時刻往生

本日、38歳の誕生日を無事に迎えることができました。

いつも陰ひなたから見守り支えて下さる方々の御蔭様で活かされ感謝しております。
光陰矢のごとしといっても、その時には有難い充実したご縁と思い出の数々ばかりです。

こういう日だからこそ書きますが、誕生日も年々繰り返す中で生まれ変わるということを昨年のブログでは書きました。日々というものは、朝起きて夜眠りにつくまでに一生を歩んでいるとも言えるからです。

同じように人生においての一年というものは、春夏秋冬に四季を通してその巡るのです。
ですから、この一年もまた一生であるということです。

最後に全人生の中で、朝産まれてきてから夜に眠りにつくまでが一生であります。

私達の人生で何をするのかというのは時に刻まれていくものです。
これはまるで夜の月の満ち欠けのようにです。

もう一つ時刻を例えれば、砂時計のようなものです。

砂は上から下に向かってさらさらと流れ落ち続けます。
狭くなった時間の場所、そこには私たちの意識があってそこを通過するのが毎日です。

しかし確実に砂は下に流れ続けています。
この砂は数々の体験を経た記憶が凝縮されて溜まっているともいえるのです。

その体験の砂を、どのようにしていくのかは自分次第です。
そしてその体験が全部の砂を使い切り、落ちたのならばそこでまたひっくりかえすのです。

人生はどのように時を刻むか、その陰陽によって一つの調和をなしているように思います。
そしてその時に何を容れるか、その時に何を思うか、その時に何を積むかということでしょう。

今まで積み重ねてきたことを思い返せば、そこに道と感謝があることに気づきます。
かんながらの道を歩ませていただける学びに、正直に真心を盡していきたいと思います。

改めて活かされている日々を忘れずに残りの時を楽しんで精進して往きたいと思います。

 

 

大自分

人間は自分の中に罪悪感や負い目というのを持つと日々は怒りの感情に囚われるものです。

我というものは自分の思い通りかそうではないかという価値観に囚われます。そしてその感情が怒りを誘発するのです。いつも自分が中心になっている考え方に起点を置けば思い通りにならず上手くいかないと感じるものです。

言い換えればそれは自分の中にこうであるべきといった自分が思い込んでいる「正しい」という観念に縛られているのです。

自分の中に自分の思い通りにいくことが正しいと思えば思うほどに周りに矢印を向けてしまうものです。自己中心的というのは、周りも自分も正しいではなく、自分の正しいが最も正しいという価値観に執着しているのです。

本来は正しいかどうかよりも来ているものに正直に生き切ることで全体でバランスをとるものだから、何かがあれば常に自分の方を柔軟性を持って受け容れることができればいいのですがそれでは自分の思いどおりになっていないから自他を責め、自他嫌悪するのです。

例えば自然界は思い通りにならないけれど、それが必然的に全体を調和させているものです。自分にとっては都合が悪い天気であろうがどうであろうが、地球が全体調和をしようと天候が調整されていくのと同じです。人間の心身の調和でいえば、病気や治癒も同じく感情は波打ちますが自然(体)は全体バランスをとり回復するためにいつも働いているのと同じです。

以前、面白い体験をしたことがあります。

子どもが海の水が服にかかって海に向かってずっと怒っていた様子を拝見したときです。自然からすれば海は波打ちますから水がかかることは当然です、しかしそれに怒ってみても相手は自然ですからどうにもなりません。

自分は自分の世界からしか世界を見ていませんから、それが思い通りにならないということが理解できないのです。妄想や空想の中では自由でも現実は不自由です、その現実を自由にしていくのなら全体の叡智の方へと自分を合わせていく必要があるのです。

自他を一体として正しいと思えるにはとても時間がかかるもので一生ものの学びかもしれません。しかしそれが文化と文明の調和にもなっていくのですから私たちに課せられている大命なのかもしれません。

自然から学び、自然を尊ぶのは、そこに「本物の信」があるからでしょう。

世間では、狭い世界での正義を押し付けて自由というものも平等というものもその隔絶された組織の中だけで通用するようなものを強要し刷り込んでいきます。村社會のような隔絶された秩序の中で自由や自律もはき違えられています。

もっと視野を広げ、世界の大きさで捉えるのが自由であり自律なのでしょう。それは本物の信の世界の中の一員としての自分を捉えられるか、自然という全体調和した中にいることを自覚しているか、人間はいつでも自然から離れずに学び続ける必要性を実感するのです。

一度きりの人生ですし自然の中で活かされている大自分ですから、ご縁を信じて来たものを選ばずに丸ごと受け取り、どんな事件があっても許し、それが有難いと笑っていられるような感謝と御蔭様の真心の実践を精進していきたいと思います。

 

負い目

人は負い目という物を何かしら持っているものです。

この負い目というものは、罪悪感のことでかつて自分を責めて罰したことが許せない過去として残っているのです。

人は誰かが正しいといえば、その正しさに対して自分が悪いという感情が起きてくるものです。自分の存在が何か誰かや周囲に対して申しわけがないという感情があると、次に自分がそれを引き起こすのだからと自らで自らを責めてしまうのです。

人は自分が許せなければ許せない程に負い目を背負ってしまいます。本来の事象は、ほとんどすべてが必然であったと考えられればいいのですが、その時は何かしら自分の中に閉じこもって八方塞だったでしょうから自分を責めていくしかなかったのです。

その時にいくら責めないでといっても、自分を責めてしまうのでしょう。その許せない自分への怒りで自分を満たしていたら、それがいつかは他人に向かってしまいまた自己嫌悪になるという悪循環を繰り返してしまいます。

トラウマというものも、その存在の本質は自分自身との素直な関係においてどこかが歪んでしまったということなのでしょう。あるがままにありのままに素直に感じることができていれば、明るく潔く受け容れ許し、癒やすことができたのかもしれませんが無理をして頑張ったからこそいつまでもその心の傷が残ってしまうのでしょう。

自分を責めないという選択は、自分を許すということです。

この許すには、許す許さないではなく感謝にしているか、感謝であったかということなのかもしれません。

思い返せば、その御蔭で今があります。今の自分がより善く変化したのは、かつて自分がつらく苦しかった自責の念から生き方を転換して努力したことで今の環境が得られているからです。

未熟から成熟して発達していくのが生命ですから、上手くいかないこともあるでしょうし、思い通りに周りの期待に応えられないこともあるでしょう。しかしそんな自分でも見守り助けて下さっている人たちがいることに何よりも感謝できます。

感情は素直に受け入れてそれを味わい、起きた現実もまた素直に受け取りそれを改善し、明るく元気よく勇気と愛と平和で自分らしく自分を生きていくのがお気楽極楽で健やかな人生なのかもしれません。

周りを許せる存在になれるよう、まずは自身の中の心を正していきたいと思います。

歩続実践

世の中には色々な本が出版されています。

特に今の時代は情報が溢れんばかりに氾濫している時代ですから、常に文字の中で生活しているともいえます。実際に体験しなくても、本を読めばある程度は体験したかのような妄想を抱くものです。

しかし実際の現実では、何も体験したわけではなくきっとこうだろうと思い込んでいるだけなので遣ってみるとほとんど思い通りにいかないものです。実際に何のためにということがぼやけると情報は自分自身の貴重な体験を奪ってしまうものになるのかもしれません。

二宮尊徳の夜話にこういうものがあります。

『下男が種いもを埋めてその上に「たねいも」と書いた木札を立てたので、ワシは門弟たちにこう言ってやった。 「お前たちは、大道というものが、文字の中にあると思って、文字の研究ばかりして学問だと思い込んでいるが、それは間違っているぞ。文字というのは道を伝える道具にすぎないんで、道そのものではないんだ。それなのに本を読んでそれが道だと思っているのは、誤りなんだ。道というのは本の中にあるのじゃなくて行いにあるんだよ。今あそこに下男が立てた木札の文字を見てごらん。この札によって種いもを掘り出し、それを畑に植え作ってこそ、はじめて食物となるんだ。道も同じことで、目印としての書物で道を求め、これを実行してこそ、はじめて道を体得することができるのさ。そうでないと学問といえない。ただの本読みというだけのことさ。」』(第七十一話)

頭で考えて覚えたものが実際の現実の理解をしたのではありません。頭で処理をしようとするのは、遣るということが大前提にないからです。全ての体験を道として真摯に実地実行しようと決心するならば頭で覚えず、心身に沁み込むように修めようとするものです。

それが大変だから頭で考えて済まそうとすればするほどに実際の実行や実践を怠るというのが人間の惰性なのかもしれません。心身をあまり甘やかさないことこそが、己に克つということなのかもしれません。

論語にあるように、如何に道は歩み続けるかということに尽きるのかもしれません。

日々の体験をどれだけ高めていくのか、決心したことにどれだけ真摯に実践するのか、そこには答えはありませんが答え以上の人生の手ごたえは実感できるものです。人の生長というものは、自然と同じく頭では分からなくても確実に自分が変わっていくのは実感しているのです。

できることや分かることばかりに重きを置かれた教育の刷り込みを祓い清め、変わり楽しむことに軸足を入れかえることで温故知新の創造の妙を味わっていきたいと思います。

自分らしい人生とは

人は自分の生き方を思う時、頭で考えていては分からないように思います。それは生き方というものを思う時、それは具体的な実践を通して実感するものであり決して頭で分かるものではないという意味です。

生き方というものは、自分の中にある大前提がどうなっているのかということです。

例えば、自分らしくいることを信じて往きたいと決めるとします、その際に、自分は信じているか信じていないかと悩み迷い、その上で信じようとしているのではそれは頭で考えているだけになっていてその考える前の場所、その心では決めていないということなるのです。

これは食べ物なら、美味しいか美味しくないか、好きか嫌いかという前に、何のために食べるのかということが決まってから悩んでいるのかということです。人は何のためにそれを遣るのかが心で決まっていないところで悩むとそれは単に頭でこうだろうとかああだろうとか感情的に処理しようとしてしまうものです。

そうではなく、心が先に決めたものに照らして思うのであればそれが具体的な生き方となって現れるのです。

しかし生き方につながらないのはなぜかといえば、頭で考えているだけで具体的な実践を継続し行うことを怠るから心で決めた方を忘れてしまうのです。頭で考えた実践風のことを、さもやっていると勘違いするのもまた自分の怠惰な癖が引き起こすのかもしれません。

自分の怠惰な癖に負けないように、心で決めたことをすぐに実践に移し、それを真摯に継続していくのならその心もまた正直に素直に働き始めるように思います。

いくらその人が遣った気になっていたり、分かった気になっていても、心で決めた実践を遣り切っていなく思い切ってできていないのならそれはきっと頭で創る妄想の中に執らわれているということになるのでしょう。

実践とは、具体的な生き方の実践です。日々に起きる出来事を流さず、その一つ一つに対して正面から向き合い、そしてそれを自分の生き方に照らして転じる、つまりは具体的な最善の行動によって信を守るということです。

何を信じて行じていくかは、その人の決心次第です。だからこそ、頭で行わず、心で行う実践を優先できるかが大前提にあるかが大切なのでしょう。

自分の大前提、つまり幸せを信じる人は絶対的な幸せの場所を維持する実践、感謝を信じる人は絶対的な感謝の実践、真心を信じる人は絶対的な真心の実践を継続し已めないからこそ大前提が基礎基本にどっしり座るのです。

前提が変われば人生が変わります。その前提を変えるには、決めた瞬間に具体的な実践をはじめてその大前提を築き上げる努力と精進を決して怠らないことです。決心とは、前提を転覆させないで維持する心の努力ということです。それの継続こそが、自分らしく生きたという信の証なのでしょう。

理屈や理想は逃げを誘発するものですから、現実の真っ只中に生きていくことで自分を修養し、そして一度きりの勿体ない自分だけの人生を歩んでいきたいと思います。

優先順位~決心~

一般的に人はバランスを保とうとして両立しようとしますが、両立はできないものです。

これは両立というのは、両方を上手くやろうとすることですがそれは自分を真ん中に置いて右か左かとやっているうちにどっちつかずになることがほとんどです。

以前、師より「両立はない、優先順位があるだけだ」という話をお聴きしたことがありました。

これは両立の本質であり、全てを立てたいのならば優先順位を決めなさいと言う意味でしょう。つまりはもっとも大切なもののために丹誠を籠めて取り組むということです。

よく私は自他一体という話をしますが、これは自他一体に近づけようという意味ではなくそもそも自他一体ということです。自分の身辺に起きる全ての出来事が、自分の目的に関係しているということであり、その全てに全身全霊を懸けるということです。

すると、分けないという考え方になっています。

つまり分けないというのは、自分のモノサシで分けるのではなく戴いた全てのご縁を大切に本懐にために活かすという考え方です。言い換えれば、何が仕事で何がプライベートかという違いがないところに居るという実感です。

これを働き方と生き方の一致とも言い、自分の人生に嘘偽りがないところで正対しているということになると思います。

そのためには、決心していく必要があります。人は考えてしまうのは、決めていないからです。考えないのは決めているからです。つまりは迷いというのは決心していないところから発生してくるものであり、決心していれば迷うことがないということです。

丹誠を籠めて真心で生きれば、自ずから天にお任せという境地になるように思います。

それは自分の中の正直が働きますからそうなるのでしょう。

正直であれば、無理をしないで素直でいますから来ているものを我で選ばないのです。来ているものをひとつひとつ受け取り、それを真心で盡していくことで道が常に開いている実感を得られるようにも思います。

危機感というものも問題意識というものも、常に自分を保身するところでやろうとしても育たないのかもしれません。自分がもっとも遣りたいことや、自分自身の生き方を守りたいと願うことで、流されないと決めるのもまた使命に生きることを優先しているからかもしれません。

人は自分の使命感、つまり自分の命を何に懸けるのかで生き方を決めるように思います。

全てのご縁、全ての出来事を感謝に換えて実践を味わい楽しんでいきたいと思います。

温故の智慧

私たちは今まで生き残ってきたことがもっとも智慧があるものです。
最近発明したものが凄いと思っていますが、歴史が篩にかけたものが本来の本物です。

確かに今の科学力は目新しく凄いように感じますが、 作ってはすぐに消えていくようなものが本当に新しいのかどうかは疑問です。

例えば発酵技術などもそうですが、最近では簡単に発酵するような菌が開発されたりしています。パン作りでもそうですが、イーストなどを使えばすぐにパンが膨らみますが本来のパンの発酵とは技術も性質も異なります。

それを最先端だとして、機械や道具を用いてすぐに食べれるパンを作りますが本当にそれが最先端技術であるのかと感じるのです。

最先端技術というものは、本物の技術ですから普遍の技術です。

それは何百年も何千年も変わらないものであろうと私は思います。しかし実際は、目新しいものが最先端だと刷り込まれ、改良したものばかりを最先端だとそれぞれが論じているうちに何が本物であったのかも分からなくなっているのかもしれません。

以前、300年のぬか漬けを伝承する方から「今のぬか漬けで出ている本は何かと付け足して加工して目新しくしたものばかり、本来のものは先人たちがやったとおりにしていくことが何よりも本物です」とお聴きした話を思い出しました。

細部に枝分かれしたものを本物だといい、本来の地味な根元のことを忘れてしまうというのは派手さに囚われ中身を御座なりにするのに似ています。

私たちは先人たちの智慧を敬い、かつての伝統や伝承を忘れることで退化していくのかもしれません。余計なことを増やすという考え方は、資本を増やしていくのには都合がいいのかもしれませんが余計であればあるほどに本来の姿から遠ざかるというのは果たして発展しているのかということに疑問を思います。

私たちは真に発展するのなら、先人たちの智慧を今の時代に置き換えて継承していくことでしょう。温故知新していくことは、先人たちの智慧をそのままに伝承することのように思います。如何に時代時代に転じて本物を維持するのかに最先端技術を学ぶ私たちの姿勢が問われます。

シンプルなもの、本物であることにこだわっていきたいと思います。

性格

人間は育っていく中で自分の性格を自らで創りだしていく生きものです。

今まで生きてきた社會の中でどのような立ち位置に納まり、その自分を維持していくかでその人のキャラクターというものはある程度設定されていきます。そのうち齢を取ると自分の性格というものは、自分では変えられないと思い込み、その性格のせいにしては色々と頑なになってしまうものです。

すぐにできることやできないことも決めつけて新しいことをやろうとしないのもまたこのガチガチの価値観が染みついてしまうことでそうなるのでしょう。

しかしコミュニティが変われば、いつまでもその性格を頑なに維持していけるとは限りません。自らその新しい社會に対して自らを変化させて性格を見直す必要性に迫られることもあるのです。

古語に「郷に入っては郷に従え」というものがあります。

これは新しいコミュニティに入り今までの自分の価値観が通用しないのならば新しい価値観を学ぶために自分の性格を変える努力をするという意味でしょう。いくら今まで自分の思い通りにやってきたとしても、自分のいる環境が変われば自分の方を変化させていくのは自然の摂理です。

とはいえ、人は自分の価値観は変えずに、表面だけを変えて自分が変わったと勘違いするものです。しかしそれでは苦しいだけで、自らが学びたい価値観があるにも関わらず自らが近づかずにいつまでも昔の自分のままを周りに受け容れさせようとしてもそれでは新たな社會に馴染むはずもありません。

新しい社會や価値観がそのコミュニティにあるのなら、思い切って今までの自分にこだわらず飛び込んで新しい価値観の素晴らしさに触れていくことで、新たな自分の性格を修正していくことができるように思います。

人は自分の価値観の手直しをしようとはしないものですが、新しいことに挑戦するというのは新しいことで自らの今までの習慣や癖を上書きして直していくということができるからです。いつまでも自分の価値観が壊せなければ、変わらないのはいつまでも自分ということになってしまいます。そうなると、周りに迷惑をかけたり、独りでに環境に馴染めずに枯れてしまう植物のようになってしまいます。

新しい発見も、新しい自分も、それは習慣や癖を変えてしまうほどの努力があってのことです。その努力を楽しんで行う人と、仕方なく行うのではその結果への時間もプロセスも労力も異なってくるように思います。

まず真似をしてみたり、それが如何に素晴らしいかを学ぶというのは、自分自身の好奇心が閉ざさないように常に初心を忘れずに取り組むことのように思います。人間は油断するとすぐに自分の狭い価値観の中に戻ろうとし、気が付くと変わった気になっただけ、分かった気になっただけで価値観はそのままになっていることがほとんどです。

今までやらなかったこと、自分の想像を超える努力をし続けてはじめて価値観も新しく刻まれるのでしょう。時間を懸けても真摯に自らという作品に彫刻していくように、様々な性格を造り上げていくように日々を大切に過ごすことの集積に人格形成もまたあるように思います。

流されてしまっては、いつものままですから自らが研鑽を積み上げて新しい価値観を楽しめる主人公になっていくことが変化の源になることなのでしょう。嫌だと思える事や、ちょっと馴染めないと思える時は、飛び込んでいくチャンスだと捉えられるかどうかに自らの性格を変えるご縁をいただいたと思えるかどうかです。

日々を戒め、油断せずに感謝のままに精進していきたいと思います。

自由の価値

先日、ある方と自由について話をする中で貴重な体験をすることができました。

人は平等とか言う前に、正直であるということが優先されなければなりません。
平等という言葉は、使う側の理屈で用いられることがほとんどです。

真の平等とは、あるがままですから自然であるのだから言葉にはしないのです。これは自由も同じく、存在そのものが自然であるからそれも言葉にして教えるものではありません。

それを人間は、平等という名目で、不平等を創りだし、偏見を恐れて従うから自分を誤魔化すようになるのかもしれませんし、自由も同じく自由といいながら不自由を恐れて仮初の自由を社会で用意してその中で一時的に安心したいのかもしれません。

どちらにせよ、平等も自由も自然の言葉であるのだからそれは勿体ないとか有難いとか御蔭様のように感謝で感じる場所のものなのです。

その平等や自由は自らが背中を見せることであり、自分らしい生き方やあるがままの自分でいることの素晴らしさは自分自身が体現することで示すことであろうとも思います。

何かを教えるというスタンスで教えるものは、どこか嘘が入るように思います。

自分の実体験で語られるものは、そこには真実が入りますが、自分が体験したこともないことを教科書に書いているから正しいを思い込み、それを教え込むとその矛盾に苦しみたくないから考えない人に為るようにも思います。

なぜ、どうしてといった、自分で考えて一つ一つの理由を自分が納得して理解し、自分のものにしたときに教わったとなるからです。これらのなぜやどうしてというのが、人間として与えられた権利であり、人間が自らを育て創造する真の自由や平等でもあるからです。

学ぶということが自由そのものであり、自由であることが学んでいるということなのでしょう。教科書に書かれている答え以外は教えないという学びなどが自由と呼べるわけはありません。その人なりの答えをどう導いていくか、その人の答えを信じてあげることができてはじめて自らの体験をその人に伝える資格が持てるように私は思います。

結局は、本に書いているのだから真実だと思い込ませ、それに異を唱える者は追放するという考え方はかつての宗教弾圧や魔女狩りの類と同じことをやっていることになるのかもしれません。今のような時代、ダイバーシティ(多様性)がもっとも求められる時代に入っているのにいまだに教育がそうではこれからの社會や世界で貢献する人材に育つのか心配になります。

本来はそのままでいることがもっとも社會に役立てるようになるはずなのに、無理に社會に役立つようにと教えることはかえって社會から離れてしまう気もしています。そのままでいい、あるがままでいい、その上で大切な思いやりや真心、素直さや感謝などを導くことが人間を育てるということなのかもしれません。

そしてもし人を正直に育てるなら、自分で出した答えがもともとあった加工される前の野生、つまり「自然」と同じようになっているということです。

自然の循環も、自然の環境も、自然の中で落ち着くのはそれぞれが正直だからです。人間の社会が自然からあまりにも離れてしまうと、何が嘘で何が本当かが分からなくなってくるのかもしれません。

そういうものの中でも自らの本質を見失わないようにするために、人格を高め、自立していくのが人間の生長なのかもしれません。自由になるには、自らの脚で立つために自らのルールを自らで守る強さが必用です。

それは他人のせいにはしないということであり、身のまわりに起きる出来事の全てのことを自らの問題として捉える力があるかということです。

それが自立しているということでしょう。

問題をまだ他人のせいにしているようでは、社會の中で自立しているとは言えません。自らが変化の源になって社會を善くしていくために自分を高めていこうと精進していくことが最期には社會貢献そのものに変化していくからです。

学んだこと、学び続けることを楽しみ、自由の価値を伝承していきたいと思います。

 

本当の自由

社會の中で何かによって教育されることで、他人はルールというものに自然に慣れ親しんできます。しかしその社會のルールは、自分が理解して一つ一つ納得し自分に置き換えたものであれば使いこなせますが、外圧的に何かの力によって単に従っているだけではだんだん自由の本質が分からなくなるのかもしれません。

人は自分が自由だと思っていますが、その自由とは自分が在る程度のルールの中で自由であることを自由と思っています。以前ブログで書いた想定外と同じ理屈で、自分の中である程度想定している自由のことを自由だと思っているのです。

実際の自由とは、何ものにも束縛されない自由であり、自分らしく生きているということの自由です。それは、自分の全人格が認められているものでなければなりませんし、そこには無条件であるがままでいてもいいとなっているものです。

インド独立の父、マハトマ・ガンジーにこういう言葉があります。

「私は人格をすべて表現するために自由を望む」
何をもって独立するかというのは、自分たちの人格を守るということでしょう。今の世の中は、評価中心の社会をつくりあげ、何かあれば人間を査定し、一方的なモノサシで計ろうとします。そしてそれをまるでその人の人格かのように評します。
しかし本来は人は一人一人まったく異なる個性を持っているし、人格もまったく別のものが備わっていますからそれを十把一絡げに扱うというのは、人格を尊重していないということになるのです。
同じ人間だからと社会をつくったのですが、同じであることを強要することで同じ人間でもなくなるという不合理が起きるという仕組みです。
また今まで散散そういう社会の中で生きてきたら、満足してしまいますから今さら新しい自由を欲しようとしないのも人間かもしれません。よほどの抑圧よりましだと言うように、周りと比べて周りよりも良いのだからと自分を納得させることで仮初の自由を満喫するのです。
これは比較という刷り込みで在り、本質を視るよりも何かと比べて考えて答えにするといった外的なものに縛られるという癖がついているのです。比較をしないで考えるには主体性が必用ですし、自ら自主的に判断する場合は自立し自律していなければ本質にならないからです。
「人は自由を得たのち、いくらかの歳月を経過しないと、 自由を用いる方法を知らないものだ。」(マコーリー)があります。
そもそも民族が融和していたものを西洋的な国家観として成立させようとすると、自由というものの定義もまったく別のものに刷り込まれ置き換えられたのでしょう。
これはどの組織でもそうですが、「何でも遣って善い、自由です」といっても人によっては数年から十数年、意味がわからず何もできずに停滞するのと同じです。指示命令の中で動くことを憶えた生物はなかなか元通りになることは難しいのです。
今の人たちが本物の自然体を身に着けるのが難しいように、本物の自由もまたとても難しいものなのでしょう。自分で物事の本質を見極める、そして自分の人生を自分で丸ごと生き切るということは天命を活かすということなのでしょう。
東洋思想には、この「道」という生き方がありますから道に入れば自ずから目覚めていくのかもしれません。最後にまたマハトマガンジーの言葉です。
「間違いを犯す自由が含まれていないのであれば、自由は持つに値しない。」
自由というのは、来たものを選ばないで受け止め受け容れる勇気なのかもしれません。避けたり逃げたりすることで自由は得られず、正面から取り組む時のみ正直であり素直になり、そして自由になるのです。
自由を得て人格が次第に善くなっていく仲間を観ていると、幸福な気持ちになります。
有難うございます。