甦生の心得

現在、宿坊に使う古材を探しています。もともと古い宿坊なのですが、昭和の頃のリフォームなどで色々なところが改造されています。それを元に戻し、本来の役割の場に回帰するにはその当時の時代に合ったもので甦生させていくのが私のやり方です。

時というものは、一緒に流れていますからそこに古いものと新しいものが産まれます。全部を古くする必要はありませんが、その肝心かなめの場所には相応の品格が必要になります。

例えば、床の間というもの。他には、仏壇、そして重要な柱などはその場を司る神様の舞台のようなものです。私の場合は、その場の中心になるものを必ず探して配置していきます。それもご縁で辿るという具合に、そこに相応しい物語が必要になるのです。

現在では、古いものは価値がなくなり捨てられていく大量消費の時代ですがそのうち資源がなくなれば奪うように古いものを手に入れようと競争する時代も来るでしょう。人間というものは、有り余れば捨て、希少価値になって拾おうとします。本当は、本物を大切にするという普遍的な感性を持っていればすべてのものをもったいないと感じることができると思います。失ってはじめて、その当たり前にあったものの有難さに気づくというのはわかっていてもこの消費文明の環境の中にいたらなかなか難しいものです。

私が古民家甦生で取り組んでいることの一つは、子どもに本物を遺すことです。その本物とは、真の豊かさ、真の仕合せ、真の価値、真の意味、真の姿、真の道です。こういうものは、先人が大切に智慧として繋いできたものの中にこそあります。

宿坊には、まだその余韻がいくつか遺っておりこれらを拾い集めて磨き上げてそのむかしからの場を甦生していきます。

家との対話は、家から学び直すことです。私たちは、ずっと場から学ぶのです。その場の学びをどうこの時代に甦生するかが、真の意味での建築だと私は思います。私は、設計士でも建築士でもありませんが場を創る人です。そしてその場の中に入り、舞台をととのえていく人でもあります。

家が育つように、人も育ちます。そしてその家も人も、時機がくれば必ず原点回帰します。その原点回帰に関われたことはとても仕合せなことです。その時に取り組んだ先人が大事にしたものに恥ずかしくないように、丁寧に真心を籠めて甦生をしていきたいと思います。

備忘録1

私が日ごろ思っていることをいくつか文章にしてみたものがあります。これは暮らしフルネス™を体験した時に、言葉にするときに使うものです。他にも膨大にありますが、シンプルにいえば「本当の暮らしは徳を積む中にある」というのが私が実践しているものです。

私のいるこの場を磨く、そしてこの場が世界になっていきます。子どもたちのためのもこの場から世の中がさらに平和に、仕合せになってほしいと祈ります。

「1000年後から今をみて、子どもに残したい未来をやるのが暮らしの本質」

「感謝の日々は、行事に出てる、暮らしの中に、手入れの中に。」

「古いものではなく、つないできたもの、いきているもの、本物。」

「自然から離れるのではなく、自然の一部として生きる、それが私たちの心と身体をととのえる。」

「火をみる、水をさわる、風を感じる、この感性が,幸せと豊かさをつくっている」

「すべてはご縁であつまってくる、シンクロニシティとセレンビテイ、人生も家も集大成である」

「甦生とは、いのちを壊さないこと。いつまでも寿命をのばしつづけること、いのちを最後までいかしつづけること」

「温故知新、新しいものと古いもの、そのバランスを保つことがハイブリッド。ほんとうの最先端である。」

「伝統とは、世代を超えてつないでいくもの。遺志とはつながれるほどに強くなり、そして輝くもの。連綿と伝承してこそ、知恵になる。」

「感謝で暮らすことが本物の信仰、これは宗教ではなく道である。暮らしそのものが信仰なのが日本人なのです。」

「畢竟、自分をととのえることが世界を平和にする。他人のせいではなく、自分が主人公として暮らしをととのえること。これはガンジーの非暴力や、マザーテレサの愛を与えると同じ。感謝でととのえることが平和をつくる。」

「時間をモノのように扱わず、いのちとして扱い大切にする。みんなのいのちが集まっている、ここに一期一会の場が誕生する。」

「懐かしい未来とは、普遍的な暮らしのこと。人類の真の幸福のこと。これは徳を積むことでしか得られない。」

色々と、これからも実践から誕生している語録を備忘録として綴っていきたいと思います。

終始のご縁

何がきっかけで物事がはじまったのかを振り返ってみると、そのはじまりのきっかけの中にそのご縁がどのようなご縁だったのかが観えてくるものです。今振り返ると不思議で、みんな誰もがはじめて出会ったときにはその後にどのようなことが発生するのかがわかりません。

わかるとしたら直観的に幸不幸の予感があるくらいですこのご縁には、ずっと一緒に長く旅を伴にする人もいればバトンを渡すときに一瞬だけのご縁の人。あとは、すれ違っていくようなご縁の人。人生を丸ごと変えてしまうようなご縁もあります。しかし、よくよく味わってみるとあの時のあの出会いとご縁は必然だったのだとも感じるのです。

それをどう大切にするかは、その人の感性に由ります。感性が優れている人は、ご縁の持つ偉大な存在に気づいています。一期一会に、ご縁を大切にしそこに宿しているメッセージを受け取りそのものとのご縁を集めていきます。

どのようにご縁を集めて一つの人生を完成させていくのか、それが人が生きていくことの証です。そう思うと今も私の人生はご縁を集めることだけです。

これまでもただ大切にずっと集めてきました、そしてこれからも遺りを集めていきます。よく集大成という言い方をしますが、人生はご縁が積み重なり結び合いできあがります。今、私たちの目の前にあるものすべて、それは石や木、そして生命体に至るまでそのすべては集大成の今のカタチなのです。

ご縁はまだまだ無限に続き、まだまだ集め続けます。しかし、人生は死を迎えるとそれが逆行していくように感じます。つまり集大成からまたはじまるのです。まるで終わりがはじまりのようにです。

はじまりのご縁を感じるときに何かが終わることを感じる。つまりはじまりと終わりのご縁は同時に行われているということです。その終始こそご縁の本体であり、終わるようではじまり、はじまってるようで終わっていく。まさにご縁というのは永遠の循環です。

だからこそ私たちはその一瞬のご縁を「大切にしたか」が問われるのです。

大切にするからこそご縁は活きるのであり、ご縁を活かす人は「大切にしていくことを忘れない」のです。時間は、その大切にする意味を思い出させるための産み出した人類の道具なのです。まだ言葉のない時代、何も知識がない時代に、私たち人類はそこに気づきこの世に時間を創造したのではないかと私は思います。

人生は一度きり、そして永遠なのです。

日々の社会通念や常識に流されてしまいますが、いのちの持つ意味を忘れずに子どもたちに先人からのいのりを伝道し生きるチカラを伝承していきたいと思います。

チカラを宿す

英彦山のことに関わっていると、太陽との関わりを感じることが多くあります。もともと英彦山はむかしは日子山ともいわれていました。そして考えてみると、卑弥呼というものも日巫女とも呼びます。この日は、太陽のことで太陽のヒコとヒメということになります。

そして信仰の対象には、銅鏡が使われています。この銅鏡は、太陽がうつりこむことでその太陽のチカラを宿すと信じられていたとあります。

鏡というのは不思議なもので、私たちは科学的に反射するイメージしかありませんが光を受けるという力があります。例えば、夜の海や湖のほとりなどで月が海面や水面に映りこみます。よく観察していると、その光が吸収されて一体になっていることがわかります。水中にも入り込み、その力が宿っているかのように感じるのです。これは蝋燭の火などと同じです。

蝋燭だけでなく、炭火の中にも火が宿ります。これはただの反射反応したのではなく、まさに「宿る」という状態になっているのです。そしてこの鏡もまた宿るものです。

美しく澄んで磨かれたものを映せば、その心が鏡に宿ります。その鏡の光を受けることで私たちは何かのチカラが働き心が落ち着いてきます。

神道では依り代という言葉がありますが、これも私の感覚では「宿る」というものです。宿っているからこそ、特別なものになっているということです。私たちの身体もまた魂が宿ったものです。そう考えてみると、この地球をはじめ宇宙、そして万物のすべては宿ることで目に見えるものとして認識されます。それでは宿っているものは何かというと目には見えません。

別に幽霊がとか、スピリチュアルとか、量子力学とか言葉や知識で語らなくても、シンプルに考えてみればこの世のすべてはその道理と働きで完全であることがわかります。

だからこそ私たちは、宿っているという自覚と、その宿っているものとしての生き方というものを見つめ直す必要があると思うのです。なぜ、その姿になったのか、なぜその働きがあるのか、すべてのいのちにはその使命や役割があり私たちはその働きを尊重することで今のいのちを昇華できます。

言葉にするとこの辺までですが、この力が宿るという意識はあらゆるところでこれから感じる必要があるように思います。子どもたちが、いつまでも先人の智慧や叡智を伝承され平和を維持していくためにも本来の自然を顕現させる伝道と実践を続けていきたいと思います。

暮らしフルネスの本懐

万物にはそのものの徳というものが備わっています。それを磨き明らかにしていくことを、明徳という言い方をします。この明徳は、大和心そのものでもあり日本人に連綿と続いてきた大切な生き方です。私は、この大和心の甦生のことを「暮らしフルネス」と定義しています。もっとシンプルにいえば、この徳を明らかにし、徳を循環し徳によって治める世の中になっていくことが暮らしを実践する理由ということです。

私が本業として取り組んできた見守るという保育も、またむかしの田んぼや伝統固定種の高菜、そして古民家での智慧の甦生やあらゆる現在の取り組みに至るまですべてはこの大和心がそうさせているともいえます。

和というのは、徳が引き出されることでわかります。和食であれば、素材のもっているそのものの味や魅力が引き出されたことをいいます。私は料理人ではありませんが、井戸水や炭火をつかい素材そのままで味わうものを好んでつくります。余計な味付けなどしなくても、そのままの味が出た方がその徳が明らかになるから好むのでしょう。

このみんなが使っている「和」や「暮らし」は、本当の意味になっているのでしょうか。なんとなくわかりやすく使われていますが、日本人の和や日本人の暮らしではないものがほとんどになっているようにも感じます。

そもそもこの和や暮らしは、長い歴史の中で用いられた言葉です。歴史を学ばずして、先人の智慧の伝承なくして使うようなものではありません。現在は、何か新しい知識やそれを上手に分かりやすく便利なした言葉がすぐに独り歩きしていきます。しかし、本来は長い年月を経て醸成された発酵したような言葉であることが本質です。

だからこそ、知識ではわからないものが「言葉(言霊)」の中に存在しているともいえます。同じ、「暮らし」という言葉を使ってみたとしてもです。その暮らしという言葉は、使う人の持つ歴史や伝統によってまったく意味が異なっているということです。

私はもともと「和風」という言葉が嫌いです。和風は和ではないから、言葉遊びのようになるのが苦手なので嫌いという具合です。本物の「和」は、和風のものとは一切異なります。ひょっとしたら、昔気質なのかもしれませんが日本人としての誇りがあるからどうしても和風が馴染まないのかもしれません。西洋の文化や他国の文化はいつも尊敬しています。だからこそ、この便利な和風はどこか失礼ではないかとも感じてしまうのでしょう。これは決して和風がわるいと言っているのではなく、少し苦手というニュアンスで書いています。

刷り込まれた知識や、社会通念があるということが前提ですが私たちは何が本来の和であるのか、何が本来の暮らしであるのかをみんなで実践を磨き合う中で学び直す必要性を感じています。

私がこの場の道場での取り組みは、それを子どもたちに伝承し未来を智慧で満たすためです。先人の深い愛や思いやり、そして暮らしを次の世代へ伝道していきたいと思います。

健康をととのえる

加齢とともに体の反応が鈍くなってくると思い込んでいましたが、色々と禊や精神を澄ませるような修行をしているとかえって体の反応が敏感になっていくのがわかります。

精神と体というのは一体であり、その両方がバランスよく整っていることで私たちは健康を維持することができます。昨年から、少しずつ漢方のことを学び始めていますが大変奥深く好奇心がわいていきます。自分の身体のことなので余計にその状態から学べるというのもまた、この漢方の面白さです。

最近、胃腸は食べ物から取り込んだものを「清」と「濁」に分ける役割があることを知りました。その「清」は、「気、血、水」となって生命活動のエネルギーとなります。そして「濁」は体に不要で排泄されます。これは静と動のように常に、バランスを保って状態を中庸にするという考え方と同じです。

そして漢方は、「清」は上半身へと昇りっていき、「濁」は下半身へと降りていくのといわれます。つまり、胃腸が悪い状態で清濁が出てくると血流がわるくなりますか上半身に症状が出てくるという具合です。

私は胃腸がよくないので、食べ物の浄化が正常に行われないとそれが頭痛になったり吐き気になったりしてきます。特に、雨の日や雪の日の寒い時はさらにそれが悪化します。これは雨や雪で気圧がさがり、水が溜まりやすくなりより排出が滞っていくからです。

血のめぐりが悪い時に、暴飲暴食するともうそれはひどいものです。そうなると身体の声をきいて、速やかに下痢がでて排出していきます。辛い時はその排出もうまくいきませんから、大根おろしや山芋、他にもこの時期の旬のもの、今では白菜やしょうがなど食べて体の排出を助けて浄化する料理をつくりそれを時間をかけてゆっくりと食べるようにしています。

もともと西洋医療は、症状が激しく出てからの診療で薬を投与します。しかし、東洋医療は、症状が少しでもでそうならそこから推察し予防するための生薬などを調合します。本来、医食同源といって食べ物は単に栄養をとり空腹を満たすものではなく食そのものが健康を保つための薬という考え方もあります。

現代は頭でっかちになりすぐに知識で健康を保とうとしてサプリなどをよく摂取したりしますが。本当は体の声を聴くことが健康になるということです。体がどうしてほしいといっているか、早めに素直に謙虚に聞いて改善していくことで健康は長く保たれ寿命ものびます。

借り物の身体をその日が来るまで大切に使えるように、健康をととのえていきたいと思います。

地震からの

昨夜、1時頃に大きな地震がありました。福岡で地震を体験するのは久しぶりで、東京に住んでいたときにはしょっちゅうでしたから改めて不思議な感覚になりました。

地震という言葉と震度などで地震を表現しますが同じ揺れというものは一つもありません。震源地の深さや内容、そして揺れ方や時間の長さなど毎回、異なっています。

東日本大震災の時は東京で揺れを体験しましたが、長くゆっくりと大きく揺れました。あの時は、近くではない感覚と何かが大きなものが倒れたような感覚がありました。昨夜の地震も似てはいましたが、倒れたというよりは何かを強く押し出したような感覚です。

つまり地震といっても、本来はどのような感覚の地震だったかがもっと議論されてもいのではないかと思うのです。その理由は、地球全体で起きていることをもっと人類が感覚で理解することになるからです。

現代は、すぐに科学の力で可視化して科学的に証明するものしか表現せずに信じなくなりました。しかしその頼りにしている科学は、あくまで全体のほんの一部を解明したにすぎずほんどのことはわかっていないということです。実際に、プレート説もありますが本当にそうなのかということもわかっていません。

想像すると例えば、豆乳や具材などを土鍋にいれて弱火で煮込むとき表面がとろとろしてゆるやかに沸騰して泡がぽこんとはじけるようなものが噴火だったりするのではないかと感じるとします。上部が冷えていれば多少は沸騰しても穏やかでしょうが、周囲が暖かいと泡の頻度もあがってきます。地球は、まるで鍋に具材をいれて下から温めているというのはこれは仮説ではなく地球というものの事実です。

どの時点の鍋なのかというと、冷えすぎず沸騰もせず、ぬるま湯の中でじっくりと時間をかけて温めているという感じでしょう。それが人間の生命のように一日、一年、百年、千年の周期でリズムがあります。人間の体温が一日で何度も変わっているように地球も変化しています。つまり地球も生きているということです。そして私たち生命は地球の中でまるで皮膚の繊毛のように共生しているといことです。

そうであることを忘れるとき、地震というものがよくわからなくなります。地震は私たち人類に大切なことを伝えてきます。それは自然を忘れるな、地球と生きていることを思い出せというメッセージのようです。だからこそ私たちは謙虚になって、人間だけで勝手に生きているとは感じずその地球とのバランスを保つように知恵を働かせていく必要があると思うのです。

感染症は人災ですが、それを引き起こすのは天災です。天災への対応の智慧は謙虚であること、素直であること、また地球と共生することです。子どもたちのためにも先人の生き方や動植物らの生き様に学び直し、未来を生き残れるように自然と共生していきたいと思います。

 

目利きを磨く

「目利き」という言葉があります。これは辞書を調べると、器物・刀剣・書画などの真偽・良否について鑑定すること。また、その能力があることや、その能力を備えた人。人の才能・性格などを見分けることにも使われるとあります。

この目利きがいい人というのは、本物を見極める力がある人のことをいいます。では何が本物で何が偽物なのかがわかるというのは何かということです。それは真実や本当の価値を見極めることができるということです。

現在は、この目利きが非常に失われている気がしています。テレビやマスコミ、そしてあらゆる情報をインターネットで配信されていますがそのどれもが本当の情報を伝えていることはありません。つまり目利きがよくないということです。どれも、人気が出そうに加工したり、さも手間暇がかかっているかのよう表現したりと、そもそも大量生産大量消費、経済拡大を優先した市場原理を優先していますが無理やりにそれに合わせているうちに目利きを間違うような価値や表現ばかりが磨かれていきました。

広告や宣伝もまた、本当にいいものの配信ではなく目的は商売や人気取りのためのようになっていきました。消費者たちがすぐに飛びつくような情報操作を繰り返しているうちに消費者が目利きがなくなってきました。そうなってくると、みんなが使っているものがいい、テレビでよく出てくるものがいい、大きなディスプレイに陳列しているものがいい、ブランド品であればいいというようによく調べもせず、目利きもせずに安易に購入して消費するようになりました。それが今の社会通念としての「いいもの」になってしまい本物や真実を目利きする力が削がれたようにも思います。

もともと本物というものや真実というものはとても地味なものです。じっくりと観察して、その膨大な手間暇、自然の深い関わり方や造形してきたものに近いものです。

昔の人は、自然の経過や自然が造形したものを深く尊敬しその持っている徳を引き出し、その徳に見習い近づけようと調和を意識してモノづくりをはじめ生き方を磨き続けていきました。むかしの洗練されたものは、現代では実現できないほどです。それは刀剣然り、陶器然りです。

そういうものが分かる人たちが増えていけば、この世の中で何がもっとも真実でいいものかがわかるようになっていきます。目利きをする人たちがこの世の中に、本当に素晴らしいものを増やし、目利きできる人になるようにと暮らしを磨いていくことで私たちの社会も本質的で自然美に近づいていくように思うのです。

世の中が本物や真実になったなら、正直者が馬鹿をみないような豊かな社会が顕現します。地球がととのっていくというのは、こういうところから始まっていくと私は思います。素直であること、謙虚であること、明るくいることは真心を磨いていくことです。真心と目利きは表裏一体なのかもしれません。

子どもたちに真実や本物が譲り遺せるように、これからも目利きを磨いていきたいと思います。

常識見直す

世の中には、長い時間をかけてつくってきた常識という価値観があります。その中に浸っていると次第に本当のことがわからなくなったりするものです。如何に常識に浸らないようにするのかというのが、本質を見極めるためには必要ですがそのためには本当は何かということを考え続けなければなりません。

考えるのが面倒だからと価値観に迎合したら、その常識の一員になってしまいます。もしその常識が、自然界のように普遍的なものであるのなら感じる、近づく、寄り添うだけでもよかったのでしょうが人間界では不自然に常識を構成していきますから自分が不自然になっていることすら気づかなくなります。

一般常識というものは多数派が持っています。少数派というのはいつも非常識です。また社会通念でこうだと教え込まれたものや、そうなってしまっているものに逆らうのもまた非常識です。しかし、歴史をみたら今までの常識が実は間違っていたという出来事がたくさん発生していることも気づきます。それまで信じられていたものが、ある時にガラリと変わってしまうのです。

今では地球は丸いというのは誰もが知っていましたが、かつては平面だと信じられた時代がありました。地動説や天動説なども、何度も宗教裁判がかけられたともいわれます。聖書に書いているものと違うというのは非常識であったという社会通念があったということです。

これは今では教科書やマスコミ、有識者がいったことや最初からそうだったと思い込んでいる多数派がいても同じように常識はつくられ続けています。時代時代で変わっていくような常識を、真実だと信じてみんなで押し付け守らせていくと常識はより強固になります。

しかし時代が変わったのなら、原点回帰しもう一度常識を見直し、本当は何かということをみんなで歴史的な認識をもとに語り合う必要性を感じています。

子どもたちのためにも常識に捉われず、本当の姿、本質は何かを見極め、温故知新と原点回帰を楽しんでいきたいと思います。

湯たんぽとぬくもり

最近は、毎晩、寝床に湯たんぽ(行火)をいれて就寝しています。色々と使ってみたのですが、今は銅製の孟宗竹を縦に割ったような形のものを使っています。この上に足を置いているとすぐに眠くなり、朝方は足元が暖かくて心地よく心身が癒されます。

私は寒いのはあまり得意ではないのですが、冬は私の大好きな炭が使えるのと温熱をつかったおもてなしができるので仕合せです。仕事が忙しくなると、すぐに空調に頼りますが本当は冬の楽しみはこの自然の熱源を楽しむことだと私は感じています。

そもそも行火というのは、日本を代表する歴史の暖房器具の一つです。はじまりは、古代の焚火からです。以前、むかしのアイヌの暮らしを再現している施設にいったら家の中心には必ず焚火をする場所がありました。それが縄文時代からの囲炉裏になり、奈良時代に入ると火鉢というものが登場します。そして行火が平安時代に入り出てきて、室町時代には炬燵が登場してきます。行火というのは、火を運ぶという字から出てきます。つまり、本来は中心に置いていたものを色々な場所に移動して使うということで行火になったということです。

これはなんとなくの想像ですが、火を囲んだ暮らしの中でみんなが集まりその火を分け合います。また残ったぬくもりに布をかぶせてその中でみんなで温まろうとします。それで今の行火や炬燵が登場したということです。

ちなみに行火(湯たんぽ)の名前の由来ですが、「湯婆」の唐音読みといわれます。中国から渡来してきたものが「湯婆子(tangpozi)」「湯婆(tangpo)」という名前だからです。

この婆は「妻」や「母親」の意味で、妻や母親の温かい体温を感じることからその字をあてられたといいます。お湯を入れた容器を抱いているということからもこの字になりました。日本では、何の「たんぽ」なのかということで、お湯を温めるたんぽということで「湯」が付け加えられ「湯湯婆(湯たんぽ)」になっています。

湯たんぽには、お湯を入れるものと豆炭という石炭などを団子状にしたものを使うものがありますが私には豆炭は暖かすぎてお湯の方が相性がいいです。

私たちが感じているぬくもりは、決してただの物質的な熱ではなくそこには心があります。人のぬくもりややさしさ、そして自然の恵みなど、そこに慈愛のようなものを実感して安らかになるのでしょう。

身体が冷えても心までは冷えないように、思いやりとやさしさ、豊かな真心で大切な時間を過ごしていきたいと思います。