波動を調える

今年一年を振り返って見ると御蔭様で新たなご縁に恵まれてとても充実した一年になりました。その「新たな」というのは、「新たな意識で出会ったご縁」ということです。ご縁は自分の波動や意識が大きな影響を与えています。日頃の暮らしで何を観て何を考えて何を食べてというように、自分が日々に調えている波動や意識によって出会うご縁も変化します。

例えば、霊峰英彦山の宿坊に棲み静かに光や水の音に耳を傾け空気を深く吸い込み静かに座禅をしているとお山の気配を感じます。お山の気配とは、お山の呼吸のことです。その呼吸に自分も一緒に包まれていると、そのお山の波動になっていきます。

すると、それまで見えていた景色が変わり今まで観えなかったものが観えてきます。同時にあらゆる感覚が変わり、刻の流れや場の雰囲気すら変わります。場がその波動を調えて変えていくのです。

何だかスピリチュアルな話だと思われそうですが、実際に人間の身体感覚というのはどこまででも鋭敏になります。直観というものもまた、鋭敏な神経が見事に波動と調和して事前に洞察させたり感得させるように思います。シンクロニシティやテレパシーなど超能力のように閃きが迸ります。

話をご縁に戻せば、それだけご縁というのは次元を超えてあらゆる波動と巡り会っているということでしょう。そうして暮らしていると、似たような波動の人たちが集まってきます。さらに深く言えば、同じ身体感覚や神経を研ぎ澄ませて鋭敏にしているような仙人のような人たちと出会うのです。

仙人というのは、単なる能力が秀でた俗世から距離を置いた人として解脱したような存在と思われていますが実際にはそうではありません。当然、波動を高め徳を磨いていますから人間として深い魅力があり思いやりを持ちます。同時に、生き方を見つめ、生き方を優先していますから道を一人歩んでいます。

有難いことに仙人苦楽部を続けていると、よく仙人に出会います。そして私も仙人のような暮らしに近づいていきました。私たちは誰もが仙人としてのポテンシャルを秘めています。それが開花するかどうかは自分の波動をどうするかに由ります。そしてその波動を調えるのに暮らしの改革が必要です。別に仙人になったら何かいいことがあるのか、便利な何かがあるのかと思われるかもしれませんがそんなものはありません。

ただ仙人は、お山であればお山がどう生きて自然を守り豊かないのちを育んでいるのかを察知でき喜びを深く味わえます。また伝統的な先人たちの智慧に包まれ仕合せを深く味わえます。つまり永遠に豊かな心で生きていくことができるように思うのです。

好奇心というものもまた、仙人たる由縁の一つです。来年も、好奇心を存分に発揮して原初の道を求道し丁寧な暮らしを実践し波動を調え、新たな出会いを大切にしていく一年にしていきたいと思います。

今年も本当にお世話になりました。改めて感謝申し上げます。

原初の仏陀

スリランカの訪問にあわせて改めて仏教伝来のことを深めています。もともと仏教には、南伝仏教と北伝仏教というものがあります。

南伝仏教は、アショーカ王 の子(一説には弟)のマヒンダが前3紀頃にセイロン(スリランカ)に伝えた仏教であるといわれます。この仏教を上座部仏教ともいいセイロンから東南アジア諸国へと広まり発展したものです。仏陀が亡くなってすぐからの伝来なので初期仏教とも言われます。それに対して、北伝仏教は西北インドからシルクロードに沿って、中央アジア、中国、朝鮮半島、日本へと伝来した仏教のことです。これを大乗仏教とも呼ばれます。紀元前1世紀ころにガンダーラからパミール高原をこえて紀元前後頃には中国西部に伝えられました。有名なのはこの経典を漢訳した5世紀の鳩摩羅什 (くまらじゅう)、また7世紀の玄奘 (げんじょう)です。言い換えればこの2人の仏教が今の日本の仏教の原初かもしれません。

仏陀は本来は名前ではなく「悟りをひらいた人」を意味する称号です。今の日本では仏像になったり神様になったりと人ではないものになっています。しかし原初の仏陀は、ゴータマ・シッダルタさんとして己を磨き修行をして執着を手放し人としてどう生きることが仕合せかということをあらゆる角度から究め盡した人物のようです。人間が持っているすべての感覚や欲望、感情などを見つめ、それが何であるか、どうあることがいいかを解きました。好奇心の塊のような実践者です。

現代では仏教は相当数の派閥や部にわかれてそれぞれに解釈が異なり、時には争いの原因ともなっています。また政治にも密接に関わっており、それぞれの権力者たちが採用して治世の役に立てました。私たち日本でも、聖徳太子の時代に仏教を取り入れ、その頃の神道や儒教などとぶつかった歴史があります。

教えというものは、言葉と似ていて二元論を持ちます。善か悪か、正しいか間違いかと、常に言葉が二つに分けていきます。もともと口伝を採用していた初期仏教はその言葉の性質を知っていたのかもしれません。私たちは、言葉という便利な道具によってあらゆる知識を便利に理解でき、そして新しいものを発明するための道具にしていきましたがそこには長所もありますが短所もあります。バランスを保つというのは、形にすればするほどに難しくなるものです。

本来、聖徳太子が理解した時のように分かれる前に回帰するというのがいいように私も思います。聖徳太子は、神儒仏習合や神儒仏混淆ともしました。そもそも一本の木が、根と幹と枝葉に分かれたように丸ごとを観ると一つの木であるというのです。

私もこれは全くの同感でそもそもが一つの木でできていると捉えると分かれていることでそれと敵対することがありません。また、一本の木が成長と捉えたら全体最適であることが分かります。

先ほどの上座部仏教と大乗仏教の違いであれば己自身が悟ることと、大勢の人々を救い助ける利他に生きることは一本の木が成長する過程と同じです。新芽が出て、真摯に生きていけば周囲を活かします。そしていつか花を咲かしたくさんの実をつけ種になれば周囲を救います。別々のものではないということでしょう。

スリランカには、ゴータマシッダルタさんが生身で生きていたころと同じ暮らしをし、具体的にその人物に会った人たちの子孫がいます。その子孫が、何を感じ、何を学び、何を守ってきたのかを感じることが私にとっては原初の仏陀の痕跡になります。

因果の法則を解いた仏陀の御蔭さまで、一期一会の氣づきとご縁でスリランカと結んでくださいました。丁寧に原因と結果の間を辿りつつ、未来の子どもたちのために学び直してきたいと思います。

人類の大先達

スリランカのヴェッダ族のことを深めていると、驚くことが次々と出てきます。このヴェッダ族は人類の起源にまで遡るほどの歴史を持っている奇跡の民族です。ヴェッダ族に触れることは、人類の起源に触れることにもなります。人類のルーツが何か、これは私は保育の仕事に取り組んできたからこそずっと追い求めていたテーマの一つでした。今回の訪問では、これからの未来の子孫たちの行く末のためにも人類の深淵に出会ってきたいと思います。

もともとこのヴェッダ族は、古代、中石器時代に生きた最古の人類であるバランゴダ人 (ホモ・サピエンス・バランゴデンシス)の直系だといわれます。これはスリランカの大多数のシンハラ人とは異なります。洞窟の遺跡から発見されたバランゴダマンは少なくても紀元前 38,000 年前には定住していたともいわれます。別の科学者によれば、50万年紀元前からこのスリランカの地にいたともいわています。

人類の原初の暮らしを今でも持続し保ち続ける奇跡の民族、このヴェッダ族は地球と共生してきた人類の原型です。今でも狩猟採集民としてスリランカの森や自然環境と密接に結びついた暮らしを続けています。

もともとこのヴェッダという言葉の語源は、ウェッダー(Vedda)です。弓矢を持った狩人を意味するサンスクリット語の「ヴィヤダ」に由来します。実際のヴェッダ族は自らを「ワンニヤレット(Wanniyalaeto)」(森の民)と自称します。

日本の古神道の杜と同様に自然崇拝で、あらゆる自然の叡智と共に場を守り暮らします。自然や森の精霊を尊び、いのちの循環する宇宙の真理と共に生きます。私たちが文字や映像などで見聞きした何よりも神聖な空間と結界を守り続けて今でも真実を生きています。

私たち現代の人類は、あらゆる欲望の成れの果てに今の人類のみの世の中を好き放題に席巻してきました。もはや教えというものも何が正しくて間違っているのかも、あらゆる宗教派閥紛争や権利権力の集中や歪んだ知識の上書きの連続でもはや原型すらとどめていません。時折、自然災害に遭遇し目覚めるかと思えばまた同じことの繰り返し、人類は歴史から学びません。

しかし現代のようにいよいよ人類の成熟期で文明の末期症状が出ているからこそ、私たちは原点回帰し今一度、真実に目覚める必要があるのではないかと私は感じます。その真実は、誰かの専門家や権威の知識ではなく、大多数が信じる何かではなく、説得力のある本質的な正論でも教えでも記録でもなく、「真実を生きてきた人たちの背中」から學び直すことだと思います。

人類は、過去に何度も滅びそうな目にあってもいざという時のために種を遺してきたから今も持続しているともいえます。種は改良してどうしようもないほどに改悪されても、もしも最初の種が残ってあればそこからちゃんと生まれ変わり甦生することができるのです。

その種とは単なるDNA的なものではなく、意識や精神、生き方や暮らし方などを保つ人々の生活様式などが統合された今も遺り生きる人々の叡智のことです。

私は暮らしを変え場を創ることで、人類は変わると信じている一人の人間でもありますが暮らしの根源を持つ人たちはまさに私にとって人類の大先達です。

大先達から人類とは何かを真摯に學び直し、子どもたちのために真実の道を結んでいきたいと思います。

深い學び

今年のことを振り返っていると新たなご縁が増えた一年になりました。特に体のことを深めることが多く、色々な体のメンテナンスや調え方、食事に生活の方法などを学び直しました。

例えば、座禅や瞑想、松葉などの薬草や和漢方、またお水やお塩などの基礎調味料、またヨガをはじめ合気道やアーユルベーダなどの伝統医療を学びました。もともと英彦山の宿坊に棲み始めてからの山岳信仰やその思想、歩き方や巡り方なども深く関係してきます。

私たちはこの体の持つ神秘に触れることで人類が太古のむかしからもっている智慧やその潜在能力に気づきます。私たちが何かによって活かされているということの事実を、体を深めれば深めるほどに感じることばかりです。

来年は、スリランカのマヒヤンガナの森でヴェッダ族の長老と4日間森の中でご一緒に過ごしながら伝統医療の本質を学びます。

このスリランカの先住民族は今ではヘラ族と総称され、その中にヤッカ族とナーガ族がいたといわれます。このヤッカ族がヴェッダ族のことです。そしてスリランカの伝承医学を、ヘラ・ウェダカマ(ヘラ医療)、パーランパリカ・ウェダカマ(受け継がれる・医療)、デーシャ・チキタサ(地元の・薬)と呼ばれるのはその理由からだそうです。

もしかしたらと直観するのは、ヤッカとはヤタガラス一族でナーガは龍一族ということではないかとも感じます。山岳信仰に触れてから太陽神や烏や天狗のことばかりが身近にあり森とこの烏がとても深い関係があることに気づくことばかりです。森の民といわれるヴェッダ族はまさに山岳修験の起源ともいえるのではないかと私は思います。

ヴェッダ族が今でもこのような暮らしを続けていることが、現代の人類の奇跡そのものです。

時代と共に、ヴェッダ族も数々の危険や危機に遭遇してきました。ある時は植民地化、またある時は強制移住や疎外があったといわれます。

そして今では資本主義経済が入り込んできて、少しずつ他の民族が滅んだことと同じやり方で浸食しはじめているともいいます。

私が暮らしフルネスを実践する中で、どうしてもわからないことがありました。また太古から続く普遍的な道を、あるいは仏陀が歩んだ軌跡の原点を学び直せるのではないかとも直観しています。

心静かに準備をしていきたいと思います。

道を守る

時代時代に私たちは時代の影響を受けています。いくら本質的に人間らしくいようとしても、時代の背景によってはそれもできなくなるようなことがたくさんあります。例えば、現代では物質文明のなかで資本主義中心の搾取や消費を優先する時代ではスピードも増し、利便性ばかりが価値があることになれば自然から遠ざかる一方です。だからといって、その時代の流行にばかりに合わせていたら時代が変わった時に歪が産まれ対応することもできません。

時代時代に流行があったとしても、普遍的な大道や王道のようなところを歩んでいる人たちの御蔭で人としての道も途切れずに繋がっていくものです。

ではどのようにしてその道を守ってきたのか、その一つは意識を保つことです。そして二つ目が心を磨くこと、そして最後が暮らしを変えることだと私は感じます。

意識を保つというのは、例えば食品なども主食を正食という玄米中心の食生活にすれば副食は質素で健康的なものになっていきます。それは玄米を主食にするという意識を持っていることで意識が正常に保たれるからです。主食がパンやお菓子などになってしまえば、食の意識が変わってしまいます。人を良くすると書いて食ですが、その食の中心は日本では玄米です。

また心を磨くというのは、日々に己と向き合うことです。手間暇をかけたり、小さなことを大切にしたり、あるいは丁寧さなどは心を用います。心を用いる人は、心を使うことを忘れません。心は、流行に流されず普遍的な道に中にいます。真心ともいいますが、理想や理念、初心を守り生きていくことで心は磨かれ研ぎ澄まされていきます。

そして最も重要なのは暮らしが変わることです。生き方や働き方を突き詰めていくと、暮らし方が変わります。その時だけ暮らすなどという言葉はありません。暮らすというのは、常に先ほどの意識や心を保つ実践をすることです。するとそれが暮らしになります。

暮らしを変え続けることは、日々に意識を保ち心を磨くのですが同時に小さな変化に気づくということです。例えば、自然の変化、そしてご縁の変化、今までとの変化、世界の変化、自分の変化に気づき続けるということです。どの瞬間も、今に集中して変化に応じてご縁を一期一会に過ごしていくこと。そうすると、流行で大勢の価値観が津波のように流れてこようと凪のようにあるいは深海のように静かに穏やかにその場に止まります。

暮らしが調っているというのは、つまり全体調和しているということです。そして変化を乗りこなしているということでもあります。一人一人が暮らしを調えていくことができるのなら人の道は途絶えることはなく、かえって道が明かに弘がります。

私が暮らしフルネスを提唱し実践するのは、人の道を守るためでもあります。私がこうやって今を生きられるのは何の御蔭様か。あらゆる全体調和の御蔭様です。だからこそ、その全体調和の有難さに拝む気持ちで暮らしフルネスを実践しています。

今日は仕事納めで振り返りをしますが、どれだけ暮らしを大切に変えてきたか。様々な角度から振り返り感謝と改善を続けていきたいと思います。

地域の宝徳

昨日は早朝より庄内中学校の有志の生徒たちが100人以上が集まり飯塚市の桜の名所の一つでもある鳥羽池周辺の清掃とゴミ拾いを行いました。地域代表としてお手伝いに参加してからもう3年目になります。最初は生徒会で実験的に取り組んでみて、その後は部活動の生徒たちが参加し、今では全校生徒で有志が集めいつも100人以上の参加するほどになりました。

庄内中学校は、校内にあるメタセコイヤの大木にイルミネーションをつけて地域を明るくする活動や、その資金調達にクラウドファウンディングに取り組むなど、実社会に基づいた社会への参画を色々と挑戦しています。またブロックチェーンの講義を受けたり、コロナ後の地域のお祭りに新たに積極的に参加したりとこの数年は特に目覚ましい活躍です。学校行事も次々と生徒が主体的に自由に取り組んでいるのが拝見でき、素晴らしい教育と大勢の見守りのある学校だと改めて母校の変化に感銘を受けました。

この鳥羽池の清掃では、初年度のゴミは恐ろしいほどの量で粗大ゴミや産業ゴミなどとても中学生の手におえないほどのものが出てきました。池の水が少なくなるこの冬の時期に誰かが捨てたものが池の中から出てきます。この場所は、夜は住宅が少なく人目につかないからと捨てに来る人がいるのでしょう。それを真摯に靴も泥だらけになり汗をかいて拾っている子どもたちの姿を見たら捨てられるはずはありません。

またゴミのほとんどを分別すると、ビールやコーヒー、ジュースの空き缶とペットボトル、それにお菓子や弁当などの袋、プラスチックや発泡スチロール、それに釣り道具などです。自然には容易に分解されないゴミばかりが池の周辺や池の中に大量に出てきます。同じ場所に吸い殻や同じ空き缶があるところは、同じ人がそこで捨てているのかもしれません。

この取り組んでから3年間、毎日散歩している人が拾ったり、ゴミ箱を設置してあってもゴミは1年に1度、生徒たちで清掃すると同じくらいの量が出てきます。しかもゴミ袋30袋以上の大量のごみです。これは一体なぜでしょうか。

一つには金融構造や欲望優先の消費経済、他にもシチズンシップや家庭教育の問題などいろいろとあるでしょう。以前、ゴミ処理場を運営している経営者にゴミ処理場を経営したら日本という国がどういう国かがよくわかると教えていただいたことがあります。ゴミの処分の仕方、ゴミに対する政策の内容、そしてゴミの種類や捨て方などにすべてが日本という国のありのままの姿が出ているからというのです。

以前、イエローハットで掃除道で有名な鍵山秀三郎氏から「足元のゴミ一つ拾えない人間に、何ができましょうか」という言葉を聴いたことがあります。そして著書でこう続きます。「『ひとつ拾えば、ひとつだけきれいになる』私の信念を込めた言葉です。ゴミを拾っていて感じることは、ゴミを捨てる人は捨てる一方。まず、拾うことはしないということです。反対に、拾う人は無神経に捨てることもしません。この差は年月がたてばたつほど大きな差となって表れてきます。人生はすべてこうしたことの積み重ねですから、ゴミひとつといえども小さなことではありません。」と。

これは徳を積むことも同じです。地域の代表として私からはみんなに「コツはコツコツ」の話をしました。コツは一つだけではなく、継続しコツコツとなることで非凡になると。ゴミ拾いというのは、継続と凡事徹底を學ぶ智慧にもなり、徳を磨き、己の心を育てるための素晴らしい教育になるということです。これは私の徳積財団の活動や丁寧な暮らしや社業の実践でいつも話していることです。

私がこれを改めて皆さんに発信したいと思ったのは地域の人たちに庄内中学校の生徒たちが真摯にキラキラと心を磨きお掃除をする姿を伝えていきたいと思ったからです。地域を守ることは、一人一人がコツコツと心をみんなで磨いていくことだと私は思います。

日本人は元々、来た時よりも美しくという精神を持っていて世界では試合後のゴミ掃除の姿がとても尊敬されています。正々堂々として清らかであろうと、荒んだ心を調えて和を尊ぶ国民性がある人たちといわれます。

都会に出て地域に子どもが少ないとか人口減少で過疎化しているとか不平不満ばかり並べる前に、凡事徹底して地域の宝や徳を磨き、それを未来へと大切に見守っていけるような日本人でありたいと思います。

 

お手入れの功徳

日本には古来から穢れという概念があります。これは別の書き方で氣枯れともいいます。元氣が枯れていくということで元氣がなくなるということでしょう。元氣というものは、どういうときに失われていくのか。それを一つ一つ見つめていると、わかりやすいものに病気というものがあります。病は気からという言葉もありますが、気が枯れることで病気になっているとも言えます。

そもそもこの病気の定義は、身体の病気、心の病気、精神の病気、あるいは環境の病気、場の病気、あらゆるところに病気はあります。その一つ一つを取り除いていくことが、穢れを祓うことであり、清めていくということになります。

この清めるというものは、どのようなものか。それは私たちは日常の中ですぐに感覚として理解できるものがあります。これは掃除です。掃除は、あらゆるものを祓い清めてくれます。先ほどの身体も心も、精神も場も清められます。私たち日本人が、清々しさを大切にするのは古来より気枯れを予防するような生き方をしてきたからです。

気枯れは、例えば不安、心配、恐怖、また苦痛や執着、猜疑心や嫉妬などあらゆる悩みからも発生します。また水が澱み、風通しがわるいときも発生します。他には、ゴミのように使わなくなったものが増え、消費や浪費が多いところにも発生します。不平不満をもって文句を言えばすぐに発生するものです。

人間は生きていれば、知らず知らずのうちにこれらの感情に呑み込まれていきます。特に現代のようなお金を優先にして比較されたり差別されるような格差環境では気枯れは容易に発生します。

だからこそ主体的にそれを乗り越えていくような祓い清めが必要になります。つまり気枯れではなく、「元氣」になるように生き方や心の持ち方を換えていく実践が必要になります。

心の世界は、心の世界で禍を転じて福にするために感謝や徳を積むという実践があります。精神の世界では、全てをお任せで安心の境地に入る実践があったり、身体の健康ではちゃんと真に元氣があるものを食べるような医食同源の実践があります。

しかしこれらを全部ひっくるめてやっぱり最も効果があるものは何かと突き詰めれば「掃除の実践」であるのは間違いありません。掃除は私はお手入れともいいますが、お手入れをして穢れを祓い清めるのです。

日々の小さな実践でもっとも効果があるのはこのお手入れの功徳です。丁寧な暮らしを通して、子どもたちと一緒にお手入れの功徳を積んでいきたいと思います。

大根飴

昨日から喉が痛くなりむかしからの民間療法で知られる「大根飴」をつくりました。ちょうど、自然農法で畑をなさっている方から新鮮な大根をいただいたこともありそれを蜂蜜と一緒に仕込みました。御蔭さまで、今朝は随分喉の痛みが緩和されて快復傾向です。

この大根飴の効果は、科学的には大根に含まれているイソチオシアネートが炎症を鎮めてくれるといいます。また、はちみつと一緒に組み合わせることでその殺菌作用や抗菌作用が働きより快復を速めてくれるといいます。

このイソチオシアネートという1つの成分のことをいうのではなく、ある分子構造が共通している「イソチオシアネート類」と呼ばれる仲間の総称のことです。辛み成分の中に含まれており、アブラナ科の中に多くあるといわれます。私が取り組んでいる伝統在来種の日子鷹菜の中にも大量のイソチオシアネートの元になる成分が入っています。

また大根は消化酵素が働きやすくなり、胃腸にとても効果があります。よく食べすぎや体調不良などの時は、私は大根おろしをお蕎麦に入れて食べます。すると、しばらくするとお腹の調子がよくなってきます。これも大根と蕎麦の組み合わせが絶妙であるからです。

民間療法の素晴らしさは、その組み合わせにこそあります。一つの材料と別の何かのバランスが見事に調和するとそれが大きな薬になります。副作用も少なく、効果は絶大です。

また冬至の翌日から休眠中だったぬか床を甦生し、ぬか漬けをはじめました。この時期のぬか漬けの主役はやっぱり大根です。ぬかの発酵も胃腸に効果がありますが、その漬けこまれた菌と一緒に大根を食べるもの身体が喜びます。

この一年、身体も酷使することばかりでした。身体を労うようにと、不調も訪れます。そんな時は、先人の智慧の結晶でもある民間療法が大きな助けになります。大根飴をいただきながら、年末に向けて心身を労っていきたいと思います。

お水のある暮らし

私たちが生きていくために必要なものはお水です。お水がなければ、人間は生きていけません。実際には、体内の20パーセントの水がなくなれば私たちは死んでしまいます。その逆に、水中毒といって水を摂取しすぎても死んでしまいます。私たちの身体は絶妙な水分を保つことによって健康を保っています。

そのお水をどのようにして確保するかは古代からの命題でした。今では日本などは上下水道が確保されて、蛇口をひねれば水が出て、トイレの排水なども別の排水路で処理されます。しかし世界にはまだまだお水の確保ができない国がたくさんあり、何キロから十数キロ先まで飲める水を確保するために歩いたり、雨水を貯めて乗り切ったり、汚染された水で病気が増えている場所もあります。

このお水の確保は、私たちの生命線です。英彦山の宿坊に住んでみて感じることは、お水の尊さです。お水が貯水できる山は、むかしから大変貴重なお山として信仰の対象になりました。原初の信仰は、お水です。その理由は先ほどのようにお水がなければ生きていけず、お水に活かされているといことを自覚することが信仰の原点だったからです。

そして世界の文明のほとんどが、そのお水の確保やお水との関係によって築かれていきます。例えば、遺跡などもよく観察すると岩や石で構成されます。岩や石は、水を上手に活かすためには必要不可欠です。これが泥であれば、濁って澱んでしまいます。お水は流れないとその生命を維持することができません。体内と同じように、常に水が流れ続けているから私たちは腐敗せずに健康を保てます。

同時にお水が確保できるお山は水が滾々と湧き出ています。お水の確保ができるのお山に近くに住むことは私たちが生命を維持することにおいてとても重要だったのは間違いありません。そして太陽を拝み、食べ物を確保していくのです。

太陽を拝みお水を供物としてお祀りして捧げることは雲を呼び雨を降らせまた循環させ続けてくれる存在への感謝だったのでしょう。

時代が変わって文明によって何でも便利になって忘れてしまいますが、お水こそが生命や暮らしの中心でありそこがあってはじめて私たち人間は人間であることができるということでしょう。

お水に感謝して、お水のある暮らしを調えていきたいと思います。

いのちゆらゆら

昨日は御蔭様で無事に冬至祭を豊かに仕合せに過ごすことができました。各地からこの日にこの場に集まり太陽に祈り感謝でお祝いできることも一期一会で二度とないことです。

私たちは毎回、生まれ変わり新しくなっていきます。これは、時を過ごすときによく感じるものです。同じように朝起きて祈り挨拶をしても同じことはありません。この世にいるとき、私たちは同じことを繰り返しているようで全く同じではないことの体験をしています。これは地球が自転していることも同様で、まわっていても地球上では同じことは起こりません。毎回、新しいことに巡り会うのです。

しかし私たちは、同じように繰り返し生死を巡ります。これは生死ではなく、一つの回転ということです。この回転には、ゆらぎがあります。このゆらぎがあるからこそ、私たちは同じことが起きないのです。

ゆらぎというのは、波動とも呼びます。私たちの生命は、このゆらぎや波動こそその正体ともいえます。そのゆらぎを感じるとき、私たちはゆらいでいるという感覚を知ります。ゆらいでいるからこそ、「感じる」ことができるということです。ゆりかごのように私たちのいのちはゆらいでいるのです。

冬至というのは、ゆらぎを感じる大切な瞬間です。むかしの人たちは、光と影でそれを感じたのかもしれませんし、あるいはこころの働きや動きでそれを感じたのかもしれません。

地球の地軸が23.43度傾いたのは、隕石の衝突という説もあります。しかし、私はそうではなく地球自体がゆらいでいるからという氣がしています。このゆらゆらとゆらぐことで、いのちをゆらします。

いのちゆらゆらとあることの有難さに適うものはありません。

御蔭さまで柚子の香りが充ちている場で、いのちが甦生することの喜びを味わう一日になりました。新たな一年を歩いていきたいと思います。