環境の発見

社會人になりたての頃、自然環境の仕事がしたいと環境にやさしい仕事を探していたことがあります。エコという言葉が出てくる前から、どうやったら環境を汚さないですむかということを考えて石油系の合成洗剤を川に流さないで済む方法などをヨーロッパをはじめ世界の国々の先進的な取り組みを調べたりしました。

その後は、合成洗剤を使わない自然の洗剤や水をアルカリ化するものなどをつかい自然や人体に悪い影響が少ないものを会社に提案し取り扱ってもらったりしました。そこで学んだことや知識を使って出会う人たちに如何に環境を考えることが大切かを説いていました。

しかしそのうち、かたや環境を破壊していく商品が流通し、かたや環境にやさしいといった商品が流通している矛盾を感じたことと人間そのものがそれを創りだしていることを目の当たりにし受け止められず動けなくなってしまいました。

そんな時、なぜこの世の中はこうなっていくのか、誰がこうしているのかを見つめていたら幼いころの環境がとても大きな影響を与えているのを知ったのです。もし産まれた環境があまりにも自然から離れていたら、人間は自然がないことが当たり前になります。また逆に産まれた環境が自然であれば自然があって当たり前になります。

これは産まれた時の刷り込みであり、最初に与える環境がとても大きいことを知ったのです。ある保育園で、40年ぶりに訪ねてきた人がかつての園児で園長がその人の癖や嗜好などを全部言い当てていました。人は何十年経っても、幼児期に体験したことを忘れないということを肌で感じたのです。

それから環境に対する考え方が一変しました。

そもそも環境とは自然環境の方ではなく、人間環境の方であったということにです。環境を産み出しているのが人間ならば、人間の環境を変えな変えれば半永久的に環境を改善することができないと自覚したのです。

結局、自然は自然ですから環境はそのままに自然です。しかし不自然な環境を産み出しているのが人間ですから環境は人間が創造しているのです。その環境を創造する人間の環境を誰かがちゃんと向き合って受け止め、どのような環境が人間に必要なのかを正しくしていく必要があるのです。

それが教育の本質でもあり、幼児教育の場合はあらゆる自然社會科学を発達という真理に照らして周囲の人間たちが環境を示す必要があるのです。その環境とは生き方のことです。

人間は移動していく生き物だし、人間は道具を用い、知識を使いますから余計に自分たちの生き方を決めなければなりません。そういう生き方を決めることこそ環境を用意することであり、生き方を決めた人たちが示す道に見守られ子どもたちは自分たちの環境を選んでいくのです。

人間が変わらなければ環境は変わらないということは自明の理であり、天は正直であることをずっと尊びました。これは正直であるというのは、嘘がないということであり畢竟、人間が誰かのせいや何かのせいにするのをやめなければなにもはじまらないことに気付いたのです。

エコという名のエゴだったり、エゴを通してのエコも、どれもこれも自分を変えなくても済む方法で正直ではありません。正直に生きるというのは、自分の生き方を見直し、その生き方を実践していくことに尽きるのです。

求めてきたことと出会いの御蔭様で、本当の環境に気付くことができました。今では環境の羅針盤である発達という自然の手ほどきも受けることができています。愛し愛される仲間にも巡り合い、自然の生成力の素晴らしさに感動する日々です。

自分という一人の存在が環境の一部であるということが環境への影響力です。

引き続き、体験を整理してみたいと思います。

一円対話の意味

カグヤには、一円対話という実践があります。これはみんなで一つの輪になって座り、一人ひとりの話を、傾聴、共感、受容をして存在を認め見守り合う実践のことです。このことで私たちが忘れていた運命共同体の存在を思い出すことができます。

そもそも私たちは目に見えている世界、耳に聞こえている世界だけがすべてではありません。現象をみて反応しているだけの存在でもありません。それは私たちには「心」があるからです。

心とは目には見えないものを観ることができ、耳には聞こえないことを聴くことができるのです。これは誰しも実感したことがあると思いますが、人は丸ごとを受け容れ信じることができるとき、自分の存在が偉大な周囲の御蔭様によって活かされているという安心の感覚を持つと思います。

この安心というのは、不安や安心という相対にあるものではなく絶対安心といって存在そのものを感じる安心です。身の回りでは空気や水があります。私たちは空気に包まれていないと生きていけません、宇宙空間に出てしまえば宇宙服の中に空気があるから生きているのです。他にも太陽の光、地球の水、あまりにも存在が大きすぎて実感することができませんが心で感応すればそれを実感することができるはずです。

この世界というのは、一つも欠けては成り立たないという中で私たちも生きています。その一つも欠けては成り立たないのに私たちが安心して生きているというのは、当たり前に存在していることを許されている「信」の世界にいることを自覚していることに他なりません。

そしてこの信でいるとき、人はお互いの存在を認め合う相互扶助の関係に気付くのです。お互いのことを「思いやり」、見守り合うことができるのです。それを忘れてしまうのは、自分の強すぎる自我や我欲によって自分を自然の循環から切り離してしまうからです。

自然界では循環に生きていますからそんなに「自分」という意識はありません。みんなの中でつながりの中で存在していることが当たり前になっているのです。個々がバラバラに個々で自我を通せば、つながりは次第に薄れていきます。なぜつながりが薄れるのを嫌うのか、それは人間は絶対的に社會に属すからです。

この社會とは、人間に限らず私たちは宇宙全体のつながりの一つでしかない、一部であるとうことを表します。その中にいる私たちですから、それを忘れるとき仕合せを感じられなくなるのです。

人間だけがこの世に存在しているわけでもないし、自分だけが生きているわけではないのです。最近は大勢の中にいるのに特に孤独を感じて一人寂しく過ごしている人たちが増えたといわれます、都市化が悪いとはいいませんが心を亡くして忙しくしている日々にもっとも人間としての仕合せが何かを忘れるのは悲しいことです。

心を通わすことは、人間としての仕合せに気づくことです。

カグヤではそういうことを忘れないように一円対話を実践します。この実践はその忘れていた大切なことを思い出すのです。どんなに現象に流されそうでも、それでも心を入れなおすのです、常に信を容れ直すのです。

人に信が入るなら必ず人はその安心に気づきます。そしてその気づきがあるから自他の存在を許すことができるのです、その先に人類の幸福もまたあるのです。自分の信が周囲を仕合せにするのです。

人間はどの時代も何度もこれを忘れては思い出し、それを忘れないようにと出来事を発生させその信の記憶を強く厚くしているように私には感じます。また同じように歴史は繰り返していますが、またこの時代にも信じることを記憶に刻む大きな出来事との邂逅がきっとあるのでしょう。

私たちが行う世直し行は、畢竟、自分自身の中に信を容れ直すということです。日々が真剣勝負ですから信を遣わせていただきたいと思います。

私の夢2

日本という国は古来から運命共同体の世界に生きてきました。しかし明治維新前後から個人主義という名の自然と切り離された人間都合の価値観を教え込まれ、そこから自然と切り離された考え方を持つようになってきました。

何度も誰かによってどちらかに都合が良いように、右か左か、上か下かというように偏った考え方で統一しようとし、昔のように間をとり和やかな距離感で暖かく見守ろうとするゆとりの心も薄れてきているように思います。

そもそも昔の私たちはすべてを搾取しつくしてその場にものがなくなれば移動しようなどという考えはありませんでした。風土に産まれ風土に住んだ私たちは限りある資源であるという自覚を持ち、その限りある資源を大切に慈しみながら分けていただこうという謙虚な心がありました。

それは里山や森との共生にも言えることで、里山では生態系が循環してどちらか一方が減らないように全体に善い影響を与える生き方を目指しましたし森では木を伐採すれば同じだけ木を植えました。他にも今ではアメリカで地下水が枯渇してもう農業ができなくなってきましたが、日本では水田をたくさんつくり地下水が枯渇しないようにと工夫してきました。

常に自分だけの視野で物事を裁くのではなく、自然を畏怖し全体の視野を優先し物事と調和するような生き方をしたのです。

これは言い換えれば、運命共同体である自覚であり、私たちは一緒に生きて一緒に死ぬ存在であるという仲間意識のことでもあるのです。人間だけが特別だと勘違いし、自然にあるものを我が物顔で蹂躙していくというのはあまりにも思いやりがなくなっているように思います。

いのちというのはそれぞれに大切で、先住民がいるならそこに先住民の暮らしがあります。また自然の場所にはそれぞれに先にそこで長く暮らしていた他のいのちが存在しています。

そういうものを人間の都合だけを優先して排除していけば、必ず悲惨な出来事が待ち構えています。

昔は親が子どもに背中でこれらの自然と一緒に生きていくことを伝えていました。ものを大切にすること、ものを粗末にしないこと、ものに感謝すること、そして思いやりを忘れないこと、そういうものを一つ一つの暮らしの中で生き方として伝承してきたのです。

そういうものがなくなっていくことで今までのご縁が途切れ、周囲の仲間たちとの関係が希薄になり、竟には存在すら思い出さないというのはあまりにも悲しいことです。

昔はものが今のように豊富になくても、慎みながらもあたたく仕合せな社會がありました。それは相互扶助の世界です。相互扶助という仕合せは決して人間のみであるのではなく、お互いが思いやりでつながっている世界を実感することができた社會です。

心の安心感、心の幸福感は、このような相互扶助のつながりの社會でのみ本質的に実感できるように思います。子どもたちに私たち大人が与えている安心感と幸福感は、「人間のみが特別の世界で行っている中でしか味わえない」としてはこれはとても将来に危うい憂いの種を蒔いてしまうと心から思います。

自然の中で運命共同体として生きることが、自然の一部として私たちを存在させ、その中で使い切りゴミをうみだすのではなく、すべての生き物たちが循環によって活かされるような世界と社會にしていくことが私の願う夢なのです。

自然社會の究極の仕合せは「循環社會を人間が自然の一部として実現すること」です。私が子ども第一主義にこだわるのは、この循環を取り戻すために必要だからです。子どもに何を譲るのか、そこに真のポリシーがあってこそ大人としての役割が果たせるのでしょう。

引き続き、夢を語りたいと思います。

 

特別ではない存在

人間は自分だけが特別な存在であると錯覚する生き物です。これは自分だけが特別だと思い込んでいるともいえます、言い換えれば全知全能の神、もしくは万物の霊長などと言っているのと同じです。

自然界から見たら、別に人間だけが特別なわけではありません。道具を使う生き物は他にもいますし、ほとんどの生き物はそれぞれに言葉を使い分けます。五感も第六感も持っています。文字ではなくても文字のような印をつけて理解しあう生き物もいます。

人間だけが特別なわけではないということです。

しかし人間は自分を特別だと思いますから、他の動物たちとは異なりなんとかなると思っていますがそんなことはありません。自然界というのは大変複雑な生命のつながりのなかで調和を保っています。

ある生き物が絶滅すればそれによって他の生き物は大きな影響を受けます。人間には関係ないと思うかもしれませんが、そのことである動物に病気が蔓延したり、そのことから病原菌が広り伝染病が発生したりと、多様な生物たちが無駄なく補完し合っているから自然全体でお互いを生かすために善い影響が出てくるのです。

先日もマラリアの予防で遺伝子操作で蚊を絶滅させることができる研究をしているというニュースが報道されましたがまったく気がおかしくなったのではないかと思ったほどです。人間に都合が良いものは保護し、人間に都合が悪いものは滅しようとする。

なくなっていい生き物となくなっては困る生き物がいる。この時点で如何に人間が自分だけは例外で特別であると勘違いしていることに気付かなくてはならないのです。

今は第6期の大量絶滅時代だといわれます。その速度は凄まじく、現在の絶滅は、過去のどの大絶滅よりも急激で大規模になってきているといわれます。生態系の破壊による根こそぎの種の絶滅のため約 2000万種の生物のうち、毎年5万~15万種(毎日 100~300種)の生物が今も日々絶滅し続けてるそうです。

過去にここまでのスピードで絶滅したことはなかったのです。いくら人間が全知全能と思い込んでいても、自然界のゆったりとした中で生き物たちが進化成長し順応する速度を大幅に超えて循環を壊せば修復はもう不能なのです。

つながっている循環の糸をあちこちで断裂し滅してしまえば、そのつながっている糸は他の生き物たちの糸をも破壊していくのです。そろそろこの辺で人間が特別だという意識を転換して、自然の一部として謙虚に自分の分度を定めようとする社會を政治を考えなおさなければ本当に取り返しのつかないことになってしまうかもしれません。

子どもたちや子孫、未来に何を譲っていくか、それはこの多様な自然の姿以外に何があるでしょうか。自然から離れて都会に住んでその中でだけで世界は動いているではないのだから、お金で偽った経済の本を本来の自然の経済に回帰していくことだと思います。

自分の身の回りの生き物や友達が次第に消えていくことは本当に寂しいことです。人類は一人一人の生き方の気づき、そしていのちの目覚めの時代に入っています。

 

私の夢

一人一人の人間には必ず何かの才能を天が授けているともいえます。それが個性というものです。しかしそれを開花させるには、自分を信じてあげなければならないように思います。

子どもの頃から、様々な知識を教えられて周りを比較され競争し画一化されていく中で人は自分のもっている才能が何かに気付かなくなっていきます。

本来、何もしなければ自ずから周りもその人も才能に気付くものですがなんでもできるようになってきてから余計にそれがわからなくなってくるものです。

そしてその才能とは、集団や社會の中で多様に使われ用いられるものです。自分が何に向いているのか、自分が何をすることが最も皆の役に立つのか、それが考えなくても自然にできるのならこんなに仕合せなことはありません。

人間の仕合せというものは、お互いに必要としあう関係になった時です。言い換えれば運命共同体になれたということです。自然界ではそれを共生と呼びます。

共生関係が結べるとき、生き物たちはその出会いに感動して自分の才能が相手に必要であると確信し互いに力の及ぶ限りに自分を生き切っていこうとするのです。

人間は、こうでなければならないと無理に自分を抑え込み我慢したことで自分のことがわからなくなってきました。特に同じ成功を求められ、幸せの形を刷り込まれ、平均という価値観を植え付けられることで余計に自分の才能のことに気付けなくなりました。

そのものがそのものでいいというのは、自分が天から授かった才能があると信じ切ることです。信じ切っているからこそ、それをやり遂げたとき、世界はその人の生に魂が揺さぶられ感動するのです。

李白にこういう言葉があります。

「天生我材必有用」(天、我が材を生ずる、必ず用あり)

天が私に才能を授けてくださった以上、必ずこれを何かに用いる使命があるという意味です。

私が一番何よりもかんながらの道で夢とし希望とするのは、人間が自分のやりたいことを見守ってくれるような社會を育て上げていくことです。子どもたちが、好きに自分の才能を誰かのお役に立てるような社會を醸成していくことです。

八百万の神々は、誰も否定されずそれぞれに理由をもって大切なお役目を果たしていきます。もしも三つ子の魂が百まで生きるのなら、それほど私にとって仕合せなことはありません。

なぜ発達を邪魔したくないのか、それはその人の仕合せを願うからに他なりません。社業の理由をそろそろはっきりと世の中へ打ち出していこうと思っています。

眠りの本質~自然生活リズム~

昨日、GTサミットで眠りと発達についての講演を拝聴する機会がありました。

そもそも人間が眠るということにはたくさんの意味があります。日常の活動の休息というものだけではなく、様々な情報の整理整頓、また細胞の修復や治癒、他にも沢山のことを睡眠によって行っています。

今回の研修の中で、大変興味深かったのは睡眠の総時間が必要なのではなく睡眠のリズムが重要だというお話です。

人間には生活リズムというものがあります。言い換えれば生活習慣というものです。どのような生活習慣を持っているのか、その生活習慣こそその人のリズムです。

このリズムというものは、自然界にも存在するように思います。自然界の生き物たちは人間のように時計の時間に合わせて動くのではなく、自然のリズムによって自分たちの生活を持ちます。

たとえば、動物たちや昆虫、植物たちもそれぞれに一生のリズムがあり、一年のリズムがあり、一日のリズムを持っています。それは本能によって時間は刻まれ、自然全体の季節や気候、つまり自然の変化に順応しながらその時間を調整しているのです。

春になれば自ずから様々な生き物たちが目が覚めて活動に入っていくのもまたすべての生命は自然のリズムを実感しているということです。

この自然のリズムとは生活リズムのことですが、この生活リズムを崩すような原因になっているのが眠りであるということです。私は持論で眠る、食べる、働くの三要素が狂ってしまうと自然の時間が狂ってしまうと思っています。如何に自らの直感がハタラクかはこれらの生活を本来の姿に戻していくことで健全で健康な状態に近づけるように思います。

そのためには、自分の都合や社會の押し付けに負けないように自分の中に自然のリズムをつかんでいくことのように思います。

その具体的な方法は早起きにあるように思います。早起きをすれば自然に早寝になっています。早起きの習慣を持つ人は、朝に様々な活動を行います。朝の活動はもっとも集中力が高まり、様々なことが捗ります。睡眠の後の活動ですからメラトニンも豊富に出ています。一日の始まりが楽しくなっていき脳のシナプスも大量に出てくるからです。

昔の日本人はどの家庭でも鶏が鳴いてから目が覚め、暗いうちから活動しお互いが「お早うございますね」と挨拶を交わしていました。時間の感覚の今の時代のように人間都合のシステマティックではなく自然の営みに合わせるようなダイナミックだったのでしょう。

祖神たちは、自然に近く謙虚で素直ですから人間のみの力と自分のみを力を頼りに何かをやろうとするのではなく、自然に頼り自然の力をお借りしつつやる方が善いことは当たり前だったのでしょう。

本来の子どもの眠りとは何か、子どもにとっての眠りとは何か、見直す機会になりました。ありがとうございます。

 

自分との挑戦

人は自分を変えるとき、今まで使っていなかった能力を開花させているともいえます。

それは新しいことに常に挑戦して新しい筋肉を使わなければならないののに似ています。新しいスポーツに挑戦すると、筋肉痛になるのはそのスポーツに必要な能力を引き出しているからです。そしてこれは筋肉に限ったことではありません。自分の意識変化に対して同じようにいえることです。

少し飛躍してしまうかもしれませんが、昆虫に変態するというものがあります。ヤゴからトンボになったり、青虫が蝶になったりと、蛹を経て別の形態になるということです。それは言い換えれば、今までと全く異なる能力を使っているということです。

そのために今まで持っていた能力を思い切って捨てては転換し、新しい能力を新たに水面下から引き出してくるのです。これは言い換えれば潜在意識下での変化です。

脳科学からわかってきたことですが人間は脳のほとんどの能力を使っていないといいます。つまりこれは人体すべてに言えることで今の私たちはわずか数パーセントの力しか発揮していないのです。これは全部使ったらいいという意味ではなく、潜在意識下で自分にこの能力が必要かどうかを常に自分が取捨選択しているということです。

ある職業につけばおのずからその職業に必要な能力が開花してくるように、人は環境に合わせて適合するようにできているのです。しかしこれを邪魔するものが今までの能力を捨てようとしないことです。それは自分というものを勘違いしているからです。

本来の自分というものは、環境の中で存在しているものであり無理に自分探しなどしなくても自ずから自分の存在は自然に顕現してくるのです。自分はなくならないのだから自分探しをするよりも周囲を思いやりながら活かされている自分に気づき、自分の今いるところを自ら気付き自らのその方向性を確かめ続けた方が本当の自分に出会えるように思います。

結局は人は無理に自分を持とうとすればするほどにその能力開花の邪魔をするのでいつまでも変わらなくなるのです。そして人間は今までせっかくつけてきた能力を挑戦なしにご破算することはなかなかしないものです。

だからこそ自分との挑戦というのは能力開花であり、今までやったことがないことをたくさんチャレンジすることで今までの能力が捨て去られ新しい能力がメキメキと引き出されるのでしょう。

今までやってきたことの延長線上にやっていくのは変態ではなく、まったく新しいことをやることで変態するのです。好奇心というものは常に未知の世界を求めます、それは未知の世界には未知の能力があることを潜在意識が知っているからでしょう。

その人が変わりたいと強く願うなら、今までの能力を使おうとしないことです。今まで使ったことがないことを引き出すには、今までやったことがないことに取り組むのが最善の方法です。

潜在意識を変えるような自分との挑戦を愉しんで、新しい自分に出会い続けていきたいと思います。

 

信を育てる

人は自分の役割がこうでなければならないと頭で考えているときは、役割分担ができないものです。

たとえば、自分は兄だからとか親だからとか、もしくは社長だからとか部長だからとか、そういう頭で考えて思い込みから入ってみてもそれは頭でこうでなければならいという捉われの中にいて自然体ではありません。

他にも仕事の仕方一つをとっても、頭でいくら真心や見守るとやってもそれは思い込みでやろうとしているだけで心で信じてやっているのではありません。

そもそも頭でやらないというのは、心で行うということです。そのためには自分が常に信じ切っているかどうかということを自らの実践と行動ができるようにいつも心は一に止まっている必要があるのです。

心がいつも慎み鎮まっているのなら、どのような行動や言動、そして取り組みも信が入っています。そうすれば目の前の現状に捉われず自然体の自分を発揮していくことができるのです。

しかしその信を怠るならば、目の前の事象に刷り込まれそれをいくら抜け出そうとしても対処療法ですから自分ではコントロールできている気になっていても実際は不自然な対応ばかりをしてしまうことが多いように思います。

頭だけでやろうとするから信は入らず、形だけでやろうとするから頭ばかりを働かせてしまうのです。

本来、信を入れるというのは事前準備や振り返りといった自分の心が決めた成果についてどうすればその目的が達するかを一人静かに覚悟して取り組んでいくようなものです。

自分自身の心が迷っていたら、現実の世界は頭ばかりを使ってしまって流されるままにだらだらと過ごしてしまうかもしれません。自分がどのような成果を出したいと思っているのか、自らと正対し自らを受け止め、心を決めて取り組むことで頭を従えることができるように思います。

そうはいっても今の社会はなんでも簡単便利に自分の思い通りにいくことが良いといった価値観の環境の渦の中に自分たちも存在します。昔よりも一層、自分を律して自由を持つ実力が求められます。

常に自他から学び、信を育てていきたいと思います。

体験~人生二度なし~

人生には一切の無駄がないという言葉があります。これはなぜそうなるのか、その意味を深めてみます。

人は必ず自分の体験が誰かのお役に立つようにできています。それはその時は感じていなくても時間が経つとあの体験がなければ今はなかったというような感覚を持つようになるからです。

そしてこれはその人個人の体験に限らず、その体験を必要とする人に巡り合い、その人が自分の体験を糧にその人の人生に役立てるからです。

この体験が尊いというのは、もともと人間が分かれていない存在であることに立脚しています。人間はつながっている存在です、それは歴史を観れば必然ですが分かれているものは本来何もないのです。

だからこそ自分の体験は必ず何かとつながっているし、自分の人生体験は必要だから発生しているともいえます。だからこそ自分の体験は他の人たちの体験にもなっているのです。

自分の人生を一生懸命に生きる意味とは、それがお役に立てると信じているからです。自分一人だけの世界で物事を見てしまったら、お役に立つという観念もまた自分の都合で考えてしまうかもしれません。しかし八百万の神々といった全体から自分を省みれば、存在そのものが大いに役に立っていることに気付くのです。

それ故に人は役に立ちたいと強く願うのです。本来の役立ちというものは体験を大事に自分の使命を尽くしていくことのように思います。

言い換えれば、体験そのものをどれだけ充実させているか、体験させていただけることに感謝しその体験を如何なる高みにまで昇華させるかということでしょう。

何気ない日々も体験ですが、二度とない一期一会の日々もまた体験なのです。体験そのものが役立ちだと気付くことができたなら、人生に無駄がないことにも同時に気付けるのです。

無駄がない人生だからこそ、体験を大切にしなければなりません。

どんな体験もそれはかけがえのないご縁ですから、そのご縁が結ばれていく世界に存在しているのだから無駄にはしないという覚悟もまた必要なのでしょう。

結果を求めるのではなく、どれだけ真心を籠めて生きたか、どれだけ至誠を盡して生きたかというのが体験させていただいたことへの感謝の現れなのでしょう。

正に人生二度なし、二度とない出会い(体験)を大切にしていきたいと思います。

肩を寄せ合う~互助の真心~

庭の植物や自然の世界の生き物たちを観察していたら、そのものが単体で生きるよりも肩を寄せ合って生きている方が元気そうに感じます。それは一つの種だけを鉢に入れて他を引き離して育てているよりも、多くの種を一緒に近づけて身を寄せ合うように育てている方が活き活きと伸びていくからです。

当たり前のことですが、自然界のどの生き物たちも厳しい自然の中で身を寄せ合い生きています。大変だからこそ他を慈しみ、共感しながら明日は我が身と自分の与えられた場所で自分の与えられた天命に正直に生きています。

これは人間にも同じ事が言えることで、助け合い、思いやり、結束し、いたわり、協力してはじめて生き残っていくことができます。

そういう意味では、生き物たちは肩を寄せ合う距離がもっとも安心できるのかもしれません。本来人は一人でいる方が安心であるはずがありません、今は人間関係が嫌だと一人でいることを好むかのようなことをいうことが増えてきている時代ですが決してそんなはずはありません。

もしも一人で肩を寄せ合う仲間がいないならそれは本当に心細いものだからです。だからこそ人は仲間を求めては、一緒に肩を寄せ合う伴に出会おうと旅をするのでしょう。そして肩を寄せ合うということの同義語は、お互いがお互いのお役に立つときもっとも実感できるのかもしれません。

ダライラマ14世がこんな言葉を残しています。

「私たちは肩を寄せ合って生きています。 だから、この世における私たちの第一の目的は、他人の役に立つことです。 たとえ他人の役に立てない者でも他人を傷つけてはいけません。」

自分が役に立つことを求めては肩を寄せ合うのだから、役に立つかどうかを自分の価値観で裁くのではないという意味でしょう。お役に立ちたいと願うのは、信頼しあって相互扶助する仲間が必要だという心の声です。

どんな生き物もこの世には必要なのだから、争うことよりもお役に立つことで出会う仕合せ、旅をする歓びを実感できるのでしょう。自分から肩を寄せ合っていけるような素直で正直、オープンな互助の真心を育てていきたいと思います。