鏡にいのる

人は人を鏡にして自分というものを理解していくものです。何を対象に鏡にするのかというのは重要で、鏡が澄んでいればいるほどに自分というものがはっきりとうつりこみます。

うつりこんだ自分をよく観て、自分の中に何が穢れであるのかを知り、それを丁寧に洗い清めてお手入れをすることで自分というものの中にある素直な自分に気づいたりするものです。これは磨くことも同様です。

例えば、包丁研ぎというものがあります。これは砥石で包丁を研ぐのですが善い砥石であればあるほどにその包丁の切れ味が出てきます。つまり包丁の方も研ぎ澄まされていくのです。これは先ほどの鏡でも同じです。では善い鏡とは何かということです。

明鏡止水という言葉があります。

この明鏡とは、一点の曇りもない鏡のことをいいます。 そして止水とは、静かに澄んでいて、止まっている水のことをいいます。そこから「明鏡止水」はよこしまな気持ちを持たない、澄み切って落ち着いた心ともいわれます。邪念がないということです。それは言い換えれば、透明で澄んだ心を持っているということです。

私たちは、なぜ掃除をしてお手入れが必要なのか。その問いはすでに答えのあるものです。生きていれば、いや、この世はすべて時間の経過や関係性というご縁によってつながり様々な恩が循環していきます。その都度、善悪も誕生すれば、清濁も発生します。それを、丁寧にととのえていくことで私たちはこの世でバランスを保っていきます。

これが円環でもあり、一円観でもあります。

だからこそ、常に鏡を意識して生きていくことで私たちは自分というものと上手にお付き合いして自他一体の境地で自然体を志していけばいつの日かかんながらの道に出会い、先人たちの目指した理想の生き方やその心境に達していくこともできるように思います。

そのためには、私たちは真の豊かさとは何か、真の幸福とは何かといった生き方と正対していくことが最初の入り口なのかもしれません。

子どもたちの未来のためにも、鏡にいのる日々を精進していきたいと思います。