いのちのリレー~理念研修~

えにし屋の清水義晴さんの御蔭さまで福島県にある日本三大薄皮饅頭で有名な柏屋の五代目本名善兵衛さまとご縁をいただき、無事に理念研修を終えることができました。また本名さまからは、日本一の誉れのある旅館、八幡屋の7代目女将の渡邊和子さんと日本を最も代表する自然酒で有名な十八代蔵元の仁井田穏彦さまとのご縁をいただきました。どの方も、覚悟の定まった美しく清らかな生き方をされており志に共感することが多く、暖簾を同じくした親戚が増えたようなあたたかい気持ちになりました。

福島は東日本大震災の影響をうけ、そのままコロナに入り大変なことが続いた場所です。離れて報道などを拝見し、また人伝えにお話をお聴きすることが多くありずっと心配していました。今回、ご縁のいただいた方々のお話をお聴きしているとピンチをチャンスに乗り越えられさらに美しい場所や人として磨かれておられるのを実感しました。

自分たちの代だけのことではなく、託されてきた先人たちへの尊敬や感謝、そして子孫たちにどれだけの素晴らしい宝を遺しそしてバトンと渡せるかと皆さん今を磨いて真摯に精進されておられました。

私にとっても本来の日本的と何か、日本人とは何か、日本的経営の素晴らしさをさらに実感する出会いになりました。

私は理念研修をする際には、本来はどうであったかというルーツや本質を徹底的に追求します。今がある原因は、始まりの初心が時間を経て醸成されたものです。その初心が何かを知ることで、お互いが志した源を共感することができるからです。この志の源とは何か、これは自然界でいう水源であい水が湧き出るところのことです。

この湧き出てきたものが今の私たちの「場」を産んだのですから、その最初の純粋な水を確かめ合い分け合うことで今の自分に流れている存在を再確認し甦生させていくことができます。甦生すると、元氣が湧き、勇氣を分け合えます。

水はどんなに濁っていたり澱んでしまっても、禊ぎ、祓い、清めていくうちに真の水に回帰していきます。私たちの中に流れているその真水を忘れないことで水がいのちを吹き返していくように思います。

私たちは必ずこの肉体は滅びます。それは長くても100年くらい、短ければその半分くらいです。そんな短い間でできることは少なく、みんないのちのバトンをつなぎながら目的地まで流れていきます。大航海の中の一部の航海を、仲間たちと一緒に味わっていくのが人生でもあります。

その中で、後を託していくものがあります。これがいのちの本体でもあります。そのいのちを渡すことは、バトンを繋いでいくことです。自分はここまでとわかっているからこそ、次の方に渡していく。その渡していくものを受け取ってくださる存在があるから今の私たちは暮らしを営んでいくことができています。

自分はどんなバトンを受け取っている存在なのか、そしてこれからこのバトンをどのように繋いでいくのか。それは今よりももっと善いものを渡していこうとする思い、いただいた御恩に報いて恥じないようなものを磨いて渡していこうという思い、さらにはいつまでも仕合せが続いてほしといのるような思いがあります。

自分という存在の中には、こういうかけがえのないバトンがあることを忘れてはいけません。そしてそのバトンを繋いでいる間にどのような生き方をするのかも忘れてはいけません。そのバトンの重みとぬくもりを感じるからこそ、私たちは仕合せを感じることができるように思います。

一期一会の日々のなかで、こうやって理念を振り返る機会がもてることに本当に喜びと豊かさを感じます。このいただいたものを子どもたちに伝承していけるように、カグヤは引き続き子ども第一義を実践していきたいと思います。

ありがとうございました。

日本という存在

日本という存在の面影というものを色々なところで見つけることができます。まだ有難いことに私たちの世代は西洋化の影響を受けてきた変遷、またそれでも遺っているあらゆる文化や伝統の両方を味わうことができています。

変化を見つめて味わうなかで、原点をよく見つめて五感を研ぎ澄ませていると日本人とは何か、日本という存在は何かということを直観することもあります。釈迦が因果律を語るように、本来、はじめに種がありそこから繰り返し変化を続けて生き続けています。

土というものに触れ、水と太陽、つまり自然というものと共生をしてきた歴史、そして何をもっとも大切にしてきたかという歴史、これが民族を形成していることは間違いない事実です。

神話から今に至るまで、それを何度も繰り返し辿りながら似たようなことをやり続けます。これが託された人生でもあり、天命という仕合せと結ばれている生き方でもあります。

小泉八雲という人物がいます。ギリシャ生まれの新聞記者、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、英文学者で1904年に亡くなられました。純粋でニュートラルな目で、ありのままのこの日本や日本人を捉えられた方です。

忘れてしまっているものを思い出させてもらうことは有難いことです。これは空気の存在、いのちの存在なども同様に当たり前で絶対的だからこそ意識しなくなるものです。

しかしこれがなければ生きていけず、気づかなければ幸福にならないものです。

小泉八雲はこういいます。

「日本の将来には自然との共生とシンプルライフの維持が必要」

「日本人の精神性の根幹には祖先信仰がある」

まさに、日本と日本人とは何かということをはっきりと観えておられます。私の暮らしフルネスのまた、同じような感覚で取り組まれているものです。

そしてこうも言います。

「日本人ほど、お互い楽しく生きていく秘訣を心得ている国民は、ほかにちょっと見当たらない」と。

お互いに楽しく生きていく秘訣を心得ている。そうあるとき、私たちは日本人なんでしょう。日本人よりも深く日本を愛したといわれる人が、そう思う境地を私も味わってみたいものです。

誰かに教え込まれた日本人ではなく、もっと緩んで開放し、自由にすべての束縛を手放し、まっさらの無垢な心で子どもたちには生きてほしいと思います。

徳の光

昨日から菜根譚を紹介していますが、仙人のような境遇、融通無碍にして自由自在の心境のことがいくつか記されてます。時代が変わっても、普遍的な生き方をして幸福に生きた人がいることは有難いことです。この人物が何をして生きたのかなど伝記などもあまりなく、科挙を受けたことや隠遁して暮らしたことがわかっているほどです。

しかし共感することがあまりにも多く、まさか自分の前世だったのではないかとも感じる境地です。

そもそも幸福というものは、人の道のことです。人の道は、徳のことです。古代より、人の道徳を生きた人は幸福のことを記してきました。中国ではまるで仙人のような境涯の人たちを幸福な人物と直観したのでしょう。

菜根譚は、一つの普遍的幸福を説いたものです。いくつか心に響くものを紹介します。

「すべて眼前に来るの事は、足るを知る者には仙境にして、足るを知らざる者には凡境なり。すべて世上に出ずるの因は、善く用うる者には生機にして、善く用いざる者には殺機なり。」

足るを知るものだけが仙人の境地に達する。日々の一期一会もその人次第です。

「心に物欲なければすなわちこれ秋空霽海、坐に琴書あればすなわち石室丹丘を成す」

日々の心がけでいくらでも真に豊かになれます。

「競逐人に聴せてことごとく酔うを嫌わず、恬淡己に適してひとり醒むるを誇らず、これ釈氏のいわゆる法のために纏せられず空のために纏せられず、身心ふたつながら自在なるものなり」

真に幸福のものは真に自然体であるということでしょう。

「山河大地すでに微塵に属す而るをいわんや、塵中の塵をや血肉身くかつ泡影に帰す
、而るをいわんや影外の影をや上々の智にあらざれば了々の心なし」

すべての宇宙は粒子で存在する、私たちもその一部です。すべては包まれているものとすれば智慧そのものです。

「出世の道はすなわち世を渉るなかにあり、必ずしも人を絶ちてもって世を逃れず了心の功は、すなわち心を尽くすうちにあり必ずしも欲を絶ちてもって心を灰にせず」

普遍的な生き方は、自らの心を盡すことで欲を断ったり心に囚われることではない、真の自然体であることです。真の自然体こそ人の道で、真の自己に生きることです。

この身つねに閒処に放在せば栄辱得失、たれかよくわれを差遺せんこの心つねに静中に安在せば是非利害たれかよくわれを瞞昧せん」

心が静かであれば、どのような状況であっても人の道から外れないということでしょう。

最後にこれは自然体そのものの境地です。

「人情、鴬啼を聴いてはすなわち喜び 蛙鳴を聞いてはすなわち厭い 花を見てはすなわちこれを培わんことを思い 草に遇いてはすなわちこれを去らんと欲す
ただこれ形気をもって事を用うるのみ もし性天をもってこれを視れば 何者かおのずからその天機を鳴らすにあらざん おのずからその生意を暢ぶるにあらざらん」

人は真に自然体になることが人の道であり、徳が顕現して幸福であり続けることができるように思います。そのためには、何が真に自然で、それであって自然不自然かを見極める実力が必要です。

日々の修養は誰にしろあり、この洪自誠も自分でいうように悟って悟っておらず、謙虚に学び続けて生涯を終えたのでしょう。私たちは学ぶために生まれてきたわけでもなく、役目を果たすためでもなく、出世するためでもなく、国家をまもるためでもありません。

仕合せになるために生まれてきたのです。

仕合せになるということをすべての大前提にしみんなで協力していくことこそが真の平和を産み出します。今の時代、改めて真の自然体を軸にした環境や場が必要だと感じています。

暮らしフルネスの実践を磨いて、子ども心と共に徳の光を発していきたいと思います。

ハタラキ続ける存在

私には尊敬している人がいます。その人はすでにこの世にはおられませんが存在はいつまでも生きておられます。人は生死だけではない、存在というものを持っています。これはいのちという言い方もします。別の言い方ではハタラキと呼んでもいいかもしれません。

生前、死後の別なく、ハタラキ続けておられる存在。ハタラキが観えている人たちはそのハタラキそのものの存在に感謝をします。これは自然界も同じです。自然の生き物たちはいのちがあります。そのいのちのハタラキをしてくださっているから感謝しあうことができます。この世界、宇宙にはハタラキをしていないものなどは存在せず、常にハタラキ合うことで調和しています。

存在がハタラクからこそ、その感謝を忘れないというのは先祖が喜ぶ生き方です。なぜなら先祖もまた終わったものではなく、今でもハタラキ続けてくださっているからです。

私たちの物質的な見方では不思議に感じますが、無から突然有がでてきます。何もないところから出てくるからそんなはずはないと思うものです。それは意識が同様です。なぜこの意識が産まれてくるのか。そのはじまりは何か、誰がつくったのか、深めてみるとそこには偉大な存在があることに気づきます。

この時代、というよりも人類は目覚めというものを必要とします。常に気づいて目覚めることで今の場所をよりよい場所へ移動していくことができます。今居る場所はどのようなところか、この環境のなかで自分はどのようなことをしているのか。人間は環境の影響を受けて抗えないからこそ、様々な問題は環境に現れていきます。

私たちがもっとも平和で謙虚だった環境はどのようなものか。こういう時代だからこそ原点回帰する必要もあります。自分が産み出す環境がどのような環境であるのか。それぞれに環境を構成する一人として、みんながそれぞれに気づき目覚めていくしかありません。

自然に包まれているのを感じる感性、童心という好奇心、呼吸するたびに感じる感謝の心など、もともと在る存在に気づいてこそハタラキのなかで仕合せを味わうことができます。

尊敬している方がいつまでもハタラキを与えてくださっている感謝を忘れずに、私も子どもたち子孫のためにハタラキのままで今を磨いていきたいと思います。

自然とのかかわり方

自然とのかかわり方ということについて少し深めてみます。そもそも自然と人間というものを分けて考えるとき、人間は自然の一部ではなく別個の存在であるかのような認識をするものです。しかし、私たち人間の身体はすべて自然が形成したものでありこの身体こそまさに自然そのものの一つです。

別の言い方をすれば、自然との関わりとは自分自身の身体との関わりにも置き換えることができます。自分の身体の声を聴いて大切にしていけば自ずから自然の声もまた聴こえるというものです。

しかし現代社会をみると、身体にとってよくないことばかりが環境に発生しています。環境問題も突き詰めればこの身体との関わりと繋がっているのです。

例えば、合成甘味料や防腐剤を使った食材、簡単便利にレンジで食べられるレトルト食品、他にも栄養に偏ったサプリや薬、脳ばかりをつかって運動をしない生活習慣、自然のリズムを無視したスケジュール優先の心身の酷使、他にもあげればきりがないほどです。

若い時は、対応できても年齢を経ていけば身体はボロボロになってきます。これは現在の自然環境でも同じことが起きているのです。

もう早くから自然の声を聴こうという活動をしてきました。しかし、自然よりもお金儲けや権威権力権利の肥大化に力を注ぎ、比較競争、国家管理していくなかで自然の声よりも人間の周囲の声ばかりが入ってくるようになりました。

身体でも少し問題が起きると、周囲がああすればいいこうすればいいと処置や対応策ばかり出てきますが根源的な解決をするのではなくあくまで対処療法によってその場を乗り切るだけです。環境問題も似たようなもので、根源的なものはできないことになっていて新しいテクノジーや治療法に期待しては何も変えようとはしないものです。

人間は根源的であればあるほどに魅力を感じないようで他にすぐに目に見える解決法を躍起になって探してはそれをお金で買い上げていきます。結局は、人間の欲望が勝ってしまうということです。

健康というものも失ってみてはじめてその価値が分かったりします。健康のときは、欲望が勝りますが一度身体を壊すと健康の有難さが骨身に沁みて欲望が消失していきます。本来の仕合せや健康を取り戻す過程で、自然の有難さを痛感して反省するのです。

つまりは纏めると、環境問題の解決は一人一人の自分の問題を解決するということに尽きるということです。

自分一人がまず自分の身体とよく向き合って身体の声を聴いてととのえていくこと。身体はどのような暮らしを望んでいるのか、そして心身は何を求めているのか。その一つ一つと丁寧に毎日向き合って暮らしを改善していくことだと私は思うのです。

暮らしフルネスは、まず足るを知る暮らしからはじまります。欲に目を晦まされているものを少し離れ、落ち着いて今に集中します。土に触れ、風に揺れ、火に癒され、水に清められ、月に諭され、太陽に元氣を戴く。つまり「いのち」を喜ばせていきます。

地球というものは本来、いのちが喜び合う場所です。そして本来の人間は、いのちを輝かせる存在です。いのちが輝き合うような暮らしを実践することこそ、真に環境問題を解決する根本的な方法だと私は答が出ています。

議論をすることも大切かもしれませんが、議論よりも実践していく方が自他一体の仕合せに貢献できます。自他が喜び合うような暮らしをととのえていくこと。私は私の場所で、世界の環境問題を解決する答えを生きていきたいと思います。

風土徳の循環

昨日、ある方から「土徳」というお話をお聴きしました。具体的には、この大地、つまり土が私たちを無償の愛で育ててくれている。見返りも求めずにただ与え続けてくださって今の私が生きている。その存在そのもののこそ土徳であるといわれました。

確かに土こそ徳の顕現であり、徳は土そのものです。

この土徳という言葉を辞書で調べて出て来ず、深めていると民藝運動で有名な柳宗悦が富山県の城端を含む南砺地方一帯にある精神風土を表した造語と出てきます。具体的には厳しいけれど豊かな環境のなかで恵みに感謝しながら土地の人が自然と一緒につくりあげてきた品格のようなものだともいわれます。

そもそも私たちはその土地の風土と生活文化は一体になっていました。今でこそ、都会の生活が当たり前になり田舎でも都会とほとんど同じものを食べ、同じものを着て、同じものをつくります。私は故郷の伝統野菜を守って育てていますが、これはこの土地でしかできないものです。しかしスーパーやインターネットで購入できるものはどこでも同じものがつくられ購入されます。

その土地にしかないものではなく、どの土地でもできるものに変わっていったともいえます。本来、その土地でできるものというのはその土地の徳が顕現したものです。以前、桜島大根を育てたことがありますがやはり桜島でだからこそよく育ちますしそこに相応しい味になります。他にも現地できびなごや温泉にも入りましたがすべて鹿児島を感じられるものでした。

これは人間がつくったのかといえばそうではなく、その土地の風土がつくったものです。そういう土地の持つ本当の力を少しいただいてその土地に住む人たちがその土地と一体になって工夫して繋いできたものが文化であり、その無為の偶然にも奇跡のように巡り合わさった循環こそが徳を顕現させているのです。

私は徳の循環を目指して様々なことに取り組んでいますが、改めて風土徳の循環を思いました。

自分にしか与えられていない道があることを知りながら、どうしても何も行動をしていないと迷い自分がいます。本当は、もう風土徳の中で導かれていることも感じています。

まずは足元の大地から、風土の徳から磨き直していきたいと思います。

徳積の本命

歴史というものは知恵そのものです。一般的にいう教科書の歴史は知識としては持てますが実際の歴史は知識ではありません。まさに先ほど書いた知恵です。知恵というものは、伝承されることで維持することができます。いくら知識で記録してもそこには知識しかありませんから活用することができません。

歴史の遺産や遺物が活用されずに朽ちていくのも、町の負担や負債のようになるのも知恵の歴史ではなく知識の歴史が使われるからです。私のところにも文化財の活用のことで相談を受けることがありますが、本当の知恵をつないでいない現代において知識をいくら活用しようとしてもそれでは活用になることはないのです。

私が取り組んでいる徳の甦生は、知恵の甦生でもあります。私にとっての徳=知恵であり、徳積みというのは知恵を磨くという言葉と同義です。なので徳積財団は何の財団だと聞かれたらそれは知恵の財団であると私はいいます。

知恵こそ本来の財であり、それを守ることこそが真の経済を豊かにすると考えているからです。

人はむかしから今に至るまで、たくさんの道を歩んできました。その道は古代から今でもつながっていてこれから先の子孫にまでずっと続いていきます。

その道を守るというのは、まさに徳を積むことと同じなのです。

私たちは先人の偉大な徳をいただき今があります。今の私たちは先人たちが歩んできた歴史のなかで活かされているのです。その活かされているという事実と真摯に向き合い、それを用いるというのが活用するということです。そのためにはまず知識になってしまっている歴史を知恵に甦生する必要があります。私はこの甦生することに使命を感じて取り組んでいます。

私たちの郷土、筑豊という地域は古代には「やまと」があった場所です。というより日本にはやまとがあるのです。私は英彦山の宿坊の甦生においてそのやまとの存在を実感しました。この日の本は、日の子の山のあるところにあったと知恵を感じるのです。霊山というのは、神仙ともいわれ人はいのちを育む偉大な水が産まれる場所を母としました。天地をつなぐところ、それが山なのです。

そして山からどのように歩み、いのちは育ち、道ができて今に至ったか。これは神話として知識にするものではなく、今も神道、かんながらを共に歩み知恵にしていかなければ天命を生きられないのです。

今でも私たちがそれを辿ることは道を甦生することでもあります。徳積財団の本命として、歴史の甦生は徳の甦生でもあります。これからじっくりと時間をかけて子孫へ徳を伝承し知恵を伝道させ、未来にも豊かな宝が活用できるように取り組んでいきたいと思います。

暮らしフルネスの理解

昨日は、ある自治体の職員さんたちが聴福庵に視察に来られました。あまり対外的には視察は受け容れていないのですが、かねてから深いご縁のある地域の方々でもあり共に学び合う気持ちで情報交換をする機会がありました。

私はよくそもそも論の話ばかりをします。そして目標よりも目的の話をします。また対処療法よりも根源的な解決方法について話します。時間軸も長く、短期的な評価は後回しに行動し実践している事例ばかりを話します。こういうことを並べていたら、世間一般的に流行っているまちづくりの話とは異なり聞いている方も固定概念との折り合いがつかず大変そうです。

しかし実際には、歴史を学べばその意味がわかります。

いくらその時々で最高のものであってもすぐに人が代わり時代が代わり価値観が変わればあっという間に最悪の結果になったりもします。その時々の最高の方法や答えだと思えるものほど信用のないものはありません。だからこそ私は先人の知恵や、伝承された文化の知恵を重宝してそれを現実の取り組みに取り入れているのです。

ただしこれはどれも評価しにくいものです。中庸のようなものであり、中心を捉えることができなければ理解していくことも難しいものです。世の中はほとんど二元論で考えられます。それは言葉という道具が便利な構造をしている分、分断したもので知識を理解するという仕組みになっているからです。

本来は分かれていないものも分けて考えているうちに専門的になって知識は偏りますが、実践していなければ中庸も中心も捉えることはできません。それが知恵だからです。

私はどうも知恵を話しているようで、そもそも知恵だから話でわかるというのは限りなく不可能です。なので共に実践して体験しながら学んでいく、共に知恵を使い共有していくという方法が必要です。

それがあまり視察を受けても意味がないことがわかり受け付けなくなっている理由にもなっています。一緒に実践したり学び合ったりするには場が必要です。その場をどのように創造するかは、共に志を持ち取り組む仲間になっていくということでもあります。これは自分に見返りを求めず徳を積み、子孫のために何をするか決めていくことに似ています。

まだまだはじまったばかりですが、同志が増えていくのを感じます。真摯に日々の暮らしフルネスの実践を丁寧に取り組んでいきたいと思います。

拝む実践

先日、ある方から「拝む」ことについてのお話をお伺いすることがありました。人がなぜ拝むのかという問いのことです。その方は、拝むのは拝まれているからこそ拝むのだということです。

挨拶なども近いものがありますが、相手が挨拶をするから挨拶をします。相手が挨拶をしていないと思っていても、こちらが挨拶をしていると思えば挨拶をするものです。これはすべて相手が先に自分に対して挨拶をしてくださっていると思うと挨拶を先にするのは特段おかしなことではありません。

拝むというのは、その方が仰るにはご先祖様をはじめ、多くの方々があなたのために拝んでくださっているということ。その思いに対してもったいないと思うからこそ拝むのだといいます。

そこから、少し振り返ってみて一体誰が自分を拝んでいるのだろうかと思い出すとまず祖母のことが浮かんできます。祖母はいつも家族のこと、孫のことを神仏に拝んでいました。毎朝、毎晩、事あるごとに拝んでいたように思います。そして今度は、母です。母も気が付くと、祖母の後をついでいつも神仏に拝んでいます。きっと同じように家族のこと、孫のことを拝んでいます。

よく考えてみたら、ずっと誰かに拝まれてきた記憶があります。それがご先祖様であったり、家族であったり、友人、仲間たち、そしてご縁の結ばれている方々などが瞼の裏に映ります。そして、もう一つ、頭では考えられませんがずっと以前に先祖たちが結ばれた人たちがお互いに助け合い救い合い、恩返しや恩送りをしながら拝んでいる姿が想像できます。いつかこの御恩をお返ししますと誓い合った絆や徳、感謝の循環が今の私にも降り注いでいます。

そういう人たちが天国や別の次元からいつまでも拝んでくださっていると感じるのです。偉大な経糸と、現在に直観する横糸、それが網の目のように網羅されて今の私がその一つとして存在しています。それは拝むことに由って結び目が光り、拝み合う力によって繋がっていることに気づくのです。

手を合わせて拝むことは、拝んでくださっている方々へ向けての大切な感謝のご挨拶なのかもしれません。

大事なことを忘れないよう、当たり前ではない有難いことに気づけるよう、いつも真心で拝む実践を続けていきたいと思います。

ご縁を活かす

人の出会いや繋がりには必然性があるものです。これはよく考えてみると、連続しているからにほかなりません。一つの出会いは途切れているのではなく、ずっと今もつながっています。それが節目節目に何かの形でご縁を実感できているということだけです。

つまりご縁というのはすべてご縁というものであることがわかります。天網恢恢疎にして漏らさずという言葉があります。この世は網の目のようになっていて、その網の目の中で私たちは結ばれて生きています。

これが一人一人の自意識が自我によって自分というものを分けて世界を認識していますが、実際には偉大な意識の中で常にご縁と共に存在しているということになります。

この存在という意味を深めてみると、すべてのこの世に目に見えるものは勿論のこと、目に見えないものにいたるものもご縁のむすびのなかにあります。誰かが作ったもの、もともとそこにあったもの、存在というのはまるごとあります。

その意味を深めて、そのご縁をどのように結びなおすのかというところにご縁を活かす妙味があるように私は思えるのです。

ご縁を活かすというのは、悠久の関わりや結びつきを時代時代にどのようにほどいて結びなおすかということです。それは着物の糸をほどいてもう一度反物をつくり別の着物にするように、私でいえば古民家や古材をどのようにいのちをつなぎあわせて甦生していくかに似ています。

別のものを組み合わせているのではなく、ご縁を活かすということです。

先祖のつながりなども、前世のつながりなども目には観えません。しかし、ご縁をよく味わっているとこれはきっと先祖から今までそしてこれからのためのご縁であることに気付きます。

全て繋がっていると思って生きている人は、どのようなご縁であってもこの先にどのように変化していくのかが直感します。どういうご縁であっても、自分自身がご縁を大切に生きていくことが大切であり一期一会であることに集中することがそのご縁を生きる実践になります。

子どもたちにも素晴らしいご縁が結ばれていくように一期一会の日々を歩んでいきたいと思います。