似て非なるもの

この世の中には似て非なるものというものがたくさんあります。例えば、本物には決して足さないような添加物を入れたり、作り方も正直ではない効率や小手先の技術で胡麻化すようなことをしたり、文章や宣伝、広告で過剰に悪いところを除いてさも本物のように表現したりしている偽物と本来の本物は同じものではありません。

しかし今の時代は、偽物が本物に挿げ替えられ本物はさも偽物のように表現されています。これは偽物でも、大勢の人たちが買うものが本物であるといった経済詐欺の仕組みが世界全体の価値観に浸透しているからです。民主主義といったものの、その実態は大勢の民衆が正しいといえばあるいは信じたのであればそれは本物であるといった刷り込みにほかなりません。

環境の影響で刷り込まれれば、似て非なるものがわからなくなります。何が本物で何が偽物かがわからないというのは、致命的な感性や感覚のズレを起こします。つまり事実まで歪められるのです。

この偽物を本物にする技術というのは、現代病の最も大きな根本原因になります。そしてこの現代病を推し進めてきたものが金融経済、あるいは現在のマネー資本主義です。

本来は、事実や実体というのは嘘がないものです。むかしから自然と共生していたころに発明された道具をはじめすべての物は正直に自然にできていました。自然物を用いる技法は、本物です。しかしそこに、まったく別のものを持ち込みそれを本物の代わりにしました。わかりやすいものでいえば、畳などもイグサを育て用いて編み込んで藁をいれてつくるものが今では合成のプラスチックとスポンジをいれて商品名はカビの出ない畳としてホームセンターで「畳」という名前で売られています。隣に本物の畳が置いてあるのならまだしも、もう商品の陳列コーナーにはこのプラスチックの畳しかありません。

それを購入する人は、安くて便利で畳だからとマンション向きのこの畳風のものを畳として認識して子どもたちに教えたりします。そのうちこの似て非なるものが本物になるのは時間の問題です。

こういうことは果たして罪ではないのかと私は思います。それなら別の名前にしてせめて畳風プラスチック床や、もう畳という言葉をいれずにカビのでないマットでもいいのではないかと思います。それに畳という言葉をいれて、畳という商品で販売する、そして購入者もそれを畳として認識して使うというのに問題があると思うのです。

これがOKとなるのなら、マグロでもマグロに切り身が似てればマグロにして、お米もお米風の別の種でもお米に似てればもうお米でいいとなり、そのうち見た目さえ似ていれば全部本物みたいに規制も緩和し企業の利益優先でどんどん無法状態で勝手に宣伝して教育していたら文化など一瞬で滅んでしまいます。

子どもたちの未来のことに対する責任として、社会や教育に関わる人は最低限で絶対的にこの似て非なるものの環境からまず何とかしなければならないのではないかと私は思います。環境が人をつくるのだから当然、環境をまずなんとかするのが真の教育者ではないですか?皆さんはどう思われますか?

私の親しい覚悟をもった伝統職人たちをはじめそれぞれの仲間は誇りをもって本物を保っています。彼らこそ真の教育者です。もちろん現代の発明や道具は時代に合わせて用いますが、●●風にはしないように特に厳格に生き方を常に反省して日々に注意して克己復礼して取り組んでいます。

仲間たちと共に、本物を次世代へと譲り徳を守っていきたいと思います。

大好きなお水

昨日、ようやく浮羽で手掛けている古民家甦生の井戸水が湧いて出てきたのを確認しました。困難続きだった井戸が甦り、お水が湧いてきてくださって心から感動と感謝がありました。

お水はとても澄み切っていて、冷たく、そして清らかでどこか厳粛さのようなものも感じました。私はむかしからお水への感覚が鋭敏のようで少しの違いでも見分けることができます。

特に鋭敏になったのは、30代のころに体調をひどく崩してずっとお水しか飲めなくなったときにその中でも飲めるお水と飲めないお水があることがわかりそれ以来、お水を飲む感覚が鋭くなりました。また肌感覚の方は、3年前に滝行をはじめてから肌で触るとそのお水の感覚が分かるようになってきました。もともと温泉が大好きで、温泉の香りや成分も感じやすい方でしたから今では触るとなんとなくお水の特性のようなものを実感できます。水気や湿気については、石風呂をつくり蒸気をたくさん浴びているうちに空気中の湿気の密度や濃度、また状態なども気づくようになってきました。

特に古民家に住んでいると、お水の質量は一日中変化をして已みません。そのお水の変化を感じながら過ごしていると、次第に風通しや水分補給のタイミングが分かります。湿気においては、蕎麦打ちをしだしてから微細な湿気が蕎麦の水分の影響を与えるので普段から意識するようになりました。また自然農で田んぼや畑をしていると、水はけのよい土を観察しているうちにちょうどいい水分量というものを理解するようになってきました。

またお水の豊かさにおいては、非常に純度の高い鉄瓶のお水を飲んでいるうちにお水が火で変化していくなかで実感しました。

そう考えてみると、私はお水のことが大好きです。お水の御蔭で私があるともいえます。何が好きですかといわれたら、お水が好きですと即答できます。お水の生き方は、私の尊敬する生き方です。

これから新しい井戸とお水と、いよいよ新たな御米のお店作りに入ります。心強い支援を受けて、いよいよ勇んでチャレンジしていきたいと思います。

お米に親しむ2

私たち日本人はお米をずっと食べ続けてきました。日本の気候風土にも適応し、私たちの暮らしを根から下支えしてきた存在こそお米です。

お米は、元氣を育てるものです。この氣の元ともいえるお米を食べることで私たちはご神氣というものをいただき氣を補充できるともいわれます。むかしから「一粒のお米には七人の神様がいる」とも言われてきました。具体的には「太陽」「雲」「風」「水」「土」「虫」「人」といった自然の恵みであるともいわれます。他にも七福神などという説もありますが、確かにお米はこのすべての存在があってはじめて実をつけますからそれを神様が宿っているといっても過言ではありません。ここでは詳しくは書きませんが、むかしうちの会社のクルーがブログで書いていた記事を紹介します。

日本人が氣力が漲っていたのもまたお米にあるといわれます。そのお米を弱体化するために、農薬や肥料で田んぼを弱らせ、改良された種と育てかたで元氣が失われていったともいわれます。

私は自然農法で、伝統在来種の高菜を育てていて初めて気づいたこともたくさんあります。先ほどの七柱の神様は、お米だけに宿るものではありません。高菜にも同じことがいえます。この太陽、雲、風、水、土、虫、人は、すべてが役割分担して野菜のいのちが育つのを見守ります。

野生のものには人は入らないかもしれませんが、他はそれも存在します。人が栽培するときに、人の真心や手間が神様になります。

特にお米は、八十八の手間がかかるといわれます。お米という字も、八と十と八の合体してできている字です。もともと八というのは、末広がりの意味もありそれだけ多いや大きいという意味にもなります。つまり大量の手間がかかるということで八十八の手間がかかるといいます。

この「手間」という言葉は、元々は動詞「手まねく」から派生した言葉です。 手まねくとは手を用いて何かを作り出したり行動したりすることです。つまりお米作りは、それだけの作業が発生する大変な作物ということです。

お米作りに比べると、高菜の方がそんなに手間はかかりません。冬野菜で葉物、それに高菜は逞しく強いので手間はかかりますがそこませ繊細ではありません。しかし元氣が漲る味があるものは、やはりこの七柱の神様と人の手間がちゃんとかかるものです。

そう考えてみると、私たちの食べ物はすべてこの元氣に通じています。元氣というのは、私たちには決して欠かせないものです。医食同源ともいいますが、本来は私たちは元氣溌剌に活動するためにご飯を食べます。元氣のあるお米やご飯は、私たちのいのちや暮らしを根底から支えていくものです。

お米に親しみ、お米を尊重し、お米を新しくしていきたいと思います。

徳を積む生き方

アメリカからの懐かしい友との話の中で「発酵道」につて語り合いました。もともと酒蔵、寺田本家の二十三代目の当主、寺田啓佐さんと親しかったこともあり色々と生前のことをお聴きしました。

私はどこか生き方が似ているところが多いようで、共通点がたくさんあります。微生物についても、むかしからずっと親しくしていてお漬物などの発酵食品づくりをはじめ、自然農の田んぼや畑、また会社経営にもその発酵の仕組みを取り入れています。

自然界は腐敗と発酵というものがあります。しかしこれは腐敗VS発酵ではなくどちらも大きな意味では発酵です。腐敗も自然界に循環するための大切な発酵の一つということです。しかし人類にとって悪い作用を施すのを腐敗と呼んでいるのです。実際には、腐敗も一つの浄化作用ともいえます。この辺になってくると、どれが善い悪いではなく愛と調和の話になってきます。

発酵道のなかでもその辺はよく語られています。以前、俳優の窪塚洋介さんが私のいる聴福庵や場に来られたとき私の実践する「腸活」の体験をしていただきました。諸事情があって彼の番組にはなりませんでしたが、腸が活き活きしすぎて大変なデトックスになったととても喜んでおられました。本質的に腸活になったこと、発酵の一期一会になったことを覚えています。

もともと私はこれらの実践を発酵という言い方ではなく最近ではもっぱら「徳」という言い方をします。私にとっては発酵=徳という定義です。発酵について、寺田啓佐さんはその著書「発酵道」でこのような言葉を遺しています。

「それは決して嫌々やっていることではなく、微生物にとってそうすることが快くて、自分の好きなことをしている。そして、楽しく働いている。私には、そう感じられる。生命のおもむく方向へ、自ら進んで行っているのではないかと。きっとそうやって自分らしく生きることが、微生物にとっては自然なのだろう。まさに微生物というのは、本当の意味で自分のために生きている、「自分好き」なのだ。こうやって微生物の世界をのぞいているうちに、生命のおもむくまま、「自分にとって最も快いことを選択していく」ことが、実は自分を生かす最良の生き方なのではと思うようになってきた。」

ここからわかるのは自分の喜びそのものが全体の喜びになっているのが発酵ということです。そして自分が好きなこと、喜びになることに専念している、その自分自身を深く愛しているからこそ自立して自由にこの世界を素晴らしいものにしていく生き方となるというのでしょう。

これが発酵する生き方、私にすれば徳を積む生き方のことです。

自他を活かす、全体快適に生きる、まさに嬉しき楽しき有難きという仕合せないのちの響き合いです。酒造りの智慧は、生き方の智慧ともいえます。日本酒がなぜ神様の大切な供物の一つなのかはここからも気づけます。

今年はお米のことに深く関わる機会をたくさんいただいています。何よりもかたじけなく有難く思います。引き続き、徳を精進していきたいと思います。

七夕のものがたり

明日は七夕です。もともとこの七夕の行事は中国から渡来したものが日本文化と融合したものです。「たなばた」という言葉も、本来は「しちせき」と呼ばれていました。これが日本の「棚機つ女(たなばたつめ)」伝説と重なります。

この「棚機つ女」は神様を迎えるために水辺に設けた機屋に入り棚機(たなばた)と呼ばれる機織り機で神様に捧げる神御衣(かんみそ)を織りあげる女性の呼び名です。この「棚」は神棚ともいうように神様が籠る神聖な場のことをいい、機はそれを実現する法具や神具のことです。

日本古来の神話によれば七月六日には水辺の機屋(はたや)で神さまの訪れを待ちます。水の神様をお迎えした女性はその夜に天から降りてくる神様の一夜妻になり、女性自身も神さまになると信じられていましたそしてその女性がその夜に織りあげた布を棚に置き機屋を出て水辺で禊をすると町や村が豊穣になり、厄を祓えるという伝承です。同時に川で禊をし髪を洗うと髪が美しくなるともいわれたそうです。

また願い事を「梶」の葉に書く事から書道の上達をも願うようにもなりました。それに技芸の上達及び福徳を願うようになり特に弁財天、弁天様が豊饒と技芸の上達を叶えるてくれるということで弁天祭と習合しました。そして陰陽五行の五色の短冊に願い事を書き、飾り物を笹に吊すだけの簡略化された七夕祭りになっています。また笹竹は天の神様が依りつくところ(依り代)とされていて願いを込めた飾りものを笹竹につるすようになりました。

そう思うと、色々な伝説が集合して今の七夕になっています。

似たようなものに、神仏習合というものがあります。最初のお水の神様が水分の神で瀬織津姫や宗像三女神と呼ばれたり、仏教が伝来しそれが龍神や弁財天や不動明王になったりと混淆しています。祈り方やお祭りも色々なものが組み合わさっています。

そう考えてみると私たちの先祖は、海外から来た神話や伝説も受容してそれを上手に取り入れて味わいました。それぞれの風土で誕生したものも、同じ願いや祈りを持っているものなら共に祈りお祀りして行事として実践をしてきたのです。

私たちはつい簡略化されたものばかりを見知って関心が薄れていますが、本来はどのようにその行事が発生したのかを深めていると先人たちの大切にしてきた真心を感じるものです。

大切な節目として、味わい深い暮らしフルネスを実践していきたいと思います。

自然体の生き方

昨日は、2年ぶりに故川口由一先生の自然農の田んぼにお伺いしてご供養をさせていただきました。今でもこの場所に静かに腰掛け佇んでおられるような気配が周囲に薫り、「ああ、野見山さん」と優しく爽やかに語りかけてくる声が心に聴こえてくるようでした。

いつもお会いするときは、私の近況のことや取り組んでいることに真摯に耳を傾けてくださりお土産話に花を咲かせその意味を深めてくださっていました。また真善美について、学んだことや体験したこと、すべて自然に照らし合わせてその叡智や知恵を語って見せてくださっていました。

正直で飾らず穏やかで和やかで安らか、その深い優しさからにじみ出てくるお人柄が大好きで心から尊敬していました。お会いするたびに先生の後ろ姿からは、いつも自然体の生き方を学び直していました。奥様も陰ひなたから見守ってくださり、以前までお元氣であるときにご馳走していただいた親子丼の味が今でも心に忘れることはできません。

いつも何が自然で不自然か、そして自然とは本当はどういうことをいうのかということをその生きざまから伝承してくださっていました。「一つの種がでて、その種が芽吹き、成長し花を咲かせ実をつけ種になり、枯れて斃れて新たな種が芽吹いてくる。」そんな当たり前のことを、ごく自然に当たり前に信じてただ一人の道を歩んでおられる先生に恥ずかしくないようにと私も田んぼに一人で立てる人間になろうと覚悟し、ここまで歩んでこれました。今でも迷いが出たときには、一人で田んぼや畑に立つようにその場所で一人立ち覚悟を見つめ直しています。志と革命は、常に裏で一人です。

墓前にてそして先生からいただいた美しい真心の光は、私の心田の中にしっかりと透明に光っています。このいただいた光を水に静め、私の光に換えてさらなる新たな宇宙へと発光させていきたいと改めて誓いました。

今、振り返るとお会いしてからずっと先生と一緒に自然の中にいました。今の私の周囲の自然のなかにも音の中にも先生の自然を感じない日はありません。それくらい自然の生き方の道に、導いてくださっていたことを思い改めて感謝がこみあげます。

「無為自然、いのちが光り輝く自然農、種は空の彼方に、花はこの心に、まきむく未来へ結ばれる。」

一期一会のご縁に心から感謝しています、その感謝に報いるためにも自然の生き方の続きを私も磨き続けます。引き続き風に吹かれて次の章へと喜び勇んで邁進します。

これからもよろしくお願いします。

クラシフリー

昨日、会津にいる友人から「PhaseFree(フェーズフリー)」という言葉を聞きました。これは平常時(日常時)や災害時(非常時)などのフェーズ(社会の状態)に関わらず、適切な生活の質を確保しようとする概念のことをいうそうです。

これは防災の概念から産まれた言葉の一つだといいます。では防災とはどう違うのかというと、人々が備えることを前提としているのが防災、人々は備えられないことを前提としているのがフェーズフリーであるといいます。

また具体的には、平常時と防災時と対応をわけるのではなく常に日常そのものが防災的な暮らしをしているということだと私は思います。普段でも活用できるもので防災時にもそのまま活用できるという平時も防災も選ばない普遍的な状態を保つということでしょう。

またフェーズフリーの5原則というものがあります。そこにはこうあります。

常活性 どのような状況においても利用できること。
日常性 日常から使えること。日常の感性に合っていること。
直感性 使い方、使用限界、利用限界が分かりやすいこと。
触発性 気づき、意識、災害に対するイメージを生むこと。
普及性 参加でき、広めたりできること。

これが最近では、商品開発などでも使われています。昨日の友人は、玄米ポンセンを取り扱っていて日常食としても防災食としてもそのまま役に立つことが大事だと話をしていました。

これはよく考えてみると、今の日本のようにありあまる富と豊富な物資、消費経済のなかで廃棄することも価値のようになっている金融が中心になっている世の中においてはそもそもが防災対応ではなく嗜好的なライフスタイルに傾いているものです。

本来は、先人たちが暮らしそのものがこのフェーズフリーでしたがそうではない世の中になるとこれが新しい概念ということになるのでしょう。

私は古民家甦生をはじめ、暮らしフルネスを実践していますのでフェーズフリーの生活をしているともいえます。漬物をはじめとした発酵食、また炭を中心に井戸水での暮らし。身近な畑に野草、薬草を取り入れ、乾燥野菜や保存食もつくります。また暮らしの道具たちも先人たちが大切にしてきた知恵のあるむかしの道具ばかりです。

もちろん現代の道具もフル活用しますが、それだけではなく先人たちの懐かしい暮らしは保っています。これは別に防災のためということではなく、暮らしが豊かになり幸福が増すからです。

例えば、ガスでつくる料理は早く便利ですが炭火で火吹き竹をつかいつくる料理は別の意味で格別なものです。火の通り方も異なりますが、その火に触れる時間、また味も意識もまったく変わります。

そう考えてみると、災害時はお金を稼ぐ活動に時間が使えなくなりますからその分、豊かな時間がたくさん増えるということでしょう。私たちは金融的な経済活動を優先するあまり防災する暇もなくなっているという悪循環の生活スタイルを生きているともいえます。

子どもたちには、防災を学ぶことも大切ですがなぜ防災意識そのものが失われるのかのことも同時に現実として伝えていきたいものです。まさに暮らしが中心、知恵のある生き方、知恵を実践する暮らしフルネスはクラシフリーとしてこの先も必ず知恵と共に人々を助けていくように思います。

 

徳の周波数~暮らしフルネスの智慧

今、私は水鳥が飛来してくるような場所に住んでいて朝から様々な鳥の鳴き声が聞こえてきます。特にこの時期は、繁殖期でもありとても賑やかです。また耳を澄ますと小さな虫の羽音や植物の葉が風で擦れているような音も聴こえます。池の周りを歩いている人の話し声、車が通りすぎるエンジンやタイヤの音もたまに混ざります。

夜中にふと目が覚めるとそういう音は聞こえてきません。ただ、頭の中に響いているようなキーンという一定の響きだけが聞こえてきます。無音というものはそう考えてみるとありません。そして周波数もなくなることはありません。それはすべてのものは音を発しているということになります。

そして振動というものがあります。二つ以上の周波数が混ざり合って振動するというものです。音楽などはあらゆる音が振動して共鳴することで成り立ちます。鳥がお互いに鳴き合っていたらもはやそれは音楽ともいえます。

また地球上にあらゆる音が流れるとそれも音楽です。海の音、太陽が昇る音、風の音や地震、雷や雪などあらゆるものが自然の音を奏でています。周波数というのは、その存在そのものを顕現するように思います。

これはどんな周波数だろうかと私たちは音を聴きます。それは対話でも同じく、場を味わうときも同じです。そこに流れている周波数を通して、そのものの正体を察知することができるのです。

ある意味、すべての物質も周波数を常に奏でています。そして同時にそれが集まれば振動となります。どのような共鳴をするか、どのような調和をするかは、その周波数を感じる人によって調整、調律されるのです。

私は、手で調整や調律をします。それをお手入れともいいます。一つ一つのものを手で触り、それを磨き調えて適切に配置してそのものがそのものであるように、そして持ち味が活かせるように配置していきます。そのものがもっとも喜んでいるとき、喜びの周波数が出てきます。その喜びの周波数を自分が同時に喜んでいるとき、そこに徳の周波数が発生します。

徳の周波数を大切にすれば、人はその徳に目覚め徳の素晴らしさに感動するのです。引き続きこの知恵を子孫へと場を通して伝承していきたいと思います。

暮らしフルネス 掃除の意味

暮らしフルネスの中では、よく掃除をします。掃除というよりもお手入れという言い方の方が多くしますが、これには色々な理由があります。また道具もむかしの日本の職人たちがつくった和帚を使います。現代は、箒も中国産や東南アジア産ですぐに壊れますが安いものがたくさんホームセンターで販売しています。便利ですがすぐに傷むのでどうしても使い捨てになります。さらには掃除機が普及したことで、余計にむかしの道具は消えています。日本で箒職人さんというのはほとんど見かけなくなりました。

手間暇かかる自然の道具は、時間も労力もそして技もいるので安い海外産が入ってくるとどうしても駆逐されていきます。畳なども同様です。しかし畳の時も同じで、伝統の和のものは本来は日本の風土を活かした風土と一体になった暮らしの中で循環する大切な暮らしそのものでした。

日本の暮らしを味わうためには、先人の生き方に倣いその先人の知恵を尊敬のままに活用することで感得できるものです。そういう意味で、掃除というものは知恵の宝庫です。

もともと掃除という言葉の由来を調べていると、中国からのものであることがわかります。この時の掃除は、廟の中を祓い清めるために行いました。もともと箒というという字も「ほうき」は「ははき」の音が変化したもので「ははき」は、古くは鳥の羽を用いたところから「羽掃き」となったとあります。その道具は棒の先端に細かい枝葉などを束ねて取り付けたものです。

これを「帚(そう)」と呼び、そこに酒をふりかけるなどして廟を神聖に保ちました。この字に竹を冠したものが「箒」でその異体字として「草」を冠した「菷」の字になりさらに「手」にとって廟の中を祓い清めたら「掃」となります。そして「掃除」の「除」は“あまねく”という意味で、神聖な場所を余すところなく掃き清めるということです。

特に禅宗では「一掃除二信心」というように掃除こそすべての修行の先であるともいわれます。和箒となると、神道ではもともと箒神(ははきがみ)という産神(うぐがみ、出産に関係のある神様)が宿ると信じられていました。古事記にも「玉箒(たまほうき)」や「帚持(ははきもち)」という言葉で表現され祭祀用の道具として用いられていました。

それだけ掃除や箒は、神聖なものということでしょう。仏教でも周利槃特といって掃除で悟りを開いた方がおられました。掃除という儀式や実践そのものが信仰の原点であるというのもよくわかります。

私も古民家甦生を通して、実際にやっているほとんどは掃除の実践です。本当に驚くほど、掃除とお手入れしかしていません。しかしそれが何よりも家が喜ぶことになり、自分も場も喜びます。

色々と情報化社会で便利でお金で何でも買える世の中になっていますが、掃除もメンテナンスや掃除屋さんに頼んでは強烈な薬品や業務用の掃除機やブロアーで吹き飛ばすようなことが盛んです。時短で効率優先というのは、掃除や和帚にそもそもの意味がなくなってしまえばそうなるのは当然です。

時代が変わっても、初心を忘れないこと、意味を場に留めることは伝統や伝承に関わる人たちの大切な責任と使命であろうとも私は思います。時代の流行や日々の喧騒に流されないように丁寧に暮らしを紡いでいきたいと思います。

新たな種~第二創業

創業という言葉があります。これは事業をゼロから創ることです。そして第二創業というものがあります。これは創業して成長し成熟し、そして衰退するときにまた新たな種を蒔き芽を出しまたゼロから成長していくときの節目のことです。

宇宙のなかで地球に住むとこの場所の摂理というものがあります。それは重力や引力があるのも、陰陽がありバランスをとるのも、また呼吸をして水を循環させいのちを保つのも「最初から決められて存在している」ものです。これを「自然の摂理」とも私たちは呼びます。

その自然の摂理の中に、種から芽が出て成長し花や実をつけて枯れてまた新たな種になるという循環があります。私たちが赤ちゃんで生まれてから成長し老化して死に至ることも摂理でありそれは最初から決められているものです。地球が丸いことも、水に包まれていることも、太陽との距離が一定であることも月が傍にあるのもこの場所が持つ摂理です。

摂理というものは、いちいち逆らっても仕方がないのでその中で私たちは最善の体験をして摂理を学びそれを活かし、いのちを繋いでいきます。植物も年々同じ四季を迎えて同じ成長をしているようですが変化し続けているものです。天候、気候も変わり時も経ち周囲の循環すべてが微妙に変化していますから同じであることは不可能です。その同じではないことに対して、どんなものでも小さな変化を続けていきます。それが成長の本質でもあります。

摂理にはサイクルがあり、また新たに生まれ変わるような状況を意図的に創り出します。それが死というものです。ある意味では、私たちの生死とは摂理の中で創り出した自然と共に永続して生きるための最善の智慧であり仕組みです。

そしてこの生まれ変わりというのは、実は日々に発生しているともいえます。毎日、夜寝て朝起きては細胞をつくり毀し新しい自分として甦生させます。これを繰り返していくなかで老いて死ぬまで細胞分裂を繰り返します。そのうち別のいのちと和合して新たないのちを産み出します。それが赤ちゃんです。子どもは瑞々しい産まれたての好奇心を発揮して新たな環境を創り出すのです。それが創業のサイクルです。

永続している老舗やまだ数十年ほどの会社であってもこの創業のサイクルは発生しています。そして自然の摂理に沿ってまた新たに生まれ変わるのです。自然に逆らえばそのまま終焉を迎えます。それだけ自然というのは、循環することや永続することを最も大切な摂理にしているのです。終わることは最初からないということです。終わるのは私たちが摂理に合わせて終わらせているのです。

そう考えてみたら有難いことに第二創業というのは、それまでのいのちが充実して結実し新たな種を創るところまで時間も経験も醸成したということの証です。何もなかったところから、志に導かれ目的を定め理念を磨き、仲間を集め、形として顕現するところまで生育して成長して終わるのです。いわば、次の種を創れるところまで成長してきたということです。

一つの種ができるためには、大切な時間といのちを使う「思いの醸成」が必要でした。種はちゃんとこの思いの醸成という自然の摂理を通らないとできませんから種が新たにできたというのは思いの結晶が誕生できたということです。

その結晶を軸に、新たないのちの芽を出していくのが第二創業です。不易と流行という言葉もありますが、変わらないものを持っているからこそすべてを変えていくことができるのです。つまり摂理が変わらないからこそ、我々が変わっていくことができるのです。世の無常というのは、歴史を鑑が観ても明らかです。人の生死のように摂理はいまでも揺るぎません。新たな門出に、感謝の気持ちがこみあげます。

ここ数年取り組んでいる修験道でも、山伏が峰入りするのは擬死再生や母胎回帰の通過儀礼を意味しますがある意味、第二創業にも似ています。生々流転していくことは仕合せなことであり何よりおめでたいことです。

昨日は、カグヤのクルーたちと共に百年自然酒を酌み交わして予祝をしました。いつも善いご縁、善い仲間、そして徳に包まれて有難い時を過ごしています。

この機会をいただけたこと、そして新たないのちが誕生していくこと、摂理と共に永続していく喜びに感謝しています。子どもたち、子孫たちに徳が譲り渡されていくことを信じて新たな種と共に社業を邁進していきたいと思います。