全身全霊の真心

人は何か大切なことを伝える場合は、自分の中にあるものを伝えていくものです。それは単に頭で考えた知識ではなく、その人が乗り越えてきた体験や、或いはまだ苦闘中の複雑な思いや、一緒になって歩んでいこうといった願いだったりします。心は籠めない行為はすぐに露呈しますから、真心を籠めることは常に全身全霊で行うものです。

この「伝える力」というものは、心の力です。心は何を感じて、心はどうしたいのか、それを素直に発揮するためには心の命じるままに行動していかなければなりません。心が思ってもそれを無視して保身に走ったり、楽な方を選んだり逃げたりすれば心はいよいよ出てきません。そのためには、勇気が必要ということはブログでも書きましたがもうひとつ大切なのは自己との対話、内省ということになります。

人は自分の心を磨くのに、自己との対話があります。自己との対話とは、自分の心に向かって内省を続けて深めていくことで本当は自分は何を思ったのか、自分は心から伝えて行動したかと真心を確かめていくのです。

そうやって自分の内面から出てきたものを、そのまま素直に言葉にして行動していくことが「伝える力」を伸ばしていくように思います。相手の立場にたって物事を考えて、どうやったら伝わるかという技術を磨くことも大切ではありますが心から出てくるものを伝えるにはまさに全身全霊の真心が大事です。

全身全霊とはつまり自己が完全に一致しているありのままの心、あるがままの姿、素直な自分自身でいるということです。自分を偽ってよく見せようとしたり、よく見られようとしたり、立場を利用したりするのではなく、相手を思いやり真心で信じたままに行動することが「伝える力」そのものの正体だと私は思います。

そういう人に出会えることは人生の仕合せです、そういう自分に出会えることもまた仕合せです。人生は二度とないのだから、出会ったご縁を大切に色々な人と伝え合って絆を深めていきたいものです。

伝える力を磨き、子どもたちのお手本となるような全身全霊の真心を発揮していきたいと思います。

 

運命の模様替え

世の中には不平不満ばかりを述べては言い訳ばかりして何もしない人もいます。そうかといえば、言い訳をせずにどんなことも勇んで遣りきっている人もいます。自分から進んで取り組むことは勇気がいることですが、他人が嫌がることや大変なことを自ら引き受けて取り組んでいる人は運命が明るく伸びているように思います。

そういう人は徳が積まれ、その徳によって運命が好転していくように思います。

常岡一郎さんにこのような言葉があります。

「徳と毒はよく似ている。徳は毒のにごりを取ったものだ。毒になることでも、そのにごりを取れば徳になるのである。どんないやなことでも、心のにごりを捨てて勇んで引き受ける心が徳の心だ。いやなことでも、辛いとかいやとか思わないでやる、喜んで勇みきって引き受ける、働きつとめぬく、それが徳のできてゆく土台だ。ばからしいとか、いやだなあというにごった心をすっかり取って、感謝と歓喜で引き受けるなら辛いことほど徳になる」

常岡一郎さんは、自分のことは後回しにしてでも誰かのために自分を絞りきる実践をなさっていた方だったといいます。朝顔を洗おうと思いながらも、みんなのために朝起きてすぐに自分を盡していたら結局は夕方になって顔を洗うことになっていたといいます。しかしそうやって、みんなのためにと生きるからこそ勇心や勇気がでていたともいいます。自分のことを先にすれば毒になり、自分のことを後回しにすれば徳になる。毒と徳は紙一重の生き方の差にあるように感じます。

また常岡一郎さんは「運命の模様替え」という言い方をします。

「常に勇んで生きる人に天の心が動く。天の心が変わって後に、天命も天の恵みも変えられるのである。粗末な汚れた今日の運命の着物を着せられていても、燃えるような勇んだ心の持主には明日の美しい着物と模様替えされる。人の運命の着物は親なる神にまかせねばならぬ。泣いても、わめいても自分の運命は自分で頂かねばならない。逃れる道はない、明るいお礼心で迎え勇ましく働いて、模様替えの始まるまでつとめきるより他はない。」

どんな運命であってもいくらでも人は必ずそれを好転させていくことができる。それには燃えるような勇んだ心、つまり「勇気」だといいます。私も人生を省みると、痛くても前に踏み出す勇気、怖くても一歩を踏み込む勇気、その勇気があるから運命を受け容れることができその運命に従い自分を成長させてこれたように思います。

この勇気は決して、ただ闇雲に無鉄砲に突っ込めというような野蛮なものではありません。自分を後回しにしてでも、勇気を出して信念に従ったり、今まで頑固に執着している自分のことを手放して新しいことに挑戦したりするときの勇気だと思います。

私も先日から足を痛め、ずっと右足が前にでず階段が怖くて登れませんでした。あまりの激痛と、階段を踏み外したことへの心理的ショックが大きすぎて足が前に出ないのです。しかし、お客様の理念研修を実施するにおいて私が勇気を出さなくてはと前に足を踏み込んだとき勇気が出てすべてのことが打破されていきました。

人が変わるということは、勇気を出して行動するということです。

運命は勇気を出して足を前に出すからこそそこから景色が動き始めます。自分の保身や心配ばかりをしていて怖がっていても人生は好転せず、誰かのためにと自分を後回しにしてでも取り組もうとする勇気の時にだけ、福に転じていきます。

「思い切ったことをやる。すばらしい困難と取り組む。そこに自らの未熟さがわかる。力の不足がわかる。不徳がわかる。しみじみと自分の本体がさらけ出される。そこで反省も出来る。鍛錬に力がはいる。修養が真剣さをもって来る。何もしないで考えているのは人生のむだ遣いである。」

・・何もしないで考えているのは人生のむだ遣いである・・

生き方の指南として、「自分をふり絞れ=勇気を振り絞れ」という意味、「運命の模様替え」はいつも大事な局面で背中を押してくれるかもしれません。勇気を出していのちを遣りきるという今を生き切る姿勢を保ち続けるためにも、好奇心と創造力を信じて挑戦していきたいと思います。

 

 

生き甲斐と働き甲斐

人生は、「生き甲斐」を持つことで希望が現れ楽しくなります。この生き甲斐は、世界では「mottainai」や「kawaii」などと同様に「ikigai」として注目されているともいいます。

この生き甲斐は、生きるに値するもの、生きていくはりあいや喜びと辞書では訳されますが私の意訳では「暮らしの仕合せ」です。一日一生として、毎日を人生の大切な日であるとして初心を忘れずに丁寧に暮らしを営むことで生きる意味を感じる生き方のことです。

人は何のために生きるのかと突き詰めれば、どう生きていきたいかに出会います。どのような生き方をするかと決めれば、毎日はその生き方を挑戦できる尊い一日になります。それを初心ともいいますが、その初心を忘れずに生きれるのなら毎日は生き甲斐のあるはりのある一日を過ごすことができます。その日々の暮らしこそが幸福の源流であり、その中にある最中こそが本当の仕合せなのです。

そしてこの生き甲斐は、そのまま働き方に転換されていきます。働き方改革など世の中でいわれているもののほとんどは、働く手段や方法のことばかりを変えることをいいますが本来は生き方を変えることが働き方を変えることです。そして生き甲斐があれば働き甲斐が出てきます。

この働き甲斐は、日々の仕事の中にあります。

どのような初心を持ち、日々働きそして内省するか、それを繰り返すことで次第に働き甲斐が高まり豊かになっていきます。その豊かさは暮らしの豊かさであり、日々の仕事の中に自分の価値や意味、その大いなる目的を共に体験することで天職に気づいていくことです。

与えられたご縁はすべて意味があるものとして生き方を磨き、与えられた仕事もすべて天職として意味があるものにしていくことで働き方を磨く。そこで得られる生き甲斐と働き甲斐は自分が生きている、活かされている充実感を味わうことです。

「ikigai」「hatarakigai」は、日本人の持つ尊い文化です。

日本人の文化に支えられながら、暮らしを甦生させ日々を充実するよう初心と実践と内省を伝道していきたいと思います。

日本の文化

私たちは目には見えないけれど確かに文化というものを持っています。その文化は表層にはあまり現れていなくても、深層には確かに存在していて何かがあると顕現してくるものです。

例えば先日、都内で大雪が降ったとき多くの人たちがみんなで協力し助け合い雪かきをしたり道を誘導したり、声掛けをし合ったりといった光景を観ることができました。他にも大震災のときなど、みんなが自粛して行動したりみんなのために分け合ったりしながら助け合い思いやりの光景が観られます。

世界は報道などで、日本人のこれらの助け合い譲り合いの精神を垣間見ると大きな尊敬の念を抱いてくれます。その時、外国の人たちが観ているのはその国にその国民に流れる文化を観ているのであり、その文化の素晴らしさに感動されているのです。

この文化というものは、一朝一夕にできたものではなく長い時間をかけて繰り返し繰り返し、自分たちが大切にしてきていることを忘れないで生きてきた集積によって定着していきます。

言い換えるのなら生き方とも言えますが、先祖が何を大切にして生きてきたか、そして子孫へは何を大切にして生きてほしいか、さらには自分は何を大切に生きていくかということを自覚して人生を伝承していく中で伝統となってつながっていくからです。

私たちが災害時や有事のときに自然に体が動くのはなぜか、自分の中から優しい心や思いやりの精神が湧いて出てくるのはなぜか、それはひとえに先祖がそういう生き方をなさってこられたからです。それが文化として脈々と自分の中に備わって受け継がれていることに気づいたのです。

初心に気づくというものもまた同様に、自分がどのような生き方をしていくかはその伝統とのつながりの上に折り重なっていきます。人間の性が本来、惻隠の情や真心があるのもまた親祖の初心が自分に備わっているということなのです。

日本の文化を大切にするのは、自分自身の初心を大切にしていくことで守り続けることができます。決して伝統工芸や食文化だけが日本の文化ではなく自分自身が日本人である生き方を思い出し、それを伝承していくことが日本文化を守ることになります。

引き続き、子どもたちに日本人の生き方を伝承しながら誇りをもって日本の文化を伝道できるように精進していきたいと思います。

挑戦し続けること~オリジナルの維持~

人間は誰しも同じ人がいないオリジナルの存在です。しかし気が付くと、他の誰かになるように刷り込まれオリジナルの存在であることが消えていくものです。自分らしく生きたいと思う反面、それをする勇気がなく主体性を失ってしまっている人も多いように思います。

他人と違うことをすることを恐れるのは、勇気を出してオリジナルの自分を前面に出すことができないからです。そこには目には見えない、みんな同じでなければならないや、周りに合わせて従順でいなければならない、自分勝手なことは許されないなどのプレッシャーをいつも心身に浴びていることでできなくなります。

個性の発揮と自立や、主体性などのことで悩む人はみんなこの自分らしさというものを押し殺してきたことで悩んでいます。自分らしく生きていくというのは、他の人と異なることを恐れずオリジナルの自分の志望動機のままに生き方を貫いていくことができるということです。

アメリカ合衆国の詩人、画家、随筆家、劇作家のE・E・カミングスはこのような言葉を遺しています。

「朝から晩まで絶え間なく、とてつもない勢いであなたに他人と同じであることを強要するこの世界の中で自分らしくあろうということは、要するに人間が直面し得る最も苛烈な戦いを、休みなく続けるということなのだ」

受け身でいることに慣れてしまい少しでも油断すると、形状記憶合金のようにあっという間に気が付くと周囲と同じ形に作られた姿に自分を合わせていきます。周囲と異なる自分に不安を感じ、周りに合わせた優等生のような姿になることで安心してしまいます。そのように自分を信じず、他人に合わせた生き方ばかりをやっていたら、そのうち自分の本当の生き方が別のものにすげ換り分からなくなっていきます。そして生き方が分からくなれば、すぐに言い訳をして誰かのせいにしてそのうち自分が人生の主人公であることも手放してしまいます。

受け身であることはその時は安心で楽ですが、その後にやってくるのは中途半端な覚悟でやってしまったことによる後悔や悩みです。主体性というのは、誰かに従って指示されていわれてやるものではなく、言われなくても前に出て自分から自分らしくやってみたいと発信して勇気で行動していくことで磨かれていきます。

今の時代はそれだけ自分らしくいることを貫くことに勇気がいる時代ですが、よく周囲を見渡せばベンチャーの経営者や、アーティストや歌手、みんな自分らしく生きることをテーマに苛烈な戦いを休みなく続けていくチャレンジャーはまだまだたくさんこの世に存在します。

そういう私たちもまた、子どもたちの個性を見守り、子どもそれぞれのオリジナルの生き方を尊重して信じきることを理念にしていますから負けるわけにはいきません。だからこそ、この主体性を発揮するために日々に挑戦をして勇気を出して行動することは私たちの理念のテーマであり、実践もまたそこに根差しているのです。

最後に、オリジナルを貫き大きな勇気を世界に与えたココシャネルの信条を紹介し仲間に勇気を振り絞るエールになればと思います。

「今も昔も、最も勇気のいる行動といえば、自分の力だけで考えること。考えたら声を張り上げて伝えることよ。」

何のためにやるのか、本当は何かと考え抜いたなら、その自分の出した答えを最期まで信じ抜くのは自分の覚悟です。それが周りに流されず周りに合せず、本当の自分を大切にする生き方です。

引き続き、子どもたちの個性を守るためにも弛まずに怠けず叱咤激励して誰でもない自分自身と向き合いながら今に挑み続けていきたいと思います。

自然の姿~仏性~

先日、あるお客様のところの話でその方の座右について教えて頂きました。その座右は「人間は落ち込むときは自分の仏性が観えない、そして怒っていると他人の仏性が観えない」という話です。

この仏性とは、仏さまの性質や仏の本性と呼ばれるものですが仏教では山川草木悉有仏性という言い方をします。それを道元禅師は「山川草木、悉有は仏性なり。」と訳しています。つまりは、自然のすべては仏性そのものであるということです。

私たちは自然が観えるとき、もしくは静寂の中で自然を感じるとき心は穏やかで落ち着いているものです。しかし不安や怒り、落ち込むときは自分に囚われて執着していますから自然の音や声や姿が目には入ってきません。全体を観て視野が広く心が開いている状態のときは自然が観えても、この逆に自分の感情の中に入ってしまうと視野が狭くなり心を閉ざし何も観えなくなってしまうものです。

この不安と怒りの感情は表裏一体ですから、表に怒りが出れば裏に不安があり、不安が表にあれば裏には怒りがあります。そのどちらもまたはっきりしているのが不自然な状態になっているという事です。

不自然ではない状態を如何に維持するか、平常心を磨き如何に自然体で居続けるか、それが仏性の状態でいるということかもしれません。自然の姿には、怒りとか不安というものはありません。自然に生きるものは無心にあるがまま、つまりは自然のままの姿で生きています。

そこには運命を受け容れ、天命に従うというようにどんな状況に置かれていても必死で生きていこうとします。今に集中し、今を生き切っています。そんな心のままでいられるとき、人はもっとも仏性が顕現しているのかもしれません。

自分の目を曇らせているものは何か、自分の心を澱ませているものは何か、自分の執着を見つめてそれを手放していくことや、元来の生きる動機や初心を忘れずに心をなくさないように日々に内省を続けていくことであるがままの状態を維持していくことができれば自然と同様に自然に近づいていくことができるようにも思います。

人間は自然から離れていきましたから、余計に仏性のことが観えなくなっていったのでしょう。自分に囚われていないか、執着していないかと、自問自答しながら自省して自分を変えていくことは本来の心を守るための大切な仕組みの一つです。

子どもたちの心が見守れる大人であれるよう、実践を積み重ねていきたいと思います。

 

絶滅危機と自然回帰

最近のニュースではよく数々の生き物たちが絶滅したという、もしくは絶滅危機にあるという話が出てきます。それは自然災害に由るものも少しはありますが原因のほとんどが人間がバランスを崩したことによって生じたものです。

万物は絶妙な調和によって成り立っているのは知っていますが、人類は生態系の頂点にいますからその調和を崩すとどうなるかも同時に知っているはずです。宇宙には因果の法則がありますから、いつかは人類が絶滅危機だというニュースを見る日も遠からずやって来るかもしれません。その理由は、自分たちが投げたものが反ってきますからおおよその予想はできますが今からでも自然から学び直し自然を教師にしてやり直せば間に合うように私は思います。

それをあるオオカミの話から気づきます。

アメリカのイエローストーン国立公園で人間の手によって絶滅させられたオオカミが20年前に復活して森を甦生させたという話があります。日本では古来よりオオカミは草食動物から農作物を守ってくれる山の神、「大神(オオカミ)」と呼ばれていました。農作物を草食動物たちに食べられてしまうとすぐに飢饉に繋がったため、それを防いでくれるオオカミの存在は先祖たちにとっては非常にありがたい存在だったといいます。

欧米ではオオカミは人間を襲うからと、日本に来てそれを吹聴し乱獲によって国内のオオカミを絶滅させていきましたが本来は人間と共生して山を守り続けたパートナーであったと私は思います。

なんでもそうですが、その生態系の頂点にいる生き物たちは頂点にいる理由があります。それは自然の生態系のバランスを司るために、頂点に君臨するのです。しかし人類は生態系の頂点にいながらその逆をやろうとします。生態系のリーダーたちを皆殺しにしてバランスをすべて破壊していくような行為は自滅の道を辿ります。

自然を知らず自然から離れ、自然から学ぶのをやめれば物事は短期的にしか見えなくなります。例えば、目の前の人間が襲われれば即悪ですし、人間の食べ物を横取りされればすぐに敵にします。しかし本来は、長い目でみて大きな観点で自然と同様の目で大局をみればそれは人間のためであることは明らかにわかるのです。

子どもたちのことを思えば、自分のことだけではなく子孫たちが安心して暮らしていける世の中に少しでもしていきたいと願うのが親心です。私たちは知識があるのだから、もう一度自然から学び直してやり直す勇気が必要だと思います。

急に変えるのは抵抗があるかもしれませんが、子育ての原点回帰や自然農や古民家甦生や助け合いの文化など仕組みそのものを変えることも人類の挑戦につながると思います。

引き続き、自然回帰をお手本にして人間を信じて前進していきたいと思います。

 

熱とは何か

私たちは熱をもって体を温めて活動しています。当たり前すぎて日ごろはあまり考えないと思いますがこの熱があるからこそ私たちは生きていくことができます。それは単に物理的な熱だけではなく情熱といって私たちの内面から出てくる熱量のこともあります。この身近な熱について、少し深めてみたいと思います。

熱には主に3つの熱があるといわれます、それは熱伝導、熱伝達、輻射熱です。分かりやすいたとえでいうと熱伝導はカイロで手を温めたり、フライパンで何かを焼くなど直接その熱に触れることで熱が移動することをいいます。そして対流は、温風ヒーターやドライヤー、など空気を媒体にして熱が伝わる言います。

そして輻射熱は、炭火で火を熾したときにも周囲にいればあたたくなるように遠赤外線などの熱線により熱が移動することを言います。いくら冷たい風が吹いても太陽の光を浴びれば暖かく感じるのもこの輻射熱を浴びているからです。輻射熱は電磁波でもあり、遠赤外線といって体に良い影響を与える電気の波長を放つものです。

冬に体の血流が悪くなるのも次第に熱がなくなり体の液体の中の分子の動きが鈍っても、太陽の光を浴びればその輻射熱で分子の動きが活発になり健康になっていきます。この太陽の光の中には、単なる熱があるだけではなくいろいろな種類の波長の輻射熱が入っています。

これは先日、井戸水で書いたように水にもたくさんの種類があるように光にもたくさんの種類があるのです。

昔の暮らしを実践して気づくのは、熱にも多種多様なものがあるということです。蝋燭の火から出る光と、炭火で出る光、木を燃やして出る光も太陽の光も月の光も同じ光は一つもありません。また季節が変われば光の種類も変わり、同時に輻射熱や遠赤外線の熱の種類も変わるのです。

私は夜は静かに蝋燭の火でクールダウンしたり、朝は早起きして火鉢の炭の近くでこうやってブログを書いていますがその光を浴びることで体調や波長を整えています。

私たちも熱と波長をもち、言い換えるのならその熱によって光の波動を出しています。それが導通したり響き合ったりして熱量を熾しているのです。人間関係も同じく、熱量の高い人が冷めている人に熱量が移動します。もしもみんながそれぞれの光や熱量を高めることができればその輻射熱によって周囲の波動も波長も響き合い伝道伝達していきます。

人間でも太陽のような暖かさを持つ人は、その熱や光は周りを暖めていくものです。

私がとても今でも興味があるのは炭の持つ波長で、その波長はとても穏やかであり静かなものです。心が落ち着き気持ちが沈み静かになるのは、この炭の波長を感じるからです。

炭が癒しになるのは、そこから出ている遠赤外線や波長が低周波であり低姿勢であるからです。私たちは低い波長を感じると、次第に穏やかになるのです。このゆったりじっくりと丁寧に火を燃やしていくということ、そこに呼吸を合わせて息を吹きかけて火を熾していくこと、そのすべてに自然と一体になる熱の不思議を取り入れているのです。

まだ水も火も土も科学では証明されていない不可思議なことに包まれています。それを私は感覚によって使い分けできますし、直観によってそのものの観えない力を感じる取ることもできます。人間には元来、自然物ですからそういう観えないものを観える力が備わっているということです。

熱はまだまだ魅力がいっぱいです。引き続き熱を深めながら、子どもたちにその熱量や波動を伝承していきたいと思います。

 

 

ニーズと真の豊かさ

時代の変化とともに人々のニーズも変わっていきます。それは仕事でも同様にかつてはお客様のニーズだったものが時代が少し変われば環境も変わりますからニーズもそれによってすぐに変わっていきます。

相手のニーズは何かと感じる力は、変化への順応性でもあります。そのためには相手の話を聴いて相手の立場にたって物事を考える訓練が必要になります。人は我が強すぎると、自分の視点や観点だけを相手に押し付けるばかりでニーズを考えなくなってしまいます。

もしも相手が自分だったらと考えてみれば、自分にどのようなことを求めているかが共感できるからです。それを相手と話し合っていくうちに、お互いの協働が合わせやすくなります。

昔のように物がなくサービスもなく、ニーズが分かりやすかったころにくらべ物が溢れほとんどのことがお金で手に入るようになった世の中においては複雑になっていますからより潜在的なニーズをつかむ必要があります。

それは表面上のニーズではなく、万物根元に共通するニーズのようなものです。たとえるのならば心や魂から求めているニーズのようなものともいえます。

それは初心であったり生き方であったり、何のために生まれてきて、どんな人生を送りたいかのような万人に共通するニーズのことです。日常の生活で出てくる不満や障害からのニーズで満たされやすいものですが実際はそういうものが消えれば潜在的ニーズが出てきます。

これは怪我や痛みがもっとも痛いところが治ってくると他の個所の怪我の痛みが出てくるように深いところの痛みは気づかないだけで誰しもが抱えているものです。

初心や理念といったものも同様に、生き方ですから本当にその人が心から願い魂から渇くようなニーズは真の豊かさに直結しているように私は思います。

引き続き、理念や初心伝承の仕事を通してその人の自己実現から周囲の子どもたちへのお手本になる生き方を伝道していきたいと思います。

多様性こそ変化

多様性というものは、その土地の気候風土によって彩られていくものです。世界の国口にいけば、その土地の食べ物や建物、そして人の種類や生活環境すべて異なっているのは一目瞭然です。日本国内であっても沖縄から北海道まで、少し山を越えるだけでも生活環境も雰囲気も異なるのはこの気候風土の影響があるからです。

私たちは適応能力といって、環境に順応する力が備わっています。これは簡単に言えば環境の方を変えずに自分の方を変えていく力のことです。自然環境や風土が変わりませんから、進化の過程でたとえば寒さに強くなったり、乾燥に対応できたりと、その気候風土によって自分自身の耐性を高めていくのもその一つです。

人間には気候風土に適応できないからと自分に合った気候のところまで移動し続けた民族と、その場に留まり智慧を働かせて気候風土に従い適応してきた民族とがあるともいえます。

私たちは潜在的にあらゆる環境に適応できる能力があり、その能力を磨くかそぎ落とすかで自分を適応させます。自分の中にある能力のどの部分を遺すか、磨くかはその人の生き方が決めます。

世界はグローバリゼーションの名のもとに、どんな場所でも快適で便利な環境を生み出してきました。それは言い換えれば、自然に順応するのをやめて自分たちの都合のよいように環境の方を変えてしまおうとする考え方です。この考え方は多様性ではなく画一的に世界中を自分たちにとって快適な環境に換えさせるということです。自分たちが快適になる分、他の生き物たちにとっては不便で劣悪な環境になっても気にしないとしていたらそのうち因果応報で自分たちに投げたものが反ってくるように思います。

多様性の本質は、気候風土に適応し自分たちを変え続けることで発揮されます。自分以外の何かを変えようとする便利な生き方を見直し、自分自身を変えていこうとするところにお互いの持ち味を活かし合う相乗効果も発揮していけます。

引き続き、多様性の豊かさを味わい自分自身を変え続ける努力をたのしみたいと思います。