いっしょ

今の時代は、教育によって個人主義を指導されていきます。自分が周りと同じことをできるようになることが目標にされ集団というものはそのために使われます。競争もまた質を高めるものではなく、みんなが同じことをできるようになるために使われます。

みんなで一緒にといっても、その使う人の「いっしょ」がどの意味で用いられるかでその一緒の意味が変わっているのではないかとも思えます。

本来、この「いっしょ」という意味はどういうものだったのでしょうか、それを少し深めて観ます。

一般的には、一緒にはいろいろな解釈があります。辞書には、ひとまとまりになることや区別のないこと、同時に同じことをすることなどが書かれています。基本的には混ざっているという意味で用いられ、同じでなければならないという意味ではありません。

例えば、チューリップの花を一緒に育てたといっても同じチューリップを咲かせようとするのは一緒にの意味とは異なります。ここでは同じところで同じように育てたという意味でしょう。

しかし本来の「いっしょ」は、私には渾然と一体になっているという意味に感じます。つまりは、あらゆる多様なものたちが同じ場所に生きてそれが渾然と混ざり合いつつも調和しているという状態のことです。

その一緒は、前者の同じだという意味とは異なり、異なっているけれど同じ今に生きている仲間というイメージがあります。同じことをただ同じようにみんなでやることが一緒ではなく、異なるもの同士が同じ時代に生きてご縁を伴にさせていただけることが一緒なのでしょう。つながりの中に存在しているという意味です。

一緒という言葉一つであっても、謙虚な気持ちで感謝がなければその有難さに気づかなくなるのかもしれません。権力で同じように同じくさせようとしても、その一緒はともにいるわりにもの寂しく心もバラバラであることが多いように思います。英語のgroupもteamも、そして何をもってtogetherと定義しているかが根底で理解できていないと日本語のグループもチームも一緒もまたその意味が勘違いされていくのでしょう。

本来、私たちは大和の民族、渾然一体陰陽調和している民です。天皇を中心に家族として一族で和の尊び生き方と働き方を同時一体にしてきた暮らしを続けてきました。その先祖たちが実践してきた「いっしょ」を理解していくことが私たちの心を一緒につなげていくコツなのかもしれません。

常にいっしょの意味を個人的な価値観で狭めて歪んだ個人主義の枠組みに心が亡くならないように、丸ごと渾然一体になったご縁に感謝して今をいっしょに歩んでいきたいと思います。

 

主体に転じる力~自分の問いにする力~

人は力を出したかどうかというのは主体であったかどうかに関係します。そしてその主体というのは、自分の心の転じ方にあるように思います。

例えば、ピンチをチャンスと転じることができる力、ドキドキのプレッシャーをワクワクに転じることができる力、メンドクサイと思えることを面白がることができる力、苦しいことも大変なことも愉しいと味わい深く転じることができる力などです。

外界の出来事が何かが起きるとき、自分の思い通りにはいかないと思ったときにやる気がなくなってしまう人と、外界が自分の思い通りにならない逆境のときこそやる気がでてきて燃える人というものがいます。前者は、出来事に対して受け身であることに対して後者はどんなときでも主体は自分、積極的に人事を盡そうと全身全霊を発揮することができるのです。

先日あるクルーが「出し切りました」という言葉がありました。これはどんなことでも必ず善いことにするという覚悟が、主体を出し切ったといえるように思います。外界の相手がどうであれ、外界の出来事がどうであれ、自分の人事を盡し切るということに迷いがなかったのです。

そういう自分の姿勢に天も味方するのでしょう。天はいつも正直で素直を尊びますから、そういう自らの主体性が運やツキを呼び込むのです。そしてこの主体と楽観性こそが信じているということであり自然なのでしょう。

自分の力を発揮して出し切った後に振り返ると、その発揮している間に不思議な出来事や奇跡との遭遇、また面白い発見や出会いが沢山あったことに気づきます。そして多くの見守りがあり、自分が尊いご縁に恵まれたことを実感するのです。

そしてそれこそが本物の「自信」になります。

自信を持てる人というのは、常に出し切る経験を積んでいるともいえます。自分の力を発揮することを知ることで、自分というものの本来の存在の意義や価値に気づけるからです。そうなるとまた真剣であることや本気であることが愉しくなります、この好循環を得ている人が何よりもハタラク幸せを味わっているということでしょう。

本物の自信とは、畢竟、外側からつくわけではなく自分の中からついてくるものです。自分が転じることができるほどに人事を盡したか天命を待てたか、その両輪の真摯な実践の中に感謝があってこそ育っていくように思います。

何はともあれ転じる力が情熱のことです。自分の内在している情熱を自らが燃焼していくのはいのちの力を使っているともいえます。自分を燃やしていくことほど人生の豊かさと愉しさを実感できます。迷わず善いことへと丸ごと転じ続ければいいのです。

日々はかけがえのない機会に恵まれています、どの出来事に対しても自分の問いにする力をもって積極的に主体に転じて、二度とない丸ごとの人生を味わい深いものにしていきたいと思います。

豊かさのモノサシ(豊かさの観念)

時代の価値観もあり、豊かさにもいろいろな価値基準があります。

例えば、人は持っているかもっていないか、多いか少ないか、早いか遅いか、高いや安いか、ある基準をもとに損か得かというように何かと比較することで物事を評価します。自分がどのように評価されているか、誰かをどのように評価するかはその人の自覚している価値観によるものです。

間違った豊かさを一度持ってしまうと、いつまでも自分に自信を持つことができなくなります。逆に真の豊かさと持つ人は、常に謙虚で確固とした自信を持っています。

つまりは豊かさには豊かさの観念(モノサシ)があるのです。その本人が豊かさの観念がどうなっているかで実は貧しかどうかが決まるのです。たった一人の自分の人生ですから周りと比べる自分ではなく、誰しも真の自分を持つ必要があるのです。

例えば貧しさというのは、もしも物質的なものだけになればお金持ちよりもずっとお金持ちがいますし、自分よりも多くのものを持っている人はいっぱいいます。それにそういうものさしで持ってしまうと一度得たものを失うことの怖さを持たなければなりません。ないものねだりをしているとそこには常に貧しさがつきまといます。足るを知るではないですが十分いただいているという実感を持つには謙虚さが必要です。

またそれとは別のモノサシで真の豊かさがあります。それは精を出せることが有難いと実感していたり、誰かと一緒に働ける幸せを噛みしめたり、体験をさせていただけることの尊さに感謝していたりと、自分が豊かであることに気づいているのです。まるで道楽をしているかのように無尽蔵の豊かさを味わっているのです。

つまりここで言いたいのは、「自分が豊かであることに気づかない人、自分が豊かであることに気づいている人」、そこには真の豊かな生き方があるかどうかがあるのです。

真の豊かさとは単に物質的なものでは得られない歓びを持つ人、言い換えればみんなが幸せになることを祈りながら自分が活かされることに喜びを持つ人、「みんなと一緒に」生きることを愉しめる人が真に豊かな人ではないかと私は思います。

そのみんなをどれだけ”丸ごとのみんな”にするかが豊かさの観念(ものさし)だと思います。マザーテレサにしてもガンジーにしても、清貧のところばかりが評価されますが実際は清富であったとはあまり人に言われることはありません。かの二宮尊徳も同じく終生で集まった報徳金は藩の財政を大きく超えるほどのものだったといいます。しかし本人の生き方は大変豊かであったと思います。

そしてその二宮尊徳が遺した言葉に「心田を耕す」というものがあります。

心が豊かであれば、精を出せる幸せに生きれるならばその無尽蔵の心の田んぼから多くの実り(御法)が顕現してくるといいました。心の豊かな人とは、貧しさがないのです。

心を豊かにするには、徳を積んでいかなければなりません。それは全体のために丸ごと信じて自分を活かすような実践を積み重ねていくことのように思います。生き方がそのままの働き方と仕事になるような大転換が必要です。

本来、私たちがいただいている結びが真の豊酬ですから私たちの「結豊酬」とはそういう天からすべにいただいているものに感謝していますかという意味で実践をしているのです。感謝を忘れればそこにもう真の豊かさなど存在しません。常に謙虚に素直に道を歩んでいきたいと思います。

思いを馳せる~暮~

私たちはかつてどのようなことをして暮らしてきたのか、そのことに思いを馳せることがあります。

古代から火をみて明かりを灯し、そのゆらぎを観てはいのちを見つめてきたのではないか。もしくは、石に絵を刻んでは魂の磨かれる様を見つめていたのではないか。またあるいは、風に揺れる木蔭に佇みながら心が透き通っていくものを見つめていたのではないか、そんな風に思うのです。

太古の記憶に遡ることで、今の自分の内観をしていくと目には見えないけれど確かに残っている感覚に巡り合うように思います。

子どもたちは、そういうかつての暮らしからとても大切なことを学んでいました。それは自然です。自然とは、決して今の知識や言葉で定義されているような都市と対極にあるものが自然というわけではないように思います。

本来の自然とは偉大な循環であり、その壮大な宇宙観のようなめぐりのことです。そういうものを感じるのに、如何に幼少期の体験が大切かということを物語ります。各国の神話にあるような話もそうですし、伝承文化も同じく、子どもたちが発達していくのに必要な環境というものがあるように思います。

それは暮らしなのでしょうが、暮らしとは私たちの風土でありその生き方のことです。そういうものを一つでも残していこうと先祖や祖神たちは大切な環境としての自然を遺してきました。

今の時代は、西洋から入ってきた教科するものばかりのノウハウやテクニック系の教材、所謂知識と学歴ばかりが優先されるようになり、本来の自然の環境が喪失してきているように思います。

身近に暮らしてきた仲間たちがいなくなっていくということが、自然が消失してきたといことです。私の思う自然を子どもたちの身近に置くというのは、単に植物や虫を単に飼育すればいいという意味ではなく、本来の自然環境ともいえる私たちの風土や文化、また伝承や暮らし方、生き方を遺していくということです。

世界の中で私たちが日本人であるのは、そういう先祖たちから連綿とつながってきたものを自分たちが守っているから日本人であるのです。それが日本人でなくなったのなら多様化して世界の一つの役割を果たして来た種が一つ滅んでしまうことになりかねません。

だからこそ私たちは魂を磨き続けなければならないし、心を高めて健やかな智慧を伝承し続けなければならないと思います。今の時代は自然というものの定義も、世界国家の枠組みの中で塗り替えられてしまいました。

もう一度、太古の記憶やかつての暮らしを思い出し、その生活を子どもたちの身近に置いてあげたいと願い祈ります。ご縁を活かして、あらゆるものの感覚に自分の意識を近づけ子ども第一主義の実践を昇華していきたいと思います。

全体意識

人間は自分のことをわかってほしい、認めてほしい、愛してほしいと求める生き物です。もともと自分のことを自分が分かっていないからわかってほしいわけで、認めていないから認めてほしい、愛していないから愛してほしいと願うように思います。

自分というもののことを考えれば考えるほど、自分の心配をすればするほどにその渦の中に巻き込まれるものです。もともと「私」という字は、自分の手の腕を自分の方へと曲げている字でできているといいます。自分の側へと引き寄せようとする姿です。自分の思い通りにしようというのが私利私欲です。人間はみんな誰しも自分勝手ですから如何に自分が利他で生きるかというのは人生の課題であろうと思います。

利他とは、先ほどのことでいえばわかってもらうよりもわかってあげたいと思うこと、認められるよりも認めようとすること、愛されるよりも愛したいと思うようなことです。

言い換えれば自分の方へと引き寄せるのではなく、周囲のことを思いやる方へと与えるということです。自分のことを分かってもらいたいと思いながら相手のことを分かるということは難しいものです。これは風呂に葉を浮かべてこちらに引き寄せようとすると葉が離れていくのに似ています。本来引き寄せたいのなら、向こうへと波を送った方が戻ってくるのです。これが自然です。

自然というものは、与える人が何より与えられ、奪う人は奪われる、周りを活かす人が自分が活かせるというものです。自分を如何に全体のために活かしていくか、それは利他の生き方に転じるということです。

利他とは自分は我慢して人のために尽くすことではありません。みんなの仕合せが自分の仕合せになっていることです。自分の生き方や働き方、その生活のすべてが誰かのお役に立っている状態のことです。それは無理をしているのではなく、自分自身が生きていること、働けることに仕合せを実感している状態です。

京セラの稲盛和夫さんがこういう言葉を遺しています。自分というものを修養していくのに如何に矛盾を包有しつつ前進していくべきかを述べています。とても共感する内容なので紹介します。

『強い思い、情熱は成功をもたらします。しかし、それが私利私欲から生じたものであれば、成功は長続きしないでしょう。

人間にとって何が正しいかということに対して鈍感になり、自分だけが良ければよいという方向へ突き進み始めるようになると、はじめは成功をもたらしてくれたその情熱が、やがては失敗の原因にもなるのです。

理想としては、「私利私欲を捨て、世のため人のために」という形の完全に利他的で純粋な願望を持つことが一番良いことです。

ところが、人間にとって、生きるための私利私欲は自己保存のために不可欠なものなのですから、それを完全に捨て去ることはまず不可能です。

しかし、一方でその利己的な欲望の肥大化を抑制するために、努力することが必要となってくるのです。

‘’せめて、働く目的を「自分のため」から「集団のため」へと変えるべきです。‘’利己から利他へと目的を移すことにより、願望の純粋さが増すことでしょう。』

働き方の目的を、自分のためから全体のためにと転換しきるかどうかが利己から利他へと転じるコツなのでしょう。その全体をどこまで拡げられるかが視野の広さや視野の深さですから怠らないで精進していくことだと思います。それが点を線にして面にするという生き方につながっていきます、つまり「全体の中で活きる」(=ハタラキ)ということです。

頭で考えるようなことでもありませんから、もっと夢を大きくして「偉大」な世界に身を置けるように周囲の人たちの志を応援していきたいと思います。

禮の本質~真の豊かさ~

先日から礼について深めているとインスピレーションがありました。礼とは本来、禮と書きますがその意味に納得したのでそれを書いてみます。

そもそも禮の中にある豊かさについて考えてみると、如何にその豊かさというものの観点の違いがその人に影響を与えているかがわかります。

例えば、もので貧しい人はもので豊かになろうとします。なので常にものを得ては豊かさを感じますから常に自分が持っているかどうかによって豊かさを感じます。逆にものをたくさん持っていても豊かではない人も多い時代ですから、豊かさとはものではないことはわかります。そこには常に手に届かないようなものばかりをいつも望んでいますから次第に不平や不満ばかりを並べては傲慢になりますから余計に豊かさから遠ざかっていきます。

またもう一つ別の観点での豊かさには、持っているか持っていないかという自分にとって損か得かというものではなく真の豊かさというものがあります。それは御蔭様でたくさん見守られていることを感じたり、善いご縁をいただき人生が一期一会に導かれることに感激したり、当たり前ではない日常の些細なことの中に仕合せを味わったり、自分が今あることが如何に有難いことかということに感謝できたりしている中に存在します。それはものではとても買えないものばかりであり、すべては手に届く範囲内にあるものです。

ここから考えてみてもわかりますが、結局はその人の生き方、観点の違いで豊かさというのは変わっているのがわかります。真に豊かな人は、愉しむ力がありますしご恩返しをしていく歓びがあります。

禮というのは、豊かさを示すと書いていますが衣食足りて礼節を知るというものまずその真の豊かさに気づけてはじめて本来の禮が理解できるということかもしれません。

今の社會は物質経済ですから、持っている人と持っていない人で貧富の差はますます開いていきます。本来、日本という国は十分すぎるほど豊かになっているのにも関わらず自殺者は増えて貧困もまた広がっているというおかしなことが起きている国です。それは豊かさの質をはき違えているからであり、それは真の豊かさを重んじる社會ではなくなってきているということなのでしょう。

人は本来、何のために生きるのか、何のために働くのか、そういうことに立脚して見直してみると如何に真の豊かさを求めているのかがわかります。人を尊重すればするほどにその真の豊かさの御蔭様を皆で感謝して共有しながら幸福感を味わうことが大事なのかはすぐに自明します。

真の豊かさとは何か、そして真の貧しさとは何か、そこには観点を変える必要があり、観点が変わることで社會もまた変わっていくのでしょう。わざわざ、一番豊かさを感じられるものを忙しいという理由でつまらなくしたり、もっとも豊かさを得ている一緒に働けることをお座なりするというのでは真の豊かさは遠ざかるばかりです。

何を持っているか持っていないかではなく、何に恵まれ何を与えてくださっているか、感謝する心に豊かさが示されるのが禮の本質なのかもしれません。

禮が廃れている今の時代だからこそ、本物の禮儀を実践していきたいと思います。

四季のめぐり~一生のめぐり~

自然農の大豆を観察していると、また新しい発見がありました。もともとマメ科に限らず、植物には一生のめぐりがあります。四季に合わせて、四季に沿ってその時期に必要な生を全うします。

その生のめぐりにはその生に必要なことを真摯に行っているのです。これは人間でも同じことが起きていますが、植物にもまた同じことが起きています。

例えば、冬から春にかけては「根をはります」、この時期は目立ちませんが地中にしっかりとした根を伸ばしていく時期です。その根が深いほどに、その後の成長が決まってきます。土の上から見ても何も変化がありませんが、土中ではしっかりとはりめぐらせていきます。

春から夏に向けては「葉が生い茂ります」、この時期の葉勢は凄まじく若葉から成長して青々と空に向かって広がっていきます。光や風を存分に浴びて光合成をして栄養分を蓄えながら成長していきます。見た目にもぐんぐん大きく成長していくのがわかり、活動の強さを実感します。

そして夏から秋にかけては「実をつけます」、この時期は葉勢は弱まり虫たちがたくさんその葉を食べていきます。余計なエネルギーは葉に使わず、実をつけるためだけに集中します。たとえ犠牲があるとしてもそれはあきらめて実をつけることだけに特化して他を捨てていきます。もう実をつける時期であることを悟った植物には迷いはありません。葉が食べられ落ちていっても気にもせず実になることを信じています。

最後に秋から冬にかけては「種をのこします」、この時期は種になるためにすべてのいのちをその種に傾けます。枯れていくのは、すべての生をその種に送るためです。生き残ろうとそのまま種も葉も残そうとするのではなく、文字通り全身全霊でその種に全エネルギーを送り込みます。その結果として枯れてしまいますが、それでも種を残すことが生き残ることだと自覚する植物たちは枯れることを厭いません。種になるというのはその生を全うしたということですから、次世代へと望みを託しては種だけになります。

簡単ですが、四季のめぐりにあわせて観察したものを書いてみました。人間もこれに近いものがあるように思います。根をはるために信念を醸成する時期、芽を出しては真摯に活動する時期、実をつけるために自分の犠牲を払い余計なものを捨て去るとき、そして種を残すために望みを託して全うするときという具合です。

その時期その時期、四季のめぐりにあわせて全力で生き切った証として次世代へと受け継がれていくのが生死のめぐり、そして生き方であり観念です。人の一生は真摯に生き切ることではじめて自分の生に出会います。自分探しなどしなくたって、真摯に真心で寸分惜しまず大義のために生きていれば自ずから本当の自分に出会っています。

植物たちも自分というものを持ち合わせませんが、真摯に生き切るとききっとそこに真実の自分の生に出会っているのではないかと私には思えます。自分をどうつくりあげていくのかは、その生き方によるものですが自然の生き物たちはそういう意味では本当に立派に生き抜いています。

身近な自然の生命から学ぶことが本当に沢山ありすぎて、古人たちはきっとここから宇宙のめぐりや自然の循環をも観得ていたのでしょう。悠久の流れや、広大なめぐりを直感できる自分を育てていきたいと思います。

種の継承(観念の種)

動物も植物にも環境適合というものがあります。

産まれてからどのようなものを食べ、どのような環境で、どのように生きているかによってその変化を受け容れます。どのような場所に産まれ落ちるかで、その産まれた場所が最初からあった「当たり前」の環境になります。

そうなると、それが自分の故郷になるのです。生き物たちは、自分の産まれ故郷を知っているように思います。その産まれた環境のことをいつまでも覚えていますし、その中で自分の進化を確認するからです。幼いときに、与えられた環境が大変大きな影響をそのあとの一生に関係します。

以前、オオカミに育てられた少女のニュースがありましたが人間としての言葉も表情もほとんどなかったといわれます。他にも他の種の動物に育てられた子どもは、自分を同じ種の仲間だと勘違いして育つものです。身近な烏骨鶏も幼少期に草を与えれば草を食べますが、最初から人口餌のみ与えれば草を食べなくなってしまいます。それくらい最初の環境というのは影響を与えるのです。

これは自然が適合できるように進化の法則を組み込まれているように思います。環境の変化に対して、種(子孫)は適合していくという仕組みがあるのです。そうやって種は多様化し、環境の変化にあわせて増減を繰り返して種を遺したのでしょう。

種というのは、その時代に自分たちが生きるために存在するものではなく生き残るために存在するのが種です。そもそもの目的が、自分の生を謳歌することではなく、如何に生き残るかということに重きが置かれます。その生き残りの戦略を助けているのが生を謳歌することでもあります。

自然界は、自他の分かれ目がなくそのものが地球と一体になっていますから種の継承は当たり前の仕組みなのです。しかしその種の継承とは単に種を遺せばいいかというとそういうわけではありません。単に種だけをとって残しても、果たしてその種を残したかと言い切れるかということです。それは生き方(観念)のことを言っています。

今の人たちは、長いスパンで種について考えるのではなく自分のことを考えすぎるようになっていると思います。種を遺すには自分の生を全うし生き切ることでハタラキますが、どうも今は種が残らないような生き方を大人たちが残している場面が多いような気がします。

急激な環境変化に対して、その生き方が果たして種にどのような影響を及ぼすのかは疑問に思います。よく生きた生は、その生の周りに大切な「観念」が育ちます。その観念をみて学ぶ種がのちのちその観念によって救われ、また新たな観念を醸成し引き継いでいくのではないかと私は思います。

目に見えるものばかりを残そうとしますが、本来は目には見えていない大切な「観念」を種は継承しているのです。何が大事かを忘れずに実践を積み上げていきたいと思います。

本物の技術~徳技術~

昨日のCNNニュース(2014.9.21)で中国の人たちが米国のトウモロコシの種を盗んで問題になっているという報道がありました。この理由は、近年トウモロコシの輸入や生産が多くなっている中国国内用の需要のために必要だからとのことです。そのために長い時間かけて研究された遺伝子組み換えし交雑された種と干ばつや害虫に耐用しているテクノロジーを安易に国内の生産に実用したいようです。米国もその技術が盗まれないように国家をあげて機密保持に取り組んでいるようです。

急な経済成長と人口増加に環境や食がついてこないから需要が急増している分、誰かにとってはビジネスチャンスなのでしょう。しかしこの出来事全体に何か視野の狭さと短さを感じてしまいます。

そもそも、最初にこの技術について思うのですが米国では長年土を痛めつけるような農法を行い、地下水脈をあるだけ使い切り、農薬を散布し害虫を駆除してきたことで酷い干ばつが起きているといわれます。干ばつが起きれば農業は打撃を受けますから、その干ばつに耐えるだけの作物を遺伝子組み換えによって育てます。それでも酷い干ばつの場合は、さらにそれに耐用する種を育てます。まさに、気が付けば見た目はトウモロコシでも中身は別物になっているかもしれません。

また害虫といっても、いつも虫を全滅させているからお互いに食べる相手が見つからず一つの種類だけが大量に発生することで害虫になるのです。自然界のバランスを崩しておいてそれを人間の思い通りにしようとするテクノロジーをばかりを優先してきたら干ばつが急激に発生して砂漠化が進んでいるのです。

中国も急な経済発展で北京の周りには工場が増産され、今ではPM2.5をはじめ様々な化学物質が都市の空を覆い、年に晴れ間が実感できるのも2,3日ほどとのことです。砂漠も年々首都に近づいてきていますからこんな状況をまた打開するために人間都合のテクノロジーを駆使しても焼け石に水なのです。

先祖や祖神は、とても長い目で広い視野で物事を捉えました。目先の欲望を優先したらどういうことになるかを戒め、いつも自然とのバランスを優先してきました。私たちの存在が自然の一部であることを忘れませんでした。人間だけがいる世界だとは思っていませんでした。

気が付けば、人間だけがすべてかのようにふるまい、周りの生き物たちのことを思いやらず、自分たちだけに良いようにと競争しては奪い合い、自分勝手な正義を振りかざしてはさもそれが絶対かのように思い込んでいます。そんな中で生まれてくる最新の技術というものは、すぐに人間の思い通りにできる技術のことです。果たしてそれが本物の技術なのかと思えるのです。人間だけが認める技術など、たいしたことはなく、それはむしろ小手先の便利な技術のことです。

本物の技術とは、自然が認める技術です。それは悠久の時を経てもいまだに褪せないか、自然全体を活かしているか、無理をせずに自然の道に沿って謙虚に人間が生きようとするか、そういう技術です。

私はそれを徳技術と呼びます。発酵もその徳技術の一つですし、杜づくりや治水も同じく徳を重んじます。今の時代のような徳を重んじない技術はすべて人間都合です。何が徳かではなく、何が得かの時代ですから技術もまた得する人たちによって奪い合いその技術が適応されていくのでしょう。

本物の職人がいなくなってきたのも、そういう得を社會が重んじているからでしょう。短期的にはメリットがあっても、長期的には大変なデメリットになると知っていてもそれを誰かがやれば我先にと飛びつくのが流行というものですから、いつの時代も不易と流行は変わらないのです。

中国の古典、「易経」に、「時流にのる者は時流によって滅ぶ。君子は時流にのってはならない。時中しなければならない。」にありますがここからも不易と流行に時中するのが徳に根差しているということが分かります。

長くなりましたが、今こそ「徳」というものがなんであるかを研究する必要があると思います。孔子は論語を通して為政者のための学問を実践したといわれます、為政者のためとはなぜか、それは政治が悪なのではなく政治を行う人間を善くしようとしたためです。

その政治を善くする人間を育てる人間学には何よりも徳を重んじます。以前、致知出版社を訪問した際に社長から「徳」と書きなさいと言われたことが今ではしみじみとその意味の深淵さに触れています。

人間がどうなっているかで、その技術も変わるということがこれではっきりしたように思います。人間が自然のバランスを維持できていた時のような本物の技術が消えていく昨今にとても心苦しく子どもたちのことを思えば嘆きたくなります。

しかしだからこそ、自分たちが正しくその文化を継承していけばそれを拾ってくれる人もいるはずです。思い出せなくなるくらい目先のことに流されてしまわないように、地に根差し自然から学ぶことを忘れないでいたいと思います。

本物の技術は人を救うだけではなく、世界を救う技術なのですから。まだまだ研鑽を積み、今の人たちが価値がないと捨てた技術を太古に思いを馳せて拾って広めていきたいと思います。見守るという信の技術もまた今の時代に必要な技術です、一緒に実践し深め広めていきたいと思います。

自然の智慧~恩蔭様~

昨日、無事に福岡農園で自然農の御米を収穫することができました。有難いことにたくさんの方々のご支援と見守りの御蔭様をもってこの日が迎えられたことに感無量の気持ちです。

思い返せばもうこの実践を開始してから早4年、東北の震災と原発事故のことがあり、二度とあの当時の気持ちを忘れないようにと決心しはじめた実践です。あの時、人間が地球の一部であるという自覚が消失していくことが如何に悍ましい結果を発生させてしまうのかを自覚したからです。

今思い返せば、自然農をして何をしたかったのかを省みると自然に沿った生き方を自らの背中を通して子どもたちの身近に実感させてあげたかったのかもしれません。

この4年間、特に3年目までは数々の困難の連続でした。病害から虫害、水害、台風などの天災に加え、人間関係の問題などで悔しい思いをたくさんしました。ほぼ無収穫の状態が続くというのは何とも複雑な気持ちでしたが、周りの有難いアドバイスが心に沁みました。

本当に多くの人たちが要所要所で応援と支援を与えていただきました。

ふり返ると最初のアドバイスは、「手前から少しずつ行うこと」、そして「小さくはじめること」、「年々ちょっとずつ増やしていくこと」、「できる範囲からコツコツやること」など積小為大の法則について実践してきました。小さいことには普遍があり、小さいものを為すものは必ず大きなものもできるという智慧を得ました。

次のアドバイスは、「自分の眼と手と真心を使うこと」、「草は根もとから切ること」、「幼少期に負けてしまわないように見守ること」、「目を離さず手を放しいつも観ていること」、「草も虫も一緒に暮らせるようにしてあげること」、「微生物たちの発酵場にすること」などです。ここから、如何に手間暇をかけさせてもらうことを学びました。自然を自分がコントロールするのではなく、自然に心を寄り添いいのちを慈しむように謙虚に実践させていただくと周りから自然に善くなっていくという智慧を得ました。

また次には、「天にお任せして気楽であること」、「どんな時も自然を信じていること」、「人間を信頼して任せること」、「毎日、初心を忘れずに祈りを捧げること」、「頂いたご恩を忘れないで報いること」、「四季のめぐり、そして準備を怠らぬこと」、「生き物たちの安心できる生活環境を守ってあげること」など如何に信じるという祈りに似た精進が自他自然を活かすのかという智慧を学びました。

智慧を思うとき、自分が求める智慧は、自分のためではなく子どもたちや世界のために必要だと思うからです。永続してきた私たちの祖先からの今をつなぎ結ぶのが私たちのお役目ですから心と志はいつも天高い一点のみを観つめています。魂が次第に減退している今の時代に、どうすれば魂がより磨かれるか、王道を歩む人たちを増やしていくのか、それは生き方を変えることで伝えていくことができるように思います。

結局人は、何をしているかではなくどうあるのかということがすべてにおいて中心になっているのでしょう。

私は本当に沢山の方々との出会いに恵まれ、いつもかけがえのないものを頂戴しています。これを皆さんに還元できるようになる日がいつ来るのかはよくわかりません。しかしいただいているものを共有し御恩返しをしたいという気持ちは日々に膨大に増えていきます。

今回の実践でもっとも印象深かった素晴らしい智慧は、「ゆるし」です。ゆるしというのはいつも見守りの中で得られます。今回もこんな私のこともゆるしてくださって自然は一緒に様々な仕合せの時を共有してくださいました。

引き続き学びが続けられることに何より感謝し、尊いいのちの歩みを止めずかんながらの道を歩ませていただきたいと思います。