人間の意識

昨日は、早朝から有志で英彦山の守静坊周辺からお山のお手入れをやってみました。大地の再生の仕組みを学び、自分たちでまずは自然に触れてまず実験と実践をしてみようとする試みです。

まず驚いたのが、先日矢野さんが来て診ていただいたところにモグラが来て土をほぐしてくれていました。きっと循環がはじまった場所にミミズが集まり、空氣や水脈の通りがよくなりそこにハタラキが活性化したのでしょう。

他にも宿坊の横に流れるお水が安定して綺麗に流れていたのと、この一帯だけ心地よい風が通っていたのが印象的でした。

定点観測や経過観察によって、はじめて自分たちの関与で自然がどのようなハタラキをしてくださっているのかが学べます。自然の有難さというものは、非常に尊いもので人智を超えたものがあります。

自然に対し人間が触れるところなどは果たしてどれくらいあるのかと改めて氣づかさられるものばかりでした。有志達との振り返りでは、それぞれに新たな発見や氣づきも多く、心地よい疲れとみんなの自然への眼差しに心身が癒されました。

実験や実践の面白さというものは、自然から學ぶ醍醐味でもあります。

和樂の「むかしの五穀田」でも同様に、自分が自然に対して敬虔な気持ちで謙虚に関われば関わるほどに自然は多くののもの見せてくれ日々に学び直すことができます。生き物たちは素直に自分の関与に対して応対してくれます。

これは「意識のつながり」ともいえるものかもしれません。

ここ数年ほどお月さまのリズムで暮らしを調えていますが今朝も美しい月が応対してくれていました。同じようにそこに在るものであっても、自分の意識が在ると思っていなければ出会うことはありません。

まさに周波数や波動のように縁起は、意識や関係性の中で結ばれているものです。

お山に対してどれくらい深く敬虔で謙虚な氣持ちで関係性を結んでいくか。お山の暮らしがどれくらい身近に感じられているか。

これから毎月、満月の日には有志で集まり遊行とお山のお手入れの実験と実践を続けていくつもりです。来月は27日(日曜日)に実施します。

ほんの微細な力であっても自然のハタラキは、その真心に感応して応対してくださいます。大切にしたいという人々の意識や氣持ちに応えてくださいます。

流域を創ってくださる英彦山へのご恩返しやお水を守ることも、木々を守ることも、そして生き物たちの暮らしを見守ることもまた一人ひとりの「人間の意識」からはじまるものです。

丁寧なお山の暮らしを通して、英彦山から日本全体が快復していくように場を調えていきたいと思います。

山武志の生き方

今日から英彦山で大地の再生の仕組みを使って宿坊周辺からお山のお手入れをはじめます。先人たちがやっていたように、もう一度、お山の暮らしからお山全体で起きていることを通して地球全体のことを洞察していきます。

自然は末端で行われていることが全体になり、全体は末端に現れるともいいます。以前、末梢血液を診断する治療を受けたことがありますが血液の先がどのようになっているのかを顕微鏡で観察すると自分の体内の血液にどのような汚れなどが溜まっているのかなどを見る機会がありました。海のゴミのように流れ着いたどころのゴミが健康状態を知らせます。

現在は、1950年ごろに人工的に開発された化合物、PFASの影響で環境が汚染されています。このPFASは非常に安定した性質を持ち、自然界でほとんど分解されません。人体や生物の体内に蓄積しやすく長距離を移動するという特徴があり土壌などの環境中に残留し、人の健康や動植物の生息・生育に大変な悪影響を与えます。

ゴミ問題と掃除の関係は、人類最大のテーマです。

掃除をするようにお手入れをしていかないと、この世の中はゴミの山のようになります。ゴミを増やして自然の分解もできないようなものをつくり、最後は人間が住める場所が次第に細くなっていく現実。これは環境問題でじわりじわりとその日が近づいてきているのを実感するばかりです。

実感するからと何もしないでいたら、さらに環境は悪化していきます。だからこそ、小さなお手入れをみんなでやること、お掃除をみんなで取り組むことで環境は調っていくものです。

場が調ってくれば、自然の分解や快復力、免疫力が向上して循環が促進されます。これは人体でも同じことです。人体を調えていけば、循環がスムーズになり健康が保たれます。自然の仕組みも同様です。

だからこそ、小さなことだから意味がないではなく小さなことから取り組んでいこうとすることが自然の循環やリズムと共に生きるということです。

経済活動でそれどころではないと後回しにしているのかもしれませんが、大病になればさらに多額のお金を出費するし、対処療法は副作用や後遺症が甚大です。

体質改善というのは、日々の暮らしの中で行うものですから先人の智慧に倣い誰でもできますから最初の一歩を踏み出してほしいものです。

ということで、本日も有志で取り組みます。

お山を知り、お山を学び、お山をいのり、お山と共生していくのは山武志の生き方です。愉快に豊かに毎月取り組み、この場所から世界を易えていきたいと思います。

根源の要諦

むかしの五穀田は、無肥料無農薬の自然農で取り組んでいるためたくさんの生き物たちが田んぼで生活しています。日々に田んぼの見回りをしていると、あらゆる昆虫たちや水中生物たちに遭遇します。多種多様なもの、また大小さまざまなものがいて生き物観察が大好きな自分には好奇心の宝庫です。

昨日は、掌ほどのショウジョウバッタやゲンゴロウの幼虫、ミズスマシなどを見かけました。お水をかけ流して循環を保つ工夫をしましたが、御蔭でたくさんの生き物たちが増えていきました。

ゲンゴロウなどは現代では絶滅種になり、当たり前にいるはずだった田んぼでも最近では見かけなくなっています。その理由は、農薬や人工的な田んぼの環境が影響を与えたといわれます。

単に昆虫たちや生物は農薬が田んぼに入ったから生きものが生きられなくなるわけではありません。毒によって生き物全てが全滅するイメージもありますが、ある特定の生き物にだけ作用する毒であったり、植物には影響がないような仕組みでつくられている農薬もあります。

しかしなぜ農薬を用いたら田んぼの生態系があっという間に貧しくなるのか、その理由をよく洞察するとその行為が生命の循環を途絶えさせ、いのちのつながり分断するところに原因があることがわかります。田んぼではまず藻や微生物を小さな生きものが食べ、その小さな生きものをヤゴやゲンゴロウが食べ、さらにカエルや鳥へとつながる、無数の関係によって成り立ちます。

そこに農薬が入ると、まず薬剤に感受性の高い昆虫、甲殻類、藻類などから減っていきます。すると、それらを餌にしていた生きものも生きにくくなります。さらに捕食者が減れば、今度は一部の生きものだけが増えていき田んぼ全体の均衡が崩れはじめます。つまり特定の虫を駆除したつもりが、お互いに共生しあっている生き物たちの生命のつながりを断裂させてしまうことになるのです。

生態系というのは、「すべて共生と貢献で循環」をしています。その象徴としての田んぼは、多くの生きものがそれぞれの役割を果たすことで自ら均衡を保つ場です。その一部が失われると次の生命へ渡されていたものが渡らなくなり、循環そのものが細くなって最後には関係が失われます。この関係性の消失が絶滅の本質です。

人間の一部の都合によって、特定の自然の循環の何かを止めてしまう。それが小さな分断や生命のつながりを弱くして関係が終わる。無縁社会とも私が呼ぶものです。人間社會もまた、これと似たようなことが起きているように感じるのは私だけではないはずです。

だからこそ、生き方として子どもたちにどのような未来や環境を譲り遺していきたいかを真摯に正対すると自然の田んぼの中で一緒に生態系の関係性を甦生させていきたいとこの「むかしの五穀田の甦生」に取り組んでいるということです。

短期的にみて恩恵を受けるということはたくさんあります。しかしその短期的な恩恵は、結局は視野狭窄にし短絡的に今だけ乗り切ればという発想になり対処療法の連続になります。

田んぼであれば、人間にとってデメリットが出たらすぐに対処療法しているうちに田んぼの生態系が自然に保ってくれていた均衡が崩壊して、その対策に必要なお金だけが不自然に大量にかかるという状態になるのに似ています。

自然に任せるというのは、余計なことをしないということです。

余計なことというのは「循環を切らない」ということです。

そろそろ人類は、環境問題をはじめ社会問題の本質に氣づくタイミングであろうと思います。関係性というものは、今を見直し身近な小さなところからも甦生できるものです。

こんな一つの田んぼの小さな改善ごときで人類や世界の何が変わるのかと思うかもしれませんが、循環というのは誰でもはじめはみんなほんの小さな関係性の甦生からはじめていくのです。

保育の領域も、場の領域も関係性を調えてこそいのちが健全に育つもの、つまり循環の根源の要諦は一つです。

引き続き、身近なむかしの五穀田の甦生を通して學びに来る方々と共に実践を通して世界を豊かに愉快に易えていきたいと思います。

自然の場の甦生

自然と書いて「じねん」と呼ぶ言葉があります。現在、自然はしぜんと呼ばれ欧米のnatureの意味が強く使われますが東洋では本来、自然はじねんと呼び「おのずからしかり」という意味で用いられてきました。

これは老子の「道法自然」から由来します。これは道は自然を法とするとし、道とはおのずからそうなる働きに則るものだという意味です。全文は、「人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」です。また日本では、浄土真宗の開祖、親鸞が「自然法爾(じねんほうに)」という言葉を用いました。この「法爾」の「爾」も「そのようである、あるがまま」という意味です。おのずからしかりとして、人のはからいを離れたところではたらいているものにすべて丸ごと信じて任せるという生き方です。

まず前提として、何が自然で何が不自然かという問いがあります。自然が分かるというのは何か、不自然とは何かということが観えるかというものです。

現代は、あらゆる自然災害が発生します。そこに対して、環境改善や自然保護などという人間の意識もありますがそれは少し離れてみると傲慢ではないかと感じるものもあります。謙虚に静かに自然災害をみつめていたら何が自然なのか、何が不自然なのかが洞察できるものです。

自ずから然りとは、神はからいとも言えます。

何をしようとしているのか、どうしたいのか、自然の法理や宇宙の働きにすべてお任せしていると人間がどうあるべきか、何をすることが自然体であるかに氣づきます。

親祖をはじめ先人たちは人間が自然と共に道を歩むことを智慧として伝承してきました。それを「暮らし」と呼びます。例えば、場が調っていくようにし、いのちが循環できるように調え、多様な生き物たちが生を全うして持ち味を活かせるように見守り、季節の巡りにあわせていのり、日々、供養をして感謝し謙虚に心身を静かに調えていきました。その自ずから然りの実践こそが「暮らし」の本義であったのです。

宇宙をはじめ地球は常に調和を保つようにはたらきます。人間がそのはたらきを阻害して循環を滞らせれば自然はそれに応えます。縁起と関係性によってはたらくのです。滞るのをまた流そうとして自然ははたらきますから、そのはたらきにあわせて人間もまた滞らないようにしていくことがはたらきに任せることになります。

はたらきに任せるというのは、何もしないことではありません。

人間も一緒に「じねん」になることです。

それが暮らしを調えていくことです。

私が実践する暮らしフルネスの根源は此処にあります。

自然のリズムで生きることや、自然のお手入れをすること、自然の循環の邪魔をしないことや、子どもが子どものままあるがままであることや発達を邪魔しないことなどもすべてこの道法自然の意識を保つ智慧と工夫です。

「かんながらの道」という日記もまた、この「じねん」の意識の醸成と習慣、つまり暮らしの一部としての実践なのです。

残された私のいのちはすべて、この「自然の場の甦生」に使い切ります。

いつも一期一会の師の絶妙な声掛けと道しるべに心から感謝しています。

流れと螺旋

中国最古の医書『黄帝内経』には「正氣内に存すれば、邪干すべからず」(体の正しい働きが保たれていれば、病邪は容易に侵入できない)」という言葉があります。そして現代では有名な「未病」(みびょう)という言葉もまたこの『黄帝内経』で初めて使用された言葉です。

そこには「聖人は既病を治すのではなく、未病を治す」とあります。これに対して既病とは、既に症状が出ている状態のことをいいます。未病とはまだ病気が表面に現れていない状態のことをいいます。

現代では、病気は病院が治すもののようになり病気になってからはじめて人は病気を認識します。そして病院もまた病気になってから診療を受ける場所になっています。

本来は病気というものは、生命を支えている循環の何らかの流れが滞り、流れなくなって循環しなくなったことをいいます。

自然治癒を洞察するとそれはすぐに察知できるものです。自然界も同様に、循環や流れが滞ると問題が発生してきます。スムーズに静かに流れていれば、自然も穏やかです。しかしそこに何らかの澱みや流れの滞りが起こればそれが災害となっていきます。

つまり自然は常に「調和」するために流れや循環を已まないようにしているのです。

そして人間の身体もこれを同じです。

人間の身体では、血液やリンパ、呼吸や腸内や神経などあらゆるものが流れています。それが疲れや感情や自立神経の乱れ、食べ物の片寄りや睡眠や運動不足などで流れが滞ってくると病気が表層に出てきます。

誰しもが調和している状態を健康であると知っているのは、この「流れ」というものを自明しているからともいえます。

流れが澱み、滞れば不調和が産まれ調和に戻そうと自己免疫力が働きます。それが自然治癒です。つまり自然治癒というのは、流れを取り戻そうとする根源力のことです。

これは人体だけでなく宇宙も同様の真理で働いています。

場の道場では、薬草をはじめ太陽や月のリズム、そして呼吸法、滝行や坐禅、自然農や発酵などあらゆることを体験を通して場づくりを学びます。これは未病を実践するためです。

つまり未病の場というものは、流れが澱まない場であるということ。言い換えれば、循環しようとするのを邪魔せず、自然の流れになるように調えるということです。

これを私は場づくりの中心に据えています。

そしてその養生法が暮らしフルネスということになります。

氣は風、いのちは水、この風水によって流れ(螺旋)は常に循環するのです。

自然治癒の学びを深めつつ、螺旋の真理を甦生していきたいと思います。

 

大地と徳治

昨日、熊本で大きな地震があり私のいる場所も大きく長く揺れました。東日本大震災の時の揺れを思い出し、あの時、受け取った自然からのメッセージを振り返りました。暮らしフルネスに取り組む今があるのは、あの地震からの声をいただき、初心を忘れないようにしてきたからです。

中国の思想に「天人合一」(天人相関)という思想があります。これは紀元前二世紀、中国・前漢の時代に生きた儒学者の董仲舒(とうちゅうじょ)という人物が人類に投げかけた問いの思想です。

当時の中国では、法律によって国を治める法家、自然に任せる道家など、さまざまな思想が競い合っていました。その中で董仲舒は、「国は力ではなく徳によって治まる」と説きました。その理由は、人間は自然の外側に立つ存在ではなく、天地とともに生きる一つの生命であるとしすべては相関関係と因果によって為ると直観しました。つまり空を流れる雲も、山を吹き抜ける風も、川の流れも、月や太陽の光も、大地の震えも、人間とは無関係に存在するものではなく、同じ宇宙の理によって結ばれていると見立てたのです。

つまり天と人も自然の一部であり分かれているものではない。だからこそ人間社会が私欲によって乱れれば、その歪みは自然との調和を失い、やがて社会全体の苦しみとなって現れると説きました。

そして為政者こそ、自然のメッセージを真摯に受けとり自らを省みる鏡にせよといいました。そしてその政治の実践のことを「徳治」と定義し、まず国を導く者自身が徳を積み、人を敬い、自然を敬い、その姿によって人々を導くことが政治の根本であるとしたのです。それを当時の漢の武帝によって国家の理念として採用され、その思想がのちに日本にも渡来し、聖徳太子の「和をもって貴しとなす」、熊沢蕃山の治山治水、二宮尊徳の「天道に従う」、西郷隆盛の「敬天愛人」など、日本の思想の根底にも、天地を敬い、人を敬い、自らを正すという和の系譜が脈々と受け継がれたといいます。

どんなにお金があっても、便利な文明を築いても、科学技術が発展しても、驕れるもの必ず滅びるものです。平安末期の鴨長明の時代も大地震がありました。そして彼が遺した書物『方丈記』にあるように、大地が震えればこの世に絶対に安全などというものは存在しない、万物は変化して已まないし無常。人間の傲慢さはいつかは必ず天人合一に現れると氣づくのです。

今の世界に響き渡る大地の声は私たちへの偉大な問いかけではないかと感じます。そして為政者こそ災害の時に自らを省み、改心して徳を積み人々の心を治めよと聴こえてきます。

人類全体が謙虚にならなければ、すべてのいのちの幸福はない。

今こそ、徳治覚醒の刻です。

今日は、これから英彦山の宿坊で大地座禅と初心を深め禊をしてご祈祷して過ごします。

今夜の満月の心が、どうか穏やかに人々の内省を調えていただけますように。

お水

四千年前の中国最古といわれる夏王朝に禹王という人物がいます。この方は、水土の理を深く理解し、水の道に従って天下を治めた聖王、そして水神とも呼ばれ民衆に称えられます。

この禹王の時代は天下は大洪水に苦しんでいました。川はあふれ、田畑は水に沈み、人々は住む場所と食べ物を失っていました。そして暮らし消え、村が崩れ、国も乱れました。

むかしは水を治めることは、川だけを治めることではなく、人々の命と暮らしを治めることです。この禹王の父である鯀は、国家の命運をかけて水を堤防で囲い込み、力によって押さえようとしましたが力によって水は抑え込めずに行き場を失った水は力を増し、ついには堤防を破り、さらに大きな洪水となってあふれました。そして処罰されいのちを失いました。

その父の失敗を受け継いだ禹王は、まったく反対の道を選びます。水を力で抑え込むのではなく、流す。そして水が本来向かう道を拓くという考え方によって治水を実現しました。そして、国家を同様に見事に治めていきます。

この禹王の治水を「禹の水を治むるは、水の道なり」と孟子はいいました。

この禹王が行ったのは、もともと水土の中にある道を読み取り、流れを塞いでいるものを取り除き、水が本来の働きを取り戻せるように調えて治めたのです。治めるとは、支配することではなく、本来の働きが自然に現れるように調えたということ。

最近、流域という言葉をよく聴きます。流域は、お水が集まりそこで数々の生命が結ばれ繁栄していく場のことです。そして水土は、その土地がその土地らしく育つ場ができることです。

私は徳積循環に関心がありますから、この水土に強く惹かれます。この水土は、風土と似ていますが明らかに水の道のことを示唆します。

お水を知るには、その土地の水土を知ることからはじまります。つまりお水の源流、上流のお山からです。お山を知ることが下流を知ることにつながります。そしてお山を知るには、先人たちが続けてきたお山の暮らし(智慧)を実践することからです。

私が英彦山の宿坊でお山の暮らしを甦生するのは、水土を學び直すためです。水土こそいのちの甦生の要諦ともいえます。どのようにいのちが循環しているか、どうすれば甦生するのかを観るのです。

お水が喜び廻れば、人の心も癒され喜び廻ります。お水が土と人を結ぶのです。

古代の中国では「善く国を治める者は、まず水を治める」とし、為政者の徳目第一とされました。「治める」のは、力の支配ではなく「徳を活かす」ことだと定義していたのです。

最後に作者不明の有名なお水の徳目、「水五訓」で締めくくります。

一 常に己の進路を求めてやまず自ら動いて他を動かすは水なり

二 如何なる障害にも屈せず巌(いわ)をも透す力を蓄えながらよく方円の器にも従い和合の性を兼ね備えるは水なり

三 自ら清くして他の汚れを洗い清濁合わせ容れるの量あるは水なり

四 力となり光となり生産と生活に無限の奉仕を行い何ら報いを求めざるは水なり

五 洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霰(あられ)と化し凝(ぎょう)しては玲瓏(れいろう)たる鏡となりたえるもその性を失わざるは水なり

今年の私のテーマは「お水」です。

一緒にお水を先生に学び直していきましょう。

師弟とは何か

師弟関係、徒弟制度というものがあります。現代ではあまり用いられていませんがかつての伝統職人をはじめ武道や芸能などでは当たり前に存在していた仕組みです。今では法律によりすぐにパワハラやモラハラなどといわれるようになり、かつての仕組みは人気がありません。

そもそも師匠というものは、何をもって師匠とし、弟子とは何をもって弟子とするのか。誰でもすぐに弟子と呼ぶ師匠もいれば、すぐに誰でも師匠といって近づいていく人もあります。その定義も深さも異なりますから師弟関係といっても、軽いものもあれば重たいものもあります。一子相伝のように命懸けで伝承する師弟関係もあります。

改めて師弟関係というものを少し深めてみようと思います。

中国の古典「礼記・学記」には師とはこうあるものと記されます。

記問之学、不足以為人師。
必也聴語乎。
力不能問、然後語之。
語之而不知、雖舍之可也。

意訳ですがこれは単なる暗記と受け売りによる学問だけでは、人の師になることはできない。師は、よく心で傾聴しなければならない。相手が自分の力では問いを立てられないところにきてはじめて教えるようでなければならない。もしもその時に教えてもまだ理解できないなら、いったん置いて見守り待つようでなければならないと。

師といえば吉田松陰が孟子の講義の中で記した「講孟余話」(滕文公 上 第四章)でこう記します。

「大抵、師を取ること易く、師を択ぶこと審らかならず。故に師道軽し。」

これはおおよそ人は安易に誰でも師にするが、その師を慎重に選ぼうとはしない。だから師弟の道が軽くなってしまうのだ。

「故に師道を興さんとならば、妄りに人の師となるべからず、又妄りに人を師とすべからず。必ず真に教ふべきことありて師となり、真に学ぶべきことありて師とすべし。」

だからこそ、もし師の道を興そうとするなら、軽々しく人の師になってはならない。また軽々しく人を師としてもならない。本当に教えるべきことがあってはじめて師となり、本当に学ぶべきことがあってはじめて師につくべきであるのだ。と。

つまり、誰でも簡単に師弟関係などというのはおかしいと。道があり志があり実践があり、その上で高め合い学び合うものがお互いにあるのならはじめてそこで師弟となるのだと。

さらにこう言います。

「而して己が為にするの学は、人の師となるを好むに非ずして、自ら人の師となるべし。人の為にする学は、人の師とならんと欲すれども、遂に師となるに足らず。故に云はく、「記聞の学は以て師となるに足らず」と。

これは自分を磨くために学ぶ人は、師になろうと思わなくても自然に人の師となるものだ。反対に人に教えよう人の上に立とうという目的で学ぶ人は、結局、本当の師になることはない。だから先達は、「知識を覚え込んだだけの学問では、人の師になることはできない」と言ったのであると。

先ほどの礼記の文章、「記聞の學」の話が出てきます。知識の學問では師弟関係は興らないというのです。

知識を多くもっているだけでは、生き方や生きざままでは薫陶することはありません。私も師と呼べる人は、生き方や生きざまを磨いておられ私が憧れるほどに日々に貫遂透徹して純度の高い精神と魂で実践をなさっている方を師と仰ぎ観ているだけです。そして自分を勝手にその人の弟子などとはいいません。生き方を磨いていく中で、遠く及ばない師を羅針盤に、時には砥石にして切磋琢磨できるように心で師と呼びます。

また同じ道を志し、同様に挑戦している人たちやこれからその道に入ろうとする初心者ののことを決して弟子とはいわなくても、親身になって苦楽の妙や丸ごと信じて見守りたいという気持ちは湧いてきます。

畢竟、自分もまた道を歩んでいくなかで少し先を歩いているだけで、そのうち自分も死んではその屍を越えて後人が歩んでいく一つのいのちです。優劣もなく、早い遅いも比較もありません。ただどのように道を歩んでいるのか、道中の師弟は一期一会とめぐり逢いです。

つまり一期一会とめぐり逢いというのが私の師弟の定義です。

引き続き、徳を磨いていくことに集中して我が道、天命を精進していきたいと思います。

農の道

田んぼのお水管理をしていますが、私の場合は先に知識を入れず田んぼと稲を見ながら取り組むため他の田んぼとは異なる農法になります。なので毎回、感覚が試され、何が自然で何が不自然かということと向き合うことばかりです。

今年は、暦や月のリズムなどを暮らしに取り入れて生活をしています。明日は新月ですが、法螺貝を立て田んぼにいのりを捧げます。英彦山の弁財天と関係性を結び、ご祈祷して取り組んでいますから巳の日にもこだわります。

お水を深める一年にしていますから、田んぼや稲はとてもお水を學ぶのに偉大な先生になっています。どの時間帯のお水か、どの場所からお水か、水量をどうするかなど、興味は尽きません。

以前、注ぎ師の方にお水の注ぎ方で味がまったく変わることを教わる機会がありました。お水は私たちの意識にも感応しますし、どのようにお水を尊敬するかでその変化は無限に異なります。

人間の体で考えてみてもお水がどのように働いているかを考えればすぐにお水の性質を発見します。

私たちは口からお水を空気と共に吸収します。酸素は血液の中に呼吸で溶け込み、それを吸収して二酸化炭素を排出します。また飲めばそれを内蔵が吸収し全身を循環して糞尿として排出されます。これは自然界も同様の仕組みです。

お水は呼吸と一体になって動きます。

田んぼもまた同様に、風が田んぼを揺らすことでお水は循環します。これは息をするのと同じです。土は酸素を吸収して栄養を取り込みます。これは人間の腸と同じです。お水を飲み過ぎば循環が澱み、少なすぎても乾きます。人間の身体であれば、小まめにお水を飲む方が身体によいといわれます。運動している時は、お水をがぶ飲みしても返って吸収するのが難しくなります。休息と共にゆっくりとお水を飲めば、内臓が穏やかにお水を吸収します。

太陽が出ている間は、植物たちは必死に光合成をし疲れます。そして夜になり月が出れば、月の引力に導かれ成長していきます。その時に、穏やかなお水があれば稲は休息ができ治癒します。

呼吸をするようにすべてのいのちは、活動と休息を繰り返します。それを助けるのが太陽や月や大地です。大地は体そのものです。その大地とどう接していくか、その大地が健康であるようにどう関係性を築いていくか。

農の道の妙味はここにあります。

何が自然で何が不自然か、そして何が健康で何が不健康か、刷り込みのない澄んだお水のような心で学び直していきたいと思います。暮らしフルネスの場にとって、田んぼはまさに先達です。

徳が循環する世界を見守れるように実践を続けていきたいと思います。

徳積循環の理

古来より、「時は流れる」という表現をします。これは万物は変化するということを示します。変化とは何か、それは言い換えれば流れ続けるということです。

水が流れ続けるように、いのちも流れ続けます。すべての存在は関係性のなかで変わり続けるのがこの世の真理です。変わらないものはありません。だからこそ先人たちはそれを受け容れて変わらないものを変化そのものとしました。変化する中で、形を変えても変化しないものを守り続けたのです。人間であれば、初心を守るということも同様です。

時が変化し、あらゆる状況が変わっても、自分で定めた初心を守るために自分自身の変化を喜んで受け容れていくということ。これは産まれてから老化して死ぬまでの間にも何度もその初心を内省し、向き合い、その都度に初心が守れるように変化していく。流れを止めないでいる、敢えて流れることで守るのです。

変化の書『易経』には「窮すれば変じ、変ずれば通じ、通ずれば久し。」

という言葉があります。行き詰まれば変化が生まれ、変化すれば流れが生まれ、流れがあれば長く続くという意味です。

そう考えてみると、この世で最もこの変化を産み促している存在は「お水」です。

今年の私の一文字は「水」でしたが、水を深めれば深めるほど変化のこと、循環のこと、そして徳に回帰します。

レオナルドダヴィンチは、「Water is the driving force of all nature.」ともいいました。お水が自然の偉大な原動力であるとも。

原動力とは、「流れる」ということです。流れるものが動力であり、流れている最中こそ動力が活動している状態ということです。そしていのちは、そのとき、全体のいのちと一体になって躍動していきます。

だからこそ停滞、澱み、循環しなくなればいのちは弱ります。変化できないというのは、流れなくなるということです。

医書「黄帝内経」には「通ぜざれば則ち痛む」(不通則痛)とあります。

つまり流れなければ痛みとなる。これは人体ですが、自然環境でも同様です。痛みとは、自然災害によって引き起こされます。

健康を維持するとは、きちんと呼吸をし氣が巡っていることです。自然であれば、風水が流れているということです。

そして人類はそれを「暮らし」によって調えてきました。これを養生ともいいます。自然もいのちも健康もまずは養生の実践からです。養生の実践は、徳の循環に由ります。

引き続き、徳積循環の実践を弘めていきたいと思います。