丸ごと治す

今年、韓国の智異山に訪問している中で許浚(ホジュン)という人物のことを深めました。この方は朝鮮王朝中期の名医・王室医官で、韓医学の古典『東医宝鑑(とういほうかん)』を編纂した人物です。この『東医宝鑑』は1613年に刊行され、アジアをはじめ日本にも伝来し大きな影響を与えた書物の一つです。2009年にUNESCO「世界の記憶」に登録されました。

このホジュンは王を診た名医だっただけでなく、民衆のために医学知識を体系化し、薬草や治療法を使いやすくまとめたことで朝鮮の養生文化が醸成されました。一部の特権階級でしか受けられなかった医療や、専門書や中国にしかない薬草を身近な朝鮮の山野草に変換、翻訳され、また民間療法や未病につながる生活習慣の改善の仕組みまでも記されます。これにより韓国料理のナムルのように野草を日常から取り入れる習慣や微生物を活用した発酵食などにも大きな影響を与えたのではないかと私は思います。まさに医食同源の実践です。

ホジュンが編纂した『東医宝鑑』では「病気になってから治すのではなく、病気にならない生き方を大切にする」という思想が入っています。つまり人の健康は薬や治療だけでなく、食事、睡眠、呼吸、心の持ち方、人との関係など、日々の暮らしそのものによって育まれると考えられています。これは私の提唱する暮らしフルネスの実践とも一致しています。

畢竟、人間の暮らし方が変わらなければ本質的な病はなくなりません。いつまでも病気になるような生活を続けてその対処療法ばかりをしていても、根源的な人間性の甦生、つまり人が本来持っている力や幸福感が発揮される暮らしが調わなければ真の健康とはいえません。病を治すと同時に、どう人を治すか。教育とか医学とか、分類わけされていますが本来は「人間を自然に調える仕組み」のことです。

むかしから医者には「小医は病を治し、中医は人を治し、大医は国を治す」といいます。ホジュンという人物はまさに養生文化によって民衆の未病を促すまさに大医の実践をした方のように思います。大医は場を通して人間を丸ごと治していくのです。

人間の生き方や働き方を調えることは、まさに養生をすることです。保育の世界にも養護という言葉がありますが、これは養生から発生した言葉です。養生を守るということです。見守ることの大切な要素の一つです。

何かを足すのではなく、もともと具わっているものを甦生する。つまり徳や天分を引き出すような環境、場づくりをするということです。それによって自然に育つ力が発揮されるということです。

本来、人間に免疫力が具わっているように自然に人間性も回復していくものです。そしてそれは暮らしが土台になっているのは歴史が証明しています。真の豊かさは、養生からはじまるのでしょう。

自分を養生することは、周囲を養生することになります。場が調和していけば、自然に養生される人々が増えていきます。私の尊敬する二宮尊徳もまた大医の実践者でした。

時代や国を超えて、大医の実践から學ぶことばかりです。

初心の文化論

子ども心というものがあります。これは遊び心や好奇心などともいわれますが、私は人間性の初心のように定義しています。子ども第一義というもの、元々具わっている子どもの人間性を忘れないという意味で使います。つまり人類の原初の思いやり、孟子でいう惻隠の情のことです。自然に湧き出てくる人間の真心ともいえます。

保育園で子どもたちの会話を聴いていたり、質問をするとまるで神がかかっているような言葉や行動をみることがあります。子どもは優しく思いやりがあり、刷り込みがありません。あるがままのこの世の中をあるがままに観て、自然体です。赤ちゃんが神々しく感じられるように、人間は本来は神々しく感じる存在です。

そのまま大人になった人物を仏陀ともいい、観音様などとも呼ばれています。

しかし人間は発達する過程で、その人間性や初心を忘れていきます。それは与えられた環境や欲望が心を曇らせていくからです。それをどう取り払い、本来の人間性を回復させていくか。それが私が暮らしの甦生に取り組む本意でした。

もしも仏陀や観音様が今、目の前にいてどのような暮らしをしているかを観れば人は何が人間性であるかを思い出すかもしれません。実際には、まったくそういう場がなく見ることもなければ気づくこともないでしょう。

だからこそ、時代を超えて人間性を磨き、初心を忘れない仕組みを暮らしを通して伝承する大切さを感じます。

子どもたちは本来、人間性や徳が溢れる存在です。その存在が、ずっと初心を守れるように見守ることが私が感じる保育の本質です。つまり子ども心とは人間性の初心であり、暮らしの甦生とは、その初心を忘れずに生きるための場と文化を未来へ伝承するということでしょう。

同じ言葉を使っても、その人の思想や人生観、そして生きざまや実践が言葉に宿ります。私が思う文化論をどのようにカタチにしていくか、まだまだ精進していきたいと思います。

場と道

「場が育つ」という言葉があります。植物や動物をはじめすべてのいのちが育つように、場も育ちます。この「育つ」という言葉の語源は、赤ちゃんが産まれることの会意文字でもあり、日本の古語の「生ひ立つ(おひたつ)」が由来だともいいます。つまり「時間をかけて成熟していく」ということです。

植物であれば、最初に土を定めそこに種を蒔きます。すると新芽が出て花が咲き実をつけては種になります。この自然の循環そのものが時間の成熟です。そしてそのいのちのめぐりそのものの働きを場とも呼びます。

場が育つというのは、自然全体で行われている循環が場に凝縮され顕現するのを実感するということです。

そしてその場の中には、人だけでなく風土や暮らし、そして歴史や文化、伝統や伝承などあらゆるものが有機的に結ばれて離れているものがない状態が繋がっています。その分けられていない、一物全体のような境地を「場」と私は呼んでいます。場は言葉で語れるものではなく、場で感じるものです。

場には道があります。

この道とは、歩んできた道のこと、つまりは時間をかけて成熟してきた道のりのことでもあります。人間は、視野を広げ、意識を高め、宇宙をはじめ全体と結ばれ、心を磨いて徳を調えると「道」の存在に氣づくものです。

道を感じるための入り口には、必ず「場」があります。

そして場を感じるのには兆しがあります。この兆しは、木々が清々しい花として変化したり、風や空気感が変化したり、水が綺麗に澄み渡ったり、光が揺らいだりといった自然現象の変化として顕れます。

人間は理想を抱き、謙虚に先人たちの遺徳を継承し、丁寧に誠実に実践を積み重ねるときに場の種は次世代へと蒔かれていくものです。

子どもたちのためにも、脚下の場を調えるような実践を積みかさねていきたいと思います。

ということで、来週は徳積堂(飯塚市有安)のある鳥羽池(八龍権現池)の桜から場を学び、再来週は守静坊(添田町英彦山)の230年の枝垂れ桜から道を辿ります。

この場と道に、ご縁のある方々のご参加を心から楽しみにしています。

修行の本懐

忘己利他という言葉があります。これは天台宗の開祖、最澄様の残した言葉と生き方です。簡単に言えば、「自己を忘れ、他者の利益や幸福を第一に考えること」(山家学生式)そして最も目指す慈悲の極みこそが、この言葉であるともいいます。

原文ではこう記されます。「悪事は己に向かえ、好事は他に与え、己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり。」と。現代語訳にすれば、「どんな悪事も嫌なこともすべては自分が引き受けるといい、そして善いことであれば他者と分かち合え与えるのがいい。我欲や自我や自分などは忘れてしまい、人によかれと思うことをしつくしなさい。まさにそれこそが慈悲や思いやりの極みです。」と。

この反対の行為は我欲自利でしょうか。反対のことを書いてみればすぐにわかります。「嫌なことからすぐに逃げ、悪事はすべて他人のせいにし、善いことや手柄はすべて自分の力だと吹聴する。自分の利益だけを追求し、他者には一切それを分かち合おうとしない。目先の我欲や自我に呑まれ、執着を手放せず周囲に迷惑をかけつづける。それが無慈悲の極みである」

人間というものは、あっという間に初心や理念を見失うと道に迷うものです。道に迷わないようにするために、常に謙虚に内省を続け、素直にすべての人の話に耳を傾けて心を澄ましていき反省をしていきます。実践というものは、素直に自分の至らなさや誠が濁っていないかを確認しそれをすぐに改めることでもあります。

論語の中にこういう一説があります。

「子曰わく、君子重からざれば、則ち威あらず。学べば則ち固ならず。忠信を主とし、己に如かざる者を友とすること無かれ。過てば則ち改むるに憚ること勿かれ。」

これは意訳ですがこうです。「孔子は言われた、君子は軽々しい態度をとると威厳がなくなります。学んでいる人は謙虚になり頑固にはならない。真心を盡そうと精進することこそを最も大切な初心とし、自分よりも劣っている人たちを集めて囲われ、自分の気分がいいからとそれらの人たちを友達にしてはいけない。もしも過ちに気づいたのならすぐに改めることに遠慮などはいらない、間違いはすぐに直せばいいのだ。それが人として生き方である」と。

困難から逃げると嫌なことを逃げる人ばかりが集まってきます。困難を引き受けると、周囲は心の負担が軽くなり心安らかになっていきます。そして幸福や喜びを分かち合い、深い信頼関係と絆を得ることができます。それが恩恵を分かち合うことであり、忘己利他の極みなのかもしれません。

人は自分の利益のみを追い求めると、自利に走っていきます。自利とは自分勝手な欲望に呑まれることです。最澄様はまず自分勝手な欲望を手放すこと、それが修行の本懐であると言ったのかもしれません。

時代が変わっても人間の本質や性分はなかなか変わらないからこそ、自戒を持って歩んでいきましょうという今でも大切な道の生き方としての遺誡の一つになったのかもしれません。

私もかんながらの道の一人、そして目指す聴福人として、心で聴き対話を忘れない実践を続けていきたいと思います。

お水への感謝

浮羽の老舗兵四郎のお披露目会で古民家甦生の報告をすることができました。思えば、2年半の間、お水に見守られた有難いご縁になりました。浮羽は、大雪で吹雪いており時時に美しい太陽の清々しい光が舞い降り場を照らしてくれました。

今回の甦生で一番思い出に残っているシーンは、井戸掘りだったのは間違いありません。1年半もかけて、ずっとお水が甦生するように祈り、何度も井戸に入り、井戸に祈り、井戸を掘る職人と一緒に誠実に盡しました。最初は、井戸のあった場所が見つからず、周辺を何度も数メートルほどみんなで掘りましたが出てこず、諦めた頃にむかしの井戸であっただろう掘り穴が出てきました。またその井戸が空気抜きがされていないこともわかり、苦しかったであろうことも感じご供養祈祷をしました。

そこから砂や土を取り出し18メートルほど掘っているとお水が湧きました。そのお水が透明で美しく、顔を洗い口に入れるとその清らかさに感動して泣いていました。これだけ長い時間をかけて井戸を掘った理由は、井戸職人さんの体調をはじめ、道具を集めたり、無理せずに日を選んだり、定期的にご祈祷をして穏やかに取り組むようにしたこともあります。

井戸を掘っている間は、常にお酒やお塩、法螺貝を吹いては事故や怪我がないように祈り続けました。不思議なことに、一番奥ふかい場所から一つの勾玉のような石が出てきて台座もありました。誰かが井戸を埋める前に、安置したのではないかとし今でもその石と台座を大切にお祀りしています。

また井戸検査も見事な結果で、もちろん飲用もでき水質は近隣の名選百水の清水湧水に勝るとも劣らないほどです。

お水は調理や生活するには十分なほどの水量もあり、これから老舗兵四郎の店舗で用いられます。お水がまた流れはじめ、暮らしの中で循環すると思うと感無量で言葉にできません。

私たちはお水があってこそ生きていくことができます。

あまりにも身近にありすぎて、感謝をする機会も減っているように思います。しかし私は有難いことに井戸を掘る機会に恵まれたことでお水が湧きでることの本当の有難さを學ぶご縁をいただいてきました。

此の世のどのようなものよりもお水が尊い存在であることも井戸が教えてくれました。

昨日は、井戸の蓋を開けありがとうございますと話しかけました。清らかにあがってくる空気を感じながら、お酒を法螺貝に汲んで井戸と酌み交わしました。波動や鳴動で振動を揺らすと、余韻が場の全体に響き渡ります。

甦生したお水と古民家が、子どもたちの未来に向けて徳を発揮し、豊かさや喜びが場に満ちることを信じて蓋を閉じました。

一期一会の井戸とのご縁に深く深く感謝しています。

ありがとうございました。

老舗兵四郎の甦生

浮羽の古民家がお披露目会の準備に入りました。思えば、2年半もかけてたくさんの方々のお力をお借りしてここまで甦生できました。本当に感謝しかありません。最初に、叔父さんからお声がけがありこの古民家はどう思いますかと尋ねられました。その時、素晴らしい古民家ですよとお伝えしてから今があります。

古民家がどう素晴らしいかというのは、役割をまだ持っていてさらに生きようとする意志が家にあるということ。同時にその主人がその意志を活かそうと覚悟を決めていること。このふたつさえあれば、私は甦生できますと応えます。

もちろん、実際には取り掛かろうとするとあらゆる問題が山積みでちょっと手軽にや、片手間でなどできることではありません。まさに全身全霊、身を粉にして取り組みます。その理由は一緒に取り組んでくださる職人さんたちにとっても大変な仕事で、できないことや無理なことばかりを要求することが多くなるからです。

具体的な無理な要求とは、そのものを活かしてほしいや、できる限り壊さないこと、目的や理念から外れないこと、我を出さず家の声に合わせてもらうこと、禍転じて福にしていくような働き方で取り組んでもらうこと含め、様々な注文を出していきます。

だからこそ、それを言うあなたはどうなのか、その背中はどうなっているのかの信頼を姿かたち実践で共感してもらい安心してお志事に取り組んでいただく必要があるからです。

しかしそのプロセスを通して、一緒に苦しみ、一緒に歓び、一緒に智慧を出し、一緒に感動し、一緒に感謝するという場が産まれます。そういうことの一つ一つが、実を結び、最期には生き方のようなものを纏った家や場が完成するのです。

そして生き方を纏った家はまるで生き物のようにそこで暮らしをはじめます。その暮らしを共に生きるのがその場の主人と家族です。

物語は新たに続きだし、永遠となります。

つまり甦って生きるということ。

これらの日々の記憶は、真摯に真剣に至誠を生き切ったからこそ語り継がれます。

この浮羽の古民家、老舗兵四郎が日本をはじめ世界の子どもたちの成長を見守る偉大な存在としてこの先も甦生し続けることを祈念しています。

 

私たちは生き方が場に顕れてくるものです。どのような人がその場所でどう生きたかは、よくよく観察すると場に顕れます。そしてその場が残るのは、その場に生きた人たちが遺したものによっていつまでもいのちが継承されていくのです。

私は場道家として、場をつくることが本志です。

場をつくるには、場を調える必要があります。場を調えるにはまず場を澄ますことからはじまります。場を澄ますには、自分が場と同化して自己を澄ます実践が必要です。つまり、場と自己を磨き続けるという精進があってこそです。

では何を砥石にして場と自己を磨き続ければいいか。それは自我よりも偉大な存在に対して素直に従い、すべてを選ばずに承りながら道を歩む時に砥石は顕現します。この砥石は、かんながらの道でありあるがままの天命を生き切るときに自然発生してくるものです。

なので、正解もなく、固定もなく、思い込みもありません。ただあるがままの道を歩んでいるということです。

畢竟、人生というものは誰にでも誰にしかないものがありその使命を盡していのちを全うする存在そのものです。ただし、どれだけ透徹された透明さであるか、どこまで澄み切れたかというのはそれぞれに異なります。

自分の生れ落ちた場が選べなくても、自分の場を澄ませて透明にしていくことはできるということです。

いのちが透明であるというのは、いのちの正体を生きるということです。

場はそういう時にこそ、はじめて自他一体になり神人合一の境地に入るように私は思います。場と一体になるというのは、宇宙そのものであるともいえます。

引き続き、場を學び、場と歩んでいきたいと思います。

福徳円満の実践

円満という言葉があります。これは最も調和している状態のことをいいます。福徳円満という言葉もあります。もともとこの円満はどのようにして起こるのか。それを少し深めてみようと思います。

そもそも調和というものは、誰がするのか。

それは自然がするものです。言い換えるのなら、自然に調和するようにこの宇宙はできているということです。ではなぜ不調和が産まれるのか。それは宇宙の調和に対して抵抗したり邪魔をするから発生します。人間であれば、我を通したり、部分最適ばかりをしていると調和が離れていくものです。

かつて浄土真宗の親鸞上人は、「浄土に生まれん事、自然おのずからえんまんしなん」という言葉を遺しました。そこにはこう続きます。

「自然といふは 自はおのづからといふ 行者のはからひにあらず然といふは しからしむといふことばなり しからしむといふは 行者のはからいにあらず 如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ法爾といふは この如来の御ちかひなるがゆゑに しからしむるを法爾といふなり 法爾はこの御ちかひなりけるゆえに およそ行者のはからひのなきをもつて この法の徳のゆゑにしからしむといふなり すべて ひとのはじめてはからはざるなり このゆゑに 義なきを義としるべしとなり」

意訳ですが、自然あるがままにお任せするとき不思議な力が働く、それが法爾という。この法爾は宇宙の力でもありの徳に委ねてお任せすると本来のあるがままになっていく、いのちはすべてこの真理にすべてお任せすることだと。

つまり本来のあるがままがわかるかどうか、真理そのものに委ねることができているかどうかは、偉大な存在にあるがままにお任せするという生き方を実践することだと説いています。

それは努力をしないわけでも自分の力を一切使わないのではなく、「すべてお任せ」して身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれと、偉大な流れに自分をまかせていくという自然でいる努力精進を怠らないということです。

自然であるためには、自我に打ち克ち、欲を鎮め、心を調えて日々に自己を浄化して静かに止まる暮らしを実践していくことも必要です。

改めて、いただいている存在やご指導に深く感謝して「おのずからえんまんしなん」と生きていきたいと思います。

丙午の年

いよいよ今年は、「ひのえうま(丙午)」に入ります。これは十干十二支といって中国の古来の歴訪、そして日本の民間信仰が結びついてうまれたものです。一般的には自然の循環や時間の流れを整理し、理解するための東洋的な知恵の体系であるといわれます。

まず十干は、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類があります。これに五行(木・火・土・金・水)と陰と陽が組み合わせられます。そして十二支は、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類があります。具体的には時間帯や方角や季節を意味します。

今回の丙午は、五行では「火」を顕し、陰陽では「陽」を示します。つまり火の氣が重なる非常に情熱的な年になるということです。

風水では、エネルギーが最高潮に達するということで燃えるイメージになります。活動的でスピード感、発展や成長などがあります。同時にメリットにはデメリットもあるように反対側に衝突やトラブル、激情や極端になるともあります。

私の名前は、「火」の性質がとても強く、この丙午のような性質で人生を送ってきました。よいこともあればよくないこともある。燃えすぎる情熱は時として摩擦や人間関係の軋轢をつくります。昨年、レスキュー隊長の消防士が来られましたが燃えていて冷静という二つの性質を調和することで人命を救助できるお話をお聴きしました。

まさに今年は、黙っていても背中を押されるように熱気や気炎が盛んですからどう調和していくかというのが何よりも重要になります。

風水では、火を調和させるのは土と水の役割です。土と水といって最初に連想するのは「田んぼ」です。田んぼはまさに火と調和する素晴らしい智慧です。

有難いことに今年の私のテーマは、「水」。そして土づくりは私の使命の一つ。丁寧に火と調和し、子どもたちのいのち耀く元氣なお米(魂)が育つような環境を調える一年にしていきたいと思います。

本年もよろしくお願いします。

信頼と覚醒

私が運営するBAというのは、ブロックチェーンアウェイグの略です、これは訳すと「ブロックチェーンの目覚め」という意味です。

そもそもこのブロックチェーンとは何か。

これは一般的には、取引や記録のデータを「ブロック」という単位でまとめ、それを時系列に鎖(チェーン)のようにつなげて管理する分散型のデータ管理技術だといわれます。しかし、この技術は何を中心に使うものなのか、それは人と人の信頼の絆を結ぶことであることは間違いありません。畢竟、事業も人、すべては人が創るものです。人が創るからこそ技術も産まれ新たに活かされます。何のためにこの技術を使うのかもまた人なのです。技術だけを見るのではなく、人を観ることがすべてのはじまりです。

そしてアウェイクニングとは何か。

これは「本質に氣づく」ことや「目が醒める」ことをいいます。人は覚醒し意識が目覚めると世界がとても透明に観えます。それは本質や真実に氣づくとそれまでの視野がまったく変わるということです。人間は真の自我に目覚めると、今まで何をやっていたのかというくらい環境に流されていたことに氣づきます。本当の自分を生きることに目覚めた人は自分だけの物語を生き切っていきます。それは宇宙や自然の循環のなかで使命を生きるという喜びです。

つまり「ブロックチェーンアウェイクニング」のBAは、この「信頼と覚醒」を実現する場ということになります。

では何が信頼なのか。

例えば、昨日私たちのBAでブロックチェーーンのイベントの懇親会がありました。食べるものから置いてあるもの、人、そして実践、取り組みなどすべてオープンで透明性があります。集まった人たちもみんな正直に使命や志を語り合い、心を開きます。気づいたらもうこの町でITを活用して心を結ぶ活動を同志は27年間以上続けてきました。その結果として、今のブロックチェーンの取り組みがこの場所で発展繁栄しています。

信頼は、いつも人の生き方や取り組み、その継続や思いの切磋琢磨、そして心の交流により育っていくものです。時間をかけて醸成してきた本物の実践や継続だからこそ心の信頼そのものを強くしていきます。昨日の参加者の一人から、心のブロックチェーンを創るという発信がありました。嬉しい宣言でした。人が人と心を結び一緒に何をするか、それが事業の面白さです。

この場所があるということ、そして人がいるということ、それを支える技術もあるまち。私たちが目指しているブロックチェーンアウェイクニングは、本来の人間性や徳といった技術と人の和の本質を追及していくものです。徳積循環経済をブロックチェーンを活かして実現していきます。

来年もまた変化挑戦の多い一年ですが、こうやって場に一同で集まれて仕合せでした。故高橋剛さんの魂もBAに留まっています。新たな仲間たちとまた一緒に未来を創っていきたいと思います。