自然平癒と平衡感覚

今の世の中は様々な唯物論で仕分けされている。

全ての陰陽や善悪、その他も分けて考えるようになっている。この分けるという考え方は、物質的思考であってその方が現実として認識することができるからです。例えば、代表では医療などもそうですが昔の民族などが自然治癒と外科手術を同時に両立させたような遣り方は今では否定されて分科され宗教とか魔術とか言われていたりもします。

シャーマンであったり、手当できるような霊性が備わる人などということも遠い昔の話になっています。もしくはそちらばかりに偏れば、怪しい精神世界の人々などと揶揄されたりもします。

実際は、心の世界と体の世界は調和しているところに存在していて分かれているわけではありません。健康という意味も、病気か健康かではなくそれを超えたその間があるということです。それは善悪調和の善であったり、陰陽調和の陽であったり、有無調和の在であったりとするように本来は絶妙なバランスのところに存在しているように思います。

特に最近は、病気について深める機会が多くなぜ治るのかと考えているとアンドルー・ワイル氏の著書「人はなぜ治るのか」に出会いました。地球交響曲で拝見した時は、気づきませんでしたが今ならその真意に触れている気がします。

そこにはこう書かれています。

「全体にはふたつの属性がある。全体を量的に完全(complete)で、かつ質的にも完全(perfect)なものと定義すれば、それでいい尽くされている。さらに、ある理想的な全体を考えれば、それはただ部分の集合体ではなく、すべての部分が調和的に統合され、バランスを保って配列されているものがそうだといえる。完全およびバランスは、昔から神聖の象徴だとされている。健康という概念の根底にも、そのふたつがつきものなのだ。」

と、さらにこう続きます。

「要するに、聖なる神に仕える人は、その人自身が神聖でなければならない。創造主の完全性にならって欠けたもののない、まったき健康体でなければならない。この神聖と健康のつながりは、宗教と医学の共通基礎なのだ。多くの文化では、両者はかつて一度も切り離されたことがなかった。」

そしてワイル氏は、「あらゆる病気は心身相関病である」と言い放ちます。

身体的なものと精神的なもの、つまりは心身の不調和が引き起こすものであるということです。そして全体の調和のためにはそれは必然であり、病気も健康もまたそれはバランスの存在そのものとして完全に結びついているということです。

何をもって健康というのか、何をもって病気というのかは全体を一部として捉えるのではなくあらゆる心身の相関を完全体として認識するときにこそ調和という理解ができるのだという考え方であろうと思います。

健康であろうが病気であろうが大丈夫という発想、そして健康も病気もまたバランスを保つ上では欠かせない存在であるということ。自然治癒というものは、自然がそのようになっているということを知り、極力その自らに備わる自然の邪魔をしないように心身相関に正対していくことのように私は感じました。

昨年から自然を学び直していますが最も身近な自然とは、自分の心身のことかもしれません。
心身と正対することで平衡感覚を養うことが、自然を学んでいることにもなっています。
そして今回のように気づいた自然平癒こそが、何よりも回復の妙法かもしれません。

全ての機会を学びに換えて、子どもたちの模範を目指していこうと思います。

御互い様 〇

大人になるというのは、自分の思い込みの中でいようとするということかもしれません。

子どもの頃に当たり前だったことが分からなくなってきて、頭の中で憶えたことでうまく世の中を渡っていけるようになるものです。しかしそもそもを考えてみれば、未熟さというものは一生涯変わらないものでその未熟な人間が他人を育てたり他人に教えたりしているのです。

例えば、先生と言われる人たちも親と言われる人たちもまた仕事でプロと言われる人たちですら未熟さを持ったままで生きているように思います。

だからこそ時間をかけて成熟していく中で、様々な出来事が起きてそのことから深く学び生長を続けていくのです。もしも未熟ではなかったならと時折、悔いそうなときもありますがそれは本来は違うのです。

未熟者同士だからこそ、御互いの苦しみや歓び、幸不幸をシェアしていくことができるのです。

人はそうやって魂をいつまでも研鑽し、高め合う中でご縁を結び、そしてより澄んだ共感を得て共生の美しさに気づいていくように思います。かつては、逆の立場であったものたちが、今回はまた異なる立ち位置で学び合う、自他一体の境地で相手を思いやれば相手こそが自分で自分が相手であるのです。

だからこそ未熟は未熟なりに、正対し真正面から取り組んでいくことが誠意であろうと思います。お互い様というのは、真にお互いを共感するときにこそ感じられる境地かもしれません。それはまるで円環しているように〇く廻りつづけるものかもしれません。

学び合える人がいることがご縁の神妙さかもしれません。

今の風に吹かれて、回り逢う友に愛と感謝を手向けたいと思います。

子どもになる~自然観~

子どもと共に遊んでいると子どもになっていきます。

子どもはどんなことにも興味を持ち、私たち大人が当たり前と思っていることにも大きな驚きと感動を示します。そして地球の中で自分たちが夢見る現在に生きています。子どもたちがあんなに楽しそうにしているのは、そこに自分の生きる現在を持つからです。

大人になれば、先々のことを心配したり、過去を悔いたり、心配事はいつもこの現在の中にはありません。そうしているうちに、この現在の中にある一瞬の驚きや感動に生きることを忘れてしまうのです。

昨日、死生観についてのブログを書きましたが生きるというものはそもそも現在そのものでいることであり、死もまた現在そのものでいることであろうと私は定義するのです。

一生懸命に現在を生きるというのは、子どもになるということでしょう。

私の子どもは、この現在の中に棲んでいます。

私は子ども第一主義というものの本質には、この子ども心を失わないでいるということであると思っているのです。子どもの中にある、すべての感動や感性を失わないままで私たち大人たちが現在に生きればこの世は一体どうなっていくのかを死ぬまで見届けたいのです。

子どもに学んでいくことは、忘れてしまうような当たり前のことに気づき直していくことです。

生涯かけて、子どもになることを学び続けていこうと想います。
これが私の自然観であり、子どもの姿です。

初心

昨日は、初心や原点回帰についての研修を行いました。

改めて自分が何のために働くのか、生きるのかに真正面から向き合うことは自分らしく生きて自分らしく死ぬためには欠かせない大切な時間です。人は、毎日の生活の中で流されてしまうことで日々に方法論ばかりを考えて判断していくようになります。

そうなると周りをみては、自分の人生を歩まずに誰かに合わせて生きていくような生き方を優先してしまうことになります。自分の生き方は、別に環境がどうであれ貫こうと思えば真摯に自分の心に正直に一つ一つを丁寧に取り組んでいかなければなりません。

それはまるで遠くの目標に向かって歩んでいくかのように、亀のようにじっくりと前進していくのです。しかしそれが人生でもあり、死を迎え、最期の時を迎えるまで私たちは呼吸をするかのように続いていくのです。

そしてその自分の生き方を歩んでいくことを道といい、これは自分が何のために生まれてきたのかを確かめその生を全うしていくともいうのです。

アップルの創業者のスティーブジョブスに、スタンフォードが大学でのスピーチがあります。偶然にも先ほど思い出して調べていたら、似た思想があったので紹介します。

「When I was 17 I read a quote that went something like “If you live each day as if it was your last, someday you’ll most certainly be right.” It made an impression on me, and since then, for the past 33 years, I have looked in the mirror every morning and asked myself, “If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?” And whenever the answer has been “no” for too many days in a row, I know I need to change something. Remembering that I’ll be dead soon is the most important thing I’ve ever encountered to help me make the big choices in life, because almost everything–all external expectations, all pride, all fear of embarrassment or failure–these things just fall away in the face of death, leaving only what is truly important. Remembering that you are going to die is the best way I know to avoid the trap of thinking you have something to lose.」

(17歳の時、私はこんな文章に出会いました。「日々を最期の日だと思って生きなさい、それがあなたの最期の日になるのだから」私は大変な衝撃をうけました。そしてその時以来ずっと33年間、私は毎朝、鏡の前の自分に問いかけてきました。「もし今日が人生最期の日だとしたら、今日私がすることは本当にやりたかったことなのだろうか」そしてその答えが「間違いだ」という日が続くようであれば、何かを変える必要があるということです。死を想うことを忘れないこと、それが私の人生の決断を下す際に大きな手助けとなりました。なぜなら、周りの期待、全ての自我、失敗や屈辱の恐怖、こういったすべてのことは死と向き合った瞬間に消えるからです。そして最期には本当に大切なものだけが残るのです。)

心が何を決めているのか、何をしたいと感じるのか、この時の「初」という字は、根本のことであり何をすると決めているのかを常に確認するときに用いる「原点=初」という意味です。初心というものは、その原点に何を想うのか、そして死を想うときや最期を想う時こそ、私にしてみれば初心を確認するという意味になるのです。

最期に、スティーブジョブスのこの言葉で締めくくりたいと思います。

「And that is as it should be, because death is very likely the single best invention of life. It’s life’s change agent; it clears out the old to make way for the new. right now, the new is you.」

(生死はあるべきです。死は生命によっての唯一最高の発明です。そのことが生命に変化を起こすのです。新しいものの為に古いものを消えていく。そして今、新しいのものはあなたたちになるのです。)

『死こそ生の最高の発明である』

ここに私も心より共感し、自分を生き切るための至言であるように思います。つまりは、私たちは死を想うことで今を真に生きていくことができるということだと思います。私が同じように「メメント・モリ」という言葉に出会ってからはや18年が経ちました。

初心を大切に、かんながらの道を確かめていきたいと思います。

 

原天還奇

人は生きていれば、様々なご縁に導かれます。

いつも感謝するのは、自分が今、周囲にどのようなご縁に恵まれ、見守られているかを実感するときです。素晴らしい方々の中で、互いの生き方を学び合い助け合うということは本当に美しいことだと思います。

それぞれが人生を生き切る中で、様々な苦労をしそれを糧に大切なことを学んでいく。そしてその学んだものを交換しあうことで助け合うことができていく。そう考えてみると、人はそうやって天からいただいたいのちを、天の心が何かを知り、天の心の一つ一つの徳を感じながら幸せを実感しているのかもしれません。

そもそも私たちを創造したのは宇宙でもあり、天でもあるのだから私たちの中にその天があることは間違いありません。そういったとても大きなつながりの中で学び合っていると感じる時、不思議で壮大な見守りを思います。

だからこそ、その御恩に報いるために自分を常に役立てていこうと思うことが循環をより善くしていくことのように思います。自分の責任として、自分の生をより善くしていくことは世の中をより好循環するために自分を活かしたことになります。

もっとも好循環していくのに大切なことというのは、自分をより多くの人達に善いことになるよう御役に立てたい、誰かを思いやり少しでも善いことになるよう貢献したいと、天に学び、御恩に報いるために正直に真心のままの日々を取り組んでいくことのように思います。

人は御恩やご縁に報いずにいるから自分の心配で一杯になってしまいます。そうではなくご縁を噛み締めより多くの人々や生きものために心配することで自然の中に入り、自分をいつも見守ってくださっている天の偉大な心配を実感することができるように思います。

見守るも、その保育も、その真なる心は常に天に帰すように思います。

つながりの不思議さに驚きながら自らの原点回帰と同時に、原天に還って、奇妙なご縁を楽しんでいきたいと思います。

 

愛でたい日

昨日は、寺田本家の蔵見学にクルーの皆と参加することができました。

震災から復興に向けて、何を変えるべきかを悩み取り組んできた二年がここにあります。あの頃の初心を思い出し、あれから決心して何に取り組んだのかそれを確かめるためでもありました。

人が何かを変えるというのは、あることを契機に今までの自分を見つめ直し、そこから何を已めて何を創めるかということを決めるかどうかによるように思います。震災で犠牲になった方々、そして自分の中にあるどこか間違っていたという自覚、ただ文句を言うのではなく反対運動をするのではなく、何を心に決めて今に取り組んでいくか、そこに真の反省があるように思うのです。

物事を傍観するのではなく、謙譲の精神で自らを正していくことが正不正ではなく真の正であるように思えるからです。それは大変厳しいものでもあり、律していくものでもあり、そして愛が必用であるように思います。

発酵という取り組みでも、ただ興味関心があるからやるのではなく何から見直していくかを私たちは自然から見直そうと考えたということがキッカケです。何が自然かは、自然をじっくり観察していると自然がいつも教えてくれます。あのような大きな出来事があったからこそ、自然を畏れ、自然が学びなさいというメッセージが心にあったと感じたから今があるのです。

もともとキッカケというのは、大小もなく自らを省みていく中でその種が育ち芽が出ていくように生成されていくものです。それをどのように感受するかは、そこに生き方が必用であるように思います。子どもたちも私たちが一体今の社会をどうするのかをよく見ています。だからこそ私たち一人一人には責任があるように思うのです。

昨日の発酵蔵での出来事や、その自然酒における姿勢は、私たちの取り組んでいる子ども第一主義に相通じているところが沢山ありました。業種業態が異なっていても、実践していくことは大義のために生きること、そしてその真心の勇気を広げていくことかもしれません。

心地好い気持ちでお酒を仲間と呑んでいたら、この今を愛でたくなりました。
いつも有難いご縁に心から感謝しています。

改然の妙理

時間をかけてじっくり育っていくものにより善くしていくというものがある。

これは発酵の原理と同じで、今よりも善くしていこうとすることが生きるということかもしれません。人間は歳とともに、発育生成していくものです。じっとしていても身体も心も次第に育っていくようにできています。だからこそ、自然というものは浩然の氣に満ちていて万物は徳の中に育成されているというように思います。

自然というものの中に身心を置く私たちは、常に改善していくことが自然であるということです。

しかし実際は、大事なことを忘れてただ生きながらえることや目先に自分の目先の欲望のために動いてしまうことで様々な悪循環を抱えてしまうとも思います。

物事は禍福一円、常に出来事には意味が存在しています。

その意味を一つずつ学び、さらに今をより善いものしていくことで自然の法理にスパンと入っていけるというのが本質であるように思います。

発酵を学んでいく中で、私が感じることは継続していく中の改善にこそ発酵の真理があるのではないかということです。糠床ひとつをとってみても、やはり創意工夫がなければ味もなにも分からなくなっていきます。

常に研究と開発、そして弛まない創意工夫というものが自然の力を引き出すものであり、その状態の時はじめて人は自然を覚知できるように思います。

自然農も自然養鶏も自然発酵も、どこにも実践していく中で共通するものを見出せます。
同じ理念を共有しながら、日々に改善を繰り返すことに安息も安泰も活きています。

今年は「家」がテーマで、本日は会社のクルーたちと皆で寺田本家の蔵見学に伺います。

より善いものを取り容れ、より善いものに換えて子どもたちへ貢献していきたいと思います。
改然の妙理を楽しみたいと思います。

幸福論

幸福論については古今東西、様々な人が様々に語られます。

人は誰しも幸福になりたいと思っています。しかしその幸福とは、物質的なものがあることやないことなどではなく、在り方そのものが関係しているように思います。

人が真に幸せを思う時、それは当たり前の中に実感します。
そして福を思う時、全てのご縁に結ばれていることの中に実感します。

そう考えてみると、ないものの中にあり、あるものの中にもあるのがこの幸福というものかもしれません。ただそれを感じることができるかできないかで左右されるのかもしれません。幸福の反対は不幸ではなく絶望だと聴いたこともあります。

この絶望とは、希望のことで、人は真に絶望を感じる時に希望を見出すというからです。そうであればやはりこれも福であり、幸せの種になっているように思います。自分の見方次第で如何様にも幸福になれるというのが真意なのかもしれません。

先日、義務や責任を引き受けるという話を考えているととても共感できる文章に出会いました。これは星の王子様のサン・テグジュペリの思想ですが、それをイエローハットの鍵山秀三郎さんが紹介しています。

「ほんとうの幸福というのは、決して自由気ままに生きることではありません。そこは幸せはないと思います。義務を甘んじて引き受ける、さらには自ら進んで引き受ける中にこそ、真の幸せがあるのです。」「幸福への原点回帰」(文屋)

つまり、自分の自由が幸せではなく大いなる義務を自らが甘んじて引き受けることこそ幸せがあると言います。これは自分勝手に生きれるから幸せではなく、不自由と思えても自分以上の偉大な使命のために自分を使役できることが幸せなのだと言います。

さらにこう続きます。

「逆に、ふだんから誠心誠意を尽くす勤勉な人に対しては、周囲から干渉されたり、監視されることがなくなり、自由に幅が広がっていきます。真の自由を手に入れるのは、自分の役割や任務、使命を自覚して、自らを律しながら、日々、地道に努め続ける人だと思います。自分のすべきことを満足に果たすことなく、自由ばかり求める人は、自分で自分を縛りつけてしまうのではないでしょうか。」「幸福への原点回帰」(文屋)

一見、何かの役割が多い人を人は不自由に思います。今の時代は特にそうです。私にも師と仰ぐ人がいますがその人は、時間を惜しむように理念や使命に生き、自分を滅して他人様のために尽くして生きています。それは野心ではなく、真心でいるからできるように思います。自分のためと生きる人と、他人のためにと生きる人。本来は、他人のためにと生きていることが自分のためになり、それが不自由にいるようでもっとも自由なのかもしれません。

人はいのちはつながりの中に存在するものです。それを自分らしいといいながら自分勝手にすることを自由とはき違えて我儘をすれば孤独になることは必然です。だからこそ、大きな使命のために自分を役立てていこうとすることが幸福そのものなのかもしれません。

他人が不幸と思うから不幸なのではなく、幸福と感じられないから不幸であること。そして真の幸福は、至誠や真心を貫いたところにいつも見守っているものだと実感します。これからも折あるごとに幸福論について考えてみたいと思います。

偉大な凡事~凡事中無尽蔵~

人が変わるということは、甘えを断ち切り非凡になるということかもしれません。

人として当たり前のことを当たり前に行うというのは、この当たり前を何に定義していくかによるのです。例えば、生き方というものや働き方というものは業務云々に出てくるものではなくその大前提としてどう生きているか、どう働いているかというものがあります。

生きている方をいえば、感謝で生きる人、いつも譲る方を選んで自分を利他のために発揮させていく生き方。また働き方でいえば、御役に立とうと御蔭様で働く人、いつも与える方を選んで自分を世間様へ役立てていく働き方。

そういうものが当たり前のことであろうと思うのです。

何をもって凡事というかというのは、この凡事とは当たり前のことであり総じて非常に尊い行為のことをいうように思います。人は何かをする前にその動機が何かを常に問われるように思います。その動機次第で、結果が良くも悪くもなるように思えるからです。プロセスを大事にしていく生き方や働き方というものもその当たり前のことをどれだけ徹底したかということによるように思います。

全ての問題は自分にある、100パーセント自分のせいと思う生き方の中にこそ昨日と同じく真理の門は開くように思えます。矢印が自分というのは、完全に自分に向いているときしか分かった気にならないということでしょう。

人が生きるのも働らくのも、そして幸せになるというのもこれらの凡事の中にあるのです。

「年輪経営」(光文社)で有名な、塚越寛氏の著書でモチベーションのことが書かれていてとても共感しました。そこにはこう書かれています。

「彼らが望んでいるのは、穏やかな人間関係の中で、自由にのびのびと仕事ができる職場です。これは甘えを許すこととは違います。自分で自分を律しながら、常に向上心を持ち、新たな目標に挑戦していかなければ、会社にとって必要な人材とは認められません。管理されるよりも、もっと難しいことなのです。よほど高いモチベーションを持たない限り、実行できないでしょう。私は、社員のモチベーションを上げるのは、お金や地位ではなくて、「働いて、去年より良くなった、去年より幸せだ」と感じられることだと思います。去年より今年、今年より来年の方が、幸せ感が増してくるような会社。そんな会社にいれば、自然とモチベーションは上がってきます。だから経営者は、今年は去年より少しでもいいから、社員が幸せを多く感じられるようにすることが大切です。」

今の世間では、モチベーションは何か勘違いされていて生き方も働き方もそこには問われず、目先の損得や、ちょっと先の自分にとっての利害かどうかだけのモノサシで動いていることが多いように思います。

本来、人が人生に意欲をもって生きるというのは自らが高い目標を引き受け、世の中の御役に立とうと真摯に取り組む中で出てくるもののように思います。それは使命感ともいい、それが向上心ともいうものです。

経営者自身の姿勢が、働く人たちに感化していくように思います。そして組織改革も、まず根本から見直さなければ改革したとは言えないように思います。まずは何の当たり前から取り組むのか、遠い先の光を追いかけながらその脚下の偉大な凡事を見つめてできるところから自然に取り組んでいこうと思います。

かんながらの道の実践に心から感謝いたします。

原点回帰

よく読書や他人から聴いた話を理解した気になることがあります。

世の中には、様々な道理や真理がありそれを聴けば一応に頭は理解していくことはできます。しかし実際は、自分のものになるのはそのずっと後のことであるほうが多いように思います。

例えば、師から私淑した道理についても諭されたからとそこではまったく理解できず長い年月の真摯で直向な実行と実践の中ではじめてその意味を掴んでいくことができるからです。私の場合も、いつも教えられたことをノートに記し何度も実践してはまた読み返していく中でこういうことだろうかと自問自答してある時、また確かめ、また私淑し自分の心身へ透過していくように学んでいます。

しかし焦りや不安があれば、それをすぐに頭で理解したところでやろうとしますがそれでは一向に道理を学んでものにしたわけではありません。人は、まず実践していくことを優先し、長い年月の中で一つ一つをカタチにしていくことこそが本来の学びの姿勢であると思えるからです。

森信三先生の言葉に、下記があります。

「実践しなくてもわかる程度の道理は、大したものではありません。自ら苦労してやってみない限り、真理の門は開かれるものではありません。」

自らの苦労なしに、真理の門は開かれない。

まさに至言であろうと思います、いくら知ってもそれはやっていないのなら真理ではないということ。つまりは実践していくことこそではじめてその門は正しく開くということを仰っているのでしょう。誰でも知れば悟れるのなら、偉い人になってしまいます。

掃除一つでさえ、その人の掃除が人生を懸けたものであれば同じことをしていないのに分かるはずはありません。何となくいいものだろうでは、それは真理に対する姿勢が歪んでいるのです。善いものは心から覚悟し実践すると決め取り組んでいく中で、その人まではいかなくてもその人の言おうとすることが分かる気がするところが真理の門であるように思います。

すぐに保身から責任を引き受けることを恐れ、単に結果さえ出せばいいという現代風の価値観で物を語るのではなく、決めた原点回帰を継続していくために実地実行のプロセスを大事にしているかどうかが生き方の姿勢に顕われるように思います。形式的にだけやったり、便宜的にだけやったりしても、それは本気でやっているわけでないのだからいつまで経っても現状が変化することはないということです。

実践することで正せることも大事ですが、実践しないことで不正になってしまうことがあります。いつも誰かに与える側でいるのか、いつも誰かから奪う側でいるのかもその生き方が決めているように思います。与えられているからと言って、それに甘んじていたならばそれは自分の本来の自発力を使っているわけではないのだから悪循環の流れに乗っかってしまうのです。

門を自ら開けるのも自分、門外の塀で佇んでいるのも自分。

何をもって自分を律していると言えるのか、本来の正しいことを行うとは何か、もう一度、原点回帰し深め実行し直したいと思います。