初心伝承の人生

誕生日を迎え、多くの友人たちからお祝いのメッセージをいただきました。思い返せば、あっという間にこの歳まで過ごしてきました。日にちでいえば、赤ちゃんとして外の世界に出てきてから17194日目になります。また今日もその日に一日を積み重ねていきます。あと何日、この世で体験できるのか。そう思うと、貴重な日々を過ごしていることを思い大切にしたいと願うようになります。

誕生日というのは、そういう日々を過ごす原点を思い出しこれまでの日々に感謝する日かもしれません。どの一日も、よく考えてみたら当たり前の一日ではなく尊い日々です。

その時々の人と出会い、語り、何かを共にする。いのちを使い、いのちを守るために、他のいのちをいただいて暮らしを紡いでいく。どの日々もつながっていないものはなく、どの日々も結ばれていないものはない。

一日一日をリセットしているようで、それはリセットではなく新たな一日をさらに新しく体験させていただいているということになります。そして身体も衰え、次第に死に向かっていきます。死を想う時、この今が如何にかけがえのない一日かは誰でもわかります。

一日を何に使って生きるのか、自分のすべての日にちをどんなことに懸けて生きるのか。

有難い一日にかけがえのない喜びを感じているとき、人は仕合せに回帰します。どのような一日であったとしても、その一日は二度と戻ってこない一日。一期一会だからこそ、生き方を見つめ、生き方からいのちを発して光を放っていきたいと思います。

我が初心伝承の人生。

残りの日数で、できる限り真心で尽力していく覚悟です。

自然の美学

昨日は、郷里の鳥羽池でお花見をする機会がありました。清々しい春の日差しに透き通った清々しい桜の花びらにうっとりします。床が桜の花びらでびっしりになり、時折、吹いてくる涼しい風に吹かれて舞い上がります。この季節はあらゆる生き物たちが成長していきますが、その旬を象徴するような桜の散りざまに美しさを感じるのかもしれません。

散り際というのは、美学でも語られます。特にサムライの武士道精神のようにも語られます。死にざまが潔いかどうか、散り際がどうかなどを気にするというのはそこに覚悟があるからかもしれません。

武家はみっともない死にざまを晒すことがないようにと、むかしは懐刀を常に持っていたともいわれます。死に際して潔白であることを証明することに意味をもっていたともいわれます。新渡戸稲造の武士道には、なぜ腹を切るのかというのに「特に身体のこの部分を選んで切るは、これを以て霊魂と愛情との宿るところとなす古き解剖学的信念に基づくのである。」と書かれます。この場所には、霊魂と愛情があったと、その真心は変わりませんという潔さですがこれが忠義の原型にもなっています。

今では信じられない話ですが、潔白の象徴が切腹でもあったということです。そこに散り際の美を感じたのかもしれません。桜もまたその散り際をこの潔白と合わせて美学にしたのかもしれません。

しかし本来の桜の散り際を見ていたら、綺麗に美しくこの世を去りたいというものではなく予祝といって先に信じた未来が訪れているという祝福の方が私には色濃く映ります。

桜は祝福の象徴であり、田んぼ神様が先に今年も祝福が先にきておめでとうございますとみんなで喜び合い、収穫の美しさ、その仕合せの口火をきるような明るく美しい気持ちになる存在に感じています。

どんな暗く寒い世のなかでも、春は必ず訪れるという信じさせる存在でもあり、同時に純粋無垢な瑞々しい真心で真摯に咲かせていこうとする子どものような明るい存在です。

同じ花であっても、人はその時々の心情によって解釈は異なります。しかし桜そのものがどう感じているのか、そんなに切腹とか散り際とか気にしているとは思えず、スギ花粉やヒノキ花粉を飛ばしているのとそんなに違いを感じません。ただし、普遍的なものはそこには大切ないのちがあり、巡りがあり、私たちは自然の循環と一つになって仕合せを深く味わっているということでもあります。

この季節はこの季節のいのちの素晴らしさがある、それを喜び合うことで地上の楽園、人生の妙味を味わっていきたいと思います。

心の幸福

家には鶏をはじめ犬や畑の作物など一緒に生きている家族がいます。もちろん人間の家族もですが、一緒に生きていると自分の予定を変えてでも共にお世話をし合います。お互いにいのちを分け合い、同じ場所で同じ時を生きる。そういう支え合い助け合う中に、仕合せがあるものです。

人間の幸福とは、心の幸福の方をいいます。物質的な幸福は確かにありますがそれは長続きしません。しかも死んでしまえば物は手放していくものです。死んで持っていけませんから持っていけるものは心の豊かさと仕合せです。

心はいろいろなものを感受します。美しい思い出、楽しい思い出、時には奇跡の思い出、豊かさに溢れているものです。その心を如何に充足させていくか、それは足るを知る心からはじまります。

この充たされているというのは、充分に足りているということです。言い換えれば、自分に相応しいものはすべて足りているという気持ちです。つい生きていたら、他人と比べたり、未来を不安がり足りない方、ないものねだりを繰り返します。特に、現代のような資本主義の競争社会の通念で場ができていますから油断をするとすぐに足るを知らないであくせくと経済活動ばかりを優先してしまうものです。もちろん、みんなで生きているのを広げていけばこの世の人たちは同じ時代を生きる家族ですから家族のためにお世話し合うのは当たり前のことでもあります。

味わい深い今、奇跡のような時間を生きる私たちはこの地上の楽園でどう過ごしていくかを決められます。速度ばかりを早めては、結果を追い求め、不平不満ばかりを解決しようと躍起になる。そういう日々を過ごしていたら心の幸福は置き去りになっていくものです。

子どもの仕合せを考えるとき、もっとも子どもに与えられるものは何かということを考えることがあります。それは心の幸福ではないか、そう思うのです。そのためには、その子どもの周辺の大人たちがどのような生き方をしているか、果たして今どれくらい幸福で生きているのかを見つめ直す必要も感じています。

忙しいことを挨拶のように使うのではなく、仕合せであることを挨拶のように使う世の中にしていきたいものです。私も日々に社会通念との折り合いでなかなかそう簡単にはいきませんが、暮らしフルネスを通して自己を磨き、真の豊かさの意味を伝承していきたいと思います。

桜の初心

桜を待っている心は、春を待つ心です。春を待つ心は、長く厳しい冬を過ごしている心でもあります。昨年も色々と苦労がありました、それは人間関係の苦労にはじまり自らの覚悟を試されるものばかりでした。なぜこんなことになるのかと、どうして理解し合えないのかと何を間違ったのかと自らを内省し素直になって何度も何度も確認しては過ぎてしまった過去には反省し次からは改善しようと取り組む日々でした。

眠れない日、食べられない日、頭痛の日、起き上がれない日などもあり、今思えばこんなに明るい性格なのによくもまあこれだけ落ちこめるものだと感心しました。人は一人で生きているのではなく、多くの人たちの人生と重なりながら生きていますから色々なご縁があればあるほどに色々なご縁にまつわる業のようなものにも触れていきます。

そっと距離を置くこともできれば、知らず知らずに巻き込まれていることもあります。周囲の人たちの声に深く耳を傾け、自らの内省を怠らず謙虚に素直に自らを磨き続けることで冬の厳しさの中にある有難いぬくもりやいのちがそれぞれに輝き結ばれていることの清々しさなども感じられるようになるものです。

そうしているうちに、気が付くと春が訪れます。この春というのは、待っている心です。何を待っていたのか、それは素直でいたい、謙虚でいたいとそして自らの初心を守り続けられるような強さとやさしさを与えてほしいと祈ってきた心です。桜を見るとき、なぜかその人としての生き方のようなものを重ね合わせてしまいます。それは冬を乗り越え春を待っている心を感じるからです。

松下幸之助さんにこのような言葉があります。

「悪い時が過ぎれば、よい時は必ず来る。おしなべて、事を成す人は、必ず時の来るのを待つ。あせらずあわてず、静かに時の来るを待つ。時を待つ心は、春を待つ桜の姿といえよう。だが何もせずに待つ事は僥倖を待つに等しい。静かに春を待つ桜は、一瞬の休みもなく力を蓄えている。たくわえられた力がなければ、時が来ても事は成就しないであろう」

春を待つ心とは一瞬の休みもなく力を蓄えているということ、今を生き切る日々を生きているということでしょう。常に今を真摯に生きているからこそのこの美しい桜が咲く。その桜を見ては、私たちは大切な生き方を思い出すのです。それくらいこの世の中にいて、日々を一瞬を生き切ることは難しいのです。後悔したり、心配したり不安でいる、そういうことよりも今を生き切ろと、そういうように私は感じます。

また、親鸞さんは「明日ありと思う心の徒桜、夜半の嵐の吹かぬものかは」とも詠み、良寛さんは「散る桜 残る桜も 散る桜」とも詠みました。

一瞬一瞬を生き切るからこそ、桜はその一瞬の美しさのままに散り切るのです。この世に未練を残さず、真摯に今を生き、覚悟をもった清々しい生き方から学び続けていきたいと思います。

 

 

糸桜と共に

英彦山の守静坊の枝垂れ桜が見ごろを迎えています。私は誕生日がこの頃ですからいつも桜には思い入れがありましたが、この宿坊の枝垂れ桜が好きになってからさらにこの季節を深く味わえるようになりました。

しだれ桜とは、枝が柳のように垂れ下がって生えている桜の総称のことをいいます。これは野生種の江戸彼岸(エドヒガン)の変種で様々な品種があるといいます。その花の美しさから、帯の巻き方にしだれ桜むす帯というものもあり、まさに糸を垂らしたような花姿をすることから、別名 糸桜「イトザクラ」とも呼ばれ日本人に古くからとても愛されてきました。

糸桜という呼び名の方が、しっくりくるのはその雰囲気がまさに糸の優雅さと帯を連想する美しさをまさに帯びているからです。天然記念物になっているものも多く、お寺にあることも多いと思います。

特にこの守静坊の糸桜は、生育上、見事な場所に植えられています。

先人たちがどのような思いでこの糸桜を見守ってきたのでしょうか、明治以降は山伏は苦難の時代でしたからきっと様々なことをこの糸桜を観て思い合ったかもしれません。

その時代その時代、人間には様々な事件や物語が生まれます。平和が続いた安らかな時代もあれば戦争に巻き込まれてたくさんの人が亡くなったり、気候変動で一緒に苦労したりと色々とあったでしょう。しかし、今こうやってむかしの人たちが観てきたものを一緒に感じることができるとき、私たちは時を超えてその樹木と共に何かを懐かしむことができるように思うのです。

生き証人というか、ずっと観てきましたよという存在とこれからも観ていますよという存在に私たちは観られることで何か大切な初心や原点を思い出すのです。

毎年、この季節に同じように繰り返し花を咲かせる存在はそれ自体に私たちは何か有難い偉大な見守りを実感できるように思います。

一生の中で人と出会うように、桜とも出会います。この糸桜とのご縁が素晴らしいものになるように、恥ずかしくない生き方をこれからも取り組んでいきたいと思います。

桜の生き方

この季節は桜の花が満開で、毎日飽きるほど桜を楽しんでいますが飽きることがなくその可憐な美しさに見とれてしまします。薄紅色や純白の花びらがひらひらと舞い、おっしてゆらゆらと揺れる花弁、ミツバチでなくても引き寄せられてしまいます。

おかしな話ですが、むかし家に猫がいて本当は嫌いだったのですが猫のちょっとした仕草に母性のようなもの、あるいは好奇心が揺さぶられて感情が波打つような気持ちになったことがありましが桜にも似たような感覚を覚えるときがあります。

この幻想的で魅力的なこの花はなぜ日本人に特に愛されるのか、そこには魂に問いかけてくるような純粋な徳が宿っているからかもしれません。

私は梅の花の方に深い懐かしさがあり、待ちわびた花という感じは梅の方に感じますが桜もまた周囲の陽気が満ちているときに咲きますからこの方が春をイメージできます。

もともと、さくらの名前は「サ」は田んぼの神様のこといい、そこに鎮座する「クラ」が合わさり「田んぼの神が宿る木」という由来から来ています。今回、高菜の収穫をしましたがそれも桜が咲くころというのがむかしから言い伝えです。他にも、稲の種まきなどもこの季節、それくらい農家は、この桜が咲くころを目安に農業をしてきました。桜の木々に、秋の豊作を祈願したように思います。

桜の花の時機はとても短いものです。しかしその儚さゆえに私たちはこの時間を大切にしたいと思います。まさに人生もまた同じく、儚いものです。儚いからこそ、夢のようなこの時間をどれだけ味わうか、そして美しい花を咲かせようかと願い祈るのです。

昨年から守静坊の枝垂れ桜を守らせていただくご縁をいただきましたが、関わってくださった方々をはじめ多くの子どもたちが安心して平和に過ごせ、みんなが豊かになっていくことを祈る気持ちが増しています。

桜からその生き方を学び、子孫へと繋いでいきたいと思います。

先祖返り

先祖返りという言葉があります。これは一般的には何代も前の先祖がもっていた遺伝上の形質が、突然その子孫のある個体に現れることをいいます。人間以外でも、植物や虫、動物などにも起きる出来事です。この先祖帰りというのは、原点回帰ともいえます。本来の姿がどうであったのかを思い出すのです。

もしも歴史を巻き戻すとしたらどうなるか、そうするとみんな先祖返りします。その時の先祖になるのです。時代は何回もそれを繰り返し、歴史を新しくしてきました。歴史が新たになることでまたやり直してきました。文明実験というものは、人間の一つの挑戦でもあります。

過去の遺跡が世界中のあちこちに遺っていますが、どれもむかしは大きな文明が栄えた跡です。その跡をみると、なぜ今、こうなっているのか。その時は一体どうやっていたのかということに思いを馳せます。

考古知新というのは、そのむかしを思い、そして今を知るために必要なことです。そして先祖返りとは、今を見つめ直しこの先の未来のためにもう一度、歴史から学んだ最も徳で治まった豊かで幸福な時代に原点回帰して結び直そうというという試みです。

こういう試みを遺伝子を含め、いのちは生き残るために何度も繰り返してきました。変化成長し、発展するようにできていると同時に原点回帰できるようにもなっているのです。それが変化そのものの本質であり、私たちがいのちのリレーをし循環のなかで生きている証拠でもあります。この多様化というものは、変化に適応するためです。この変化は、環境の変化もありますが精神の変化というものも同時にあるように思います。

これから精神がどう変化していくのか、環境問題とは別に精神問題というものがあります。だからこそ私たちは、かつて先祖たちがどのような精神で真の豊かさを築いたていこうとしたか、子孫に何を祈り、徳を積んできたのかを学び直す必要性を感じています。

世界にとって日本という場所と日本人は、とても大切な役割を果たします。子孫をことを考えれば、ツケを遺す生き方ではなく徳を遺す生き方に転換していきたいものです。先祖返りはもっとも尊敬する偉大な先祖の心に触れるところからはじまります。人間的にも成熟し、知恵を磨き、徳を養う、そういう先祖に近づけるように先祖返りの人々と志を合わせて結を繋いでいきたいと思います。

徳の道

天道と人道というものがあります。天の運行に対して、人の定めともいうのかもしれません。その中心にあるものは徳です。そしてその徳の循環を道とも呼びました。この道徳というものは、すべての根源でもあります。そして天と人を結んでいるもの、それを道徳と経済ともいいました。

本来、自然の循環と一緒一体になりながらその中でどのように私たちは暮らしてきたのか。自然の利子をいただいて、その分だけを有難くいただき足るを知り倹約をしてその豊かさの真実を観るというのが徳の道に入る原点かもしれません。

私は幸運なことに、自然のいのちが喜び合う風景を何度も観る機会をいただいています。すべてが喜びあう世界は、とても調和しそこには徳が満ち溢れています。羅網のような結び合いとつながりの世界です。

本来、むかしの人は目の前の小さなご縁が宇宙全体に結ばれているのを直観していたのではないかと思います。夜空の星をみては、その星の結びつきを感じる。そして身近な小さな植物の変化で気候の全体を直観する。それくらい私たちは身近なものの徳を感じ、その徳が循環するなかで如何に日々を暮らしていくかを考えていたのです。

本来、経済という言葉は経世済民であり世の中を自然になるように修養することです。自然であるというは、自然の循環を邪魔せず如何に調えるかということです。山が調和して神聖であるように私たちの先祖は自然の調律を丹誠を籠めて感謝し調和させていた暮らしをしていたように思います。

現代は、なんでも人間の都合を優先し効率第一で画一化、均一化したことでその循環は見事に破壊されていきました。その結果として、徳が失われていきました。この徳というのは、日々の小さな心がけがもっとも効果があります。そしてそれは自分のいのちを調え、健康に仕合せに生きるためにも必要なことです。

未病と言って、病気を未然に防ぐにも日ごろの暮らしをととのえていくのが一番であるように徳もまた得だけを回す車輪にならないように徳と得の両輪を丁寧に回していく必要があります。

その両輪が走るところは道です。その道は、元々あった普遍的な道があります。その道が逸れてしまいそうなら軌道修正してまた元の道に戻る必要があります。そうやって今も私たちは歴史を創っているからです。

先人の人たちの歩んできた道を尊敬し、子孫たちのための道を尊重する。そのために今の私たちはどのような道を歩んでいるのかを反省し改善する。この繰り返しで、徳は醸成されていきました。徳の道を精進していきたいと思います。

自分を全うする

人は知らず知らずのうちにたくさんの方々に助けていただいています。本当は、敵味方などなく巡り巡って役割を交代している存在とも言えます。

その役割をその時代、自分が担って体験するもいうものです。生まれてくる時、生まれてきた場所、そしてどのような役割があるかはまさに一期一会です。

その役割を全うするなかで、さまざまな体験を味わいます。体験はその人だけのものですから、それをどう味わうかもその人次第です。

色々な人に出会う中で、お互いを尊敬し合うことがあります。それは、お互いに自分にしかできない役割を果たしていることに気づけるからです。

結果がどうこうではなく、誰かと比較するのでもなく、その人にしかできないことだと深く共感し感謝するのです。

もし、自分が目の前のこの人の役割だったらと思うと有り難い気持ちになります。そして自分はどう接するかと思うと、自分の役割を真摯に全うさせていただきますと思うのです。

人生二度なしという言葉もあり、唯我独尊という言葉もあります。ご縁もまた、一期一会です。

かけがえのないご縁が結ばれて今がありますからこの今の自分の役割に集中して真摯に自分を全うしていきたいと思います。

奇跡の感性

時間を遡っていくと、過去の何かの時点のご縁がどうなっていったのかを辿ることができます。時間を辿ることで、過去のそのご縁の意味が分かったり今がどのように繋がっているのかに気づくことができます。また誰と出会ったことでどうなってきたのかも辿れば、その人が何をやりたいのか、どのような夢を持っているのかも次第にわかってきます。

その時々は、その人の夢がよく観えませんが時を遡ることではっきりとするのです。そしてその夢を一緒に叶えようとする仲間と出会ったり、あるいは誰かの夢を手伝う登場人物として役を演じたりするのです。

人生の旅路と道中で色々な人に出会います。

ある衝撃な出会いから、その人と一緒に旅をすることになります。旅をしながらたくさんのことを学び、そして夢を膨らませていきます。そして旅の中では出会いも別れもあり、また再会することもあります。別々の道をいくけれど、後で合流しようと約束するのです。

後で振り返って時間を遡れば、その別々の道が必然であったことがわかったりします。人生はそこで終わりではなく、最後までどうなるのか見届けなければわかりません。そしてその人がたとえ亡くなったとしても、そのあとの志を繋いだ人たちによってさらに道が前進していくこともあるでしょう。

大切なのは、道を諦めないこと、そしてそのご縁を大切なものにしていくために学び合ったこと、その美しい思い出をさらに豊かな未来に換えていくことのように思います。

その時々の感情では、良しあしも浮き沈みもありますがその出会いが何になったのかはお互いの宝物です。あの出会いで、お互いに夢が偉大に叶うキッカケになったのならそれはまさに奇跡と呼ぶものです。

どのようなことが奇跡なのか、それは時を遡ることで味わえるものです。奇跡の感性を磨きながら、この今、この一瞬、一期一会を大切に過ごしていきたいと思います。