磨く③~にこにこ顔で命懸け~

磨くということをテーマに昨年から深めていますが、何をもって磨いているというのかを分からない人も増えてきているように思います。例えば、気付くことが磨くことといってもすぐに分からないのは磨き続けてみていないからです。

しかしシンプルに磨くというものを考えた時に、苦労というものが磨いているという実感がある人は多いと思います。自分を磨くというのは、自ら進んで苦労を求めていく生き方をするということです。

有名な故事に「若い時の苦労は買ってでもせよ」があります。これは若い頃の苦労は自分を鍛え、必ず成長に繋がる。苦労を経験せず楽に立ちまわれば、将来自分のためにはならないという意味です。(故事ことわざ辞典より)

他にも類似している諺に、「艱難汝を玉にす」はじめ「若いときの力こぶ」や「苦労屈託身の薬」、「楽は苦の種、苦は楽の種」や「楽あれば苦あり」があります。どれも苦労にはとても価値があるという智慧の教えです。

苦労したことがない人は努力の味を知りません。なぜなら努力の味というのは苦労をした人にしかわからないからです。言い換えれば苦労のない努力では努力にはならないというのが本質だからです。

心身ともに耐え忍び、日々に心身揺さぶられながらも大義の実践を行うことが修行のようなものです。思いの力を使っては祈りの力を使っては、必死になって苦労をしていくところにはじめて努力があるように思います。

そしてその努力とは苦楽といった味わい深いものがあります。この苦楽は、たとえば忙しい中でも心を失わない時に得られた自分への褒美であったり、自分の不利益であろうとも誰かのためにと譲った後に残る余韻のように、または祈り思いやる相手が病気から平癒していくときの仕合せのようにその苦楽はとても深い味わいがあるのです。

人は頭で考えれば誰しも苦労は避けて通りたいと思うものです。脳みそはもともと苦労したくないから知識を得ているとも言えます。知性というのは裏腹で自分を磨きたくない理由にもなってしまうのです。

体験したものを気づき、それを学ぶときに得る知識は、自らが体験を本物にし自分の貴重な体験として自分のものにしていくために必要ですが体験しなくてもいいように便利さを求めては知識で補おうでは磨く機会をも損失してしまいます。

若いときの苦労の価値を自覚している人たちが、如何に若い人に苦労を与えることができるかが真価なのでしょう。自分が苦労したから若い人には苦労を与えたくないという人が増えているように思います。しかし、その苦労は振り返ってみると何よりもかけがえのない思い出になり、そしてその苦労があったからこそ努力の価値を身に染みて自信を持てるようになり、努力ができる有難さに感謝できるように思います。

誰だって苦労は嫌なものですが、苦労をしなければ本当の意味での楽しさが分からないのならば敢えて苦労を選んでいく、楽しい方を選んでいくという生き方がたった一度の人生を磨く上では大切なのではないかと思います。

単に苦か楽かという頭で裁く二者択一の判断ではなく、苦労の中にある真楽、楽しいの中にある苦楽を味わうことが若いときの貴重な体験ということなのでしょう。光陰矢の如くあっという間に時は過ぎていきます。

若かった時代も気が付けば過ぎ去り、その体験を遣って今の真剣勝負をしなければなりません。自他一体になれば相手に苦労を与えることは相手の仕合せを与えることになります、そこに遠慮もありません。気づいた時が勝負ですから、子どもたちに素晴らしい苦労の真価をたくさん与えられ伝えられる真心の人間に自分が近づけるように、にこにこ顔で命懸けの精進をしていきたいと思います。