機会に恵まれます。そうやって少しづつ出来事という尊い経験を通じていつまでも社会で生きていく力を身に着けようと学び続けるともいえるのです。

そしてその尊い体験とは、体験の周りにいる人たちの関わりによって変わっていきます。例えば親がいれば、体験したときに何をどうみてくれたかを実感し子どもは安心します。それを沢山持てばもつほど大人になったら社会を信頼し、安心していく中で自他を役立てる有効な人に育っていきます。

そうやって社会を実感することが人の幸せとも言えるように思います。

親はいつも子どもに体験をさせてあげながらそれを天と同じように見守り信じて学ばせるのです。

その子は見守られた体験を実感しながら巣立っていきます。子どもが巣立つとは、自分が一人で社会に出ても常に周りが見守ってくださっているのだからそのような見守りの社会を自分も独り立ちして共生していこうということを自分が実践していくということです。

体験し合う中で、その間に流れている大切な道理を学び、自然の理法を習得し、そうして人間という社会を生きる、宇宙の偉大な循環の一つになっていくのです。だからこそ私たちは常に体験を尊び、体験から学び、その体験を伝えていくことを怠ってはならないと思います。

そしてこれからも先も子どもたちが安心して社会で生きていけばいいかを学ぶためにも、先人と後人の間にある絆を結んでいくことだと思います。

このように社会を学ぶということは、共生や協力、生き残ること、親心や自然を学ぶということだからです。畢竟、保育や教育に観られる「育」という字は、活きることを行うということだからです。

その絆がいつも清らかであるように、愛があるようにと自らの実践を高めていきたいと思います。社会を見守る人たちを一人でも多く育てていくことが、人間愛の本質かもしれません。これからも絆を忘れないでいようと思います。

御蔭様の実践

私たちは様々なものを伝承してきたことで今の自分たちが生きています。今の私たちが日本人であることも、それは先祖から代々受け継いできたものが今でも存在していることの証明です。

例えば、神社でも里山でも民芸品であってもそこには形もありますが大切な心があります。自然と調和していこうとする心や、自然と共に暮らしてきた私たちの生き方が遺されているのです。そういうもの一つ一つの中に由来があり、その由来を辿ることで心は顕われます。

そもそも伝承という字は、「伝える」ということと「承る」という字で構成されています。これは伝える側とそれを受け取る側という字です。何を伝えて何を受け賜るのかは常に受け賜ると感じた側が将来、子々孫々へ伝えていこうとするはずです。

生きていく中で、自分の時代を生き切ろうとするときそこに後の人達へ託していこうとするのが人間です。その根本には感謝があり、今まで自分がたくさんの人達の御蔭で育ててくださったこと、多くのご縁の中で大切な心を戴いたこと、そういうことを恩返ししたいという気持ちからきているものです。

この恩返しをしたいという心は、常に私たちはつながりや絆の中に見出しているものです。

自分の体験したことは、体験させてくださった偉大な天や自然の見守りがあったことに感謝するのです。この世の全ての生きものや自分がその生そのものを体験できるのは、いつもそこにやっていいんだよという温かな優しい自然の親心があるのです。

そういう親心をいつまでも忘れないでいたいという気持ちが、伝承に籠められるのです。

やってきたことを伝えていくというのは、御蔭様の実践であるのです。日本の心に御蔭様の実践があることは素晴らしいことで、その御蔭様こそが理念そのものに転じているのです。

有難い日本の心に触れられるとき、そこに伝承していくものの価値に触れます。

私の仕事の使命をまた一つ発見しました。
有難うございます。

勧善懲悪の理法

昔から勧善懲悪の考え方というものがあります。

二宮尊徳の報徳仕法もそうですが、他にも孔子や仏陀も様々な聖人がその理法を説いています。如何に敵を持って敵を制すか、水を持って水を制すか、己に打ち克っていくための仕法を生み出しているのです。

人間というものは、頭があります。これは頭でっかちの方の頭のことで、頭は現実に起きることを起きていないうちに考えてどうにかしようか、こうにかしようかと走り回るものです。それと同時に心というものがあります。これは、真心からこうしてあげたいとかこうしようとか具体的な行動により実践していこうとするものです。

これらは昔から学ぶ方法として、王陽明の「知行合一」などでも語られ、知ることと行うことを一致させていくこと、一体の中で行うことこそが学問であることですでに説かれています。

とかく現代人は、起きている現実のことよりも先回りして知識を得るあまり行動の量がついてこない傾向があります。学校でも先に教えられてばかりいると、体験するよりも先に教えてもらったことで分かった気になってしまうと本当に学ぶ機会を逃してしまうものです。

今、来ているものを全て受け取るということは全てを本当に学びにしているかというその心がけが問われてきます。自問自答という言葉も、本来は今というものへの正対の如何によるものですから常に今を大切に心を遣った後に頭を使うように心がけたいものです。

話を戻せば、人は必ずその中に自我や私ともいう欲が存在しています。その欲をどのように制するのかに二宮尊徳は夜話でこう語ります。 「世の中の人はだれでも、聖人というのは無欲だと思っている。しかし実際のところ、聖人は大欲なんだよ。もっともその大は『正大』ということだ。賢人の欲がこれに次いで大きく、君子がこれに次ぐ。しかし、凡人の欲は、小欲のなかでもっとも小さな近欲にすぎんのだよ。学問はこの小欲を正大な欲に導く方法なのさ。 では大欲とは何かといえば、万人の衣食住を充足し、大きな幸福をもたらそうと望むことだ」と。

欲を否定して抑圧するのではなく、その欲によってその欲を制御するという考え方です。つまり私に言わせれば、その欲はやる気にもなり情熱そのものであるのだからそれ以上のことを優先していけばいいというものです。

私が行う理念構築は、二宮尊徳の報徳仕法に習って産み出したものです。これは等しく、自分のことで困窮する時こそ、より理念の方を確かに行うことで自らを常に正大にしていこうとする思想なのです。

人は、大変な時こそ、困窮するときこそ、勤めて理念を行うことではじめて私心から離れ己に克つことができるものです。理念とは、形式的なものではなく道そのものであろうと私には思えます。

礼記に「道(みち)を以(もっ)て欲を制すれば則(すなわ)ち楽しみて乱れず」とあります。

「道が観えるか?」常にその問いは、理念を行っている最中にこそ存在するものです。人はみなこの理念道を尊べはそこに真我との出会いもまたあるように思います。

ちょうど、もう一度今の仕事を整理している中で善悪一体、自他一如、その大自然の勧善懲悪の理法を直観しています。