託される場

場には託されたものが存在するものです。実際に、あらゆるご縁やつながりをよく観察していると適材適所、ちょうどいいものが見事に調和して存在しています。これは選ばれたもの、似たようなもの、同じ性質のもの、補い合うもの、助け合うものがちゃんと必要なところに集まり存在して一つの場のいのちを形成しています。

一見、関係のないようなものがよくよく観察すると非常に有機的につながっている。この世にある一切のものは関係がないものは一つとして存在していないと感じる、それが場の正体ということでしょう。

そしてその関係性の中で、場の方が選んでいるという視点で観ると色々なことがわかってくるものです。

例えば、家というものがあります。私は古い長い家を甦生していきますが、明らかに家の方が人を選んでいるのがわかります。もっと言えば、その場所が人を選んでいるのです。

一見、今の人たちはすぐにお金で選んで購入する癖がありますから選んだのは自分だと思ってしまいます。しかし、よく観察しているとそうではなく場から選ばれるのです。関係性は相関関係性ですから必ず相手があって自分があるように、何かがあれば別の何かがあってそれが尊重しあって調和して結ばれます。

自分だけのものの見方ではなく、相手側や場から観える世界を眺めると自分がなぜ選ばれたのか、どのような試験があってその場に入ったのかを直観するものです。

だからこそ、出会いを大切にしてその場を創造するのにどのような心境と実践で取り組んだかということが重要ということでしょう。

子どもたちのためにも、場を尊重して場を譲っていけるように真摯に場を磨き徳を積み、精進していきたいと思います。

ミネラル

私たちの身体はミネラルというもので支えられています。このミネラルとは、酸素、炭素、水素、窒素の4つの主要元素以外の物質の総称のことです。このミネラルは五大栄養素(炭水化物・脂質・たんぱく質・ビタミン・ミネラル)」のひとつとも言われます。一般的な体のエネルギー源にはなりませんが骨や歯の形成、神経や筋肉の働き、体内の水分や酸塩基バランスの調整等々と身体機能を支えているといいます。

日本では13元素(亜鉛・カリウム・カルシウム・クロム・セレン・鉄・銅・ナトリウム・マグネシウム・マンガン・モリブデン・ヨウ素・リン)が健康増進法に基づく食事摂取基準の対象として厚生労働省により定められています。

実際には、私たちはいのちというものを用いて循環してこの世で有機的につながり助け合って存在しています。しかし、科学的に観察すると様々な微量のミネラルを含めた成分が同じように有機的に結ばれて身体や健康を支えています。

例えば、そのミネラルの一つの亜鉛というものがあります。

亜鉛は酵素の活性化や細胞の生成、免疫機能の維持をしています。具体的には亜鉛は約300種類以上の酵素の成分として存在し代謝活動を促します。日々のエネルギー産生やタンパク質の合成をして体内での栄養素の処理をしてくれます。他にはDNAの合成にも関わります。つまり細胞分裂を活発にするということです。たとえば怪我をした際に亜鉛が十分に摂取されていると、傷の治癒が早くなるという具合です。

さらに体内の免疫細胞のサポートや、感染症予防もし、抗酸化作用があることでストレスなどからも心身を守ります。

摂取方法はほとんどは食事をとることで行われます。

私たちの食事は、医食同源であり、日々にお互いのミネラルを渡しあいながら助け合います。植物もミネラルが不足すると成長できません。私たちは常に新陳代謝をしてこの世に生きながらえますから、ミネラルはいのちの根源と深く関わっているということでしょう。

せっかく骨折しているので、食生活の中で摂取しているいのちやミネラルへの興味と尊敬と徳と感謝を磨いていきたいと思います。

伝統のお仕事

昨日は、浮羽の古民家甦生の玄関を新しい店舗のスタッフたちと全員で仕上げました。まず、むかしの石臼を埋め込み、そこに菊炭で綺麗に調えます。そして最後は黒砂と水晶を入れて、イヤシロチの完成です。

みんなで色々な炭を組み合わせて配置していくと、一期一会で唯一無二の模様が浮かび上がってきます。力を合わせて、一緒に取り組むという和合の象徴でもあり、お米を中心に臼や炭など決して切り離すことのできないパートナーとの存在の象徴でもあります。

場づくりも大詰めでいよいよ調ってきましたが、一つ一つの大切な場所に一つ一つの大切な思いが重なるのは喜びに充ちます。

もともとこの石臼も石を切り出し、削り丁寧に職人が仕上げてきたものです。また菊炭も伝統職人がクヌギの木を伐採して丁寧に炭に仕上げてきたものです。伝統の仕事とは、手間暇がかかるもの。

現代のように効率優先で、何でも安価で便利なものが価値のような時代は、わざわざ自分たちでやらなくても業者に頼めばいいという人もたくさんいます。業者の方も、同じようにそれを伝えて仕事を請けていたりします。

しかしそんなことをしていたら、大切な技術や思想、智慧の伝承はできません。本来は、いい仕事だったからこそそれを後世に遺そうとみんなで創意工夫して継承していきました。仕事をする方も、仕事を出す方も、これが後世に遺るかどうか、そして世のため人のためにどうなるかを真摯に思案してと取り組んできました。

それが伝統のお仕事の正体です。

私は運がいいことに、その機会をたくさんいただいてきました。御蔭様で新しい場にもめぐり逢い、新たな志とも和合してきました。

いよいよお披露目ですが、大切な時を刻んでいい場をつくりたいと思います。

漆喰磨き

浮羽の古民家甦生中の竈を漆喰磨きで仕上げています。この漆喰磨きとは、通常の漆喰をさらに丁寧に磨き上げて光沢がでる仕上げ方です。この仕上げ方によって、水分をはじき、耐久性もあがり、独特の質感で場の雰囲気を一変させます。

以前、川越の古民家を研究するときに黒壁の漆喰磨きを拝見する機会がありました。あの江戸黒のもつうっとりする壁は今でも心に焼き付いています。

この漆喰磨きの歴史は古く、日本では奈良時代から平安時代にかけて寺社仏閣の建築に用いられていたといいます。当初は貴族や武家の住居、寺社仏閣など、格式の高い建築物に限られていましたが江戸時代になると土蔵造りの普及とともに一般にも広まったといいます。

この漆喰磨きは、文字通り「磨き」の作業があります。何千回、何万回と時間をかけて薄い漆喰を壊れないように破れないように丁寧に鏝で磨いていきます。実際に、飯塚の聴福案の白漆喰磨きのときは最後は素手で磨き上げていたのが印象的でした。

それくらい薄い塗りを何層にもかけて磨いていきますから、手先を通した精神が研ぎ澄まされていく作業を行うものです。だからこその美しさで、左官職人さんたちのすべてが注ぎ込まれていきます。

漆喰は法螺貝の制作でもよく使いますが、身近な暮らしの大切な素材として何千年も前から人類は重宝してきました。

時代が変わっても、この漆喰が暮らしに使われることは素晴らしいことです。子どもたちにも漆喰の魅力や、その真価、そして今でも大切な場所で重要な役割を果たしていることを伝統的な家の暮らしを通して伝承していきたいと思います。

土地と一体

土地というものの歴史を省みると、その土地で何が行われてきたかを想像することができます。お山などは、時には山城になり、時には信仰の対象になり、現在では太陽光パネルが敷き詰められているものもあります。

時代の人間の価値観を色濃く受けて土地は変化していくものです。

土地と人は深く関係するものです。どんなに荒れ地で近寄りがたいほどの場所であってもそこに人が手入れをすれば、とても澄んだ豊かな場所にもなります。そこには人がどのような心で関わり醸成してきたかという歴史があります。

例えば、植物なども同様です。

土の上に種が落ち、その種が芽吹いて大きくなり実をつけます。そしてまた翌年の種になる。それを繰り返すことで、その場所はそのものとの関係において変化していきます。

他にはお水なども同じです。そこにせせらぎが流れ込み、次第に水路ができます。するとその周辺にはそのお水を求めて様々ないのちが集まります。数年から数十年でその場所は、変化していきます。

これは宇宙でいえば、火星や月なども同じでしょう。

変化というものは、土地に何か別の生命が関わることで変化します。私たちは土地を移動しながら土地を創るのです。

その人の生き方やあり方、組み合わせが土地の左右を決めていきます。どのような土地になるのか、どのような土地にするのか、それは出会いとご縁の一期一会です。

土地に触れることの豊かさを味わいながら、土地と一体になって場を醸成していきたいと思います。

清らかで澄んだ場をたくさん観たことがあります。日々に心を澄ませていると、そのような場にたくさん遭遇します。今朝も、凍てついた霜が降りるところに澄んだ光が水面に反射していました。空気も音も静かで、神々しくいのちの場を感じます。鶏や猫の動き、そして家がきしむ様子に暮らしの妙を感じます。

私は暮らしの中に澄み切った場をつくろうと日々に精進しています。

もしも仏教でいう浄土というものがあるのなら、私は場の中にこそ存在するものであると直観します。鶏が先か卵が先かのように、場が先か浄土が先かと論じるのです。

私はやはり場が先のタイプのようで、あまり理屈や言葉で何かを伝えるよりも場に先に顕現した方がいいと感じています。

人は環境によって大きな影響を与えられるものです。殺伐とした場や、欲望で濁った場、ゴミだらけの乱雑な場ではなかなか場は調わないものです。

その逆に、静かで穏やか、安心や居心地のよい清浄な場では誰もが調和の心地よさを感じるものです。

私たちの先祖は、生き方として戻ってくる場所があるように、初心が忘れられないようにと創意工夫して知恵を場で伝承してきました。

私が場道家を目指すのもまた、ご先祖様たちの叡智や智慧を子孫へと伝承していきたいと願うからです。

引き続き、場を調えて、場を残し、場を譲り場の一部になっていきたいと思います。

枇杷の徳

枇杷の木というものがあります。枇杷の実はよく食べますが、枇杷はその葉にも偉大な薬効があります。現在、足を骨折しているので枇杷の葉を試していますが不思議な効能やその歴史には驚くことばかりです。

そもそも琵琶と人類の関りは、随分むかしになります。インドの仏教経典のひとつ「大般涅槃経」には枇杷の木は「大薬王樹」と記されます。そしてびわの葉は「無憂扇」とも言われ大変優れた薬効があることが記されます。具体的には「大薬王樹、枝、葉、根、茎ともに大薬あり、病者は香をかぎ、手に触れ、舌で舐めて、ことごとく諸苦を治す」とあります。

日本に伝来したのは奈良時代、東大寺で有名な鑑真和尚が日本に伝えています。その当時の病院、施薬院では「びわの葉療法」が行われた記録があります。近代においても金地院という臨済宗の河野大圭禅師が祖先から伝承された方法を完成させて難病に苦しむ20万人以上の人々をこの枇杷を使って救ったといいます。

現代でも、枇杷の葉を使った治療は全国各地の医院や自然療法、民間療法として重宝されているといいます。

具体的な成分を調べると、アミグダリンというもの。これは枇杷の種子や葉に含まれる成分で、古くから鎮咳・去痰作用があります。また咳を鎮め、呼吸を楽にするともいわれます。次にトリテルペン類というもの。これは抗炎症作用や抗酸化作用があるといいます。よく皮膚トラブルや炎症性の症状に利用されています。最後にフラボノイド類です。これは抗酸化作用と体のバランスを整えるといいます。

むかしの知恵、先人が子孫のためにと続けてきたことは色々と試すとその効能に驚きます。ちょうど以前、甦生した古民家和楽には、銀杏の木や枇杷などがあります。他にも柚子やミカン、桃などもありました。

かつて「庭に枇杷(びわ)の木を植えると病人が絶えない」といういわれもあったといいます。これは縁起が悪いのではなく、病気の人たちをたくさん治癒してきたという証です。

寺院と医者が深く愛した枇杷の木は、時代が変わっても人類の偉大なパートナーとして存在してくれています。

引き続き、民間療法や自然療法、自然治癒や未病の知恵を深めて英彦山から発信していきたいと思います。

私たちは生き方が場に顕れてくるものです。どのような人がその場所でどう生きたかは、よくよく観察すると場に顕れます。そしてその場が残るのは、その場に生きた人たちが遺したものによっていつまでもいのちが継承されていくのです。

私は場道家として、場をつくることが本志です。

場をつくるには、場を調える必要があります。場を調えるにはまず場を澄ますことからはじまります。場を澄ますには、自分が場と同化して自己を澄ます実践が必要です。つまり、場と自己を磨き続けるという精進があってこそです。

では何を砥石にして場と自己を磨き続ければいいか。それは自我よりも偉大な存在に対して素直に従い、すべてを選ばずに承りながら道を歩む時に砥石は顕現します。この砥石は、かんながらの道でありあるがままの天命を生き切るときに自然発生してくるものです。

なので、正解もなく、固定もなく、思い込みもありません。ただあるがままの道を歩んでいるということです。

畢竟、人生というものは誰にでも誰にしかないものがありその使命を盡していのちを全うする存在そのものです。ただし、どれだけ透徹された透明さであるか、どこまで澄み切れたかというのはそれぞれに異なります。

自分の生れ落ちた場が選べなくても、自分の場を澄ませて透明にしていくことはできるということです。

いのちが透明であるというのは、いのちの正体を生きるということです。

場はそういう時にこそ、はじめて自他一体になり神人合一の境地に入るように私は思います。場と一体になるというのは、宇宙そのものであるともいえます。

引き続き、場を學び、場と歩んでいきたいと思います。

お水の徳

浮羽の古民家甦生の井戸水の検査が来て、そのお水の性質の素晴らしさに感動しました。1年半もかけて井戸を掘り、時間をかけて取り組んだことが報われた瞬間です。

思えば、今までずっとそうやって信じたことをやってきてのちに報われることの連続でした。心を砕き、心を燃やし、心を調えて只管に真摯に誠実に結果を気にせずに取り組みます。

その姿勢の連続の先に、不思議ですが幸運が巡ります。

この幸運というものは、見返りを求めず徳を積むことに似ています。畢竟、徳こそ幸運の源泉でもあり道の正体でもあろうと思います。

私は今年の一文字を「水」にしています。

今までの人生、ずっとお水に見守られお水に導かれて道を歩んできました。お水というものは、当たり前に身近にありすぎてまるで空気のようです。しかし、お水が変化しているものがいのちになり、そのいのちがまた新しく存在するときにまたお水と出会います。

私たちは自らお水との出会いを繰り返し、新しい水へと変化し続けています。

水に見守られているという感じは意識さえすればすぐに察知できます。すべてをお水が包んでいるという境地、まさにそこには慈愛があります。慈愛は、この包まれるという感覚によって顕現するものです。

お水が包んでいるということそのものが、幸運であるという事実。

謙虚にお水に感謝して、お水を大切に過ごしていきたいと思います。

変化を愛する

定期的に振り返りをしていると、時系列で物事を観ていく喜びを感じるものです。よく観ていないだけで物事はちゃんと育っていきます。小さな芽が、時間を経て育ち実をつけるようにすべての出来事は育つのです。

急に育ったように感じるのは、それを観ていなかっただけで観ればちゃんとどうなっていくのかを察知できます。ご縁を研ぎ澄まして生きている人は、どんな微細な変化も見逃すことはありません。

あの場所に置いていたものが、のちにこうなる。

そんな微細な変化一つに運命や未来は密接に関わっているともいえます。さらには、あの小さなミツバチの飛来がや、鳥の鳴き声が、あるいは風が吹いたからなどいくらでも変化は充ちていくのです。

小さな変化を知る人は、大きな変化も知ります。変化は突然にやってくるものではなく、ちゃんと時間をかけて丁寧に育っていくのです。

だからこそ、どの時間も一期一会に誠心誠意真心で丁寧に正対して実践していくことが大切になっていくように思います。

どのような日々を刻んでいくのは、その人の生き方が決めていきます。

此の世にゆるされて存在している自分だからこそ、偉大な循環の旅を共に生きいています。いつまでも変化を愛し、変化のままに歩んでいきたいと思います。