愛心の貧困と飢餓

世界にはたくさんの有名な人たちや識者が分析解読して、読みやすく知識が豊富になる本があるけれど、私が好きな名著はそのどれも実践をすることで思想を書き記し、たまたまそれを周囲の人たちが忘れるものかと本になったものがある。

これは同じ道を歩んだ人だけにしかわからないようなものにしているものであり、私にとっては何よりも名著ということになる。

常に読書とは、実践により深めていくものだし、その実践をしている際に道しるべとして天人合一、大自在の観念を確かめていくものだとも思う。

古来、聖賢といわれる人たちはすべてに自分の内面にある真実と対話を行い、その対話を大いなる道の中で記していくことで遺していく。

人が感動するのは、そういう純粋な魂のような生き方に自分が忘れているものを呼び覚ましてくれるからだとも思う。

今、世の中が互いに愛し合うことを忘れ、物質的豊かさこそが愛だと勘違いしてしまうほど心を蔑に生きている人々がより世界の飢餓を蔓延させている。

そういうものであってはいけないといっても、人々は「浅い処」に身を置くものだし、本来のあるべき深い処はなかなか踏み込んではいかない。

静かであること、穏やかであること、清く澄んでいることができないのは、やはり人としてどうあるべきかということを皆が確かめないからだとも私は思う。

愛の実践というのは、そういう日々の生活に心を籠めて生きることにある。
眼前の作業に追われるのは、まだ浅いということであり、人は誰でも決意と覚悟があれば流されず深い処を歩むことができるのだと私は思う。

私が実践している、師の見守る保育では異年齢でその子のその子らしさを保障しながら、他と共生するための自律を養い、自活し自立できるような環境を用意し、信じて守るという実践をする。

これは排除しないということでもあるし、あるがままを受け容れるということでもある。この逆は、画一化するということ、画一化するというのは、同じ価値観を強制し、人を強制し、無理やりに自分たちにあわせて言うことをきかせるということになる。だから排除がいる。

マザーテレサの実践に下記がある。

「かつて私は、ゴミ溜めの中からひとりの女性を拾い上げました。彼女はひどい熱で、燃えるようでした。彼女の最期の日々、言い続けた嘆きはたったひとつ、「息子が私をこんな目に遭わせた」と。私は彼女に頼みました。「息子さんをゆるしましょう。怒り狂ったような瞬間に、彼は彼自身ではなくなってしまったのですよ。だから、後悔するようなことをしでかしてしまったのです。息子さんの母親であり続けてください。彼をゆるしてあげてください。」とても時間が必要でしたが、彼女はとうとうこう言いました。「私は息子をゆるします」私の腕の中で死ぬ直前に、ゆるしの心をもってこう言うことができました。彼女は自分が死んでいくことをまるで気にかけていませんでした。心が張り裂けそうになるのは、息子が彼女を要らないということです。このことは、あなたも私も知っている現実のひとつなのです。」

なぜ排除したのか、排除しないといけなかったのか、ここに大きな外圧があり、人を捨ててもいいという誤った正義が権力や経済により生まれなかったかということでもある。この現実は、私たちが他人に向けたり、大勢の人々や弱者に向けたり、もしくは同僚や友人に向けている眼差しがないだろうか。

何も不必要なものはないといえないのならその愛は、まだ未熟だということになる。身体だけは育ったけれどまだ愛は育っていないということでもある。愛を育むことは愛し合うということに他ならない。

そして、さらにマザーテレサはこうも言う。

「今日の人々は、愛に飢えています。愛だけが、孤独とひどい貧困に対する唯一の答えとなるのです。飢える心配をする必要のない国もあります。けれど人々は、ひどい孤独とひどい絶望、ひどい恐怖心にさいなまれています。彼らは、だれからも求められていないという拒絶される悲しみと、救いようもなく、希望のかけらもない気持ちを感じているのです。こういう人たちは、ほほえむことすら忘れてしまっています。そして、人間同士のふれあいの美しさも忘れてしまっています。人の愛など、とうの昔に忘れ去っています。こうした人たちには、彼らのことをわかろうとし、大切にしてくれるだれかが必要なのです。」

(同じくマザーテレサ日々のことば(女子パウロ会より抜粋)

命というものを結ぼうとしないこの世の中には、必ず戦争の火種が潜んでいると私は思う。人が奪いあい殺し合い、憎み合うよりも、愛し合うことを優先しなければ平和な社会は創れない。

「浅き河も深く渡れ。」これは星野道夫さんの遺訓でありカグヤの理念の始訓。

関係することもそうだし、思いやることも同じく、人は出来事に対してどれだけ自分が主体的に関わるかで物事の在り方は変わってくる。

自分が必要とされるなら自分から受け身であることを捨て去り、愛の実践を深めていくことだと私は思う。

子どもたちには、自然に相手を思いやれる心をそのままに育てていけるような見守る環境を用意し、お互いに愛し合えることの素晴らしさを育みながらその愛が広がっていくようにと祈る。

愛のあるところに同じ生命があることの掛け替えのなさや、命が結ばれることの美しさを体現できるように日々の実践を続けていきたい。