信の行進

よくポジティブかネガティブかということを議論にする人がいます。

前向きな人か後ろ向きかということを話しているのですが、実際はこの話をすること自体がそもそも論外ではないかとも思うのです。前向きを意識しながらの後ろ向きや、後ろ向きを意識しながらの前向き論というのは、どちらも2極化されている世界の話でありどちらかに偏っていると言っているようなものなのです。

本来の考え方というのは、中庸というかバランスの中に存在します。そしてそれはどちらかといえば実践を行う中でしか認識できないところにあるのです。

例えば前向きさというのは、最期まで諦めないというものです。なぜなら、信じているから途中でやめたりしないのです。つまり、どんな結果になったとしてはそれは必ず善いことになるし善いことにすると遣り切っているから 前進し続けている状態でありいつも前向きということになります。

これを逆に途中で諦めてすぐにやめてしまうことは、最初から結果が気になって悪いことが起きると信じているのだから前に進むのをやめてしまうから後ろ向きということになるのです。

つまりは信じるということの実践を行うときは常に前向きであるということ。信じないという実践を行うときは後ろ向きだということになるのです。自分の実践を省みることが自分の心の状態がどうなっているのかを自覚できるのです。

心が信じるという実行ができて頭もそれを補佐していくことで、まさにそこが信の行進になり中庸であり、信じる世界で自分の運に従って確かな道を歩んでいるということになるのです。

よくポジティブかネガティブかと気にする前に、自分の心や眼差しが善いことになると信じているか、善いことにするまで諦めないと決心しているか、それを矢印を向けて実践しているときだけが信じているということになるのです。

信が弱い人はすぐに頭でっかちに考えて実行を怠るように思います。それは別に実行どうかではなく、今まさに信じていないからそういう世界に自分がしていると思った方がいいのです。

信じるというのは、誰かを見てや相手を見てなどとすることではなく、自分の人生を丸ごと信じるときの信じているでなければ信じていることにはなりません。日々に起きていることをすべて善いことにするという気持ちを大切にし行動することが何よりも信を伸ばすことにように思います。

天命に委ねながら、日々の人事の実践を尽くしていこうと思います。