発酵~活循環の法理~

先日、クルーの一人が実家の新潟の上越市に帰郷した時の御土産に隣の石川県の特産の「ふぐの卵巣の糠漬け」を買ってきてくれました。

今年は発酵がテーマにしているので色々な発酵食品も食べていますがこの奇跡の食品と呼ばれるものを体験してなるほど深い味わいがあると実感し大変驚きました。

もともとふぐの毒性というものは大変な猛毒で、この卵巣一つの中のテトロドトキシンで大人15人が死んでしまうほどの強いもののようです。これを独自の製法を使い無毒化していくという過程に発酵が入っています。

つまり発酵が毒をも消し去るということです。

ここでは糠漬けの製法を使うのですが、いまだにその無毒化の謎は科学で解明されておらず世界でも類をみないほどの発酵の奇跡の力を証明しています。

そもそもこの発酵とは、微生物が協力し合って活動した代謝物であると私は定義しています。簡単にいえば私たちのいのちの営みで積み重ねた活きたエネルギーの跡です。

しかしこのミクロの世界にある営みそのものの役割分担が大変見事だからこそ、そのいのちのめぐりを通して私たちは大変な恩恵を受けているとも言えるのです。そこには分解しよう、もっと変換しよう、つまりは万物をさらに活かそう、もう一度、活かしあおうという力が働いているように私には感じるのです。

以前、発酵の学びの中でキノコをやりましたがこのキノコも菌の集合体です。生き延び菌糸を伸ばし飛散していくためにも形成し子々孫々へと繋がるために森を移動していきます。土の中には、様々な微生物が生活をしていてその代謝したものが肥沃な土となっていきます。

腐葉土というものも、枯葉が発酵することで大変な栄養分となり虫を活かし、植物を活かし、そして私たちの生活そのものを活かします。本来は活動を終えたはずのものが、地に落ちてそこからさらなる新たな活動がはじまり終わりなく循環される元になっているのです。

このいらないものがないということ、捨てるものがない、つまりゴミなどは存在しないと証明するものもまたこの「発酵」というものであるように思うのです。このふぐの卵巣の糠漬けに観えるように、本来ならば毒であるものが美味しい食品に様変わりするのです。

こんな料理の方法があるということ自体が、自然の叡智そのものではないかと私には思えるのです。要らないものなどはない、その活かし方によるものだという考え方は私たちがここまで生き延びてきた智慧なのかもしれません。

今の時代は、不足が不足していると言われる時代で何かあればすぐに買い替えるや捨てればいいと安易に身のまわりのものを粗末にしていきます。しかし、昔はどんなものにもいのちがある、どんなものにもお役目があると何でも大事に扱ってきたのです。

八百万の神々がいらっしゃるのですからと大切に大事に接してきたのであろうと思います。そこに日本の心、かんながらの道も覚えるのです。発酵というものは、万物を活かそうとする私たちのいのちの道であろうと思います。

発酵とは活かし続ける力、循環する源、私たちが自然の一部である在り方そのものなのです。

まだ古き善き心が残っているものをもっと掘り起こし見つけ出し、この思想や生き方を伝承していきたいと思います。素晴らしいキッカケがあったことに心から感謝しています。

自然の命魂

昨日、新宿にある鎮守の熊野神社に旅の無事を御礼に参拝してきました。
いつもながらの御蔭に援けられていることに有難い思いになります。

私たちは何気なく暮らしを営みますが、その営みの蔭にはたくさんの恩恵があります。
その一つ一つが私たちを活かし導きそして助けてくれています。

そういうものを心は観えているはずですがそれを放置しないようにすることも道の実践です。
学問をしていくというのは、心と頭、理想を現実を合致させていくことで顕現していくものです。
常に意識の中を心と頭の両面で捉えていくことができるようになることかもしれません。

またせかせかとした時を速めた窮屈な情報優先の世界に戻っても、全体を見渡し心穏やかに坦蕩蕩と歩んでいけるように祈りや実践を怠らないでいきたいと願いました。

さて、その熊野神社の掲示板に真木和泉の言葉が紹介されていました。
その歌にはこうあります。

「天も誠にて天たり 地も誠にて地なり」

私の意訳ですが、天も真心のままだから天であり、地も真心のままだから地である。という意味で、だからこそ人も天地と同じ真心の人でなければならないという言葉が続くという意味であろうと思います。

つまりは天地人とは自然との一体感、その真心のままでいるということかもしれません。

この真木和泉は、福岡県久留米にある出身で私の故郷とも近いところで生まれています。
水天宮という神社の神官でもあり、志士として大義に生きた人物です。

最期は、長州藩と合流し久坂玄瑞らと共に禁門の変で戦い天王山で自刃して果てています。
楠木正成を崇拝していて、今楠公と呼ばれていたほどだったとも言います。

大義というものを貫き、命を惜しまずに正しきかどうかで覚悟して決断するというのが志士の生きざまのように思います。私たちの先祖は大和魂のままに生きいつも心にはお天道様が観ているのだからと天に恥じないように生きるよう幼いときから習ってきたのでしょう。

今の時代は、私たちの大切に受け継いできた大和魂も錆びた道具のように使わなければ古びていくものです。何度も磨いてその刀がさび付かないようによく手入れし、また鍛錬陶冶していくことが大切であるように思います。

私たちがもともと天地に貫いてきた生き方が大和魂として語り継がれて今に至ります。
私たちの血や肉には、先祖たちが脈々と遺してきた意志があるようにも思うのです。
大和魂は、自然の命じる魂であるとかんならがの道の実践から感じます。

最後にこの真木和泉の辞世の句を紹介します。

「大山の峰の岩根に埋めにけり わが年月の大和魂」

いつの時代でも大和魂の痕跡が、私たちの未来を見守り続けてくださっています。
またいつもの日々ですが、怠らずに天地自然の道、その大和魂を磨いていきたいと思います。

 

懐食

日本から離れて生活をして日本に戻ると日本の有難さを実感するものです。

これは誰にも言えることで、例えば日本食などもそうですが久しぶりに食べる故郷の食事に感動しなんでこんなに美味しいのかと覚えるものです。一杯の味噌汁と玄米、漬物という組み合わせに感激するのです。

私の場合は玄米食なので、帰国後に食べる玄米に生きていて善かったと思える程に幸せを感じます。美味しいということは、すなわち味だけのものではなく五感全部が歓んで幸せを感じて安心していることをいうのです。

そして久しぶりに食べる食事に、私たちは懐かしい故郷に帰ってきたと歓んでいるのです。

この懐かしいと思う気づきは何かといえば、もともとここで生まれ育ったという確認なのです。三つ子の魂がなぜ大切かというのも、この故郷がどこであるかを持つことで心が安住する地をもつのが私たち人間なのです。

現在、福島原発の周辺で放射能で住めなくなってそれを移住すればいいとかいう人もいますが、では日本に住めなくなったから外国に往けばいいと同じように言えるのかということです。誰でもどんなところになっていてもやはり幼少期に生きた故郷に戻りたいと思うはずなのです。

遠い先祖は、神話の中で開闢の心を説きました。
故郷を離れるというのは、本当に大変なことであるのです。

私たちが故郷に戻れるというのは、故郷が私たちの幼い頃の記憶だからです。
そしてその記憶は常に心の中にあり、戻ってきたことへの幸せと安堵感を覚えるのです。

何を故郷にしているのかはその人その人で異なりますが、食は本当に誰しもの故郷ではないかと思うのです。

食べることを通じて、地域にいることを感じ、食べることを通して、周囲の人たちの愛を感じ、食べることを通して、原点に回帰しています。

食べることは毎回、己の故郷に帰ることかもしれません。

素食という言葉よりも、懐食をしていきたいと思います。

 

 

ふり返りでふり還る

先ほど無事に帰国し、帰宅して今は一休みしています。

今年も色々と学びがありましたが、ふり返りについて深めることができまた有難いご縁をいただいたことに感謝しています。

ふり返りという言葉は、その意味を自分で掴んでみるとその体験したものに気づくことで現実のものに換えるということができます。例えば、日々の起きる出来事を同時に省察したり熟考したり内省をしているから今、何があっているのかを自覚します。

よく忙しいからといっては流される人は、単に内省をする癖がなく内省をしないからまた次の日には次の日の経験が上書きするから理想と現実の間がどこであったかもわからなくなるのです。時間は有限ですしご縁は紡いで積み重ねるのだから大変勿体ないことと思います。

もともと内省するのは、自分が体験した気づきを現実世界に投影していくために行います。
それが生きているということですし、人生で学んでいるということです。

この体験は一体何だったのか、これをするのはなぜか、何のために行うのかと本質という理想と現実の間に観える中庸の世界、つまりは「本当の自分の今」を正しく認識できるのです。

よくズレたとか、また刷り込まれたとかいう人がいますが、単に内省が不足しているだけです。

例えば一日をどう過ごして何に気づいたか、あれは何かをふり返ればその意味が何に繋がっているのか、そしてどのようなカタチになっていくものなのかを気づき、その気づきをまた深めて真実や本質に辿り着くのです。

人生は生きていても、ふり返りをしなければ実際には仮想の世界で生きているようにしているだけのこともあるのです。だからそうやって日々にふり返りつつ歩み続けることを正しい実践というのです。実践をしたかどうかとかするかどうかではなく、これは実践できているということはちゃんとふり返りという内省をしましたよという意味であるのです。

せっかく生まれてきたのに、内省しなければ業務をこなすかのような日々になってしまいます。人生は短いのだから、時間を惜しんで学びをしていきたいと思うのが人情であるはずです。

それに人間はふり返ることで、本当の使命にふり還ることができるのです。
言いきれば、ふり返りのない人生は自分の人生ではないのです。
自分の本当の人生にふり還るのも体験した気づきを内省し実践することで観るからです。

どんな事情があったにせよ、忙しいからふり返れないとか、ふり返る時間がとれないとか言い訳をするのではなく、そういう時こそ離れたところから主観的な自分と客観的な自分を重ね合わせてもう一度自分を省みて本来の自分の姿のままでいるための実践が人生の陶冶でもあります。

もし流されふり返りをしないで生きてると、あっという間に体験も気づきも学びのキッカケも過ぎ去ってしまいただ時間が流れます。

この人生は一度しかない一期一会なのだから、体験や時間が過ぎ去るだけになるのはあまりにも勿体ないのです。二度とないこの人生を深く味わい尽くして体験を感じて学びの実践を大切にしていきたいと思います。

ドイツ研修6日目 六感曜日

ドイツ研修も6日目を迎えました。

昨日は、午後よりヴェルツブルグの町にある幼稚園と保育用品メーカーを視察しました。
夜からは、ヴェルツブルグの市内をガイドとともに散策してまわりました。

その後は、500年以上の歴史のある居酒屋でフェアウェルパーティを行いました。
一つの出逢いがあれば、一つの別れがあり、もう一つの再会があります。

扉はいつも開いたり閉じたりしていますが、その先にある未来を予感しています。

今回はふり返りをテーマに参加していましたが、不思議な体験もたくさんしました。心の故郷がどこにあるのかを自覚したり、国境も時空も飛び越えて思いを伝え合ったり、五感を使うことで日頃何気なく過ごしている日常が変わってしまうのです。ご縁を感じるのも、感謝を憶えるのも、そういうひとつひとつに心を使ったからのように思うのです。

ずっと心を使っていればむき出しの心は当然傷つくことになります。
しかしそれは身体の古傷と同じように必ず癒されるのです。

ドイツの陶冶プログラムの中で、「リジリエンシー」についての話を伺いました。これ逆境にあったとき立ち直ることのできる心の力のことで、船が傾いたときに自らで元 に戻れるような力のことです。

心を使うことをやっていくことでこの力は伸びていきます。しかし同時に、その心をつかうということは生身の人間ですから時には風雨にさらされ、時にはひなたぼっこしたりと、まるで海の姿のようにゆらゆらと揺れながら波が変化しているようなものです。

自然にしているということはどんなことか、それは自分が自然の一部であることを第六感でいつもいることです。自分が自然であるのだから自然現象は起きますし、その中で時には病んだり回復したりとしながら強く優しく生きていくことがいのちそのものであるからです。

今の時代は不自然の中に身をおくことで、心を頑なに閉ざして生きていこうとしたり、心が脆くくずれないようにと怖がり、自ら前に進もうとしなかったりと、元来の生命力を喪失してきているように思います。それを取り戻すということでしょうが、私はそれは決してその人だけの力でやることではないと思っています。

ではこの立ち直る力はいつ漲るのかを自明していくとそれは共感するときのように思います。家族や友人、仲間たち、同志、先生といった人達の励ましによって得られるからです。

どうやって心を回復していくのかは、それは心の支援によるものです。
心は、愛し愛され、思い思いやり、そういう共感によって偉大に支えられます。

自分が一人ではない、自分の周りにはたくさんの見守りがあると感じることだと思うのです。
いくら一人だけで踏ん張ろうとしても、それでは折れてしまいます。

自ら信じているから心をむき出しにしていられるのです、だからそれでも真心を使うのです。
つまりそういう天の真心のままに使えるものを私たちは「天使」とも言うのかもしれません。

この立ち直る力が何を意味するのか、それは世界は今、見守る力を求めているからのように私には思えます。今回のドイツの中で得た感覚は、時代が呼び覚ました「MIMAMORU 」への確信だったようにも思います。

傷つくことを恐れないで歩めるよう、好奇心、第6感を自ら育みそれを今を生きる人たちへと広げたいと思います。

助け合って生きていけるという安心感と、仲間といることの歓び、その自然の偉大な見守りたちの中で、心をより優しく強くして昇華する旅にしていくことが人生そのもののダイナミックな自然の在り様そのものだからです。

今は、これらの御土産を早くみんなに話したい、仲間と早く共有したいと心はワクワクと躍っています。

ドイツ研修5日目 匂味曜日

ドイツ研修5日目を迎えました。

昨日は、午前中に公立のkrippeを訪問しミュンヘンでの保育施設の視察を終了しました。これからヴェルツブルグに向かい、遊具メーカーと幼稚園を視察したあとフランクフルト経由の帰国です。

旅のご縁は不思議で、旅先でも様々な出来事と出会いつつ、離れた遠くの故郷でも様々な出来事と同時に出会っています。自分の周りの人々との同時の関わりが人生を彩り、そしてそこに自分が存在しているのを実感するからです。

自分が生きているのは、ご縁に出逢っているそのものにより存在するのかもしれません。
今まで知らなかった人たちとのご縁を深め、そのご縁の中で生きている自分。
存在を憶える時、ご縁=人生であることを知覚するのです。
ふり帰ってみれば自分が楽しく豊かな人生の仲間たちとの生活に偉大に恵まれていることの感謝に満ちます。

遠くに離れてもふり返るといつも薫ってくるのはご縁と真心と幸せのように思います。だからこそどんな時もご縁を大切に一期一会に生きていつまでも楽しく豊かに香るような人になりたいと思います。

さて、昨日は夜の情報交換会の最終日となり振り返りも充実していました。この振り返りでは、自分が何を持ち帰るかということを発表していきます。

話の中では、もっと自由に遊具や装飾を考案しようとか、環境の本質の話、遊び心のことや子どもの眼線の設計の話、皆と共に取り組む思いやりのことや、ときめき響くことの大切さなど、それぞれに気づいたことをたくさん共有することができました。

また先生からはドイツでは昨年から陶冶プログラムが一体化により施工されそれをどうやるのかなどに興味があった話で、それが考える過程を保育にしていることが現場で観れて参考になったなどの話もありました。

私たちは一緒に物を観てもそれぞれに同じ気づきではありません。
気づきをアウトプットすることは、衆智がインプットされるのです。

一人で学び深めることは、一人に戻ってきます。
しかしこれを大勢で深めれば、大勢が戻ってきます。

人間の叡智は、自分も正しいそして皆も正しいということに気づいたことかもしれません。

衆智というのは、人生はそうやって役割がありそれぞれに学びが存在することを証明します。
みんなでプロセスを共有し考えること、このプロセスが衆智というものだと私は思います。

衆智を集めるということがどういうことなのか、この実体験を通してふり返ることができました。
同じことを繰り返してもそれに気づく感性は自ら勇気をだして新たに挑戦することで磨けます。

昨年の研修がまるで昨日のことのように追憶して新たな感覚に出逢います。

まさにふり返り=陶冶、つまりライブで人生のふり返りを味わうことが陶冶のことではないかと味わった有難く嬉しい収穫の一日になりました。

ドイツ研修4日目 触味曜日

ドイツ研修4日目を迎えました。

やはりここ数日間の寝不足のせいか、集中力の持続が難しくなっています。

眠くなるというのは、体力、気力、精神力などがありそのバランスが崩れてしまうことです、だから寝て回復調整します。当然、こちらで日本とは違う時間帯で体は動いているのだからどんなに工夫していても体力も落ちてしまいます。またいくら気力があったとしても情報量が多いとどうしても鈍りますし、時間が限られているのでやれることも少なくなると精神もやや疲れます。

これは別にそれが良いとか悪いとかではなく、もともとそういうものだと受け容れてこれで善いのだと転じて自然のままに感じることだと思います。自分の状態が分かっていることではじめて周囲の感触もより繊細につかめていくことができるからです。

これも旅の醍醐味ですから、歩みの感触を見守りつつ、皆とそれを楽しみながら日々の学び方も素直に工夫していこうと思います。

さて、昨日も園を視察していく中で共通したものに発見発掘がありました。

当たり前かもしれませんが、もともと子どもたちが安心しているところや子どもたちが見守られていると感じるのはそこに子どもがそのままでもいいと感じる環境が用意されているからです。もちろん、そこには共通して子どもがやりたいことが保障されたり、それを見守る側が自分も子どもと同じように楽しんでいるという状態が存在します。

もちろん保育の遊具や家具、その他の教材などはどこでも似たり寄ったりのものを使います。しかしよくよく観察すると、そこには大人が子どもに与えたと思われるものと、大人子どもがなく楽しんだ形跡の物が残っているのです。そこは余韻があるという感覚に近いものがありますが、楽しい場にはそこに一つのいのちが躍った温もりが残ります。

また装飾などはその時々に自らが響いた記憶に包まれるだけにとどまらず四季のめぐりにあわせていることも発見しました。

子どもも自然のいのちの存在と同じように自然を感じて自分のいのちのめぐりに触れています。自然を持ち帰りたくなるのは、そういうものを身体が感じて四季のめぐりの準備をするからかもしれません。つまりもともと人間も他のいのちと同様にが四季にそっているということです。

これは植物が自分から冬に備えて葉を落とすことに似ていて、全ての生きものは何もしなければ自分から元々あった力で取り組みはじめるのです。

今回持ち帰るのものの中に、「めぐりの装飾」がありますが自然のリズムやサイクル、そしていのちの躍動そのものに触れる機会を環境と共通させていこうと思います。

そしてドイツでもそうですが、まず自らが大人の目線、刷り込みのメガネを取り払って子どもという真の姿のままに物事を捉えることが保育の共通であるように感じました。

もちろんカタチになっているものを観て、どのような行動や気づきがあったのかは現場のことが分からない部分は埋められませんが、それでもよく観察することで内面より自明していくこともできます。

全体的に寝不足なのですが、帰って心に戻る時間も取れるし静かに思索にふける時間もありますからこれもドイツ研修の味わい深さかもしれません。

本日はミュンヘンでの最終視察日で明日からヴェルツブルグに向かいます。

夜の情報交換会もまとめの日、せっかく折り返しして冴えたのだからドイツの場や間、和の空気など自ずから触れ合い沁み込んでいこうと思います。

 

ドイツ研修3日目 味嗅曜日

ドイツ研修3日目を迎えました。

昨年の視察では観えなかったものをたくさん今回の研修で発見しています。

昨日は、こちらの教育局の方々が招待してくださった会食に御伴させていただくことになりました。まず藤森先生が、こういうご縁を大事にしながらはじめて続けられてる国際交流とドイツ研修であることを知り改めて頭が下がる思いがしました。当たり前に続けていますが、この当たり前に観えることこそ本当は大変難しいことがあることに気づくのです。

お互いの違いを越えて認め合うというのは、大前提としての決心や信念があってこそのように思います。日本でもドイツでも、変わらず自分の真心を貫く姿に周囲が支援してくださるのを感じます。今回はこの10年で取り組んでさまざまに実ってきたものを関係の中で味わうことができ、改めて存在というものの感謝を実感しました。

また会食での話ではドイツでの制度事情、少子化のこと、今の経済状況から昨年の構造改革の話までどれも日本での課題とよく似たことが発生していることに共感を覚えつつ、同時に違和感を感じていました。

以前、ブログでも書きましたがそもそも子どものためとは何かということはその人の持つ定義が異なれば同じ「子どものため」といっても意味はまったく異なります。例えば、少子化によって保育園をたくさん作ることも残業に対して預かりの時間を増やしていくこともそうだし、幼保一体化などもそうですが、どれも話を聴いていたらそれが本当に子どものためになるのだろうかと思えることも沢山あります。

子どものためというのなら、子どもの人格を丸ごと認めることからのように思います。これは見守る三省の中で、はっきりと理念が出ていますが何が子どものためかということなのです。

常に本質的に何を優先するかということになりますが、そこには変えてはならないものと変えなければならないものをその時代に嗅ぎ分けることができなければならないように思います。短絡的に、目先にある経済を追いかけていたら本当に大切なものまで見失ってしまうかもしれません。

日本、ドイツに関わらずこれは世界でも言えることですが子どものためとは何かという本質を出発点にして常に事物は議論する必要があると私は思います。

世界で議論をするには、自国でもそれを貫き実践しカタチにしていかなければなりません。GTをはじめ、自社の実践実行の尊さを改めて感じてその課題もまた持ち帰ろうと思います。

最後に、昨日は中庸についての話をお聴きすることもできました。

今の時代は、何かにつけて極端な議論ばかりが横行しています。何かにつけて話があるときは、良いか悪いか、やるかやらないか、できるかできないかなどとまずはすぐにどちらかに分けてから認識しようとします。

例えば苦しみの中に楽しみがあるというように本来は楽か苦かではなくそのものが渾然一体と混じりあった中庸にこそ本来の味わい深いものがあるように私は思います。

これは自然を味わっていくと分かれていない所に真の趣があることを憶えるのと似ています。もっと自然を観察するときのような審美眼や深い味を楽しむような上質な味覚を磨き、本来の姿、誰かに教えられる前のあるがままの姿、その心で出来事を考え抜いていく力を育てていく必要があるように思いました。

今のように情報が錯そうする時代は、何よりも自分の感覚を磨くことが重要なのかもしれません。ドイツにいても、日本にいても、大切なのは実践している中で本物の嗅ぎ分けるセンスが役に立つようです。

ドイツ研修2日目 観聴曜日

ドイツ研修の2日目を迎えました。

昨年参加した時とは異なり、ふり返りを中心に発見することでより身近な共通点や足許にある発見まで見通すことができます。

今年も昨年と同じく、視察を終了してミュンヘンの市内まで行きその場で降りて歩き方や電車の乗り方、買い物の仕方、場所などを藤森先生からレクチャーがありました。

思ってみれば、全てが研修であり研修と観光が分かれていないと思えばこれも見守るを理解するための大切なプロセスであると気づくのです。

老子の言葉に、「授人以魚 不如授人以漁」というものがあります。

これは「人に魚を与えれば一日で食べてしまうが、釣りを教えれば一生食べていける」という意味に訳されますが、答えを与える教育ではなく、そこに辿りつける方法へ導くというのが自立のプロセスには大切なことであろうとも思うのです。

私は特に一緒に学びをいただけるなかでそれを実感することが多かったように思います。だからいつまでも同行が楽しく、幸せを感じるのです。

信じるということからはじまっていれば、自立とはその人が自ら辿っていけるよう導くことがここでの教えるということになるものなのでしょう。

今回はふり返りを通してこのようなことも観えてきましたが、昨年まではそのような見え方はしませんでした。ふり返りというものは自分のことを見通せる大切な機会だと気づけます。自分の問題意識がどこにあるのかを知ることは、自分自身を知ることにつながるからです。

つまりは自分のものの見方がどうなっているのかを内省することこそふり返りです。
このフリータイムも、自分たちで協力して体験を通して学ぶ見守るの実践の一つです。

また、夜の情報交換会では使っている言葉についての話がありました。ドイツでの母国語の指導などの視察を通して如何に正しい言語を使っているかという話がありました。

その際、言葉を正しく使っていないことのたとえで2012年10月12日臥竜塾ブログにて紹介があったような話がありました。使っている言葉が本来の意味と異なっているということについて書かれていますが、参加者からもそれを直していこうとありましたが私はさらに考えてみました。

国語力というのは何なのかといえば、その国の言葉の力というようなものだとも私は思います。それはその国の言葉にしていくというのは、つまりはその国民の生き方そのものが言葉になるという意味です。

国語を正しく教えるというのは、大前提として教える側の生き方の影響を大きく受けるということになるのです。母国語もそうですが、本来は今のように言葉の解釈が歪んで教えられるようになるのは自分自身がその母国語に添った生き方ではないからです。

本来の古来の言葉は、その生き方を格言にしたりそのものが言葉に成り代わったともいえます。それを理解するには、言葉を単に暗記すればいいのではなくその本質通りに使っているか、つまりは本質のままに生き方を正しているのかということになるように思うのです。

国語力の低下というものは、国民力の低下とつながっているのはそもそもの言葉を発する側に問題があるわけです。自分を正すことで母国語を正そうとすることに気づける人たちがどれだけいるかわかりませんが、やはり自国の文化伝統、そして自分たちの生きざま、歴史などまず自分に立ち返って取り組もうとするのが本質であろうと思います。

同じものを聞いても、同じことが聴けるわけではありません。
もっと正しく聴くために、自分自身の聴く側の姿勢を振り返りたいと思います。

ドイツ研修1日目 五感躍日

無事にミュンヘンへ到着し、ホテルへチェックインし安着祝いにドイツビールを皆で飲みにいきました。

毎回思うのですが、学び合いの中で乾杯できる機会は人生でどれくらいあるのだろうと考えてしまいます。同じ理念のもとに学ぶなかで、その道すがら沢山の方々に出会い、そして別れていきます。

その一つ一つの思い出が、記憶を振り返る中で心を駆け巡りますが今もこの瞬間もその楽しさを大切に味わいたいと心が躍るのです。どんなつながりがあり、どんな意味があり、どんな味わいがあるのか、やっぱり何でも五感をフル稼働していないと分からないことばかりです。

この五感とは、頭だけで考えないということでそこに感じる力を合わせていくことです。理屈では分からないことは行動してみないとわかりません。そして起きる出来事が何に繋がっているのかの意味やその意義、邂逅への道筋もすべては自ら感じることで観えてくるものです。

つまりは心というものは常に五感と繋がっていて心を使うときに同時に五感を動かすのです。頭で分からなくてもいいのは、その代わりに心が全てを見通すからのように思います。

この頭で分からないことばかりの中には、分からなくてもいいものが沢山あるように思います。
分からないことは、分からないままに理解する方がいいこともあるからです。

何が起きるのか、この先のことを考えればそれは分からないから期待と不安があるものです。
そういうものを一つ一つ味わっていくことが善き思い出、善き出会いのご縁と五感に導けます。

考え直してみても本当に不思議なご縁です。

もともとオランダに学びに行くはずがふとしたきっかけからドイツに替わり 、その御蔭で私たちの祖霊や祖先へ回帰することになり、かんながらの民の生き方から大和やニライカナイ、稲の道などを深めた日本との邂逅の3年間になったように思います。

決して焦らなくても何から順番に学べばいいのか、その道筋をご用意してくださっているかのようです。本当に有難いことばかりに感謝の気持ちに満ちていきます。

今回も、しっかり学び子ども達に還元できるように五感を研ぎ澄ませていこうと思います。
いよいよふり返りがはじまります。