似て非なるもの

この世の中には似て非なるものというものがたくさんあります。例えば、本物には決して足さないような添加物を入れたり、作り方も正直ではない効率や小手先の技術で胡麻化すようなことをしたり、文章や宣伝、広告で過剰に悪いところを除いてさも本物のように表現したりしている偽物と本来の本物は同じものではありません。

しかし今の時代は、偽物が本物に挿げ替えられ本物はさも偽物のように表現されています。これは偽物でも、大勢の人たちが買うものが本物であるといった経済詐欺の仕組みが世界全体の価値観に浸透しているからです。民主主義といったものの、その実態は大勢の民衆が正しいといえばあるいは信じたのであればそれは本物であるといった刷り込みにほかなりません。

環境の影響で刷り込まれれば、似て非なるものがわからなくなります。何が本物で何が偽物かがわからないというのは、致命的な感性や感覚のズレを起こします。つまり事実まで歪められるのです。

この偽物を本物にする技術というのは、現代病の最も大きな根本原因になります。そしてこの現代病を推し進めてきたものが金融経済、あるいは現在のマネー資本主義です。

本来は、事実や実体というのは嘘がないものです。むかしから自然と共生していたころに発明された道具をはじめすべての物は正直に自然にできていました。自然物を用いる技法は、本物です。しかしそこに、まったく別のものを持ち込みそれを本物の代わりにしました。わかりやすいものでいえば、畳などもイグサを育て用いて編み込んで藁をいれてつくるものが今では合成のプラスチックとスポンジをいれて商品名はカビの出ない畳としてホームセンターで「畳」という名前で売られています。隣に本物の畳が置いてあるのならまだしも、もう商品の陳列コーナーにはこのプラスチックの畳しかありません。

それを購入する人は、安くて便利で畳だからとマンション向きのこの畳風のものを畳として認識して子どもたちに教えたりします。そのうちこの似て非なるものが本物になるのは時間の問題です。

こういうことは果たして罪ではないのかと私は思います。それなら別の名前にしてせめて畳風プラスチック床や、もう畳という言葉をいれずにカビのでないマットでもいいのではないかと思います。それに畳という言葉をいれて、畳という商品で販売する、そして購入者もそれを畳として認識して使うというのに問題があると思うのです。

これがOKとなるのなら、マグロでもマグロに切り身が似てればマグロにして、お米もお米風の別の種でもお米に似てればもうお米でいいとなり、そのうち見た目さえ似ていれば全部本物みたいに規制も緩和し企業の利益優先でどんどん無法状態で勝手に宣伝して教育していたら文化など一瞬で滅んでしまいます。

子どもたちの未来のことに対する責任として、社会や教育に関わる人は最低限で絶対的にこの似て非なるものの環境からまず何とかしなければならないのではないかと私は思います。環境が人をつくるのだから当然、環境をまずなんとかするのが真の教育者ではないですか?皆さんはどう思われますか?

私の親しい覚悟をもった伝統職人たちをはじめそれぞれの仲間は誇りをもって本物を保っています。彼らこそ真の教育者です。もちろん現代の発明や道具は時代に合わせて用いますが、●●風にはしないように特に厳格に生き方を常に反省して日々に注意して克己復礼して取り組んでいます。

仲間たちと共に、本物を次世代へと譲り徳を守っていきたいと思います。

徳を積む生き方

アメリカからの懐かしい友との話の中で「発酵道」につて語り合いました。もともと酒蔵、寺田本家の二十三代目の当主、寺田啓佐さんと親しかったこともあり色々と生前のことをお聴きしました。

私はどこか生き方が似ているところが多いようで、共通点がたくさんあります。微生物についても、むかしからずっと親しくしていてお漬物などの発酵食品づくりをはじめ、自然農の田んぼや畑、また会社経営にもその発酵の仕組みを取り入れています。

自然界は腐敗と発酵というものがあります。しかしこれは腐敗VS発酵ではなくどちらも大きな意味では発酵です。腐敗も自然界に循環するための大切な発酵の一つということです。しかし人類にとって悪い作用を施すのを腐敗と呼んでいるのです。実際には、腐敗も一つの浄化作用ともいえます。この辺になってくると、どれが善い悪いではなく愛と調和の話になってきます。

発酵道のなかでもその辺はよく語られています。以前、俳優の窪塚洋介さんが私のいる聴福庵や場に来られたとき私の実践する「腸活」の体験をしていただきました。諸事情があって彼の番組にはなりませんでしたが、腸が活き活きしすぎて大変なデトックスになったととても喜んでおられました。本質的に腸活になったこと、発酵の一期一会になったことを覚えています。

もともと私はこれらの実践を発酵という言い方ではなく最近ではもっぱら「徳」という言い方をします。私にとっては発酵=徳という定義です。発酵について、寺田啓佐さんはその著書「発酵道」でこのような言葉を遺しています。

「それは決して嫌々やっていることではなく、微生物にとってそうすることが快くて、自分の好きなことをしている。そして、楽しく働いている。私には、そう感じられる。生命のおもむく方向へ、自ら進んで行っているのではないかと。きっとそうやって自分らしく生きることが、微生物にとっては自然なのだろう。まさに微生物というのは、本当の意味で自分のために生きている、「自分好き」なのだ。こうやって微生物の世界をのぞいているうちに、生命のおもむくまま、「自分にとって最も快いことを選択していく」ことが、実は自分を生かす最良の生き方なのではと思うようになってきた。」

ここからわかるのは自分の喜びそのものが全体の喜びになっているのが発酵ということです。そして自分が好きなこと、喜びになることに専念している、その自分自身を深く愛しているからこそ自立して自由にこの世界を素晴らしいものにしていく生き方となるというのでしょう。

これが発酵する生き方、私にすれば徳を積む生き方のことです。

自他を活かす、全体快適に生きる、まさに嬉しき楽しき有難きという仕合せないのちの響き合いです。酒造りの智慧は、生き方の智慧ともいえます。日本酒がなぜ神様の大切な供物の一つなのかはここからも気づけます。

今年はお米のことに深く関わる機会をたくさんいただいています。何よりもかたじけなく有難く思います。引き続き、徳を精進していきたいと思います。

自然体の生き方

昨日は、2年ぶりに故川口由一先生の自然農の田んぼにお伺いしてご供養をさせていただきました。今でもこの場所に静かに腰掛け佇んでおられるような気配が周囲に薫り、「ああ、野見山さん」と優しく爽やかに語りかけてくる声が心に聴こえてくるようでした。

いつもお会いするときは、私の近況のことや取り組んでいることに真摯に耳を傾けてくださりお土産話に花を咲かせその意味を深めてくださっていました。また真善美について、学んだことや体験したこと、すべて自然に照らし合わせてその叡智や知恵を語って見せてくださっていました。

正直で飾らず穏やかで和やかで安らか、その深い優しさからにじみ出てくるお人柄が大好きで心から尊敬していました。お会いするたびに先生の後ろ姿からは、いつも自然体の生き方を学び直していました。奥様も陰ひなたから見守ってくださり、以前までお元氣であるときにご馳走していただいた親子丼の味が今でも心に忘れることはできません。

いつも何が自然で不自然か、そして自然とは本当はどういうことをいうのかということをその生きざまから伝承してくださっていました。「一つの種がでて、その種が芽吹き、成長し花を咲かせ実をつけ種になり、枯れて斃れて新たな種が芽吹いてくる。」そんな当たり前のことを、ごく自然に当たり前に信じてただ一人の道を歩んでおられる先生に恥ずかしくないようにと私も田んぼに一人で立てる人間になろうと覚悟し、ここまで歩んでこれました。今でも迷いが出たときには、一人で田んぼや畑に立つようにその場所で一人立ち覚悟を見つめ直しています。志と革命は、常に裏で一人です。

墓前にてそして先生からいただいた美しい真心の光は、私の心田の中にしっかりと透明に光っています。このいただいた光を水に静め、私の光に換えてさらなる新たな宇宙へと発光させていきたいと改めて誓いました。

今、振り返るとお会いしてからずっと先生と一緒に自然の中にいました。今の私の周囲の自然のなかにも音の中にも先生の自然を感じない日はありません。それくらい自然の生き方の道に、導いてくださっていたことを思い改めて感謝がこみあげます。

「無為自然、いのちが光り輝く自然農、種は空の彼方に、花はこの心に、まきむく未来へ結ばれる。」

一期一会のご縁に心から感謝しています、その感謝に報いるためにも自然の生き方の続きを私も磨き続けます。引き続き風に吹かれて次の章へと喜び勇んで邁進します。

これからもよろしくお願いします。

徳の周波数~暮らしフルネスの智慧

今、私は水鳥が飛来してくるような場所に住んでいて朝から様々な鳥の鳴き声が聞こえてきます。特にこの時期は、繁殖期でもありとても賑やかです。また耳を澄ますと小さな虫の羽音や植物の葉が風で擦れているような音も聴こえます。池の周りを歩いている人の話し声、車が通りすぎるエンジンやタイヤの音もたまに混ざります。

夜中にふと目が覚めるとそういう音は聞こえてきません。ただ、頭の中に響いているようなキーンという一定の響きだけが聞こえてきます。無音というものはそう考えてみるとありません。そして周波数もなくなることはありません。それはすべてのものは音を発しているということになります。

そして振動というものがあります。二つ以上の周波数が混ざり合って振動するというものです。音楽などはあらゆる音が振動して共鳴することで成り立ちます。鳥がお互いに鳴き合っていたらもはやそれは音楽ともいえます。

また地球上にあらゆる音が流れるとそれも音楽です。海の音、太陽が昇る音、風の音や地震、雷や雪などあらゆるものが自然の音を奏でています。周波数というのは、その存在そのものを顕現するように思います。

これはどんな周波数だろうかと私たちは音を聴きます。それは対話でも同じく、場を味わうときも同じです。そこに流れている周波数を通して、そのものの正体を察知することができるのです。

ある意味、すべての物質も周波数を常に奏でています。そして同時にそれが集まれば振動となります。どのような共鳴をするか、どのような調和をするかは、その周波数を感じる人によって調整、調律されるのです。

私は、手で調整や調律をします。それをお手入れともいいます。一つ一つのものを手で触り、それを磨き調えて適切に配置してそのものがそのものであるように、そして持ち味が活かせるように配置していきます。そのものがもっとも喜んでいるとき、喜びの周波数が出てきます。その喜びの周波数を自分が同時に喜んでいるとき、そこに徳の周波数が発生します。

徳の周波数を大切にすれば、人はその徳に目覚め徳の素晴らしさに感動するのです。引き続きこの知恵を子孫へと場を通して伝承していきたいと思います。

墨の智慧

昨日は、英彦山の守静坊で8回目の仙人苦楽部を行いました。今回は山水画の仙人でしたが4時間ほどの知恵を共にしましたが深い体験ができました。参加した方々はみんな山水画ははじめてでしたが、そのどの画にもその人らしさをはじめ場で得た境地を拝見することができました。

最初は仙人からの山水画とは何かという話にはじまり墨の濃淡のこと、筆の持ち方、そして画き方などの基本についてのお話をいただきました。とても謙虚に、山水画の楽しみや喜び、画の持つ妙味を全身でお伝えいただきました。

そしてみんな画への苦手意識など全く気にならず、それぞれが没頭してテーマに対して楽しく集中して画き楽しみ喜びあいました。守静坊英彦山の場の力もあり美しい新緑の光や風に見守られ一期一会の山水画のお時間を過ごしました。

また仙人がライブでこの英彦山と守静坊と仙人を即興で画きあげてくださって、その雰囲気にみんな深く魅了されました。

私たちは画いてみるときはじめて深く観察します。ただ見ているのと観ているのとではまったく異なるということ。そして美しさや自然というものを感じるのは、相性がありその相性そのものを通して和合していく豊かさ。さらには、現実にこだわらず理想を自由に画くことの大切さなどの素晴らしさを学び直すことができました。

私は炭大好きですが、この墨も同様に深く愛しています。この墨が画く濃淡には、火の心があります。この火は、消えているようでも墨に残存しているものです。その火を、水で濃淡を調整してそこにいのちを宿します。まさひ火水(カミ)の業です。墨はその神がかる力があるのを直感します。

この墨を用いて画くものは、私にはとても相性がよさそうです。これから少しずつ仙人から学んだ知恵を掘り下げて、場をさらに磨き上げていきたいと思います。

ありがとうございました。

新たな種~第二創業

創業という言葉があります。これは事業をゼロから創ることです。そして第二創業というものがあります。これは創業して成長し成熟し、そして衰退するときにまた新たな種を蒔き芽を出しまたゼロから成長していくときの節目のことです。

宇宙のなかで地球に住むとこの場所の摂理というものがあります。それは重力や引力があるのも、陰陽がありバランスをとるのも、また呼吸をして水を循環させいのちを保つのも「最初から決められて存在している」ものです。これを「自然の摂理」とも私たちは呼びます。

その自然の摂理の中に、種から芽が出て成長し花や実をつけて枯れてまた新たな種になるという循環があります。私たちが赤ちゃんで生まれてから成長し老化して死に至ることも摂理でありそれは最初から決められているものです。地球が丸いことも、水に包まれていることも、太陽との距離が一定であることも月が傍にあるのもこの場所が持つ摂理です。

摂理というものは、いちいち逆らっても仕方がないのでその中で私たちは最善の体験をして摂理を学びそれを活かし、いのちを繋いでいきます。植物も年々同じ四季を迎えて同じ成長をしているようですが変化し続けているものです。天候、気候も変わり時も経ち周囲の循環すべてが微妙に変化していますから同じであることは不可能です。その同じではないことに対して、どんなものでも小さな変化を続けていきます。それが成長の本質でもあります。

摂理にはサイクルがあり、また新たに生まれ変わるような状況を意図的に創り出します。それが死というものです。ある意味では、私たちの生死とは摂理の中で創り出した自然と共に永続して生きるための最善の智慧であり仕組みです。

そしてこの生まれ変わりというのは、実は日々に発生しているともいえます。毎日、夜寝て朝起きては細胞をつくり毀し新しい自分として甦生させます。これを繰り返していくなかで老いて死ぬまで細胞分裂を繰り返します。そのうち別のいのちと和合して新たないのちを産み出します。それが赤ちゃんです。子どもは瑞々しい産まれたての好奇心を発揮して新たな環境を創り出すのです。それが創業のサイクルです。

永続している老舗やまだ数十年ほどの会社であってもこの創業のサイクルは発生しています。そして自然の摂理に沿ってまた新たに生まれ変わるのです。自然に逆らえばそのまま終焉を迎えます。それだけ自然というのは、循環することや永続することを最も大切な摂理にしているのです。終わることは最初からないということです。終わるのは私たちが摂理に合わせて終わらせているのです。

そう考えてみたら有難いことに第二創業というのは、それまでのいのちが充実して結実し新たな種を創るところまで時間も経験も醸成したということの証です。何もなかったところから、志に導かれ目的を定め理念を磨き、仲間を集め、形として顕現するところまで生育して成長して終わるのです。いわば、次の種を創れるところまで成長してきたということです。

一つの種ができるためには、大切な時間といのちを使う「思いの醸成」が必要でした。種はちゃんとこの思いの醸成という自然の摂理を通らないとできませんから種が新たにできたというのは思いの結晶が誕生できたということです。

その結晶を軸に、新たないのちの芽を出していくのが第二創業です。不易と流行という言葉もありますが、変わらないものを持っているからこそすべてを変えていくことができるのです。つまり摂理が変わらないからこそ、我々が変わっていくことができるのです。世の無常というのは、歴史を鑑が観ても明らかです。人の生死のように摂理はいまでも揺るぎません。新たな門出に、感謝の気持ちがこみあげます。

ここ数年取り組んでいる修験道でも、山伏が峰入りするのは擬死再生や母胎回帰の通過儀礼を意味しますがある意味、第二創業にも似ています。生々流転していくことは仕合せなことであり何よりおめでたいことです。

昨日は、カグヤのクルーたちと共に百年自然酒を酌み交わして予祝をしました。いつも善いご縁、善い仲間、そして徳に包まれて有難い時を過ごしています。

この機会をいただけたこと、そして新たないのちが誕生していくこと、摂理と共に永続していく喜びに感謝しています。子どもたち、子孫たちに徳が譲り渡されていくことを信じて新たな種と共に社業を邁進していきたいと思います。

暮らし=生き方

昨日は、千葉県神崎市にあるカグヤのむかしの田んぼで視察研修を行いました。この田んぼは、取り組みだした13年前から一度も肥料も農薬も入れたことはありません。しかしある研究機関がお米を分析調査していただくと、非常に抗酸化力が高いと驚かれました。また味も美味しく、お米好きな人や本物好きな方にとても好評です。

何か特別な農法をしているのかとよく聞かれますが、実際にやっていることといえば、社員みんなでお田植祭や新嘗祭などをしご縁に感謝して楽しく取り組んでいるくらいなものです。

福岡県飯塚市でも伝統の在来種の高菜を自然農法で育てていますがここもまた同じく肥料や農薬を一切使っていません。しかし市販の高菜と比べたら、味も複雑で濃く、同時にピリリとした辛みと野性味があります。虫にもほとんど食べられることなく、見た目の元氣さも特別です。

ここも特別な栽培方法をしているわけではなく、家族で多少の草取りと作業しながら美味しいご飯を畑で食べたり、音楽を聴いたり歌ったりしながら楽しみ有難い時間を過ごしているくらいです。

現代は、すぐに収量を余計に気にします。それは儲からないからです。大量につくれば多く稼げます。しかしその大量を優先すれば、大量になるような農法をしなければなりません。そこから様々な欲望が芽生えていきます。一緒に育つ大切なパートナーを儲けのためだけに利用するようになるのです。

これは養鶏も養豚も養殖なども同じです。餌に何かを足し、抗生物質などの薬を投与し、大量に育てては安く販売していきます。世の中の経済の在り方が、そもそも安く大量にを推奨してきましたからみんなそのことには疑問にも思いません。いいものを安く買えるのは正義のようになっています。それが現代では、人間にも同様なことが発生して安くて大量な人材ばかりをつくろうとします。

そもそも私たちのご先祖様たちが取り組んできた理想の姿を見つめていると損か得かとか、利益があるかないかではなく、常に「生き方」というものを大切にしてきたことがわかります。

今でも見事な風土や貴重な在来種の種が大切に残っているのは、その種を守るために自分の生き方を磨いてこられた人たちがいたからです。特に何百年や千年を超える老舗を見学するとその磨かれてきた生き方が随所に垣間見ることができます。彼らは、単に儲けのために材料を利用するのではなく、今でも生き方を守り感謝して代々の願いや祈りを伝承して味わって暮らしているのです。

私が「暮らしフルネス」にこだわるのは、生き方にこだわるからです。暮らしをどう定義するのかは色々とあるでしょうが、私にとっての暮らしは生き方です。暮らしを換えるというのは、生き方を換えるということでそれは人生を換えるという選択です。

どのような人生を歩んでいくかは、その人が決めることができます。何を大切にするのかを判断するかは、まさに日々の生き方が決めていきます。時代が変わっても、生き方はそれを伝承していく人たちによって結ばれ繋がり永遠です。

いい土を遺してくださった存在や、いい種を繋いでくださった先人、そういう有難く温かい真心をいつまでも継いでいきたいと思うものです。現在、お米のことを深めてお米を甦生していますがお米には何かそういう先人たちのいのりを感じます。

子どもたちの未来のためにも、暮らしや生き方を見つめ直していきたいと思います。

タイミング

私はいつもタイミングに見守られて不思議な体験をすることが多くあります。その体験は、その時に今しかないことが発生しそこから示唆を受けることしかないからです。何の意味のないようなことであっても、意味はあり、その意味が教えてくださったことに導かれて歩んでいると次第にタイミングが合ってくるのです。

これを私は一期一会ともいい、ご縁に活かされた人生とも呼んでいます。

久しぶりに鞍馬山に来ています。先週からずっと英彦山でしたが、よく考えると20代の後半からずっと鞍馬山と英彦山の往復をしてきました。何回、往来したかも覚えていないほどです。しかしどちらも天狗がいるお山で、教えがあるお山です。お山という存在を認識したのもこの二つのお山を往来するなかで体験したものです。

このお山というのは、単なる岩や土が盛られたところではないことは誰でもわかります。お山にもいのちがあり、ずっと場が生きている存在です。これは地球としてもいいし、太陽などの星といってもいいものです。生きているというのは、確かな意味を持って存在しているということでもあります。その意味は、自分との関係性や結ばれ方、つながり方で認識し直観するものです。

そしてそれを理解するのは先ほどタイミングというものがとても大切な要素になっていると私は思います。なぜこのタイミングでこの場にいるのか、そういうものを深めていくと自分に確かな意味があることに気づくからです。

私は鞍馬山の御蔭で、いのちというものの存在に深く気づくことができました。そしてそのいのちが輝くということの意味を学ぶことができました。現在世の中では多様性とか公平性とか色々といわれますが人間社会でいうそれと、自然界や宇宙などでいうそれは意味も異なります。

私が鞍馬山で学んだことは、もともと最初からこの世にあったものについてのいのちの存在です。私たちが人間として今、文字や言葉で認識するずっと以前からいのちというものは存在してきました。

そのいのちは、自分の周波数や波長、あるいは意識を変えることで認識することができるものです。それは人間様になっているような現在の環境ではなく、ひたすらに謙虚にいのちと向き合うことで観えてくる境地です。感覚を研ぎ澄まし、徳を顕現しては今というタイミングを生ききること。

そういう生き方の集積によって少しずつ、意識は変容していくように私は思います。そしてそれもまた場数によって変わります。運のいい生き方というのは、出会いやご縁を大切にする生き方でありそれはタイミングの妙を片時も忘れない生き方でもあります。

またこの場にこれたことに感謝しています。善い時期にこうやって導かれ呼んでいただけるのことに天意や神意を感じています。今日も一期一会のタイミングを生きていきたいと思います。

不老長寿の薬菓子

昨年から英彦山の不老園を甦生して本草学を深めていますが、その不老長寿を今の時代に復古起新するために色々と試みています。今回はご縁あってカカオに注目してその効能などを組み合わせています。

今では薬ではなくお菓子として定着したチョコレートですがこれはもともと紀元前2000年前のメキシコでは「神様のたべもの」として非常に大切にされてきました。

もともと「カカオ」という言葉の語源はマヤ語の「カカウアトル」が変化したものです。

このカカオ豆は貴重で 赤道を挟んだ南北緯20度以内のアフリカや中南米、東南アジアなどで栽培されていますが実になる花の割合は200から300に1つしかとれません。とても効率が悪く高価になるのもそのためです。

このカカオは種子の果肉を食べるのですが、とても苦いものを苦いままにこのまま食べたり、焼いて煎ったりすりつぶしたり、水に溶かしたりして飲んだりしていたそうです。それがヨーロッパに伝来したときに砂糖を入れて飲むようになりました。いわゆるカカオドリンクです。その当時も大変貴重で裕福な人や王侯貴族しか飲むことができなかったそうです。

効能は、不老長寿、疲労回復、滋養強壮など多岐に及ぶといわれます。最近でもカカオの種子には多量のポリフェノールがあり強い抗酸化作用をもつ食品として注目されています。

新しい不老園に参考にしたのは、16世紀のアステカ文明のときにこのカカオ豆をドロドロになるまで溶かしさまざまなスパイスや香料と混ぜて「不老長寿の薬」として飲んでいたという伝説です。英彦山の不老園と共通するのは、あらゆる効能を含む薬草や種子を飲むという伝承があったからです。

現代では薬ではないカカオですが、先ほどのポリフェノールの他にもテオプロミンといった脳を調える効果があったり、食物繊維で肌荒れがなくなったり、ビタミンやミネラルも豊富でのどの炎症、胃潰瘍、食欲不振、解熱、デトックス、また恋愛ホルモンと呼ばれるフェニルエチアミンも含まれているのでまさに薬として観た方が効果があるように思います。

今の時代は、薬とお菓子の違いもちぐはぐになっていてむかしの人たちが本来どのようにそれらの食べ物を暮らしに取り入れていたのかも忘れ去られています。暮らしフルネスを実践するなかで、今の時代でも普遍的な意味が変わらないように変えるところは変化して今の時代の価値観でも本質が実感できるように宿坊とともに甦生させていこうと思います。

今度の英彦山守静坊でのサクラ祭りに初お披露目の予定です。

子孫たちへの誇りと先人たちへの配慮を忘れない温故知新の甦生を実践していきたいと思います。

本草学の伝承と甦生

本草学という学問があります。これは元々は古く中国で発達した不老長寿その他の薬を研究する学問のことです。日本には奈良時代にこの学問が伝来したといわれ、江戸時代が最盛期だといいます。この本草は木と草のことを指しますが、古来薬用植物だけでなく薬として用いられる動物や鉱物などの天産物として薬用があるものがほとんど記されていました。

日本にある最も古い本草書は、701年の中国の古典『新修本草』といわれます。そして江戸に入り李時珍の『本草綱目』があり、そのあとは私の故郷の偉人でもある貝原益軒が江戸中期頃に『大和本草』を出版しました。これは貝原益軒が79歳の時に一生をかけて本草、名物、物産について調べた結果をすべてまとめたものです。そしてもう一つが同じく江戸時代中期の百科事典『和漢三才図会』です。これを著したのは大坂の医師寺島良安で、師の和気仲安から「医者たる者は宇宙百般の事を明らむ必要あり」と諭されたことが編集の動機であったといいます。もともとは中国の明の王圻による類書『三才図会』を範とした絵入りの百科事典で、約30年余りかけて編纂されたものを参考にしたものです。江戸時代がどれだけこの本草学が充実していたかがよくわかります。これに蘭学が加わり、明治に入るころには植物学・生薬学として受け継がれたといいます。

明治や大正の頃の博物学者、南方熊楠もこの和漢三才図会を前頁書き写したともあります。今の時代のように簡単にプリントアウトできない時代は、一つ一つ手作業で模写していたことを思うと学問への姿勢そのものが違うようにも感じます。

古来からの本草学は、神仙思想と合わさり不老不死を求めてきたものです。英彦山の不老園の歴史を調べると、この本草学の影響を多大に受けていたことがよくわかります。信じられないほどの長い年月を薬草の治験や実証実験を幾度も幾度も繰り返し、そして自然の篩にかけられて改善して磨かれたものだけが残っていきました。

まさに伝統と革新の集積そのものがこの本草学であることは間違いのない事実です。先日からスリランカのアーユルヴェーダ省の大臣も来日され、お互いの国の伝統医療の話など色々と意見交換をしましたが日本の誇る本草学をもっと学び直していきたいと感じる機会になりました。

これだけ研ぎ澄まされてきた学問が、明治以降は残念ながら西洋化の波を受けて失われていきました。これでは先人たちの努力や遺徳への配慮があまりにもないようにも思います。微力ながらこの本草学を私なりの暮らしフルネスの実践で甦生して、多くの方々に本来の日本の薬草の知恵を伝承していきたいと思います。