愛心の貧困と飢餓

世界にはたくさんの有名な人たちや識者が分析解読して、読みやすく知識が豊富になる本があるけれど、私が好きな名著はそのどれも実践をすることで思想を書き記し、たまたまそれを周囲の人たちが忘れるものかと本になったものがある。

これは同じ道を歩んだ人だけにしかわからないようなものにしているものであり、私にとっては何よりも名著ということになる。

常に読書とは、実践により深めていくものだし、その実践をしている際に道しるべとして天人合一、大自在の観念を確かめていくものだとも思う。

古来、聖賢といわれる人たちはすべてに自分の内面にある真実と対話を行い、その対話を大いなる道の中で記していくことで遺していく。

人が感動するのは、そういう純粋な魂のような生き方に自分が忘れているものを呼び覚ましてくれるからだとも思う。

今、世の中が互いに愛し合うことを忘れ、物質的豊かさこそが愛だと勘違いしてしまうほど心を蔑に生きている人々がより世界の飢餓を蔓延させている。

そういうものであってはいけないといっても、人々は「浅い処」に身を置くものだし、本来のあるべき深い処はなかなか踏み込んではいかない。

静かであること、穏やかであること、清く澄んでいることができないのは、やはり人としてどうあるべきかということを皆が確かめないからだとも私は思う。

愛の実践というのは、そういう日々の生活に心を籠めて生きることにある。
眼前の作業に追われるのは、まだ浅いということであり、人は誰でも決意と覚悟があれば流されず深い処を歩むことができるのだと私は思う。

私が実践している、師の見守る保育では異年齢でその子のその子らしさを保障しながら、他と共生するための自律を養い、自活し自立できるような環境を用意し、信じて守るという実践をする。

これは排除しないということでもあるし、あるがままを受け容れるということでもある。この逆は、画一化するということ、画一化するというのは、同じ価値観を強制し、人を強制し、無理やりに自分たちにあわせて言うことをきかせるということになる。だから排除がいる。

マザーテレサの実践に下記がある。

「かつて私は、ゴミ溜めの中からひとりの女性を拾い上げました。彼女はひどい熱で、燃えるようでした。彼女の最期の日々、言い続けた嘆きはたったひとつ、「息子が私をこんな目に遭わせた」と。私は彼女に頼みました。「息子さんをゆるしましょう。怒り狂ったような瞬間に、彼は彼自身ではなくなってしまったのですよ。だから、後悔するようなことをしでかしてしまったのです。息子さんの母親であり続けてください。彼をゆるしてあげてください。」とても時間が必要でしたが、彼女はとうとうこう言いました。「私は息子をゆるします」私の腕の中で死ぬ直前に、ゆるしの心をもってこう言うことができました。彼女は自分が死んでいくことをまるで気にかけていませんでした。心が張り裂けそうになるのは、息子が彼女を要らないということです。このことは、あなたも私も知っている現実のひとつなのです。」

なぜ排除したのか、排除しないといけなかったのか、ここに大きな外圧があり、人を捨ててもいいという誤った正義が権力や経済により生まれなかったかということでもある。この現実は、私たちが他人に向けたり、大勢の人々や弱者に向けたり、もしくは同僚や友人に向けている眼差しがないだろうか。

何も不必要なものはないといえないのならその愛は、まだ未熟だということになる。身体だけは育ったけれどまだ愛は育っていないということでもある。愛を育むことは愛し合うということに他ならない。

そして、さらにマザーテレサはこうも言う。

「今日の人々は、愛に飢えています。愛だけが、孤独とひどい貧困に対する唯一の答えとなるのです。飢える心配をする必要のない国もあります。けれど人々は、ひどい孤独とひどい絶望、ひどい恐怖心にさいなまれています。彼らは、だれからも求められていないという拒絶される悲しみと、救いようもなく、希望のかけらもない気持ちを感じているのです。こういう人たちは、ほほえむことすら忘れてしまっています。そして、人間同士のふれあいの美しさも忘れてしまっています。人の愛など、とうの昔に忘れ去っています。こうした人たちには、彼らのことをわかろうとし、大切にしてくれるだれかが必要なのです。」

(同じくマザーテレサ日々のことば(女子パウロ会より抜粋)

命というものを結ぼうとしないこの世の中には、必ず戦争の火種が潜んでいると私は思う。人が奪いあい殺し合い、憎み合うよりも、愛し合うことを優先しなければ平和な社会は創れない。

「浅き河も深く渡れ。」これは星野道夫さんの遺訓でありカグヤの理念の始訓。

関係することもそうだし、思いやることも同じく、人は出来事に対してどれだけ自分が主体的に関わるかで物事の在り方は変わってくる。

自分が必要とされるなら自分から受け身であることを捨て去り、愛の実践を深めていくことだと私は思う。

子どもたちには、自然に相手を思いやれる心をそのままに育てていけるような見守る環境を用意し、お互いに愛し合えることの素晴らしさを育みながらその愛が広がっていくようにと祈る。

愛のあるところに同じ生命があることの掛け替えのなさや、命が結ばれることの美しさを体現できるように日々の実践を続けていきたい。

理念の理解

人物のことが分かるには理解がある。

先日、マザーテレサとマハトマガンジーの映画を続けて見ることがあった。
その際、その人の人生を俳優が演じ、監督が演出するのだけれど、画面を通しての本人たちは分かるけれど実際の人生は生々しく到底今の私には理解することが難しい。

理解と言う字は、理を解すると書く。
理が分かるというのは、同じような実践によりその理が身に着くと言うこと。

映画の中で、偉人を理解しない大衆が次々と現れその人の遣りたいことを妨害していくシーンがある。そしてそれはとても身近な仲の良い人でもその人を理解せずに良かれと思いつつ妨害していくことがある。

長い付き合いなのにその人をことを理解した気になり、いつもその人の周りに居て親切心で最大の妨害をしている人がいる。

みんな周囲はその人は良い人だからなのだと思いこむけれど、本当は偉人の理を解さず誤った発言と行動によりより偉人を孤独に追いこんでいくことがある。しかしその人の素直な気持ちがあるから最期まで偉人とともに歩むことができ、偉人を言葉では理解できなくても心で伝わり感動することができるのだと思う。

人の素晴らしさとは、そういう感動することだと改めて感じることができる。人は素直さがあれば良いけれど、素直でなければどんな意味もどんな価値も守ることはできない。

しかし、そうはいっても周囲のことはどうあれ歴史を鑑が観ると偉人はみんな孤独の中で孤独を味わい尽くしながら自分の信念を自立し醸成する。

誰からも分かってもらわなくても自分が定めた菩提心(利他)で生きることを常に優先して耐えて諦めているのだとも私は思う。結果としては、次々に理解されなかったことがそのものの信念を強くしたので良かったのかもしれないが、私自身はどうしてもそれを見ると共感してしまい悲しく辛いことであり、そういう人たちが孤独に闘っているところを観るといてもたってもいられない気持ちになる。

私も師匠が深い慈愛と真心で子どもたちのために取り組んでいる日々を思うと、自らの怠らなさや至らなさに恥ずかしい思いがし、何とかそういうことを理解できうる覚者になりお手伝いしたいと願わない日はない。

他人のためといいながら自分のためにやっている偽善ではなく、他人のために自分をなくし本当に他人のために生きる至善の人を何よりも心の同志とし助けていきたいと思うのは私自身を正義のままに守るためでもある。

通常人はつい物事を自分の判断基準、自我を通じた身勝手なモノサシで物事を見ようとするけれどそこに大きなワナと落とし穴があるのだと思う。

なぜなら公のために理を優先して生きる人というのは自分のエゴを入れる人からは想像することも近寄ることもできずその人を正しく理解することは難しくなる

さらに「理のみ」という真理で生きる人というのはそれほど無我であり自然一体であり、まだ植物や動物、昆虫ならまだしも、普通の人間には安易にできないことをやっているから解することができないのは当然のことだと私は思う。

でもそういう本物が人類を善き理解者として正しく導くものだし、そういう人だけが調和の中で人類を豊かさな方向へ示唆していくものだと私は思う。

きっと仏陀もキリストもさらには、孔子もコルチャックもマザーテレサも、空海も、思想の遺志はそうやって引き継がれていくものだとも思う。

だからこそそういう人に対して、誰がどのように論評するのは周囲の自由だけれど、もし正しいことを自分もしたいのならば本当に理解したいのならば当然自らも理のみの実践で感じてみることだと思う。

普通の人は利のみで生きる、真実の人は理のみで生きるのだと私は思う。

単に人を分かった気になるのは、やっぱり正しく理解しないから。

誤解したり、偏見を持ったりしていてはいつまでもその人のやりたいことが分からないし、本質的に自分を尽くしていくことができなくなる。

理念とは実践をしてこそはじめて解するもの。
理念を理解することは、理を学び、念じることで次第に解けていくもの。

私たちの現場にいるあの幼い子どもたちがよく本物が分かり本質的であり正しく理念が伝わるのは本質的にその存在がまだ自然であり理のままだからだと私は思っている。

だからこそ、私たちは子どもたちからよく学び、その自らの理によって周囲や環境を解していくことで仕組みや環境、技術を用意することを大事にしていかないといけないと思う。

安易な発想やビジネスは大人は騙されても、子どもや自分自身を欺くことはできない。

そしてそれぞれ自分たち大人が、何より子どもの理を実践し、寛容と思いやりを失い自ら気づき自立できなければどうやって子どもたちのあるがままの発達を見守ることができようか。

まずは自分が理で生きている人に近づけるよう、私自身は、今回のことからも深く気づき、何より自らの分度を定め、理を実践していきたい。

一期一会

分度を立てる

制限なく物質的欲求を求めるグローバル経済に於いては、いつもお金というものは何よりも先に優先される。

論語大学に「徳は本なり、財は末なり」とあるといっても今の世の中ではそれぞれがその理屈を自分本位に考え、富を持っている人も、また持っていない人も、自らが先に何かを与えるよりも不景気だからという理由で得ることばかりを求めているようにも思う。

得ていないから与えられないのではなく、与えるために得るのであればそれは正しく得ることができるのではないかと思う。そういう規範や模範こそが価値があるのであって、その額の大小でも質量でもないと私は思う。

貧富ありといえども、そういう徳を優先すれば必ず財はなくなることはない。

世界経済はそれとは逆に表面上は良くなると欲を駆り立てまずそれを満たすためのものと与えつつ相手から多くを奪い、さらにもともとあった文化や規範までも奪い続けてその見返りに権力を買収し自分本位に膨大な富を独占しようとする。自国を出て、自国では良い人になり、世界ではルール違反をして稼ぐということが果たして商売道の仁義によるのかと思うと考えさせられる。

インディアンや蝦夷の人たち、島の人たちなども静かに暮らしていたところに容赦なく自分たちが占拠し、生きる場所を奪い、生活を奪うことにどういう仁義が立つのかとも思う。

昔の賢人たちは、自らその地域のものを地域で流通させ、自分の分を定め、その分以上は余剰として地域へ貢献したり、もしくは有事に備えて困ったときに助け合うための財とした。もともと力をあわせて生きていくために、何より自らを律し教育し、力をあわせて生きてきた。

しかし今は、人々が自ら分度を定めず際限なく好き放題に得て使うために収拾がつかないほどの大変な事態になっている。

世界から物心ともに貧困がなくならないのもその理由によるものだし、戦争が絶えないのもそういうことが理由になっていると私は思う。

二宮尊徳にこうある

「盛衰治乱存亡の本源は分度を守ると守らざるとの二つにあり。我この分度を守りて領中の衰廃を興し百姓を安んじ上下百年の艱難を免れしむ。子孫永く我が志を継ぎ、富優のときに居ると雖も本源たる分度を確守して戻らざるときは、永世上下の福余りありて衰微の憂いなし。」

これは、みんなでともに分度を守れば皆が安心して生活でき、子孫も末永く富裕貧困の外で豊かに暮らせるということ。

そしてさらにこうある。

「若し夫れ貴たり富たる者、各々其の分を守り、以て余材を推し、諸を賤貧に及さば猶ほ天気下り地気上り、天地和し万物育するがごとし。貴賤貧富相和し貨財以て生じ、両両相須ち、治生日に優して、国家必ず治まる」

そしてこれは、身分が高く裕福な人がすすんで助けていけばよく天下が治まる。なぜなら、こういう模範があるから貧しい人も自分も何か助けたいと思うようになるからだという意味になる。

人間は、徳を優先して、人としての道を歩めば自然に道徳的になる。
分度を定めて道徳的になれば世の中が平和になる。

常に時代や歴史を観ても分度を守ると守らないではまったく世の治まり方が異なるということがこの言葉からもよくわかる。

まずそれぞれに上下の役割のあるものたちがそれぞれに正しく分度を守ることが太平興隆の世の中になり、もしもそれぞれに分度を守らなければ戦乱衰退の世の中になるということ。

今は時代として上下の役割あるものたちが際限なく営利やお金を求める時代だから次第に荒れて衰退していくのは火を見るよりも明らかということはすぐに分かる。

これからもこれを改善して、もったいないや足るを知るなどまず自分が正しく分度を定め、分外を恩徳や感謝で判断して行動できなければ興隆はない。

今は平和に導くためにも特に皆がそれぞれに分度を定めて協力する大切な時期だと私は思う。

自分本意ではなく、利他発心を優先し、まずは自分から分度を定めて徳を明らかにし、世直し行を一筋に誓願して実践していきたい。

二宮尊徳のコンサルティング仕法を学び、より子どもに関わる大人たちへの影響力を高めていきたい。

守る

見守るということを深めていくと、まず見るということがある。それは、何を観ているかという自分の在り方を大事にすることだとし、信じると言うことは何も抗わなく排除しないすべてをあるがままに受け容れる心のように思う。

今回はこの「見る」ではなく、「守る」の方について考えてみる。

先日、子どもを守るということである園の職員会議の話し合いに参加した。一概に守るといってもいったいその何を守っているかによる。

例えば、発達を守るでも自立を守るでも何でもいいけれど不思議なことにあれだけ守る守ると全員でと約束していながらできていないことが多く、そのできないことの話し合いばかりが永遠に繰り返されていてみんなが色々疲れてきていたりする。

誰かがそういう約束やルールを平気で破り、自分からその意味の価値を下げていく。

私は共生とは、「一人で生きるために、みんなを大切にしていくこと。それがみんなと生きることになり、自分を大切にしていくこと。」だと思っている。

なのにできないのは私心や私情をそこに挟むからだと思う。
これをエゴとも言う。

しかし、公の集団、昔でいえば会社は公儀というものになる。義理と筋道があって人の世のために創られた社会の組織ということだ。

その組織が明確に信条としての筋道であるその大義としての理念を掲げて遣るのだから、「守る」のは私心や私情ではなく、公のため、つまりは世のため人のためここでは子どものためなのだからまずその公儀を優先することを明確にしなければ誰かが私情を言いだすときりがないし、それでは価値も何も守ることはできないのではないかと私は思う。

そして守るとは、私は師匠から両立ではなく優先順位を決めることだといただいたことがある。年々その言葉の深さや有難味が骨身に沁みる。

論語、「大学」のこうある。

「物に本末あり、事に終始あり、先後するところを知れば、即ち道に近し」

この先後とは文字通り優先順位のことを言うのだと思う。

もちろん正しく守ろうとすればするほど常にその時どきの判断する心が澄んでいることが求められる。そしてそれは急にはできず、日頃の正しい生活や心ばせを誠にする実践が求められ、そういう本懐を遂げるための日ごろの準備や自分の在り方の定石により次第に咄嗟の判断ができるようになるのだと思う。

よく見通していたけれど今回だけ判断ミスでしたとあるけれどどうだろうか。

農作物でもそうだけれど、いくら一年を見通したとしても天気は変わるものだし、急に台風が来たからや嵐だったからなど言いわけしても予想はできない。いくら経験で見通していたとしても自然現象まで見通せず、それは人智を超えた処にある。

人で言えば、病気も生き死にも、出会いも別れもすべては自然現象だし、子どもで言えば、発達も気づきも感動も感謝も自立もすべては自然に起きること。

常日頃から用心して、生活を自律して自らを正しくしていることがそういうものとうまく長く上手に付き合うことになる。つまりは玄人のようになるということ。

こう定義すると玄人つまりはプロとは、相手を思いやり何かを守るために私情をいれずその時々で真心の実践で自分を後にし相手を優先すれば必ず良い判断ができるようになっているということ。

すべての判断は自分が入っているのと入っていないのでは為すことは異なる。
プロ意識とは、そういう自分の都合を仕事に入れないことだとする。

例えば、どんなに人のためとやっていてもそれを自分のためにを先に打算にいれればもうそれは人のためではなく自分のためになる。

本当に自分を交えず、相手の心に耳を傾け、相手のためにだけ自分を尽くしていけば他人のためになる。上司のためといいながら自分のためにやっている仕事はやっぱり私情を挟んでいて投げっぱなし遣りっぱなしになっている。それでは何も守れない。

私は守るものはいくつかある中で、もっとも大事なのはそのものの意味や価値を守ることだと思う。

なぜなら物事は決してその都度の自己判断による良し悪しではなく、そのものの存在をまるほど受容し、そこに無限の価値を見出し心底存在に感謝しなくてはならないものだと思うし、愛や優しさ、思いやりというもので包むことではじめて守ることができるようにも思う。

相手を深く信じ、相手の生きようとする気持ち、相手が徳性を活かそうとする気持ちにどこまで深く共感できるか。

すべての生命は、そうやって相手を思いやり共生している。

常に、自立と共生の本質を見つめながら本気の実践により見守っていきたい。
守るにはまだまだ力と器が要る。

自らをもっと奮いたて、さらに子どもたちの未来に自分を尽くして生きたい。

受け身

よく人から聞く言葉に「気づきませんでした」がある。

その気づきませんでしたは、その行為の源流に2つの視点で見つめてみる。

一つは、やるべきことを主体的に行い、何が何でも気づきたいと必死に行う中で積極的に師や先生、またリーダーに確認して自ら掴み取るときに使う「気づきませんでした」がある。

もうひとつは、やらないといけないのに受け身に待ちうけ、できるなら教えて欲しいと他力を期待し、師や先生、またリーダーに確認して教えてもらおうとしているときに使う「気づきませんでした」がある。

一見、今の世の中は前者が空気が読めないと言われ後者がなんだか謙虚だといわれるけれど本当はどうだろうか?

何でも自然になっていなければ何事も理に叶うことはない、だからこそ原理原則や真理真実などというものは、人それぞれで価値観も人生観もすべては異なるのだから決して誰かに教えてもらうものではないしそれはできない。

その人が自らがこういうものか、もしくはああいうものかと近づけていくものでなければ本当の意味で教授されたことではないし、そして何よりコツも気づきも自分のモノなのだから決して誰かに与えてもらえるものではない。

自分でモノにしたから他人から重宝されるし、自分のモノだから誰からも真似はされないしされても動じないで本懐をなせる。

しかし今は与えられ教えられる教育が当たり前に優先され、本人が主体として動くことよりも刷り込まれた受け身のケンキョをやっていれば必ず周りが可愛がってくれるという誤った常識を持たされている人が多い。

私が以前、留学した中国や英国でも何事も自分から遣ってない人は発言すらもできなかったし、そういう人が発言しても議論にはならず、師友の場に於いてはそれはとても受け身で深まらないと非難された。

何かあるときに喋れなくなるのも、自分の意見をはっきり言えないのも、そういう常日頃からの受け身の在り方によるものだと私は思う。

そして、何よりもっとも悲しいのはあまり私の好きな言い方ではないのだけれどそれを分かるように書けば「負け犬根性」というものが沁みについてくることだと思う。

例えば、「自分で気づきませんでした」というのはこの自らの在り方を見つめるとただの負け犬根性かもしれないということ。

つまりは言いかえれば、「自分で気づかなかったのにそのままで本当にあなたは悔しくないのか」ということでもある。自分の力で気づけないくらい受け身だったのではないかということ。

私は、道を歩んでいる中で心を澄ませていない間に無意識に足元のヒントを見落としていることが多々あり、至誠の実践が足りなかったととても悔しい思いを毎日のようにしている。

そうやって内省するたびに、あの時なぜ観えなかったのか、あの時、機会があったのをなぜ素通りさせたのかと、自分で気づかなかったこと気づけなかったことに対して義憤を抱き、次こそは絶対に見落とさないぞ、気づいて見せるぞと挑戦しながら向上心を深めている。

もしこれが受け身なら、内省するたびに、あの時なぜ観えなかったのかと後悔ばかりして自己憐憫の情を増やす日々を送ってしまい、自分で気づかなかったことをただの未熟さや弱さとし、ふたたび繰り返されることを見通し、挑戦するよりも事無かれ主義を優先し降下心が深まっている。

まさにこれは負け犬根性ではないかと思う。
そしてこれでは大事なことは教授を受けれない。

どんなものからも学んでやろう、どんな出来事からも掴んでやろうとしない人と話していると疲れるし、永遠に同じ話を違う角度で話すことがその人とのいつもの会話になってしまう。師やメンターも、自らが掴もうとしているから現れるのであって宝くじのように待っているものではない。

だからこそ常に、自ら負けてたまるかと思うのはとても良いことだと思う。

競争が良いというわけではなく、自他との切磋琢磨により余計なものがそぎ落とされマイナーチェンジを繰り返す中で人はシンプルになり自然体に近づいてくる。

論語の孔子にあるように七十になってからは、心のおもむくままに行動しても、道理に違うことがなくなった境地になるのもそういう積極的な日々の三省の実践があるからこそだと思う。

どんな内容だったにしても結果がどうであれ、もっとも注意すべきは負け犬根性という名の受け身である側で生きようとする不元気な心。

私は犬好きなので、負け犬というのはあまり好きな呼び名ではないのであえて言うと自らを常に積極思考で生き、何より誠を尽くす「価値犬根性」を出せるような挑戦と感動に満ちた関わりを日々増やしていきたい。

はじめに志ありき

何か事をなそうとするならば何よりもまずはじめに志がないといけない。これは私が尊敬する吉田松陰が松下村塾において、何よりもその「立志」を特に優先したことによる。

志とは、それぞれが自分が何をやりたいのかを自覚し、それを世のため人のために尽くしてその意志を常に明確に固持し、実践に従い揺るがない信念を醸成していくことにもよる。

そのまずはじめに「あなたは一体この世で何をするのか」が明確でなければ志が立つことはない。私は社業に於いて、それをテーマとしミッションと言う呼び名にしているけれどこれは和名では「志命」であると思う。

人はただ自分のためだけで努力すると次第に欲望やエゴに変わることがある。
自分さえよければいいや、自分のことばかりで周囲を省みずまた慮からず何よりもいつも自分のみを満たすようになることがある。

しかし、全ての生き物は当然決して一人では生きられない。
動物や植物も生ある全てが周囲に自分をどう活かすかを知っている。

人間には知性がある、そして人間は言語を得た多様性がある。

だからこそ、人間が人間でありながら世の中に対して自らどう貢献するのかを持っていることが自然なことになる。そして真に貢献するためにはまずはじめに志を立てなければ何もはじまらないということになる。

そしてその志は、若いうちに社会に入る前までに立てることだと思う。青年になりまずはじめにもっておかないといけない資質は大志を抱くことだとよく偉人は言う。すべての偉人や賢人は、初志を忘れず、終志も忘れず、志そのもので今もこの世に生きている。

人は生きる上で、もっとも道であるには立志こそを優先しないといけない。

そのために、志がある師友と交わりあい共に学び、道の覚者たちの古典や名著を読み込み、自らの本性やその志を明らかにして人生で一本立てるのをまず大事にしないといけない。

話は飛ぶけれど私は驚くほど会社での採用活動などは特に力を入れていない。ここ数年は、採用会社に募集の依頼すらしていない。普通は派手に宣伝広告をするのだろうけれど、そういうものは不自然だし社風や風土にあわない。それにこういう時代だからこそ、「来るものは拒まず去る者は追わず」という原理原則が要る。

こういう末の時代は、志があるものだけが自然に集まってくるのが理に叶っているしその逆もまた言える。

これはつまり皆で何かを成し遂げるなら「志」があるかないかということを基盤にしていなければ大を為すことはできないということでもあると私は思う。

仕事なども見ていると良く分かる。志が高いものはその質は高く、志が低いものはやはりその質も低い。これはスキルの問題ではなく、志が立ってないから自立できないということなのだと思う。

やはりはじめにどの仕事も志を立てることによるものだ。

私たちは大ミッションというものがある、文字通りそれがこの会社の立志立命する処ということ、そして幼児教育や、世の中を本当に今よりも良くしたい、このままではいけないと自我自噴できるような人でなければ今の世はそうそうは変わりはしないからこそよりカグヤでは優先される。

如何に自分が志が立っているかを確認するのは、その継続するということにより確かめることもできる。継続とは決意により意志を固めて行う規範でも模範でもいいそれを観てみると状態がよく分かる。なぜならいつもいつでも志は誇りを隣にしているからだ。

積小為大も、継続は力なりも、あの有名な言葉はスキル論で語るのではない。

本心本音の覚悟で挑む志への正対こそが自らの誇りになっていき、独立し、自助自尊ができることで何よりも実りある自信に繋がってくる。

例えば生来どんな気質が悪い人でも、先天的に賢愚があったとしても、人は必ず自信がつけば学問の求道で繰り返し正しく化わる。それは、理念理想を高く持ち志に自らを没頭することでより鮮明になる。

毎年、私自身も志を確認するために萩の松陰神社にて様々なもの見つめる。特に草莽崛起の在り方に於いて自らどれくら実践できたかなどその性質の質量をいつも確かめ自らの今を鑑がい純粋な思いと発奮し感涙感激を味わい尽くして初志をよ研ぎ澄ますようにしている。

しかし、まだまだ私自身も刷り込みに勝てないでいる。
勇猛心で、諦める境地を得て、松陰が真にできなかったことを成し遂げたい。

毎年伺っている萩の松蔭墓前近くに、吉田勇氏の遺した歌碑がある。

『萩に来て ふと思えらく いまの世を 救わんと立つ 松蔭は誰 』

心にあるのは、

   「 草莽崛起 」

志あるものよ、此処に集まり子どもたちに命を懸けよう。

まだまだ求心力と遠心力を不動の覚悟を以て醸成していきたい。

実践はいつも空の彼方、海の彼方、陸の彼方、そして天の大気に在る。

浩然の気を養い、自分にしかできないことのために求められる深さに応えられる自分を貫いていきたい。子どもたちが自由自在に人生を謳歌できるような成熟した社会を実現していきたい。

自然

何かを行うとき、人生そのもののを深く歩み感じ尽くしてその妙味を語ると自然にその言葉が詩のようになることがある。

世間ではそれを発表する人を文学でいうところの詩人というけれど、人生をより良く意味のあるように生きたいと真摯に思っていると自然にそのものが「物語」のようになるものだし、それを自らで受け容れるとき語や言葉は自然に詩のようになるのだろうと思う。

つまり詩とは、文学というものではなく私にとってはこの世で生きている証ともいうべきものなのではないかと思う。

私の好きな詩を語る人にインドのラビンドラナート・タゴールがある。

そのいくつかを紹介すると、

「死んだ木の葉が大地に化して自らを喪うとき、彼らは森の命に参加している。」

「物を与えることだけを慈善と心得ているのは、手に汗することを知らない人々だけである。」

「古い種子は生命の芽を内部に持っている。それはただ新しい時代の土壌に蒔かれる必要があるのだ。」

などがある。

どの詩も私が歩んでいるかんながらの道にも通じていて思想にとても共感できる。

森羅万象の中には無駄なものは一切なく、そこに何より無限の共生がある。そしてそのことを深めていけば、次第にそのものを意味が顕れる。それを自然として、畏敬の念を思うから自らの存在意義を確かめられ素直に自分を受け容れることができる。

人は子どものままであればその自然で澄んだ心を自らに内包している。

しかし次第に大人になってくると、不自然で生きることを本意としあるがままでいることができなくなる。だからといって不自然が良いというわけではなく、自然不自然の中でありのままの現在を理解し、自らを立てていかなければあるがままになることはできない。

自(みずから)然(あるがまま)と書いて自然と記す。

東洋には、「人間」として生きると言うことを太古から受け継ぎ、その尊厳により自然の畏敬を神として受け取ることで自らを正し調和をはかってきたのだと私は思う。

ここ数年、その東洋思想は西洋文化とエゴ経済が合体し人々の心中の賊(刷り込み)を教育が払えず急速に失いつつある。

きっと、先達の覚者も今日の日が訪れることをすでに予見していたのだろうとその詩や遺訓を読んでいると感じることができる。

果たして子どもたちが自然に生きられる社会とはどういうものだろうか。
すべての生命が尊厳と尊重される世界とはどういうものだろうか。

私自身心に写るあの自然の優しさと温かなふれあいの世界が次第に失われていくことは本当に辛く悲しい。

この純粋な心願をかの詩聖タゴールの言霊にのせたい。

『すべての生まてくる赤ちゃんらは、神さまや自然たちがまだ私たち人間に対して「絶望してはいないよ」という気づきのメッセージを携えて生れて来ているのだ。』 (タゴール詩の意訳)

幼児教育に携わる以上、いつもそういう心構えを以て脚下の仕事に取り組んでいきたい。

未来はただ訪れるのではなく、自ら切り開くものだととし、道を歩むものとして命の誕生と一期一会に誓願をかける。

道を歩む

道を歩むと言うのは実践をするということ。
歩んでいるときが道で、道は歩んでいるからこそ道になる。

道に対して至善に止まって考えるのは道上であるのでいいけれど、ただ道に入ったり出たりというような歪んだ止まり方では道とはいえず、それはとても歩んでいることにはならない。

人生、仕事に限らずすべての物事はどのように歩んでいるか、その瞬間に「どうあるべきか」という本質こそが大切な要素になる。

吉田松陰の記した講孟箚記にこうある。

『人間が生まれつき持っているところの良心の命令、道理上かくせねばならぬという当為当然の道、それはすべて実行するのである」

つまりは、自分の持って生まれた徳性を活かすために自らの心を澄ませ、道理上の原理原則として現れるすべての出来事は実行するためにあるものだということだと私は解釈する。

例えば、吉田松陰の座右に「至誠」がある。

如何に、自らを欺かず自らを偽らずに誠心誠意自他ともに尽くしていくことで真心に出会う。

その真心を尽くすことは本当に難しく、そこに色々な利害があり、そこに色々な人情の機微などがある。

しかし、道を歩む以上、その道理上やらねばならぬことは当然すべて遣るという覚悟があってこそ道であるのだと思う。

そこから逃げたり、避けたりすることは道にはなっておらず、いわゆるところの学識だけを持った物足りない淋しい生き方になってしまう。何のために学ぶのかといえば、自分にしかできないことでこの世で共生する幸せを実感し性を全うすることにあると私は思う。

常に真理真実は、実践躬行のその最中にあり、その最中の内省により如何に自分が道を深めて歩むかを確かめながら易不易の調和でいることで天を感じ生きていくのが大事なことなのだと私は思う。

さらに吉田松陰は言う、

『末の世において道義を実践したならば、必ずその時の人々から、極端だといわれるであろう。もしまた、世人から極端だといわれるくらいでなければ、決して道義ではないのであって、すなわち世俗に同調し濁った世に迎合したものにすぎない』

その原理原則の実行は、あまりにもこだわり過ぎて偏ってみられるかもしれない、もしくは多くの人々より極端だと変人扱いを受けるかもしれない。しかし、それくらいのことをしなければただ大衆に紛れてだけでその大衆に流されているだけでで道義には適っていないのだとある。

世の中受けすることばかりを商売にして、誰かから嫌われることや非難されることを恐れてはいけない。

自らの勇猛心を駆り立てて、真実と真心の実践を行うことこそ志士としての在るべき姿だと常に思う。

この日本から世界のことを考える若い人たちがいないと、この国は島国だけでしか通用しないような世の中になってしまう。

子どもたちには、今いるところを深く掘り下げ一流を目指し、世界のことを視野に入れた国際人になれるような模範を示していきたい。

私たちの日々の行動は、常に知行合一であることを目指したい。

日々、起きる出来事に正対し、とことん道義や道理に適うような実践で道を歩んで極めて生きたいと誓う。

見通した甘さ

仕事をしていると色々なことを見通すことが必要になる。

それは教育でもそうだし、保育でもそうだと思う、本当に先のことを受け止めれば何が良くなく何が良いのかのモノサシは変わってくる。

目先のことで良いことは自分を優先してしまうことが多く、遠く先のことで良いことは周囲や他者を優先できることが多い。

例えば自立でもそう、その人のことを思っているといっても色々とある。

ある人は自分では遣り切ろうとはせずに助けを求める。
また、ある人は自分の力で遣り切ろうとして助けを求める。

前者は、自分で遣ろうとしないのだから当然ずっと助けが必要になる。
後者は、自分で遣ろうとしているのだからやり方を教えれば自助努力し遣り切ることができるようになる。

しかし、つい前者の人を助けてしまうのは今の社会の在り方が問題な気もする。今の社会は、自分で遣ろうとしない人まで助ける過保護な社会になっている。みんなで寄ってたかった権力者や力のある人にしがみ付こうとする風潮がある。

そして不思議なことにそういう人を助けないと可哀そうだと同情する、一般に前者の人は傍から見ると困っているし、助けてあげてくださいといわんばかりに周囲に異様な気を遣わせる。

しかしその自分でやる気がない人を助けると、助けた側がその人のやらないことに引き込まれその人ができないことを代わりにずっと全部手伝うことになってしまい、結局は過保護になりその人が自らの力で生きていくための自立する力がなくなり依存の悲しい負のサイクルに手を貸したことになる。

本当にその人のことを思いやり考えるなら、本人が自分から遣ろうとするまで何も手を出さないことが優しさになる。自分で遣る力を持っているのに出さないのは、いつも誰かに面倒と世話をしてもらった甘え癖があるからできないだけでその人の本当の力を出したわけではない。

その人は、本来できる力を持っているけれどそれを出さない生き方をしてきた方が得をしたからできなくなってくる、またよくニートとかあるように両親が気に入ってくれることばかりを気にして生きてきていつも助けられていたらそれが自分がやることだと勘違いもしたりする。

本当の筋道で親が思っているのは、子どもたち自身の徳性を活かした自立である。
それが誰かのための自立では筋道が変わるし、大事なのは社会で役立つ自分のために自分の力だけで自立することであると私は思う

また後者はどうだろうか?

後者は、自分が自分で遣り切ることになっているから見守る側の少しの援助とアドバイスがあれば自分で物事に勇敢に対峙し解決させていく。また遣り方を覚えて実践してくると次第に応用や創意工夫などのビジネススキルなども伸びてきてその人らしい仕事で会社や仲間を助けて自らの力をもって自立ができるようになる。

こうやって自分でやろうとする人を援助するとき、どんなアドバイスや言葉も数倍、数百倍の効果を発揮するし、その人に無償の奉仕や愛を与えればぐんぐんその能力も才能も開花し発揮していく。

その人は、誰かの力に依頼したのではなく、文字通り自分の力のみで物事を解決できたということ。そういう人だけが本当の感謝ができ、周囲への暖かい思いやりや見守りを受け取ることができる。

依存は悲しい負のサイクルを生み、自立は豊かで正のサイクルを生む。

自立は自利利他の心に満ちていて、共生し自然に幸せになっていく。

ただ自立を怖がっている人たちを観るとどうも今まで生きてきた刷り込みなどもある。

例えば、まずはそこに公私の自立というものがある。
つまりは正しく自分のことを「わきまえる」という意味が分かることからが大事なのだと思う。

当然、集団生活や社会がある会社にいるときや皆と同じく公の時間を共有して使っているとき、如何に自分の立場をわきまえているかということでもある。

この「弁える」を辞書で調べると、

(1)物事の区別や善悪の区別をする。

「ことの善悪を—・えなければならない」

(2)人としての道理を承知している。

「礼儀を—・える」
「場所柄を—・える」

とある。

つまり自ら「TPO」【Time(時間)、Place(場所)、Occasion(場合)】を正しく理解し、それを実行する力があることになる、それが自分の社会での影響力を知る所に繋がっている。

当然、これは自分が所属する組織から何か大きな責任と役割を自分が担っていて自分がその一部を自らの意志でやっているのなら周りのことをよく考えていないと自分勝手となる。

それぞれに責任の範囲がある、社長は社会的責任を果たし、社員の生活を保障する、社員は、自分の仕事の権限と範囲の中で責任を果たす。

そうやって、肩書きにより責任も重たさも変わってくる。
そうすると当然、公私ともに「けじめ」が要る。

このけじめとは、甘えずきちんと筋道を通すということ。その筋道とは、自分がどのように公私ともに在るべきかを正しく理解し道徳と規範を示し、実行すると言うことだと私は思う

それをなあなあやいいかげんで自分勝手に判断するというのは、そこに正しい筋道が一本通らないとき公私混同となる。

公私混同しないで甘えないとは、いいかげんやなあなあな「私心」を持ち込み自分勝手な判断をしないということでもある。

このブログで最初に定義した、見通しは、自分の責任、役割、権限、使命の範囲を理解していてそこを正しく果たす自覚からその自立ができるようになる。

つまり、こういう状態になっているということは、単なる「見通しの甘さ」があるのではなく、自らが作りだした「見通した甘え」があるということだ。

自立しないと本当に色々な人たちに迷惑を懸けてしまう。
会社はお客様を助け、会社を助けてはじめて自分が助かる。

真の自立は私心を取り除き、誠に公のために公心を以て歩むことだと思う
まずは自力で他者を助けられる力を持つようになることが自律と自立の第一歩。

私たちは子どもたちの未来に影響を与える仕事をしているコンサルタント企業として社会的責任を担っている。

だからこそこの見通した甘さが未来の子どもたちに悪影響を与えないようにプロとして日々の言動と行動を厳しく自覚自律し、真の自立した大人として自助の精神を第一に脚下の仕事に丹誠こめて取り組んでいきたいと思う。

協働と公私の別

組織をコンサルティングしていると様々なことを洞察することがある。

人が何かを行うとき、必ず力を合わせるとともに心を合わせることが要る。

何かの目的に対して、力を合わせる。
そのためにも、一丸となって心を合わせることがいる。

心と力があわさってはじめて人はチームになれる。

しかし、チームになるにはどこに向かうのかという大義が要る。
その大義を確認し合うからこそ、力も心もあわせていけるのだと私は思う。

しかし今は、人間関係が希薄で人づきあいの絆も浅く、より深く相手を丸ごと信じることを怖がっている人たちがたくさんいる。

人と人との縁が薄くなってきているからそういうことができなくなっている。
チーム研修も、なぜか今は仲良くなることを最終目標にしている人が多い。

信じると言うのは、無理に何かを決めて信じようとするよりも、お互いに方針を確認しあいそれぞれの歩みをコツコツと根気強く諦めずにいる中で自然に互いに培われることが私は普通だと思う。

例えば変な話だけれどよく幼稚園でも先生がスローガンに「みんな仲良くね!」とあるけれどあれはどういう意味で使うかにもよる。

この仲良くの仲という字は、論語の中庸でいうところの「中」と人間の「人」の組み合わさった語で成り立っている。
「仲人」というのは、その中庸、つまりは人と人との調和を司る存在であることを言う。仲人には徳の高い人にしていただくとその後も仲良くいれるというのはそういうことなのだと私は思う。

私はその仲良くというのは、そういう調和したそれぞれが良心で心が澄んでいる真心の状態でいようねということだと解釈もする。私が一円対話で行っているファシリテーションは、この仲人でもあり中庸でいるということを重視している。

つまりは、皆が心を澄ませている自然な状態にすることだと私は解釈する。
自然体で言いたいことがいえる、つまりは遠慮ない状態になるということ。

それなのに、先生が意図的に無理に誰かを仲良くさせていると、子どもたちも皆の顔色を見ることが仲良くだと勘違いしてしまい、結局は子どもたちが自分がどう見られているかばかりを気にしてお互いに無理をし、自分の本性を発揮できず我慢し辛い思いをするようになる。

そうなると、文字通り、自然には仲良くできないから意図的に仲良くこそが目標になる。
すると、子どもはいつも無理をして仲良くしていようと自分を我慢する人になる。

創造的な環境とは、みんなが自然に「あるがまま」でいられるようにすること。
チームが一丸となるには、皆が一丸になって同じ方向へ歩むということだ。

人を信じれないのは、そうやって無理に仲良くなるために人との関係に自分の打算をいれていくから余計に打算で見られると感じるから遠慮しさらにうまくいかないという悪循環になる。

私もつい不自然な人にはどうしても遠慮してしまう。

それは、打算で見られるのではないか自分を我慢するのではないかと相手のことを心配したり怖がるからだと思う。

しかし、子どもたちで考えても、もし本当に仲良くなるならば当然、その子たちが自由にやりたいようにしてあげるような環境を用意して見守ることが大人ができる「仲人」としての役割だろう。

私はこれは社会人やチームでのことでも言えると思う。

誰かが何かを発言すると、すぐに周りの顔色や空気を観て発言を考える。そして、そればかりを気にして遠慮し合い皆が仲良くしようとすることを最高の目的にしてしまう。

本来、最高のチームは、本当の目的がありそれを達成するために力をあわせようと集まった仲間で構成されている。

野球でもサッカーでも、政治でも、それが大きな社会的影響があることを自覚し、一人ひとりがリーダーが目指す崇高な大義に力と心を合わせていくから達成できる。

なぜ人がわざわざ集まるのかは、一人ではできないことだからこそみんなで力をあわせ達成する必要がある。

例えば、会議などはその有効な生産性を上げる行為の一つになっている。

先日、ある園の職員会議で園長が方針を話しているのにみんなそれに対し答えをだそうとばかりに躍起になり、本来何のために集まったのかすら分からなくなり、毎回、結局はみんなが仲が良いよねとそればかりを確かめることばかりのために会議をやっていることがある。

そういうときに限って、自分を出さず、誰かの意見に同調することばかりを考えている。そういう会議は非常に疲れる。

一緒に価値観が違う中でやっているのだから答えなどはもともと存在していないのだから本当は答えなどは必要ではない。

しかし誰かの形にあわせて受け身で取り組み、単にそのために答えをもらうためにあるのならただの業務連絡で良い。新人で何も分からないのならばいいけれど、仕事ができるようになれば自分がやるのだからいつまでもそれをしているわけにはいかない。

単に業務連絡だけで済むのは、答えをリーダー任せで自分が考えていないからそれで済ませようとしてしまうのだと思う。

つまりは、自分は誰かによってやらされている存在だから相手が言うことを聴けばいいということになる。これに自分の公としての責任はない。相手の責任で自分が人形のように動くことが評価になる、するととんでもない代償を払う、それは公私ともに自信を失い自己肯定感を上げることもできなくなっていく。

仕事は自分がやらされているのと、自分がやっているのとでは、その責任の自覚と役割を果たす結果への立場も放棄しているかどうかの違いまで発展する。

大事なのは、仕事は両輪、「私」としての自分だけでなく、「公」の立場としての自分がその方針や結果に責任を持ち、自分が社会の一員として立派に役割を果たすのが真の組織の社会人ということだ。

園で言えば、自園の方針に対してどれだけ自分が責任を果たすかということ。
自分がやりたいことに責任を取りますでは、公としての自分がそこにない。

しかしこんなことになるのは、一概には言えないけれどひょっとすると今までの一般的な受け身の義務教育に依存してきたから仲良しクラブをやることが当たり前になってしまうのではないか。

つまりは公ではなく、私としての自分を守るためだけに、みんなが変な空気や不安にならないようにばかりに躍起になり、それでみんなで責任を持たずに決めた答えのせいにして、その上で自分勝手にするか、自分を潰すかの二者択一でいようとする考え方になる。

良くある話が、好きな会社があったけれど好きに仕事していたら潰れてしまったという話。自分がその会社が好きだからそれだけで良く、会社の中での自分の公の責任は自覚せず誰か任せとなっているから倒産してしまったけれどそれも誰かのせいとなってしまっている。

会社が潰れるのは社長だけのせいだろうか、園が潰れるのは園長だけのせいだろうか。

本来は、自分が好きな会社だからこそ、自分が好きな園だからこそ、公の立場として主体的に自分が精一杯職責と役割を果たす。
それを本当の愛社精神というのではないか。

だからこそ、公私は両輪でなければならない。
公の責任を果たして、はじめて私の自己実現もあるということだ。

自分(私)のことばかりを会社に任せて依存し頼っていたら、会社がなくなってしまう。
自分(公)があって、自分が自立し会社を助けることではじめて会社が成り立って自分も幸せになっていく。

公私混同とは、私ばかりを優先し、公に依存することを言う。
サラリーマンになると、受け身になってしまう。
自分が主体として行えば、社会や市場が自分を要求するから出世する。
簡単な道理だ。

これからもカグヤは、子どもたちが力と心を合わせてコーポラティブに協働していける社会を創造するために、見守る環境を深めて広げていきたい。