長寿祝い

西洋から誕生日の文化が入り現在は誕生日をそれぞれ個々にお祝いするようになっていますがむかしは、誕生日をお祝いするという風習はなく数え年といって正月にみんな一斉に行っていたそうです。個人の誕生日が祝われるようになったのは、昭和24年に「年齢のとなえ方に関する法律」が制定されて以降で満年齢での数え方になってからといいます。

しかし古来から日本では、人生の儀式が行われてきました。七五三や成人式などもその一つですし、長寿祝いなども行われてきました。

この長寿祝いは、中国の儒教から取り入れられた文化です。

もともと中国の儒教には、敬老思想と長寿を尊ぶ思想というものがあります。唐末から宋代には長寿を祝う詩を贈ることが流行しこれが平安時代に日本の貴族の間で広まりました。祝う歳は奈良時代頃までは四十歳、五十歳の十年刻みだったものが鎌倉時代以降に現代の六十一、七十、七十七という年齢で祝うようになりました。

その中でも還暦は、江戸時代、干支についての俗信流行の流れに乗り、人生の中の一つの行事として大きく広がりました。

還暦は、昔の暦では十干と干支が六十年で一巡し、六十一年目に暦が戻ってくることからめでたいものとされています。そして古稀は中国唐代の杜甫の詩の一節「人生七十古来稀なり」に由来し、喜寿は「喜」という字を草書体にくずすと「七」を三つ並べた字となり七十七に読めることから来ています。そして傘寿は「傘」を略した中国文字が八十と読めること、米寿は「米」の字が八十八を組み合わせた形であること、また卒寿は「卒」の略字「卆」が九十と読めることに起因します。そして九十九の歳は「百」という字から「一」を取ると「白」になることから、「白寿」と呼ばれています。

日本にはお祝いをして、「肖る(あやかる)」という文化がありました。幸福の人をみんなでお祝いすることでその幸福や仕合せの影響をみんなで受けて授かろうという考え方です。

お祝い事をみんなで喜べるのは今もむかしも素晴らしいことで、人間の善いところ、自然からいただている恩恵に感謝したり、素直な生き方を伸ばしているようにも思います。

一つ一つの伝統の意味を深めながら、子どもたちに譲りたいものを遺していきたいと思います。

習性を変える

人間にはそれぞれ習性というものがあります。どのような習慣をもっているかで、その人の一生の成果が直観できたりもします。例えば、健康な習慣を持っている人はそれだけ病気にもなりにくく回復も早く健康体を維持していけます。また勤勉な習慣を持っている人は努力を厭わずに他人のためにと働きますから信用や富を得られます。

これらの習性には、人生を豊かに安心して生きられる知恵のものもありますが反対に悪習慣というものもあります。何をやっても、自分に備わった悪習慣によって悪循環に陥っていくのです。例えば、自分勝手で我儘な習慣を持つ人は自分の損得ばかりで判断するようになります。すると周囲もその人のことが不信になり、損しないように関わらないようにするものです。人間関係や争いなどが続き、不幸になることが多くなります。

そう考えてみると、人間の幸福とこの習性はとても密接であることが分かります。

幼いころより、どのような習性を身に着けてきたか、そして大人になりどのような習性を学んできたか、そして老いていく中でその習性を如何に磨いてきたか、その差が人生の質を決めてしまうように思えるのです。

人生の質を高めるためには、常にその習性の方を見据えて習性を変えていくかありません。そして習性には体の習性、心の習性、考え方の習性などもあります。体の習性は、日ごろから鍛錬していくことで変えていけます。心の習性は、心の声に素直に耳を傾けて行動していくことで変えていけます。そして考え方の習性は、自分の感情の転換や、物事の捉え方を転じる訓練によって変えていけます。

もしも悪習性が染みついてしまっていると感じるのなら、今までと逆を選んだり敢えて苦しい方や勇気がいる方、そして思いやりや真心の方にと一つずつ積み重ねて取り組むことで習性もまた変化していくように思います。

諺に「習慣は第二の天性なり」というものもあります。

子どもたちが将来、自分の天性を発揮していくためにも、環境に左右され失敗を恐れず、失敗から学び、習性を見つめ習性を磨き上げていきたいと思います。

もったいない記憶

古民家甦生に取り組み、古いものを直して使っているとそのものに歴史があるのを直観することがよくあります。それは古い傷跡であったり、修復歴であったり、また作り手や使い手の工夫、その他にも収納箱や文書などどのような歴史を持っているものかが伝わってくるからです。

当たり前のことですが、自分の身近にあるすべての「もの」にも歴史はあります。過去、どれくらい前か、その「もの」がどのような経過があって今ここにあるかがそのものが語ります。

これはものに限らず、人も同じです。生まれてから死ぬまでの間に、様々な人たちにご縁がありそれぞれにかけがえのない物語が生まれています。その物語の延長に今の私も生きています。その一つ一つの偶然の組み合わせが、奇跡のように結びついて今の私たちがあります。

このブログを書いている机も、飴色のテーブルからは作り手の丁寧な仕事と思い、そして小さな修復歴、机上の傷跡、引き出しの文字、装飾などに思い出が伝わってきます。だからこそ、そんな机だからこそ木片や破片ですらも捨てるのに気が引けます。そこには大切な思い出も一緒に生きているからです。

私たちは「もの」は単なる「モノ」としてそこには心や精神はないと思ってしまいますが、本来は八百万の神々といって「もの」にもいのちがあります。そして形がないと思われている「思い出」にもいのちがあると私は思うのです。

形がない思い出は、いつまでも私たちの心に生きています。亡くなった祖父母や、幼少期に一緒に過ごした犬や虫たち、そして数々の出会い別れ、気づきの感動は思い出せば心に今も生き続けています。この思い出もまた、私は「生きている」と思っているのです。だからこそ忘れないように、色褪せないようにと大切に修繕しながらその思い出が飴色になるまで大切に思いやり一緒に生きていくのです。

無常にも歳月は経ちますが、いのちは「そのものが思い出と共にある間」はいつまでも生き続けます。そして御縁が結ぶ奇跡の出会いのなかで新たないのちの思い出を燦然と輝かせていきます。そこはまるで宇宙の星々のようです。

その生き続ける思い出を大切に感じながら新しく前に向かって生きていくのは無生物であろうが、かたちがない思い出であろうが、今、生きている人間の姿とまったく同じなのです。それが勿体無いということです。

いのち全てに思いやりや真心をもって生きるとき、人間はかんながらの道を歩み続けます。宇宙の意志は、かたちがあるなしは関係はなく膨大な思い出に見守られながら膨大な思い出を紡ぎ直すことです。今までどんなご縁があったかに思いを馳せると懐かしいものがあり、これからどんなご縁があるのかを思えば浪漫があり、それはいのちの仕合せです。

引き続き、「もったいない記憶」を辿りながら子どもたちに自然至善を譲っていきたいと思います。

刷り込みの自覚

人間は、そのままにしていれば自分で考えて行動する生き物です。誰かが教え込んで刷り込まなければ自らの頭で考えて心に従い行動するように思います。生まれたての赤ちゃんや幼い子どもが自由に遊ぶように自分らしさのままに自分のやりたいことに懸命に生きていきます。

しかし何かしらに刷り込まれてしまうと、自分で考えるのをやめてしまい他者に依存してしまうようになります。量産型の教育によって、ある特定の人たちに都合がよい人材にしていくために利用すると、考える前に答えを暗記させたり、評価という仕組みを使ってその人をコントロールすることで主体性が失われていくのかもしれません。

よく今の自分の本来の状態が一体どうなっているのか、そこから振り返る必要があります。

例えば、マジメであることが正解と教え込まれ、努力し頑張っていることを周りに理解してもらうことで評価されてしまうと、無意識に周りを気にして自分だけが楽しいことをしてはならないと思い込んでいたりします。特に日本は、出る杭を打つように好きなことをしたり目立っていたりすると嫉妬されたり炎上したりと、空気を読まず他の人と異なることをすることはよくないことだという認識があります。

本来は、それぞれに個性がありそれぞれが苦しい中でも自分の好きなことをやっている努力を行うのだから邪魔するのではなく尊重して一緒にそれぞれの道を理解し合えばいいのです。同じことを上手にできる人材、平均的の上の部分になれば優秀と呼ばれエリートととして評価される人材、階級によって分別し指示命令に忠実に従う人材ばかりを教育するから画一的である自分と異なる人への差別が増すのです。差別があるからこそ、自己肯定感も低くなり、他人の自信を奪い、自分自身も自信を失ってしまうのです。本来生まれながらにして、すべてのいのちはみんな違ってみんな善いのです。

他にも刷り込みで代表的なものの一つに、「すぐにわかること」が優秀だという言葉があります。戦国時代の毛利元就の三男の小早川隆景に「すぐわかりましたという人間に、 わかったためしはない。」という言葉もあります。

このすぐにわかりましたというのは、自分の頭で考えずに指示命令に直ちに従うときに使われるものです。本来は、理由も背景もあるのだからたいして聴いていないのにすぐにわかることなどはあるはずがありません。すぐにわかる人を優秀だとし、一言えば十を知る人間を最優秀と持ち上げます。特に「なぜ?」と聞き返す人のことを頭が悪いとか出来損ないなどと言って罵倒したりする人もいます。自分に忖度したり自分の言うことを聞く人間を育てようとするからすぐにわかることを要求するのです。本来は戦略を持ち、方針や理念がある中でそれがすぐにわかるというのなら、長い時間をかけて共に対話を通して一緒に物事を深め続けるほどの同等の危機感や問題意識が必要になります。つまり日ごろから一つになっていて運命共同体であるから全体意識も通じ合うのです。

たいした問題意識もなく、自分の頭で本質を深掘ることもなく、言われてすぐに「わかりました」と言うから分かった気になって本質から外れるのです。指示命令をどのように遂行するかは考える癖が沁みついてしまっているのです。これは先ほどのような考えさせないための刷り込み教育を施されたことによってそういう思考回路になっているかもしれません。

主体性や自主性は、まずこの自分の中にある刷り込みに気づくのが先です。そしてその刷り込みを取り払うために、自分自身が本質を深め続ける訓練をしたり、分かった気にならないために質問をし続けて問い続ける鍛錬を続ける必要があります。

そうやって誰かによって無意識のうちに施された刷り込みを取り払うことができれば本当の自分が地中から芽吹いてきます。その芽をしっかりと育てていき、自分で育つことができれば主体性は取り戻せます。

自分で考えていいと自分の脳や体に信じ込ませるのは、心の対話が必要なのです。子どもたちが主体的に自らの人生を自分らしく歩んでいけるように、一円対話などを通して心をオープンにする環境を弘めていきたいと思います。

 

自らに由る組織

幼い頃から学校で誰かのルールに従い評価されるという訓練をされ続けると自分で考える力というものは減退していくものです。他人から与えられたルールに従うとき、その人は他者依存が強くなり自律する必要性がなくなってきます。

本来は、人間は道徳というように自らに規範を持ち自らの判断で思いやりを中心にしお互いに助け合うとき人間性の高い社會が形成されていくものです。それぞれに自分の中に初心(良心)を設けて、その初心に従うことができるのなら自律した組織が実現し自由にそれぞれが思考を働かせて豊かな社會を実現します。

組織には思考停止する状態に陥っているものがあります。これは独裁者や権力者の設定したルールに従わせた結果、自分で考えることすらも止めた状態のことを言います。誰かが正解を持っていて、自分が間違わないようにということばかりを考え続けると人間は言い訳ばかりが増えていくものです。なぜなら言い訳は、自分で物事の本質や初心から考えないから出てくるのであって、自分で突き詰めていく人は具体的な改善や行動になって言い訳をする暇がなくなっていくのです。

自律というものは、言い換えれば自己規律ということです。これは自分で決めた規律を自らが守るという意味です。

例えば、ある組織や社會には規範があります。それは理念や方針、もしくは初心や信条などです。どの企業でも経営理念を掲げて、それをそれぞれが理解し自らがそれを自らで守ることでお互いに信頼関係を築き協力して連携することができます。

言われたことだけを守ればいいという組織は、この規範や規律を守るということの意味が分かっておらず表面上のルールに盲目に従えばいいと思い込んでしまいます。余計なことはしない方がいい、言われていないことは遣らない方がいい、自分から主体的に挑戦するのはやめた方がいいと、損得勘定によって自分に責任が追及することを嫌がるものです。このように一人ひとりが思考を停止すれば、もはやマニュアル人間としてマニュアルを設けてマニュアルに従わせるしか仕方がありません。

これは過去の大量生産の工場のようにみんなが機械のように単一に動き、その通りに物を作っていたらよかった時代ならこれはこれで一つの成功になったかもしれません。しかし今は、成熟して価値観も多様化してきてそれぞれが自らで自立し思考を働かせ協力しなければ対応できないほどに変化が求められます。変化が著しい時代には、かつてのようなマニュアルでは対応できないのです。

思考停止しないためには、それぞれが自らで自らを律するという力をつけなければなりません。そこは細かいルールをたくさん設けて従わせるような組織ではなく、方針だけを示したら後は個々の規範を信じて見守るという組織にする必要があります。つまり自由な組織、一人ひとりが自ら考えて自らに律するという「自らに由る組織」にしていくのです。

しかし今までそうではない組織に所属していた人たちはこの方針の意味が分からないから苦しくなります。自らに由るよりも、誰かからに縛られている楽を知ってしまっていれば最初の苦しみが辛いかもしれません。自由というのは、自律しなければなりませんから自立できない人は他者に依存していたいのです。他者に依存するというのは、たばこなどに似ていて常習化すればなかなか止めることができません。

個々の思考停止においては勇気を出して止めてみる努力をすること、自分で規範を設けて規律するという挑戦をすることで少しずつ改善していくものです。組織の思考停止においてはそれぞれが規律できるような環境や場を用意していくしかありません。つまりは他者依存から自立と自律の風土に換えていくということです。

自分で考える力は、これから多様な社會をみんなで築くために必要な力です。子どもたちが安心して自分らしく持ち味を発揮して社會で有用な人物になっていけるように私たち大人がその模範を示していきたいと思います。

真心と至誠

人と人との間の関係において、人間は頭で考えることと、真心で行動することを勘違いしてしまうと本質から乖離してしまうものです。本質を守るためには考えるか真心かという二者択一ではなく、常に真心を用いながら生活しその中で考えを巡らせていくという心身統一が必要になります。

この心身統一とは、理想と現実の統一とも言ってもよく、自分の人生でどう生きるかという生き方と、同時にどのように創意工夫して初心を保つかという知恵の活用です。

剣・禅・書の達人と言われた幕末から明治の武人に山岡鉄舟がいます。この人物はまさに、その心身統一に生きた真心の人だったように思います。江戸の無血開城もこの人物無しではありえなかったことですし、明治天皇の教育指導者としてもその後に大きな影響を与えます。山岡鉄舟が遺した言葉にこういうものがあります。

「まこころの ひとつ心の こころより 萬のことは なり出にけむ」

意訳ですが、「心を一つにすれば真心が発動し、すべてのことはそれによってのみ成り立っていくんだよと。」つまりは、自分の心の声に従って活動することで真心のままになりそのことがすべての出来事と一体になって活動していくのだという意味です。

人は頭で考えたことを心の声だと勘違いします。我が強く自分の思い通りにしようと思うばかり、我欲から出た声も心の声と思い込んだりもします。心の声を聴くというのは、我欲に呑まれないように常に真心のままに生きる実践を行っていくということです。

例えば、「思いやり」を持ち続けることも真心の発動です。頭で考えた思いやり風や真心風ではなく、心を寄せていく思いやりや真心を実践していくことです。人間は、相手の立場に身を置き、心情に寄り添って一緒に事物に傾聴し共感し受容していくのなら、自然に心が発動していきます。心は、常に全体を捉えておりその全体の中には自他の違いがありません。

もしもあなたが私なら、私があなたならと自他一体なのです。それを維持するには、計算から入るのではなく心から思いやる澄んだ精神が必要です。心を研ぎ澄ましていくというのは、山岡鉄舟のように自分の中に雑念や妄念、我欲や計算、保身などが邪魔しないように真心で心を大きくしていく修養を行うということかもしれません。

山岡鉄舟の剣の極意にはこう記されます。

「無刀とは、心の外に、刀が無いこと。敵と相対するとき、刀に拠ることなく、心を以って心を打つ、これを無刀という。」

「宇宙と自分は、そもそも一体であり、当然の帰結として、人々は平等である。天地同根、万物一体の道理を悟ることで、生死の問題を越え、与えられた責務を果し、正しい方法に従って、衆生済度の為に尽くす。」

「剣法を学ぶ所以は、ひとえに心胆練磨。もって、天地と同根一体の理を果たして、釈然たる境に、到達せんとするにあるのみ。」

心胆錬磨して一体何を目指したか、真心一つ、至誠こそその初心であることが分かります。

一日一日を過ごし内省し振り返る際に、もっとも大切なのは頭で考えることよりも、どれだけ心を使ったか、どれだけ心に従ったかという日々の心身錬磨が出てくる未来を変えていくのでしょう。

真心と至誠から常に自分を使い切っていきたいと思います。

非効率な生き方

昨日、ある方から「貴社は効率優先、結果が先ではない、長いスパンで物事を進めているいい会社だ」と評価されました。その方は、長年、大企業のプロダクトデザインをなさっていた方で家電製品や商品全体のユニバーサルデザインなども手掛けておられた方です。

少し前の日本は、すぐに結果だけを優先する成果主義をとっていました。しかしこの方法はどうしても短期的な成果だけに注目されるため、長い目で観て判断されるようなことは後回しになってきたように思います。

本来の仕事の質は、長い目で観た時にどれだけの価値があるかという経年変化の中で顕現していくものです。私が取り組んでいる古民家甦生もそうですが、かつて日本の先祖たちが発明した様々な道具や商品は経年変化する中で智慧は顕現してきます。

現在は一時的に無価値のようになった古いものが増えていますが、実際には何百年もむかしから改良されてきた自然を活用する知恵に溢れているものばかりです。現在価値が下がったのは、決してその道具が悪いのではなく私たちの価値観が自然から反するものになり、自然を活かそうとするよりも、自然を管理しようという人工的なものこそが価値があるという考え方に転換されただけです。

そのうち、自然を活用することが持続可能な社會の実現において何よりも重要だと気づけば日本人の先祖の生み出した道具や仕組みに回帰していくはずです。その時に、それが遺っていなかった、すべて失われたでは取り返しがつかないのです。

人間の価値観というのは時代時代で変化します。しかし本質や本流は変わることはありません。その中で短期的に流行があってある価値観が横行して飲み込んだとしても、自然がバランスを取るように必ず揺り戻しがあるのです。地球も暑くなれば、次は冷えるというようにそれが激しくなれば激しく揺り戻します。

価値観も同様に時間の経過とともに揺れ戻していきます。その際にどこに回帰するのか、どこを原点として間をとっておくのか、それは常に私たちは自分たちでバランスを掴んでいる必要があるのです。そのバランスを掴むためにも、本質を深め続けていく必要があります。物事の本質を深めていけば、自ずから原点回帰していくからです。

私たちは理念や初心があり、本質的に何をすることがもっとも子どものためになるのか、子孫のためになるのかを考えています。そこから、何を優先することが本質なのかと考えるようにしています。

質を高めるというのは、本質を極めるということです。

だからこそプロセスを大切にし、そのプロセスの中で出てきた問に対して改善を続けてそれを味わいながら成長していこうとしています。まさに非効率な生き方ですが、本質を守る生き方が人類や世界に必要になるときが来るはずです。

いつになったらという思いもありますが、粛々と初心の振り返りと脚下の実践を楽しんでいきたいと思います。

 

自然体験

人間は体験することによって、様々なことを知ることができます。その体験が基盤になり、その後の人生の判断基準を定めていくこともできます。体験の価値は、あまり重要視されませんが実際には何よりも優先する人間育成の智慧です。

例えば、むかしはまだ物が少なく自然環境が豊かなときの幼い頃の体験は現在よりも豊かであったことが分かります。物がなかったけれど、そこには自然がありないものを探さずにあるものから私たちは様々な遊びを発明したり開発しました。同時に、身近には自然そのものの道理に囲まれ子どもたちもたくさんいてお互いに人間関係の摂理や天地自然の法理なども遊びを通して伝承されていきました。

今では、自然環境が少なくなり人工的な環境や物などは増えましたがあるものだけでなければできないとし、遊びも固定化されていきました。子どもは少なくなり、大人と子どもの関係ばかりが強くなり遊びも伝承されなくなってきました。

このようにむかしと今では、私たちの環境は大幅に変わってきています。私たちの人生は、すべて体験によって学びますからどのような貴重な体験をしたかで学ぶ質量も変化してきます。その体験の中でももっとも貴重なものが自然と遊んだ体験であろうと私は思います。教育が人が人に教えることが常識になってしまった昨今において、この自然が人を教えるということの意味もまた失われてきたように思います。幼少期の自然体験は、人の人たるものを教えます。それは風土が人を創り、風土が人を育てることこそが人類本来の学び方であるからです。

本質的な体験とは何か、それは自然から学ぶということです。

最後にフランスのヴォルテールの言葉で締めくくります。

「自然は常に教育よりも一層大きな力を持っている」

何が自然であるか、何が体験であるか、何が教育であるか、子どもたちの環境を考えて深め直していきたいと思います。

 

家の歴史的価値

空き家問題で世界と比較すると、ドイツなどは空き家が1パーセント以下という状態を保っているのがわかります。もちろん中古住宅の流通が発展していることもありますが、その根底にあるドイツ人の価値観が影響しているように思います。

日本では、古いものは価値がなく、新しいものこそが価値であるという考え方があります。まだまだ使えるのに、新品に買い替えては新しい方が何でもいいと思い込みます。もちろん、新しいものは電化製品でも新しい機能や改善もされていますからそっちの方がいいというのはわかります。しかし物によっては、古くなる方が味が出るものがあったり、古いものこそが価値があるというものもあります。

しかし、現在の骨董品や古美術を含め日本ではあまりアンティークなどの品物は流通せず常に新しいものばかり、使い捨てのものばかりの流通が盛んです。身近なところに古い価値のあるものがなくなってきているから余計に古いものの価値を感じなくなっているのです。ドイツ人は物に備わっている経年変化や「歴史的価値」というものを大切にしているのでしょう。日本人はいつからそういうものがなくなったのかと不思議な思いがします。

日本では住宅の価値は22年も経てばほぼ9割は無価値であると評価されます。土地の価値だけになると、駅から近いか、近隣の環境が整っているか、利便性はなど、その土地があるところの価値だけの評価になります。実際には、家は古くなればなるほどに歴史的な価値も向上するはずですがその価値はまったく尊重されることはありません。

まだ住める家かどうかが重要ではなく、価値があるかどうかで家が売り買いされ、ほとんどが新築になっていきます。車社会になってからは、市街地の家を解体して建て直すのではなく少し離れたところの土地を整備しそこに戸建て住宅を販売しています。それがまた年数経ったら空き家になるのは、駅からも遠く利便性も悪く、土地の価値もなくなっていくから買い手がつかないのです。

人間はいい町に住みたいや環境の豊かなところに住みたいというまちづくりと関係する部分と、素敵な家に住みたいという部分があります。この豊かな町で素敵な家にというものは、その人物や民族の価値観がどうなっているかでその後の空き家につながっていくのでしょう。全体善を考えたり、伝統や伝承を考える少しの心の余裕が物の見方を変えていくのでしょう。

このままでは近い将来に世界一の空き家大国になってしまうことは統計からも証明されています。子孫のことを考えてみても、空き家ばかりが遺されたスポンジのような風景や、幽霊屋敷のように壊れて廃墟と化していく街並みなどは観たくはないはずです。

だからこそここで必要なのは、価値観の転換であり古いものの中に価値を見出すという事例が増えていくしかありません。本来、日本人の持っている精神でもあった「もったいない」というものは、目には観えないものへの思いやりや価値を大切にするという生き方のことです。

空き家が増えていくのをみると、「もったいない」と感じます。心の空き家や隙間ばかりが増えていかないように、日本古来からの家の歴史的価値を復古創新し今に伝承していきたいと思います。

空き家問題と生き方

現在、日本では少子高齢化、人口減少化が進む中で空き家問題ということが発生しています。野村総合研究所NRIのデータによると「空き家」は2018年以降から急速に増え続けることが分かっています。具体的には現在は7件に1件の空き家ですが10年後の2028年には、現在の820万戸の2倍以上になり4件に1件が空き家という状態です。15年後の2033年には3件1件が空き家になると予想されています。

2015年に政府は「空き家対策特別措置法」を施行し、空き家の管理を怠ると罰金50万を課したり、特定空家等(倒壊等著しく保安上危険となるおそれのある状態又は著しく衛生上有害となるおそれのある状態、適切な管理が行われていないことにより著しく景観を損なっている状態、その他周辺の生活環境の保全を図るために放置することが不適切である状態にある空き家)になると税金を6倍課せられるようになりました。

しかしこれらはこれ以上空き家を放置しないための対処療法であり、空き家の本当の問題の根元的な解決は進みません。前の代が遺したツケをどのように私たちは清算し、子孫にツケを残さないで片付けていくことができるか。世の中は、ジワジワと浸潤していくことはあまり関心を持たず、目立った短期的で派手な問題ばかりが注目されるものです。しかしこの空き家問題はこの世代を生きる私たちには決して避けては通れない大きな問題なのです。

現在は、全国のあらゆる場所で老朽化したり廃屋化したりしている空き家を見かけるようになりました。私の郷里でも、明らかに人が住んでいないで瓦が落ちたり、窓が割れていたり、木が腐ったり、外観がボロボロなビルやアパートを見かけます。東京でも、集合住宅やタワーマンションなどの空き家が増えて管理費が減ることで修繕できないままに老朽化が進んでいるものも増えているといいます。もともと日本は高温多湿の自然環境ですから、風を通さなければ水が停滞しそこから腐敗して傷みを早めます。

これだけ空き家があっても、人はみんな新築の戸建て住宅を購入しようとします。リノベーションやリフォームをして住む家も少しは増えてきましたが、築50年を超えるような建物をリフォームして住むというケースはほとんどないといいます。「築年数が古い」ということが地震対策や風雨対策ができていないと理由などがあるといいます。

本来、古民家は200年、300年とあるようにそれだけの日本の自然環境の変化に適応してきた住宅です。しかし明治以降の特に昭和や平成の住宅は海外の簡易モデルで建てていますから30年~50年くらいしか住まない計算で建てているから仕方がないともいえます。

その頃は、人口増加で勢いがありましたからまた壊して建て替えればいいと思っていたのでしょうが人口減少で建て替えることもなくなってくるとこの空き家は誰が処理していけばいいのかという問題が出たのです。

空き家を片付けるにも大変な費用がかかります。またそこに住む人たちが今まで培ってきたまちづくりのデザインも崩れていきます。通りには、空き地や駐車場だらけで歯抜けのようになっていたり、太陽光パネルや古紙回収、コインランドリーや自販機などで溢れていてはとても住みたいと思うような町の景観ではありません。

ドイツなどでは町の景観を維持されていて通りも美しく保たれています。この町に住みたいと思うのも、そこに住んでいる人たちがデザインした暮らしを感じることができるからです。

空き家問題は、まちづくりの問題と直結しています。これは自分たちが住むまちをどのようにグランドデザインするか、それをそれぞれが考えて自分たちが責任をもって参画していく必要があります。私たちの世代は人の関係が希薄になり、地域のコミュニティも減退するなかで、自分の短期的な視野だけで一代限りの使い捨てで生きるのではなく、遠い未来の子孫たちや全体善のために長期的なビジョンを描いて味わい深くどう生きていけばいいか向き合っていく必要があります。

子どもたちに負のツケばかりを残さないで、子どもたちが安心して活躍できるものをたくさん譲り遺してあげたいと思います。そのためにも、恩や徳に報いる生き方を実践し伝承していきたいと思います。