暮らしの源流

今日は、むかしの五穀田の稲刈りです。暮らしを通して仲間になってくださった結のみんなが集まって、一緒に手で一株ずつ稲刈りをしていきます。約2反ほどありますから結構な作業量です。お誘いするのは単に労働力が必要だからみんなに集まってもらおうとしたのではなく、農業イベントをしたいわけでもなく、お金儲けや承認欲求などでもありません。

新しく「暮らしを甦生」するためにみんなでやっている実践と試みです。

現代は労働力としてはほとんどが機械化されて簡単便利に短時間で収穫を終わってしまいます。別に機械を否定しているのではなく、私も機械を借りて一部は収穫しますしとても助かっています。しかしこの作業を単に労働力だけと割り切って働いていたら、人類が長い時間をかけて積み重ねてきた伝統や知恵などの暮らしが失われていきます。

暮らしは労働力の方ではなく、関係性や場の中に存在しているからです。

もともとむかしの人たちは、常に自然に寄り添い自然と一体になって「暮らし」を営んできました。自然に和合するから季節に合わせて行動を決め、自然に与えられた短い旬の時季を失わないように大勢で助け合い田植えをして、稲刈りもしました。みんなで自然と共に生きて、みんなで助け合うのです。これを暮らしと呼び大切に結んできたのが「結」という共同体です。

「結」では三浦梅園の慈悲無尽講のように、病気や不慮の事故などの時の共同体の支援がありました。困ったらみんなで助け合い、お互い様おかげ様と関係を何世代も大切に結んでいきました。土地で自然と暮らしていくというのは、関係を常に甦生させ続ける工夫が要ります。現代は面倒だと、都会のように他人とはあまりプライベートには関わらないようにと何でも距離を置きますが田舎では何かあった時のためにと日頃から関係を結んでいきます。

何かあった時というのが、自然災害や天災、天候不順による水不足や洪水などに備えるためでもあります。むかしの暮らしは自然と一体ですから防災と常にセットで取り組んでいて、これは現代ではフェーズフリーとも言いますが日常から防災になるような暮らしを営みました。保存食をはじめ井戸端や結などもその典型です。つまり防災=暮らしでもあったのです。

現代では、お金や経済活動だけの共同体になっていますが防災で考えるとき今の日本はこれで人々の今後の暮らしが果たして無事に守られるのかと疑問に思います。

一つの田んぼを守ることは流域全体を守る事であり、場を調えることは人の関係性を調えることでもありました。

このような当たり前のことをしなくなり、教育も何か暮らしとかけ離れた労働力としてしか人を見なくなれば次第に労働力以外に大切にしてきた暮らしが消え、最後は人と自然の営みも失われていくのではないでしょうか?

だからこそ、今こそ新しい暮らしの関係性を結び直しが必要だと感じて人が「育つ場」をつくろうとお声掛けしているのです。

この育つ場には、現代で分かれた分断され分業された仕事が丸ごと全部存在してイキイキと学び合えます。食事も教育も介護もお祭りも信仰も伝統も文化も渾然一体です。

こういう場において人は育つ、そして人が育つだけではなく流域も育ち国家も育つのです。それが「暮らしの源流」なのです。それをフルネス(もっともっとではなく、足元の足るを知る喜び)にしていこうと提唱したのが「暮らしフルネス」なのです。

人生の真の幸福は徳を積むことです。当たり前のことを書いて何を最もだといわれるかもしれませんが、当たり前の初心をいつまでも忘れないようにしたいと思っているのです。

今日も、一日一生、一期一会の場。

徳が循環するようないのちが喜び合う暮らしを、感謝と共に今日も世界の子どもたちと人類の未来のために実践していきます。

甦生

法螺貝のことを本氣で深めていると、この世の原理原則を司る大切な存在であることがわかります。これは法螺貝に限らず、この世の貝という存在を人類がどう観たかという根源的な問いになります。

そもそも貝は、何をしているのか。

閉じたり開けたりしながら呼吸をします。そして空間の中に身をいれて呼吸します。それが失われた後の存在が貝殻です。その貝殻を用いて新たないのちを甦生し人類が活用していきます。

世界では貝はどのように活用されてきたか。日本では、死者を生へ甦生します。インド・チベットでは、神聖な音によって教えや秩序を響かせます。ギリシャでは、海から女神を誕生させ、メソアメリカでは、貝から風・息・雨という生命力が出てくると信じられます。アンデスでは、貝そのものが「海の娘・水の母」と呼ばれ、雨と豊穣をもたらし、アフリカでは、人間の運命・繁栄・神意と結びつけます。エジプトでは、豊穣と守護。ポリネシアでは、暗い祖先界から神々をこちら側へ呼び出す存在。マオリやマルケサスでは、貝の音が誕生・到着・出発・危機を告げる道具です。

貝は世界の境界線を結び繋ぐ、間にあって別のいのちといのちを調和させている存在のようになっています。貝は通じるのです。

仏教では、空間の中に「彼岸と此岸」というものがあります。あちら側とこちら側です。二つの世界で一つであるという観念です。

この宇宙はすべて「二つで一つ」になって存在します。

例えば、お水も二種類のものが調和して安定します。これはお水だけではなく火も、木も光もあらゆる元素は二つで一つになるから私たちはその存在を観ることができます。人間でも、生死があり陰陽あり、男女ありとあらゆるものは二つの存在の境界線を結ぶ「境地」によって着地するのです。

貝という存在をよくよく深め観察すると、貝殻を通してあちら側が響きます。法螺貝であれば、息を吹き込むことで出てくる音の響きは貝の中の空間を通して「こちら側があちら側」の世界へとつながります。

この螺旋の神秘は、宇宙の原理を象ります。

そのうち物理学が証明するのでしょうが、ブラックホールもまた同様にあちらとこちらを結ぶ境界にあるものです。

この境界の境地とは何か、それが「甦生」なのです。

私が取り組む甦生の定義は、この螺旋の空間の妙味を磨くことです。

そろそろ法螺貝づくりも百を超えます。私にとっての法螺貝は、甦生の境地の伝承の一つです。どれだけの人たちが甦生の境地に至ってきたか、縁起と刻が経過していくのを見守れるのが仕合せです。

皆さんに大和魂の循環と仕合せの螺旋の波動が共鳴するようにいのります。

自然の場の甦生

自然と書いて「じねん」と呼ぶ言葉があります。現在、自然はしぜんと呼ばれ欧米のnatureの意味が強く使われますが東洋では本来、自然はじねんと呼び「おのずからしかり」という意味で用いられてきました。

これは老子の「道法自然」から由来します。これは道は自然を法とするとし、道とはおのずからそうなる働きに則るものだという意味です。全文は、「人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」です。また日本では、浄土真宗の開祖、親鸞が「自然法爾(じねんほうに)」という言葉を用いました。この「法爾」の「爾」も「そのようである、あるがまま」という意味です。おのずからしかりとして、人のはからいを離れたところではたらいているものにすべて丸ごと信じて任せるという生き方です。

まず前提として、何が自然で何が不自然かという問いがあります。自然が分かるというのは何か、不自然とは何かということが観えるかというものです。

現代は、あらゆる自然災害が発生します。そこに対して、環境改善や自然保護などという人間の意識もありますがそれは少し離れてみると傲慢ではないかと感じるものもあります。謙虚に静かに自然災害をみつめていたら何が自然なのか、何が不自然なのかが洞察できるものです。

自ずから然りとは、神はからいとも言えます。

何をしようとしているのか、どうしたいのか、自然の法理や宇宙の働きにすべてお任せしていると人間がどうあるべきか、何をすることが自然体であるかに氣づきます。

親祖をはじめ先人たちは人間が自然と共に道を歩むことを智慧として伝承してきました。それを「暮らし」と呼びます。例えば、場が調っていくようにし、いのちが循環できるように調え、多様な生き物たちが生を全うして持ち味を活かせるように見守り、季節の巡りにあわせていのり、日々、供養をして感謝し謙虚に心身を静かに調えていきました。その自ずから然りの実践こそが「暮らし」の本義であったのです。

宇宙をはじめ地球は常に調和を保つようにはたらきます。人間がそのはたらきを阻害して循環を滞らせれば自然はそれに応えます。縁起と関係性によってはたらくのです。滞るのをまた流そうとして自然ははたらきますから、そのはたらきにあわせて人間もまた滞らないようにしていくことがはたらきに任せることになります。

はたらきに任せるというのは、何もしないことではありません。

人間も一緒に「じねん」になることです。

それが暮らしを調えていくことです。

私が実践する暮らしフルネスの根源は此処にあります。

自然のリズムで生きることや、自然のお手入れをすること、自然の循環の邪魔をしないことや、子どもが子どものままあるがままであることや発達を邪魔しないことなどもすべてこの道法自然の意識を保つ智慧と工夫です。

「かんながらの道」という日記もまた、この「じねん」の意識の醸成と習慣、つまり暮らしの一部としての実践なのです。

残された私のいのちはすべて、この「自然の場の甦生」に使い切ります。

いつも一期一会の師の絶妙な声掛けと道しるべに心から感謝しています。

場の甦生の本質

自然から離れて暮らすようになって私たちは様々な苦しみや悩みが増えてきました。その中で自然と共生するために大切にしてきたものに掃除という知恵が産まれました。

この掃除というのは、単に物を綺麗に片づけるだけではありません。すべての関係性を調えていくことであり、自然の循環を巡らせていくことができる人類が自然の循環に参加していくための大切な仕組みです。

掃除の功徳を最も実践した二宮尊徳は、自然の循環こそ徳の巡りとして掃除(人道)から荒れた人々の心田を開発して人間性の甦生に取り組みました。

二宮翁夜話巻乃四、一八二にはこのように記録されています。

「翁曰、天道は自然なり、人道は天道に随ふといへ共、又人為なり、人道を尽して天道に任すべし、人為を忽にして、天道を恨る事勿れ、夫庭前の落葉は天道なり、無心にして日々夜々に積る、是を払はざるは人道に非ず、払へども又落る、之に心を煩し、之に心を労し、一葉落れば、箒を取て立が如き、是塵芥の為に、役せらるゝなり、愚と云べし、木の葉の落るは天道なり、人道を以て、毎朝一度は払ふべし、又落るとも捨置て、無心の落葉に役せらるゝ事勿れ、又人道を忽にして積り次第にする事勿れ、是人道なり、愚人といへども悪人といへども、能教ふべし、教て聞ざるも、是に心を労する事勿れ、聞ぬとて捨る事なく、幾度も教ふべし、教て用ひざるも憤る事勿れ、聞かずとて捨るは不仁なり、用ぬとて憤るは不智なり、不仁不智は徳者の恐るゝ処なり、仁智二つ心掛て、我が徳を全ふすべし。」

私の意訳ですが「自然は自然のままにしておけばいいわけではない。自然に対して人は人の道を実践することではじめて自然の循環と渾然一体になることができる。例えば永久的に木の葉は落ち、庭には積もっていくもの。だからといって、そのままにしておくのではなく、人は毎日、箒を持って調えることではじめて自然となる。これは人に対しても同じである。何度教えても分からないからと見捨てるのではなく、何度も淡々と押して導いていく。思いやりと知恵をもって心がけることが人の道であり徳を積むことになる」と。

つまり徳を積むというのは、自然の循環に対して自分もその循環の一部として和合し生きるというこ。その仕組みが「掃除」をするということを説きます。掃除をするときこそ、人間が最も自然と渾然一体になります。

私はこれを「お手入れ」とも呼び、心やいのちを触る行為だとし、丁寧に徳を巡らせ徳を磨くこと甦生すると場の道場で伝道しています。

だからこそだれかに掃除をさせるのではなく、自分自身が日々に掃除を実践すること。掃除をするときはじめて人間は自然と共生し、人間性を甦生していくことができるからです。

本来の掃除の本質は、天の働き、自然の循環に対して人間が暮らしやすいようにすべてのいのちを豊かに巡らせていくように調えることです。つまり捨てるのではなく磨くということ、分断するのではなく結ぶということです。

私の取り組む場の甦生は、自然の循環の一部になることを通してこの徳を積むことからはじめます。徳積財団も徳積循環も、お山の甦生もお水の甦生もすべて人類の経世済民、人々の心の荒廃を救い、「塵を払わん、垢を除かん」と一緒に掃除をして磨きましょうという目的のために実践するものです。

私の持ち場は今の世界や日本ではとても小さな場所かもしれませんが、歴史的に観ても地理的に観ても、風水脈を観ても日本の要であることがわかります。

今日も天道に倣い、人道を精進していきたいと思います。

流れと螺旋

中国最古の医書『黄帝内経』には「正氣内に存すれば、邪干すべからず」(体の正しい働きが保たれていれば、病邪は容易に侵入できない)」という言葉があります。そして現代では有名な「未病」(みびょう)という言葉もまたこの『黄帝内経』で初めて使用された言葉です。

そこには「聖人は既病を治すのではなく、未病を治す」とあります。これに対して既病とは、既に症状が出ている状態のことをいいます。未病とはまだ病気が表面に現れていない状態のことをいいます。

現代では、病気は病院が治すもののようになり病気になってからはじめて人は病気を認識します。そして病院もまた病気になってから診療を受ける場所になっています。

本来は病気というものは、生命を支えている循環の何らかの流れが滞り、流れなくなって循環しなくなったことをいいます。

自然治癒を洞察するとそれはすぐに察知できるものです。自然界も同様に、循環や流れが滞ると問題が発生してきます。スムーズに静かに流れていれば、自然も穏やかです。しかしそこに何らかの澱みや流れの滞りが起こればそれが災害となっていきます。

つまり自然は常に「調和」するために流れや循環を已まないようにしているのです。

そして人間の身体もこれを同じです。

人間の身体では、血液やリンパ、呼吸や腸内や神経などあらゆるものが流れています。それが疲れや感情や自立神経の乱れ、食べ物の片寄りや睡眠や運動不足などで流れが滞ってくると病気が表層に出てきます。

誰しもが調和している状態を健康であると知っているのは、この「流れ」というものを自明しているからともいえます。

流れが澱み、滞れば不調和が産まれ調和に戻そうと自己免疫力が働きます。それが自然治癒です。つまり自然治癒というのは、流れを取り戻そうとする根源力のことです。

これは人体だけでなく宇宙も同様の真理で働いています。

場の道場では、薬草をはじめ太陽や月のリズム、そして呼吸法、滝行や坐禅、自然農や発酵などあらゆることを体験を通して場づくりを学びます。これは未病を実践するためです。

つまり未病の場というものは、流れが澱まない場であるということ。言い換えれば、循環しようとするのを邪魔せず、自然の流れになるように調えるということです。

これを私は場づくりの中心に据えています。

そしてその養生法が暮らしフルネスということになります。

氣は風、いのちは水、この風水によって流れ(螺旋)は常に循環するのです。

自然治癒の学びを深めつつ、螺旋の真理を甦生していきたいと思います。

 

大地と徳治

昨日、熊本で大きな地震があり私のいる場所も大きく長く揺れました。東日本大震災の時の揺れを思い出し、あの時、受け取った自然からのメッセージを振り返りました。暮らしフルネスに取り組む今があるのは、あの地震からの声をいただき、初心を忘れないようにしてきたからです。

中国の思想に「天人合一」(天人相関)という思想があります。これは紀元前二世紀、中国・前漢の時代に生きた儒学者の董仲舒(とうちゅうじょ)という人物が人類に投げかけた問いの思想です。

当時の中国では、法律によって国を治める法家、自然に任せる道家など、さまざまな思想が競い合っていました。その中で董仲舒は、「国は力ではなく徳によって治まる」と説きました。その理由は、人間は自然の外側に立つ存在ではなく、天地とともに生きる一つの生命であるとしすべては相関関係と因果によって為ると直観しました。つまり空を流れる雲も、山を吹き抜ける風も、川の流れも、月や太陽の光も、大地の震えも、人間とは無関係に存在するものではなく、同じ宇宙の理によって結ばれていると見立てたのです。

つまり天と人も自然の一部であり分かれているものではない。だからこそ人間社会が私欲によって乱れれば、その歪みは自然との調和を失い、やがて社会全体の苦しみとなって現れると説きました。

そして為政者こそ、自然のメッセージを真摯に受けとり自らを省みる鏡にせよといいました。そしてその政治の実践のことを「徳治」と定義し、まず国を導く者自身が徳を積み、人を敬い、自然を敬い、その姿によって人々を導くことが政治の根本であるとしたのです。それを当時の漢の武帝によって国家の理念として採用され、その思想がのちに日本にも渡来し、聖徳太子の「和をもって貴しとなす」、熊沢蕃山の治山治水、二宮尊徳の「天道に従う」、西郷隆盛の「敬天愛人」など、日本の思想の根底にも、天地を敬い、人を敬い、自らを正すという和の系譜が脈々と受け継がれたといいます。

どんなにお金があっても、便利な文明を築いても、科学技術が発展しても、驕れるもの必ず滅びるものです。平安末期の鴨長明の時代も大地震がありました。そして彼が遺した書物『方丈記』にあるように、大地が震えればこの世に絶対に安全などというものは存在しない、万物は変化して已まないし無常。人間の傲慢さはいつかは必ず天人合一に現れると氣づくのです。

今の世界に響き渡る大地の声は私たちへの偉大な問いかけではないかと感じます。そして為政者こそ災害の時に自らを省み、改心して徳を積み人々の心を治めよと聴こえてきます。

人類全体が謙虚にならなければ、すべてのいのちの幸福はない。

今こそ、徳治覚醒の刻です。

今日は、これから英彦山の宿坊で大地座禅と初心を深め禊をしてご祈祷して過ごします。

今夜の満月の心が、どうか穏やかに人々の内省を調えていただけますように。

地域のお掃除

日々に継続して掃除をしていると、掃除が如何に人間の教育に必要不可欠なものかということがわかるものです。掃除は、ただ物を片付けて綺麗にしているのではなく人間の持っている欲望や心のお手入れをすることの大切さを教えてくれます。

私は掃除というよりも、お手入れという言い方をする方が多く暮らしフルネスではお手入れを中心に体験をすることが多くあります。

そもそもお手入れというのは、自分の感覚で触れることで氣づけるものです。

人間というのは、頭でっかちに妄想や知識が優先されていると自分の感覚が麻痺していくものです。正しいことをやっていれば、何も問題ないとさえ勘違いするものです。

実際には、何かを動けば動くだけの無駄や無理などが産まれます。それは自然環境問題でも同じです。何かをすれば何かのゴミや負担が増えるものです。そしてこれは仕事でも同様です。

人は何かをやろうとすると、そこに発生する諸問題は無視して前進すると後で片づけようもないものになりいくら埋めても遠くに捨てても問題は返ってくるようになります。

そうならないように先人たちは、1つを行えば1つを片付けていつも現場が調っているように配慮していきました。これが自然の循環の仕組みです。日々の暮らしも、様々な変化があるから一つ行えば一つ調えては丁寧な暮らしを紡いできました。

掃除をするというのは、暮らしのお手入れと同じなのです。

地域の清掃もまた、同様に暮らしのお手入れです。

誰が観ていなくても、関わっているからこそ片づけて調えていく。そのことで、自分の暮らしは落ち着いてきます。自分の暮らしが落ち着けば、周囲もまた落ち着いてきます。

安心と安静、安全というのは、日々の掃除から調えていくものです。

本日は、これから地域の中学校の生徒たちのお掃除に参加しますがこの数年で本当に地域が豊かになっているように感じます。子どもたちが健やかに育っていくのを見守れるのは幸せです。

自分も恥ずかしくないように丁寧に暮らしを調えていきたいと思います。

 

農の道

田んぼのお水管理をしていますが、私の場合は先に知識を入れず田んぼと稲を見ながら取り組むため他の田んぼとは異なる農法になります。なので毎回、感覚が試され、何が自然で何が不自然かということと向き合うことばかりです。

今年は、暦や月のリズムなどを暮らしに取り入れて生活をしています。明日は新月ですが、法螺貝を立て田んぼにいのりを捧げます。英彦山の弁財天と関係性を結び、ご祈祷して取り組んでいますから巳の日にもこだわります。

お水を深める一年にしていますから、田んぼや稲はとてもお水を學ぶのに偉大な先生になっています。どの時間帯のお水か、どの場所からお水か、水量をどうするかなど、興味は尽きません。

以前、注ぎ師の方にお水の注ぎ方で味がまったく変わることを教わる機会がありました。お水は私たちの意識にも感応しますし、どのようにお水を尊敬するかでその変化は無限に異なります。

人間の体で考えてみてもお水がどのように働いているかを考えればすぐにお水の性質を発見します。

私たちは口からお水を空気と共に吸収します。酸素は血液の中に呼吸で溶け込み、それを吸収して二酸化炭素を排出します。また飲めばそれを内蔵が吸収し全身を循環して糞尿として排出されます。これは自然界も同様の仕組みです。

お水は呼吸と一体になって動きます。

田んぼもまた同様に、風が田んぼを揺らすことでお水は循環します。これは息をするのと同じです。土は酸素を吸収して栄養を取り込みます。これは人間の腸と同じです。お水を飲み過ぎば循環が澱み、少なすぎても乾きます。人間の身体であれば、小まめにお水を飲む方が身体によいといわれます。運動している時は、お水をがぶ飲みしても返って吸収するのが難しくなります。休息と共にゆっくりとお水を飲めば、内臓が穏やかにお水を吸収します。

太陽が出ている間は、植物たちは必死に光合成をし疲れます。そして夜になり月が出れば、月の引力に導かれ成長していきます。その時に、穏やかなお水があれば稲は休息ができ治癒します。

呼吸をするようにすべてのいのちは、活動と休息を繰り返します。それを助けるのが太陽や月や大地です。大地は体そのものです。その大地とどう接していくか、その大地が健康であるようにどう関係性を築いていくか。

農の道の妙味はここにあります。

何が自然で何が不自然か、そして何が健康で何が不健康か、刷り込みのない澄んだお水のような心で学び直していきたいと思います。暮らしフルネスの場にとって、田んぼはまさに先達です。

徳が循環する世界を見守れるように実践を続けていきたいと思います。

徳積循環の理

古来より、「時は流れる」という表現をします。これは万物は変化するということを示します。変化とは何か、それは言い換えれば流れ続けるということです。

水が流れ続けるように、いのちも流れ続けます。すべての存在は関係性のなかで変わり続けるのがこの世の真理です。変わらないものはありません。だからこそ先人たちはそれを受け容れて変わらないものを変化そのものとしました。変化する中で、形を変えても変化しないものを守り続けたのです。人間であれば、初心を守るということも同様です。

時が変化し、あらゆる状況が変わっても、自分で定めた初心を守るために自分自身の変化を喜んで受け容れていくということ。これは産まれてから老化して死ぬまでの間にも何度もその初心を内省し、向き合い、その都度に初心が守れるように変化していく。流れを止めないでいる、敢えて流れることで守るのです。

変化の書『易経』には「窮すれば変じ、変ずれば通じ、通ずれば久し。」

という言葉があります。行き詰まれば変化が生まれ、変化すれば流れが生まれ、流れがあれば長く続くという意味です。

そう考えてみると、この世で最もこの変化を産み促している存在は「お水」です。

今年の私の一文字は「水」でしたが、水を深めれば深めるほど変化のこと、循環のこと、そして徳に回帰します。

レオナルドダヴィンチは、「Water is the driving force of all nature.」ともいいました。お水が自然の偉大な原動力であるとも。

原動力とは、「流れる」ということです。流れるものが動力であり、流れている最中こそ動力が活動している状態ということです。そしていのちは、そのとき、全体のいのちと一体になって躍動していきます。

だからこそ停滞、澱み、循環しなくなればいのちは弱ります。変化できないというのは、流れなくなるということです。

医書「黄帝内経」には「通ぜざれば則ち痛む」(不通則痛)とあります。

つまり流れなければ痛みとなる。これは人体ですが、自然環境でも同様です。痛みとは、自然災害によって引き起こされます。

健康を維持するとは、きちんと呼吸をし氣が巡っていることです。自然であれば、風水が流れているということです。

そして人類はそれを「暮らし」によって調えてきました。これを養生ともいいます。自然もいのちも健康もまずは養生の実践からです。養生の実践は、徳の循環に由ります。

引き続き、徳積循環の実践を弘めていきたいと思います。

 

元氣の甦生

元氣というものがあります。これは「氣の元」とも言えます。私たちは空氣を吸っては吐き、息をしていのちを保ちます。呼吸していなければ生きていくことはできません。食べ物がなくなってもしばらく生きられますが、呼吸できなくなれば生きることはできません。

この呼吸は、氣の交換でもあります。私たちのいのちは、いつも交換しながら循環し流れては調和しています。別のいのちと交換しながら全体のいのちを育みます。私たちは全体調和のなかでいのちを生きる、まさに全体と一体になって存在している部分の一つです。

その中心的なものがこの「氣」というものです。この世のすべては空氣で結ばれています。この世のすべてのものは氣を通して呼吸しています。これは無機質のものに至るまで、呼吸しないものはありません。だからこそ、氣がどうなっているのかをよく観察し洞察すれば病気の根源も認知できるものです。

「養生訓」を記した貝原益軒が巻第一「総論上」の中でこう記しています。

「素問に、怒れば気上(のぼ)る。喜べば気緩(ゆる)まる。悲めば気消ゆ。恐るれば気めぐらず。寒ければ気とづ。暑ければ気泄(も)る。驚けば気乱る。労すれば気へる。思へば気結(むすぼ)るといへり。百病は皆気より生ず。病とは気やむ也。故に養生の道は気を調(ととの)るにあり。調るは気を和らぎ、平(たいらか)にする也。凡そ気を養ふ道は、気をへらさざると、ふさがざるにあり。気を和らげ、平らかにすれば、此二つのうれひなし。」

意訳すれば、「中国最古の医学書『黄帝内経・素問』には怒ると、気は上へとのぼる。喜びすぎると、気はゆるみ、締まりを失う。悲しみすぎると、気は消耗する。恐れると、気の巡りが悪くなる。寒さにあたると、気は閉じこもる。暑さにあたると、気は外へ漏れ出る。驚くと、気は乱れる。働きすぎると、気は減ってしまう。あれこれと思い悩みすぎると、気は滞ってしまう。このように、あらゆる病は気の乱れから生じるのである。「病」とは、まさに気が病んだ状態をいう。だから、養生の根本は、氣を調えることにある。「氣を調えるとは、氣を穏やかにし、偏りのない平静な状態に保つことである。」そもそも氣を養う方法は、二つしかない。一つは、氣をむやみに減らさないこと。もう一つは、氣を滞らせないこと。氣が穏やかで、偏りなく、よく巡る状態を保っていれば、この二つの心配はなくなり、病になる原因も少なくなるのである。」と。

ここでの要諦は、病気は氣から起こる。氣を調えていれば病気の心配はない。氣の養生は、二つしかない。氣を滞らせずに循環すること、氣をむやみに減らさない、平氣でいることであると。

氣の持ちようは、健康を司る大きな鍵です。元氣は、いつも元氣であるように暮らしを調えることからはじまります。では元氣な暮らしとは何か、それは孟子の浩然の氣にこそヒントがあるのではないかと私は思います。

『孟子』公孫丑上の中で孟子は弟子との対話でこう言います。

「我善く吾が浩然の氣を養う。」

弟子が「浩然の氣とは何ですか。」と尋ねると、孟子は答えます。

「至大至剛にして、直きをもって養いて害することなければ、天地の間に塞がる。」

これは弟子との問答の中で、浩然の氣は、義を積み重ね、道にかなった生き方を続けることで育つということを諭します。浩然とは、広大で、のびのびと満ちあふれた状態のことをいいます。これは私は「元氣」のことだと定義しています。

つまり元氣でいるというのは、浩然の氣を養うこと。養生とは、この浩然の氣のことです。そして浩然の氣は、直き心、素直さ、義の心、そして徳を積むことで養われるというのです。

暮らしフルネスの実践は、この「元氣の甦生」にこそあります。

畢竟、短い人生の中で何が遺せるか。それは生き方や生きざま、そして実践です。実践を遺せば、後に続くものたちの道になる。徳と氣は表裏一体なのです。

道は元氣の甦生からというのが、私が場道家として場づくりをする理由です。

子どもたちに初心伝承できるように、精進していきたいと思います。