父祖の徳

今の時代を生きる私たちは、今の自分の世代の事しか見えなくなるものです。子どもの仕事をしていると、今の子どもがあるというのはその前の姿があるということを実感します。

私たちは当たり前のことに気づかなくなるのは、今の目に見える世界が当たり前だと勘違いするからです。しかし実際は当たり前のことなど存在せず、私たちは様々な徳恵によって今の自分が存在していることに気づきます。

例えば、仕事であっても今の仕事があるのはその前の人たちが努力精進の上に徳を積み重ねてその仕合せによってご縁をいただき、その一部分のお役目をいただくことができるのです。

家が代々継承されていくというのは、その徳が継承されていくことであろうと私は思います。先祖代々、自分の代を一生懸命に全身全霊に尽力していくことで子子孫孫へ徳が受け継がれていきます。

先日、ある言葉に出会いました。

「父祖の徳、汝に及びて今日の幸」

あなたの今日のしあわせは、父祖の徳が今の自分に及んでいますよという意味です。私たちの祖神は日本開闢の時から存在します。その祖神の後に代々続いたその姿が私たちです。

私たちが先祖を思い偲ぶとき、同じ長さで子どもたちのことを思います。譲っていただいた徳を大切に守りまた譲っていく生き方か、その徳を全部自分の代で使いきってしまう生き方か、そこには父祖の徳を感じる力があるかどうかにあるような気がします。

どんな時も、御蔭様であることを忘れていないからこそ感謝でき、「当たり前ではないもの=徳」が観えているからこそその徳を守り伸ばそうとするのでしょう。目には見えないものを可視化する意味とは、その徳を明らかにすることです。そんなことは誰でも知っていると当たり前に思っている人がもっとも本来の当たり前から遠くなっているのです。

何を受け継ぐのか、何を継承するのかを今の代の役割を担うものたちがその父祖の徳を自覚することで責任感は育っていきます。私はそれを「初心」ともいい、「夢」とも呼びます。

目先の損得ばかりが騒がれる昨今、真心を盡し徳の実践につとめていきたいと思います。

いのちの基本

自然の中にある生き物たちを観察していると、そこにいのちの基本があることを実感します。今は基本が崩れている時代に入り、精神を病んだり心が閉じたり、様々な現代病ともいう病が蔓延しています。

自然界に生きる動植物から昆虫、微生物にいたるまで野生のものは全て活き活きしています。厳しくも慈しみがある自然界の中で、精一杯自分の生を生き切る姿に私たちは感動するものです。

いのちは輝くものですが、その輝くいのちとは精一杯の状態の時です。私の言葉では「生き切る」時です。いのちの基本は「生き切る」ことです。

刷り込みからあれこれと思い悩み憂いては、ありもしないことに煩悶し苦悩します。頭ばかりを使って感覚を使わなくなると、もともと備わっているいのちの力を発揮することができなくなってくるものです。結局、どこかでいつかは諦めないといけないことなのですが頭だけでいくら考えても無理なものは土台無理なのです。根本や基本は教材やテクニックでは乗り越えることはできないのです。

「いのち」はとても心と密接で、心の応じるままに初心を忘れなければいつまでも活き活きと光り輝きます。頭でああだろうとかこうだろうとかを思っているのは心を盡し遣っているわけではありません。「心が疼く」という言い方をした方もいましたが、心は行動や実践することによって「からだ」の感覚で一心に気づいていくものです。

「こころ」か「からだ」ではなく、「こころとからだ」ということです。心体技も同一のものです。私たちは分かれていないものを無理に分けて考えはじめたところに病の元があるようにも思います。そうやって分けて考えたことで、真実から遠ざかったのかもしれません。

いのちの基本は生き切ることです。

それは自分を全力で出し切ることでもあります。日々に出し惜しみせずに自分の中の最大限の真心を、そして誰の見返りを求めずに全身全霊に精一杯遣りきる日々こそ、万物のいのちの基本になるのでしょう。

基本があっての応用ですから、自然界の野生の生き物たちは基本に忠実ゆえに自然にお互いを思いやり活かしあうことができるように思います。

自然をお手本に自然の中での生き方を学び直していきたいと思います。

天命に慣れ親しむ~愉しい実践~

「習慣は第二の天性なり」という諺があります。習慣の力は大きなもので、生まれつきの性質と変わらないほど日常の行動に影響を及ぼす、また広辞苑では「習慣は人の性行に深くしみこんで、生まれながらの性質のようになる。習慣が人の性行に影響することの大きいことをいう」という意味で使われます。人間は「慣れ」によってできあがっていきます。言い換えればその人の一瞬一瞬の生き方や生き様によって出来上がっているということです。

これを少し深めてみようと思います。

人格形成という言葉があります。人格が出来上がってくるというのは、どのような習慣をその人が持っているかということです。例えば、自分が得をすることばかりを考えて生きている人と、周りのしあわせのことばかりを考えて生きている人ではその持っている習慣が異なってくるものです。

前者は、自分の身のことばかりを憂いてはもっと自分に都合が良いことばかりに腐心していきます。しかし後者は、周りのことを思いやりどうやったらお役に立てるだろうかと利他をします。その生き方一つとっても異なってくるのは、前者はいつも機嫌悪く自分のことばかりを気にして暗いですが後者は周りを喜ばせようと機嫌よく笑顔を絶やしません。結局は、その人の考えたが習慣に顕れるのです。

そうやって慣れてしまうと、自然に習慣が考えを形成し、また考えが習慣を形成するのです。よく潜在意識と顕在意識という言い方をしますが、顕在意識の奥に潜在意識があり、その潜在意識がどうなっているかで顕在化してくるのです。

どのような習慣を持つかはその人の今までの生き方にも由ります。今まで持っている「慣れ」を別の「慣れ」に変換するというのが生き方を変えることがですが、これができないのはその本になっている習慣を上書きすることができないからです。言い換えれば初心を忘れてしまうからです。

日々生きていれば情報を取り影響を受けるのが私たち人間です。その情報を毎回取捨選択していくのですが、その本になっているものもまた「慣れ」に由ります。だからこそ、初心を持ち忘れない工夫、いわば実践により己の今までに打ち克つことで刷り込まれた習慣もまた変えていけるように思うのです。

新しい習慣を身に着けるには、常に忘れないための実践が必要です。習慣の上書きともいいます。どのように生きたいか、どのような生き方をしたいか、それは向き合えば自ずから明らかになります。如何に自分の本心に正直であるかが試されるのが習慣ともいい、それが天から与えられた個性を活かすということになるのでしょう。

日々は自然体に近づくための人生道場、人生修養です。

自分の決めた生き方に対して正直に自らの性質を知り、本来のその天性を研ぎ澄ませ素直に練磨の実践を愉しく天命に慣れ親しんでいきたいと思います。

試行錯誤~学問の答え~

人は物事を体得するのに現場実践というものがあります。これは頭で考えるのではなく、からだで気づくというような学び方です。

例えば、保育者であれば子どもから学び、農業者であれば田畑自然から学び、仕事であればお客様から学ぶという具合です。座学と違うのは、教室で何かを机に座って教えてもらうのを待つのではなく自分から動いてコツを掴みにいき、自らのからだそのものに染み込ませていくような学び方ができるということです。しかしここで座学か現場かという意味ではなく学問の本質は何かということです。

実際に私たちが学びを深めるとき、そのもの本来の姿から学ぶという姿勢は教えてもらうのではなく自ら学ぶという精神です。誰も教えてくれなくても教科書がなくても、もしくは技術が足りなくても道具がなくてもそのものから掴み取ろうという自学自悟の精神です。

そもそも誰かに教えてもらった知識というのは、自分の中で本当に体得した真実ではありません。体得していない知識は智慧でもなくすぐにその他人の知識の範疇を超えた現実を見たら常識に縛られ自分にはできるできないという二者択一しかなくなってしまいます。本来は、できるからするでもなく、できないからしないではなく、何があっても必ずやり遂げるという覚悟の物差しを育てるのが学問の本義かもしれません。

本来、実践しているから本を読むのであって実践しないために本を読むのではありません。自分の中の気づいたことが何だったのか、それを確かめるために自分の中で言語化し体系化し知識化していくのです。

人生というものは、知識が先か体験が先かといえば、太古の昔から体験が先なのは誰でも知っています。赤ちゃんが知識がなくても生きていけるように、動植物や周りの微生物にいたるまで知識がなくても発達していくように、本来は体験を通して気づき学んでいくのです。

今の時代は、疑似体験やバーチャルリアリティで済まそうとしますがいくら結果は体験したつもりになっていてもそれは頭で思い込んだだけで全身全霊のからだの感覚すべてで気づき得たものではないのです。

私にとっての学問の本質は「試行錯誤」です。失敗からはじまるのが学問であり、色々と試して挑戦していく中で最期は完成するのが学問です。簡単に言えば、最後まで諦めずにやってみることです。

最初から答えがあるかのように思い込んで、答えを探すために知識を得るのではなく、誰も見つけたことのない答えを自分自身で出してみたいと取り組んでみることが大事なように思うのです。

もしも教科書のように答えがあるとするならば、学問の答えは試行錯誤です。間違わないように真摯に実践を深め、気づきを喚起し自学自習を続けていきたいと思います。

本物の継承~原点回帰~

人間はその人を判断するとき、その人の職業や性別、年齢、見た目、経歴など様々な情報をもとに分類していきます。例えば、医者、職人、芸人、営業マン、お坊さん、経営者など、その人の立場を見ては分類分けしていきます。分類分けしてわかるのは表面上のやっている業務全般を知ることはできますが、その理念は何かとまでは確認しているわけではありません。

言い換えれば、人間か猿かライオン、オスかメスかという分類はしていてもそのものが本当は何を目指しているのかや本当は何がしたいのかということまでは知らないままに役割を勝手に決めつけてしまうものです。

そもそも自分の役割というものは、理念があってはっきりしてきます。その集団が目指しているものは何か、その社會が目指すものは何か、全体の集団の中で自分の役割を知るのはその全体の集団が何を目指しているのかによるのです。

例えば、全体の集団が人類の幸せを目指し見守ることを優先しようと理念を持つなら、それは見守る社會を創造する社會ですから、そこでの人たちは見守る医者、見守るお坊さん、見守るコンサルタントのように、その人の肩書きの前に何をする人か、つまり理念がはっきりしているように思うのです。

その共通する理念の中で、自分の役割を考えることで役割を押し付けるのではなく自分の得意分野で役割を活かしあうことができるように思います。それはまるで森の中の木々たちのように、百花繚乱の花々のように、また発酵場にあるような土壌の中の菌類や生き物たちのように、皆で互いのいのちを見守り合います。

どんな社會にしていきたいか、どんな世界にしていきたいか、そういうものがまず先にあって職業はそのあとであるのが本質なのです。しかし今の時代は、原点には触れず職業だけで自分の立場や役割を決めつけてはその範囲を勤めることが仕事だと刷り込まれています。

自分が何のために産まれてきたのか、自分の本当の役割とは何かとは、使命感のようなものです。突き詰めて深めていけば、志や思いやりに人は生きるように思います。この時代の中での自分の役割は何か、この自分の人生での全体の役割は何か、いつも周りの世界に心や眼を開いて何のために在るのかを自覚することが役割に目覚めることかもしれません。

理念とは、本質そのものであり本来の原点です。

不易と流行、温故知新、刷り込まれず素直に正直に理念を観て、本物を継承していきたいと思います。

善好奇心心~三つ子の魂~

知識というものは便利なもので、世の中のことをある程度予測することができるものです。統計や集計を通して過去のパターンを分析することで、ある程度の予測は可能になります。人間はどこまでいっても自分を守るために危機感を持ちますからそれを発展させていくことで知識を膨大に広げていくようにも思います。

しかしその知識は常識というものに縛られるものです。言い換えれば前例主義や自分の想像の範疇を越えることはありません。新しい発見というものは前例の中から出てくるものではなく、その常識を超えた気づきによって出てくるものです。

例えばいくら過去の災害を想定したとしても、自分たちの想定を超える出来事が起きるのが自然災害です。同じように自分たちがいくら想定をしていても、偉大な廻りの循環の中で私たちが知りもしないようなつながりを通して私たちは活かされ生きています。

そういうものを理解するのはほとんどが直感であり、暗黙知です。形式知の粋を集めてみても、その全体までは知ることはできません。感覚というものは、知識ではないのです。それを言霊では「思い」や「祈り」、「ご縁」とも言い換えてもいいかもしれません。

言葉というものも、言葉がなかった時代は人間は自然のように直感そのものの存在でした。天文に精通し、地理に精通し、文化そのものでした。そこから言語知識が形成され、一つが二つになり、分かれて今では無限に分かれ続けています。

知識を持つことが優秀だと思っていますが、広がり続ける言葉や知識を知っているのはただの物知りであって本質や本物に気づきにくくなっているだけとも言えます。しかし現代では、その直感を形式知で語れなければ人に伝えることも難しくなっています。本来の自然を伝えるだけでも難儀なもので、それをいちいち分かるようにわかるところで伝えなければなりません。

ある意味、人間の進化ではなく文明の進化というのが今の進化の定義なのでしょう。人工知能やコンピューターや仮想空間などの発展というものは、文明がいよいよ新しい局面に入るということです。

歴史は人間の教科書であり常識です。

その常識を超えるには、今の時代を生きる人たちが希望を捨てずに新しい道を切り開き新しい発見を実践していくことのように思います。温故知新ですが、言い換えれば魂の磨きであり心の成熟と真実の技術の発達かもしれません。心と技術を如何に高めるか、今は魂の試練の時代のように思います。

子ども達には、どちらかという二者択一の生き方ではなくその間にある目覚めに生き続けてほしいと思います。それは善好奇心心といってもいいかもしれませんが、常に三つ子の魂を持ち続けて、なぜどうしてという問いを持ち続けてほしいと思います。

人間の可能性を信じているからこそ、諦められず已められないのです。

日々に納得するまで問いを発していきたいと思います。

不器用~思いを籠める~

先日から職人文化のことを書いていますが、そもそもどんな人間を育てようとしているのかというところが昨今の教育と異なることはすぐにわかります。技を伝えるということは、人を伝えるということです。

どんな人物がどのような生き様でどのような志事をしたか、後世の人たちに恥ずかしくないように一心不乱、全身全霊に取り組んだか、後の人がその心や精神をモデルにするような生き方をしたかが示されています。

常に大事なことはいい加減で雑なことをしないという心、言い換えればどの仕事にも心を入れているか覚悟はできているかという自問自答、自省自戒をしているかということのように思います。そこに技が磨かれたか、人が磨かれたかと問われるのです。

小川三夫さんの「棟梁」(文春文庫)に「器用」について書かれていますが、今の教育の刷り込みについて書かれているように思います。そこには器用について書かれています。

「今の世の中は器用を買う。要領よく速くこなすやつは価値があるんだ。それは企業や社会の考え方に合っているからや。価格の競争が当たり前の世界では、速く作ることが求められる。できは水準でいいのや。でき上がった品物の使用される期間も短いもんや。その期間だけ持つ、安い者を作るんやったら、それでいいんやろ。俺達、宮大工の造る建物は時間と闘わねばならん。それに勝って、自然の中で建ち続けるには、そんな要領のいいことではすまないんだ。千年の時間でものを考えたら、なにも急ぐことはない。じっくり確実に。そういうことは人間を作るのにも出るな。慌てて、急いで人間を作ろうと思っても無理や。急いで、即席で作ったら、人間だって無理が出るのと違うか。今の教育はそんなふうに見えるわ。」

確かに周りを見渡せば教育の方法はまるで即席で栽培するような育て方で便利に速く出荷できるものがビジネスで横行しています。社員教育にしても、新人教育にしても、そんなものまで省こうと派遣や契約社員など人事は常に即席であるかどうかが基準になってきています。時間をかけて手間暇などは流行ではなく、如何に簡単便利で能力の換えがきくかが経済でも価値があるかのように思い込みます。結局、そういう人間が求められているからそういう教育にもなるのでしょうが、そのことで「器用な人」ばかりができているのかもしれません。そして小川三夫さんも師匠の西岡常一さんも器用は損やといいます。

「思いを込めた仕事となったら、器用な子には難しいんだ。器用な人は耐えることが不得意なんだな。自分はできるし、できると思っているから器用にその方法を見つけ、ここでいいという線を読んでしまう。だからどうしても、耐えて耐えてもっと深いところまで行くということができ難いんだな。」

「よう西岡棟梁も言っていたな。『不器用の一心に勝る名人はない』と。身体や手というもんは言葉のようにはすぐには浸みこまんもんや。覚えるのにも時間がかかるが、手や身体に記憶させたことはそう簡単には忘れん。時間をかけて覚えることは何も悪いことではない。さっさかさっさかやって上っ面だけを撫でて覚えたつもりになっているのは使えないな。」

不器用の一心とは、器用を重んじず心を重んじているということです。真心を籠めた実践を丁寧にコツコツと行う人物こそ自らを磨き高め、ある深さにまで到達できるということなのでしょう。不器用なのは、心を籠めているからであって単に器用ではないわけではないのです。

修業するにおいて何よりも大切な心得が言葉ではないことは一目瞭然です。

「器用な人は器用に溺れやすい。ある段階までは早いスピードで行ってしまうから、油断というか、仕事を甘く見てしまうんやな。修業時代の器用なんていうのはたかがしれたものや。器用ではこなせない仕事がたくさんある。手先の器用な子は頭も器用や。要領よくやって褒められる仕事もあるだろうが、うちらのように一つ一つを確実に積み重ねていく仕事には、そういうものはいらないんだ。しっかりした継ぎ手を作るから大きな建物はできるんやし、きちっとした仕口を刻むから丈夫な建物になるんや。その継ぎ手や仕口を作るのは、切れる刃物と工人の仕事に対する思いや」

この”仕事に対する思いや”という言葉。

何よりもこの言葉に共感できます、仕事にどれだけの思いを入れるかなど今の時代はあまり重んじられません。しかし、志の仕事というものは「思い」こそ全てであり原点なのです。思いがなければ、何も入らず、人に影響を与えて生き方を変えさせるほどの本物の志事とは「思い」が何よりも全てを決定するのです。

今までの刷り込みを取り除くということも、今までの思い込みを取り払い、新しい実践に取り組んでもらえるのもその人の「思い」に触れるからです。志というものは単に仕事が器用に結果だけを誤魔化せばいいのではありません。コツコツコツコツと、日々に丁寧に真心を籠めて一気にやらずに手前から丁寧に怠らず取り組む忍耐と根気が必要のように思います。

それはまるで砥石で磨くような生き方です。「不器用の一心」というのは、一心にして自分を正す実践のように思います。ご縁の仕合せに自他をまるごと愛せるように子どもたちに遺したい生き方を優先していきたいと思います。

口伝と体得~初心伝承~

一昨日から紹介している鵤工舎の小川三夫さんの「棟梁」(文春文庫)には共感するものばかりです。王陽明はかつて「道統を継ぎ、絶学を紡ぐ」と言いましたが、師の教えを忠実に守り伝統を継承する志に子々孫々への思いやりや真心を感じます。

そういう理念を持つ組織だからこそ、その教え方も本質的であり実践的、体得体認することを重んじています。口伝の重みでも実感したことですが、口伝できるというのはその志を受け継ぐ心があってのことです。血肉に伝わっていくような関係の中にこそ、大切な原点や初心、その志や伝統は伝承できるのではないかと今でははっきりと思います。

今年は伝統文化や老舗から日本の職人文化を学び直そうと思っていましたが、その最初に鵤工舎のことを学べて有難く思います。

文章の中で修業について書かれているところが沢山あります。修養も修行も、その心構えのことでしょうが具体的な実践事例で「研ぐ」ということの意味が書かれているので紹介します。

「刃物というのは、なかなか研げないものや。砥石にぴったりし刃を当ててゆっくり擦ればいいだけだが、それができんのや。人間の身体というのは思いの通りには動かないんだな。・・・中略・・・言葉は常に後や。自分の身体が考えの通りには動かないことにまず気がつかなならん。だから修業するのや。言葉や考えが役に立たないことにも気がつかなならん。無心で研げるようになって初めて刃物が研げるようになる。じゃあ無心ってどういうもんかと考えるかもしらんが、刃物が研げたときや。答えは刃物や。」

西岡棟梁から学んだ刃物研ぎの本質が記されています。無心とは研げた時だといい、答えは刃物だといいます。これは仕事でも同じように思います、無心でできるときは自他一体になっているということでその答えは仕事そのものだということです。そしてこう続きます。

「苦労して、悩みながら研いでいるうちにある日、「おっ」と思うことがある。そうやって階段を上がっていくんだな。精神修業のようだが、そうじゃない。大工は体を作ることだ。頭や考えも体から生まれてくるんや。俺はそう思う。だから刃物を研がせる。」

体をつくることと言います。以前、メンターから「からだ」という字は肉体だけではなくそこには心や精神も入っていると聞いたことがあります。「からだ」で覚えるというのは実践で染み込み自分のものにするということでしょう。

「よく研げるようになれば、道具を使ってみたくなる。木を削ってみたくなる。穴を穿ってみたくなる。それが大工として最初や。切れない刃物で木を削らせたところで、辛いだけでうれしいことも気持ちがいいこともない。そんな心で仕事をしていてもいいものはできない。だから刃物を研げないやつには道具を持たせない方がいいんだ。手道具は体そのものだ。体の一部として、考え通り、感じたとおりに使えなくては意味がない。その最初が研ぎや。」

”手道具こそ体そのもの”とあります。仕事では何が手道具であるかということです、それが商品であり自分そのものでもあります。

最後にこうあります。

「嘘を教えれば嘘を覚える。研ぎは全くそうや。ほんとうを覚えるには時間がかかる。時間がかかるが一旦身に着いたら、体が今度は嘘を嫌う。嘘を嫌う体を作ることや。それは刃物研ぎが一番よくわかる。・・・中略・・・上手になれば過去の自分の未熟さがわかる。それも上手になって初めてわかること。つまり、判断は常にその時の自分を超えないということや。刃物は自分の力量を表す鏡や。一心不乱に研ぐことによって、大工としての感覚と研ぎ澄まされた精神も養われるんやな」

”判断は常にその時の自分を超えない”とあります。今の自分の刷り込みを取り除くには、”からだ”で身につけろということです。言い換えれば一心不乱であるし、私の言葉だと全身全霊です。それだけの実践をどれだけ積んでいるかで本物や本質が磨かれるように思います。ここでの刃物とは人格に似ているように思います。何を研ぐのか、手道具とは何か、もう一度そのものの在り方から見直してみないといけません。

そして「技と人」の伝承とは、つまりは「口伝と体得」ではないかと改めて実感します。今の時代の人と技の教え方、学び方に対して刷り込みを見つめているととても大きな危機感を覚えます。子ども達には自学自悟、自分らしく自らを磨き上げていってほしいと思います。まだまだ職人文化や初心伝承を高めていきたいと思います。

職人文化~思いやりとやさしさ~

昔から職人文化という言い方をしますが、これは職人=文化ということです。人の育成に於いてまで文化の高みに到達していたのが私たちの先祖であり日本であるように思います。その育成方法も明治維新以降の教育改革の中で次第に喪失してきました。今では徒弟制度なども遺っているところも少なくなり、技の伝承や継承も次第に喪失してきているように思います。

昨日のブログでも書きましたが、学問が単なる勉強になってしまっては深さを知らず篤きを覚えません。要領よく楽をしては周りと比較して勝負はしても自分自身とは正対せずに打ち克たないでは本質は学べないように思います。

昨日紹介した鵤工舎の小川三夫さんの「棟梁」(文春文庫)の中で徒弟制度のことが書かれていましたがいくつかまた抜粋します。

「大きな建物は一人ではできん。大勢の力ではじめて建て上がるんや。一緒に仕事をしていくには、やさしさと思いやりがないと無理や。一緒に飯を食い、一緒に暮らし、同じ空気を吸っていれば、自然にやさしくなる。思いやりがなければ、長いこと一緒には暮らせん。隠し事も十年は隠せない。いい振りをしていても地が出る。素顔で暮らすのが一番楽や。そうしているとやさしくないと暮らしていけないことに気がつくんや。」

一緒に働くことにおいて何よりも大切なものが何かを知る人だからこそ、「同じ釜の飯を食う」ことの大事さを説きます。共視共食もそうですがなぜそうする必要があるか、それは心を通じ合わせて心を入れる志事だからです。頭だけでやれることなどはたいした仕事ではなく、本物の志事は其処に心が入っています。何より理念を重んじる組織に於いてはその心がどうであるかを何よりも優先であるとするのです。

如何に日本は職員文化の中でお互いに心を通じ育ち合ってきたか、師弟一体にあるがままに学びを与えあう環境構成と活人技継承の仕組みには感服することばかりです。そしてこう続きます。

「しかし、言っておくけどな、共同生活で、思いやりも、やさしさも身に着けていくが、本当のやさしさというのは、ただ人の面倒を見るのとは違うで。本当のやさしさは、自分自身に厳しく生きてないと身につかんもんや。厳しさのないやさしさは、甘えにつながる。そんなものはうちにはいらんし、人も育っていかん。技も身につかん」

今の時代は、やさしいばかりで叱れない人も増えてきています。叱咤ができないのはその人が自分に甘いからです、叱咤激励とはその人に期待しているということです。期待しているというのは、己に克てと応援するのです。逃げようとするその人の心に厳しい「喝」を入れられるのはその人が優しいだけではなく「自分との勝負を続けている自分から逃げない厳しい実践者」だからです。私のメンターもまた厳しい人です、まるで不動明王のように自分の中で打ち克っている人だからこそその人に憧れ私淑しています。

人が他人を尊敬することが大切なのは自分が成長できるからであり自分が素直になれるからです。足るを知らず傲慢になり自分の実力を見誤れば多くの人たちに大きな迷惑をかけてしまいます。だからこそ真摯に真独して一心不乱に一つごとに打ち込んでいくことが弟子の志業のようにも思います。そのことではこう言います。

「まず修行中は大工ということに浸りきることや。寝ても覚めても仕事のことしか考えんでいい。それでは仕事バカになると思うかもしれなんが、そうやない。一つのことに打ち込んでおれば、人間は磨かれる。中途半端よりずっといいで。自分の自由になる時間なんて全くないんだが、こういう暮らしをしていると、自分の癖や自分のことがなんとなくわかる気がしたな。アパートから通わせてくれという弟子もおったが、そういうのはお断りや。体から体に技や考えや感覚を移すのが職人の修業だ」

まさに頭で学ぶのではなく、体で学べ、体得せよ、つまり全身全霊でやれと言い切ります。そして最後に、本物であることの重要性を説きます。後世が判断するのはどの仕事でも同じです、自分で責任を以て成し遂げた仕事だからこそその仕事の後を見た人はその人がどのようにその前に仕事をしたかが自明します。隠せません。だからこそ全身全霊で人事を盡して精一杯だったかを重んじるのです。そこにはこう書かれます。

「技というのは独立してあるわけじゃないからな。俺は「真摯な、そして確実な建物を建てること。それが唯一、弟子を育てる手段」やと思っているんだ。一緒にやった者はそこで学ぶやろ。後の時代になって解体した者は解体しながら、俺たちがやった仕事を見、良ければ学び、悪ければ捨てていくやろ。精一杯造った建物さえあれば、必ず技や精神を見抜くやつは出てくるんだ。本物とは、いつの世でも変わりなく人の心を打つもんだと思う」

技もまた生き方なのです。職人文化とは、勘違いしていますがそれは古臭いのではなく「本物の香り」なのです。

どのような仕事をするのかは、その人の技がどのように磨かれているか、しいてはその人の人格がどのくらい練磨されているかを知ります。隠せないからこそ愚鈍に正直に真摯にというのは原則なのでしょう。本や言葉では教えられんことを教えるのが師匠だとしたら、棟梁とは何かも自ずから明らかです。志道もまた然り、王陽明の滴骨血です。

どんな生き方を見せていくのか、その背中が見える距離感で子どもたちにはその生き方をありのままに示していきたいと思います。

 

師弟と撫育~志事の流儀~

今の時代、徒弟制度などもなくなり対等な立場で物事に取り組みます。学校のようにいつも教えてもらえるものだと思っている人はあまり伸びません。それは素直ではないからのように思います。そういう意味では、徒弟制度というものは職人文化ですが日本人としての育ち方、教え方の粋を集めた智慧だったのではないかと思います。

一緒に暮らし、師のことを理解し近づこうと努力しまた師も弟子のことを知り弟子を伸ばそうとするのです。両者一体の中で教えたことは、決して知識ではなく親がわが子を育てるように感化薫風し陶冶したように思います。今の時代の育成の関係性に危機感を覚えてなりません。

法隆寺の宮大工、西岡常一さんの一番弟子に鵤工舎の創業者小川三夫さんがいます。この方の著書「棟梁」(文春文庫)に師弟の生き方が書かれています。自分の昔に照らしていくつか感銘を受けたものを紹介します。

「昔は十二、三歳になれば親方のところに弟子に入るか、店に丁稚に行ったそうだな。年季を決めて、前渡金を親がもらって働き手として出すのもあったそうだし、親方の元で雑用をしながら仕事を覚えるというのもあった。せいぜい十四歳、五歳までに行ったんだな。これより年を取ったら反発したり、生意気になって素直に言うことが聞けんようになる。遊びも覚える。世間も気になる。お金を勘定するようになる。そうなったらひたすら言われるままに働くのは難しいわな。ものを教わる、覚えるために一番大事なのは、素直なことや。教わる方もその方がいいし、教えるほうもそうや。そのためには、そのぐらいの年齢がちょうどよかったんだな。それ以上になると体ができてしまう。体ができるということは、頭もできるということだ」

とあります。以前、自由の森学園の校長から「中学生は体だけではなく心も精神も出来てくる大事な時期だからこそその時期をどのような環境で過ごすのが大切か」と言われたことを思い出しました。素直さというのは刷り込まれる前の姿ですから本質を理解するのに余計な知識が邪魔になる前にあるがままを体得することで一道の深淵に触れる機会を持てばいいということかもしれません。

またこう続きます。

「体がきついと、楽を考える。楽を考え出したら、終わりや。楽なんてないということに気づくまで、ずっと遠回りせなならん。もしくは、楽を求めてやめてしまうことになる。何もかもその職業で生きていくために自分が身につけることやから、他人の目をごまかしても何にもならん。損なだけや。そのためには体と頭、技が一緒に身につくことがいいんやな。」

考えるということは総じて楽を選ぶときに行う作業です、だからそれは損やと言い切ります。

「親方が悪いんやと、他人のせいにするのは簡単や。しかし何も好転せんわな。ひがんで、ふて腐れてたらもっと悪いわ。他人のせいにするのも逃げや、ふて腐れるのも相手が悪いと思うからや。相手は親方や。代えられん。親方のとこに来たのは自分や。自分を変えることで状況を脱出せなならん。そう考えるんだな。俺は頭が悪いから、そうたくさんのことは考えられん。やめて逃げ出さないなら、がんばって早く仕事を覚えんべえ、と思った。それしかねえんだ。これはどんな時でも一緒だな。逃げたらあかん。逃げる前に考えるんやな。それと、他人のせいにして自分が正しいと思いこもうとしても無駄や。自分を騙しているだけやんか。ものを覚える、人と何かをする、ものを作る。何でもそうやが目的があるやろ。そのためにそこにおるんやろ。そういうところで、どうするか考えるんやな。俺もない頭で考えた。」

考えるということの定義が楽をすることではないからこそはっきりと示されます。目的を考えよと、そのために其処に居るのではないかと考えろと言います。

最後に私が何よりも共感したのは「はじめに」の中にある下記の文章です。私も同感で、何よりも自戒しているのは下記のことです。

「人から人へ技を伝えるというのは容易なことではありません。言葉で技や感覚を伝えることは不可能です。こうしたことは本文で詳しく話しますが、言葉や数字やデータ、映像に頼ってものを学んできた若者にそのことを教えるだけでも簡単ではないのです。学校では先生が教科書を使い、黒板を駆使して教えてくれます。子ども達は教わることが当たり前だと思っています。教わればわかると思っています。教わらないことは知らなくて当然です。中学や高等学校は一年が経てば進級し、三年経てば卒業します。学校には期限があります。生徒はみんな同じ能力があると設定され、同じ方法で、同じ期間学びます。進級するには最低、決められた点数を取ればいいのです。その点数を取るためには近道があり、早道があり、要領があります。学校ばかりではなく、塾も予備校も、家庭教師も、それを教えてくれます。このすべてが私たちの世界では、技や感覚を師匠から受け継ぐための障害になるのです。少なくともこの方法に慣れた子どもに、技を教え、感覚を身につけさせることは無理です。技も感覚も大工の考え方も、本人が身につけるものなのです。体に記憶させる、体で考える。このことを理解してもらうには、親方や師匠と一緒に暮らし、一緒に飯を食い、一緒に働くしかないと思っています。」

これは本来の本能の学び方、道理を悟った真理であり、動物からあらゆる生き物たちが如何に本質を掴みとっていくのかということの要諦が書かれています。頭が良くなったつもりが、刷り込まれていてかえって地頭が狂ったでは本末転倒です。

今でも身近でも私はその刷り込みを取り払うのに苦労苦労の連続の日々です。叱咤激励くらいではダメで、私の技術も忍耐も未熟そのものです。しかしだからこそ同じような志を抱き、鵤工舎を創業した方の信念にも少しだけ触れることができます。

物事に正対し、正面から坦々滔滔と歩みを進めていきたいと思います。