種の継承(観念の種)

動物も植物にも環境適合というものがあります。

産まれてからどのようなものを食べ、どのような環境で、どのように生きているかによってその変化を受け容れます。どのような場所に産まれ落ちるかで、その産まれた場所が最初からあった「当たり前」の環境になります。

そうなると、それが自分の故郷になるのです。生き物たちは、自分の産まれ故郷を知っているように思います。その産まれた環境のことをいつまでも覚えていますし、その中で自分の進化を確認するからです。幼いときに、与えられた環境が大変大きな影響をそのあとの一生に関係します。

以前、オオカミに育てられた少女のニュースがありましたが人間としての言葉も表情もほとんどなかったといわれます。他にも他の種の動物に育てられた子どもは、自分を同じ種の仲間だと勘違いして育つものです。身近な烏骨鶏も幼少期に草を与えれば草を食べますが、最初から人口餌のみ与えれば草を食べなくなってしまいます。それくらい最初の環境というのは影響を与えるのです。

これは自然が適合できるように進化の法則を組み込まれているように思います。環境の変化に対して、種(子孫)は適合していくという仕組みがあるのです。そうやって種は多様化し、環境の変化にあわせて増減を繰り返して種を遺したのでしょう。

種というのは、その時代に自分たちが生きるために存在するものではなく生き残るために存在するのが種です。そもそもの目的が、自分の生を謳歌することではなく、如何に生き残るかということに重きが置かれます。その生き残りの戦略を助けているのが生を謳歌することでもあります。

自然界は、自他の分かれ目がなくそのものが地球と一体になっていますから種の継承は当たり前の仕組みなのです。しかしその種の継承とは単に種を遺せばいいかというとそういうわけではありません。単に種だけをとって残しても、果たしてその種を残したかと言い切れるかということです。それは生き方(観念)のことを言っています。

今の人たちは、長いスパンで種について考えるのではなく自分のことを考えすぎるようになっていると思います。種を遺すには自分の生を全うし生き切ることでハタラキますが、どうも今は種が残らないような生き方を大人たちが残している場面が多いような気がします。

急激な環境変化に対して、その生き方が果たして種にどのような影響を及ぼすのかは疑問に思います。よく生きた生は、その生の周りに大切な「観念」が育ちます。その観念をみて学ぶ種がのちのちその観念によって救われ、また新たな観念を醸成し引き継いでいくのではないかと私は思います。

目に見えるものばかりを残そうとしますが、本来は目には見えていない大切な「観念」を種は継承しているのです。何が大事かを忘れずに実践を積み上げていきたいと思います。