利よりも義こそ草莽の臣

今、国家の政治は乱れているといってもいい。

この数年で5人も首相が変わり、一部の人たちの利権と利害関係のみで政争を繰り返しリーダー不在の状態が続いている。

今のリーダーの在り方そのものが間違っていることから、政治に影響を及ぼし国家の忠臣も出てこず何かと行き詰っている状態が続いているようにも感じる。

昔、吉田松陰が以前に「狂夫の言」の中で下記のようなことを記している。

「天下の大患は、其の大患たる所以を知らざるにあり、いやしくも大患の大患たる所以を知らば、いずくんぞ之が計を為さざるを得んや」

これは、私なりに解釈すれば、「もっとも世間国家の大病の大本は、その大病の原因が自分たち自身であると気づかないことである、もしもこの大病が自分たち自身なのだということを気づけば、その対応策などは立てられるはずである。」といった感じだろうか。

これは色々な業界の既得権益で出来上がっている巨大な組織や団体など何よりも利ばかりを追っている人たちが自分たちが病気なのではないかとは思わずに問題を誰かのせいや外のことにばかりしているのを観てきて感じたことがあった。

水戸黄門の悪代官も、正義のヒーロー映画に出てくる悪役も、まさかあれが自分だとは誰もが思っていないのである、分外にいるものであると思うから間違いが起こるのであろうとも思う。

その矢印がもし、ひょっとしたらこの病の問題の原因は私自身にあるのではないかと慎み、省みることで対策を立てる事こそが政治の要諦であるようにも思う。

そして、吉田松陰先生はこの後、長く考え悩み苦しみ抜き朝廷幕府、諸藩に頼るのを止め、自らが国家の草莽の臣となると覚悟する。

つまりは、自分自らの変革により自由に世の中を易えることを決意するのである。その時、下記のような手紙を佐久間象山の甥に送っている。

「独立不羈三千年来の大日本、一朝人の羈縛を受くること、血性ある者視るに忍ぶべけんや。那波列翁(ナポレオン)を起こしてフレーヘード(自由)を唱へねば腹悶医し難し。僕固より其の成すべからざるは知れども、昨年以来微力相応に粉骨砕身すれども一も裨益なし。徒らに岸獄に坐するを得るのみ。(中略)今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼みなし。」

これも私の解釈で書くけれど、「独立国になり歴史のあるこの日本が、一部の役人によって滅んでいくのは忍び難いことである。ナポレオンが先頭に立って自由を手にしたようにできることを知っていたけれど、昨年以来ずっと政府や幕府、諸藩、朝廷に粉骨砕身働きかけたけれども一つも効果がなかった。竟には投獄されてしまった始末である。今の政府も関係するものものもすべて酔っ払っている人のようになっているのだからどうにもする術はない。だからこそ、野に散らばっている志ある人たちが立ち上がること以外に頼るしかない。」というような感じである。

自らが間違っていたと気づくのは吉田松陰先生が先だったのである。

言行一致にやってきたら周囲から狂人扱いをされ、自分は狂人ではなく猛人なのだと訴えても誰もそれを理解を示さず苦しみの中からなぜそうなるのかを考えたのだろうとも思う。

そして勇猛心を駆り立てて自らが草莽の人になって、世の中に出たことが変革の源になった瞬間だったのだろうとも私は思います。

今の私たちの未来の国を観て、松陰先生はどう思いますか?

利ばかりを追い求めそういう中にいて語る正義にやはり今昔変わらず酔っ払いばかりであると思われませんか。

まずは自分自身の間違いを素直に皆が気づくことこそが草莽の臣になることであると私は思います。

巨大組織や政治に頼らず、自らの生き方そのものや自分自身の志が義から入るようにしていくことから国家百年の計も必ず立っていくはずです。

変わらないと諦めるよりも、自分自身の志を信じて草莽の人になり共に歩んでいきましょう。それぞれの現場の人たちの志と真心が世の中を必ず治していくと信じましょう。

縦横平等

オランダへ学びの旅に伺ったときに現地の保育の大会に参加したことがある。

その大会はカレイドスコープ、鏡だということがテーマに教育関係者が集まり様々な実践での学びを報告し合っている様子があった。

そこでは子どもを中心に子ども主体の理念の学校が集まり、子どもから考えた時の問題を忌憚なく語り合い学び合いそれを次にどう生かすか自分たちをどう練磨するのかを産学官が平等に一つの理念のもとに自由闊達に意見をしあっていた現場があった。

そこで出会った企業の方々も皆、明確なポリシーと理念があり互いに未来の社会問題の解決に向けて真剣に意見し改善すべきを議論していた姿もあった。

私たちの国は、産学官を縦割りにし上から一方的に降ろすという指示命令型の社会を形成してきた。縦横が織り成すというようなマネージメントやチームビルディングといったことを取り除くことで議論もなく一気に急成長させたのだろうけれどそれは今まで我が国の下地に和の精神があったからできたことでもあった。

その和を取り崩してまで急成長させる理由は諸外国との競争にあったことは記憶にも新しい、しかしそれが終焉した今、戦後にもう一度原点からこの国の理念がどうだったか考え直した時があっただろうか。

企業は目先の収益に躍起になり、長期的な目線や、根本的目線、多面的目線といった何のためという原点を見失い、官僚はお役所仕事というように現場から遠く離れた虚像の理論を押し付け、学は派閥や利権、また知識の刷り込みにもっていかれ本質からも遠ざかっている。

社会を作り出す側の立場の人たちが、子どもを見守る側の周囲のものたちがなぜいつまでも自分のことばかりを優先しいがみ合うのか。

それは和の心をもう一度、ここで学び直すことを意味しているように感じる。

私たちはもともと何か大切なものを真ん中に置いて、理念を一つに惜しみなく協力し合うという大和の精神が心に沁みついている。

何かの災害があれば、何かの協力を要請すれば、国民は本気で惜しみなく自己犠牲を発揮し喜んで命から取り組める民族ではないか。

それを信じないのは理念を語らないからである。

もっと理念を語ることが大切で、どんなことを語るにもまずは心からの理念が先でその後に具体的な行動や形にするのが誠実さでもある。

私も立場では企業ではあるけれど、そういうものに囚われない自由な立場、世直しの立場で型にハマらない独創的なことをこれからも貫いていきたい。誰かが分けた肩書や先に決めつけられた役割などは表面上のつまらない違いを際立たせるだけであまり意味がないものである。

だからこそ、子どもの前に立つ大人として正しい自分を貫けるようまだまだ力を蓄えていきたいと思います。師の背中を見つめながら利よりも義を実践していくことを尊び重んじていこうと思います。

気づくことが沢山あり、本当に学びの深淵さにいつも心から感謝しています。

まだまだ気づいていないことが沢山あるはず、もっと観察眼を磨きさらなる自然を科学をあるがままに見抜けるようにしていこうと思います。

一人ではない

生きていれば色々なことを感じて迷ったり覚めたりすることは当然だと思う。

その時その時の自分の心が如何に正しく澄んでいるか、そういうことを思うよりも先に自分の感情が波立ってくると迷いがおきてくるのも学びの歓びであると思う。

もともと自分が決めてあったものも、そういう時に揺らいでしまうのは穏やかで静かな澄んだ心が出にくくなっているからでもある。

人は思い思いに日常の中で様々な自分の欲求を満たしながらも、自らの道を歩んでいるのである。そうやって研磨しながら身を修めていくことで、格と徳が顕われてより一層澄み渡っていくのだろうとも思う。

自らの道がどんな悪路であろうが自分が決めたのだから最期まで遣り切ることではじめてその答えが次第に観えてくるのであろうとも思う。

長い時間をかけて行うことはすべてに地味な行為でもある。

その地味な行為の中に妙味を感じることは澄んだ心でしかわからない平穏な境地を楽しむことになるのだろうとも思う。

人は人によって心揺らぎ、また人は人によって心澄むことができるもの。
如何に人を愛し、慈しみ、思いやることが価値のある事か。

生きることは素晴らしいということに尽きているのだ。

安心してその命を全うするということは、その根底に何よりも信があることが大前提になっていてそれを支える人がいるから人は感謝とともに命の源を感じて今を楽しむことができるのであろうとも思う。

人は一人では生きられないのではなく、生きることは一人ではないということなのだろうとも思う。

世界を信じて人間を信じてすべての天地自然を信じて真我のままに寄り添い生きることが至誠そのものの天と通じて一体になることであろうとも思います。

なかなか人にはできないことを今までもやってきたのだから、ぜひこのまま迷わずに最期の瞬間まで大切に丁寧に真心のままで遣り切ってほしいと思います。

私も実践を共にしつつ心からあなたを支援していきます。

誠の日々を楽しみながら次なる旅路を脚下の道を味わい尽くしていけるといいですね。

互いに道半ば、元気いっぱいにまた今日も迎えましょう。

節目

先日、ある山の奥にある蕎麦屋で下記のようなことが書かれた文章を頂いた。

書き出してみると

・・・

 つらいことが多いのは感謝することを知らないから。
 心配することが多いのは今を一生懸命生きていないから。
 行きずまることが自分が裸になれないから。
 苦しいことが多いのは自分に甘えがあるから。
 悲しいことが多いのは自分のことしかわからないから。 

・・・

と書かれている。

そこの亭主の文章か誰のものかもまったく聞かされなかったけれど、これも自分と向き合うための智慧が入っているようにも思い何かと環境に挫けず工夫をしている亭主の気持ちになってなぜかより一層おいしく味わうことができた。

人間は誰しも本当の意味で自分に矢印を向けないと変わることはできはしない。

如何に反省した気に本人がなっても、真の意味で自分が間違っていることに気づかなければ何も変わりはせず、どこかで誰かのせいや他のせい、環境のせいにしている人はどんなに最高の恵まれた環境でもその人は自己改革することは難しいということを示しているのでもある。

例えば、上記の文章を解釈すれば私ならこう書く。

感謝をできない人は満足することもなくいつも何か足りないと思うから辛くなっている。そして心配ばかりする人は先や後のことばかりを不安に思い悩んでいるだけだから今に真剣になれないでいる。次に、行きずまる人は歪んだプライドがあり頑固だから人の話を聴こうとしないから孤立している。そして苦しいことが多いというのは、もともと誰かに依存する気持ちがあるから自分が納得いかず常に迷うことになり苦しんでいる。最後は、悲しいことが多いのは自分以外の人たちもみんな自分と同じように大変なのだと共感することが出来ないから被害妄想になり自分の感情から抜け出せないでいる。

このように人は結局、素直にならないまま生きようとすればいつまでも自分の狭い世界に引き籠り、他人のせいにしながら自分のことばかりを考えるようになるものだ。

自立するというのは、自分が与えられている環境を疑わないことでもある。

如何に自分が生きているこの場所、この今が、最善で最良のものかを深く味わい感謝をすればそれを生み出してくださっている周囲やその人は自分の恩人であるはずだ。

今の自分があるのは誰の御蔭か、それはすべての恩人御蔭である。そしてそこから今というものを丸ごと受け容れ、より正直に生きていこうと歩んでいくことするのが豊かな人生の姿勢であるのだと思う。

人はどんな境遇であったにせよ、その時々の自分自身の心がそのすべてを決めている。

いつも自分がなにものかによって見守られていると深く感じる人は感謝と御蔭様の心で謙虚に素直な自分を受け容れ、正しく向き合っていくことができるものである。

世間には、卑屈になりいつまでも素直にならない人たちもいると思えば本当に素直な素敵な人たちもいる。

まったく変わらない同じ人間なのに心が異なるだけで本当に不思議なものだ。

歳を経て、時折学び直しの必要な時期がある、それは節目と呼べるもの。

その節目にまで自分自身の弱さも自分自身のあるがままも受け容れずなぜなぜと感情ばかりをぶつけて欲望に飲まれている人たちもいる。天から与えらたチャンスをどう生かすかは、自分を信じるかどうかによる。

有難いことに人は素直な人に触れれば素直になるものであり、素直になりたいと思っていれば次第に素直になれるものであると信じる事だと私は思う。

余力を残したまま変わることは人はできない、余力もないほどのシンプルな本気の人生、澄んだ清らかな真心の人生を歩むと決めたところからが本当のはじまりなのだと私は思います。

これからもご縁を大事に学びがある日々に感謝とともに生きていこうと思います。

一期一会

沢山の素晴らしい出逢いを求め生きる日々は、たくさんの奇蹟と出会う日々でもある。

ある日の蝉の声がとても澄んでいることに驚いたり、ある日の川のせせらぎが永遠の瞬間のように美しく響いているのを感じることがある。他にも、光がキラキラと差し込み揺れている緑の木々や風が通り抜けている森の水辺に生命の揺らぎのようなものを感じることもある。

自分の心が澄んでいるならば、人は様々な奇蹟に出会うのであろうとも私は思う。

人は人との間で生まれる雑念を捨てて、自らが素直になり心が澄んだときそれまでに見えていなかった大極的な実相を観てとることができるもの。

頭が日々の雑念に執着すれば、不安定になり日々の奇蹟に出会うことができなくなってくるものだ。

一期一会とは、そのすべての出来事の中に在る妙に出会うことでもある。

深遠な世界が、日々の微細な感覚に照らされ顕われてきて心がそれに感応することは人生の歓びの瞬間でもある。

そういう日々を積み重ねていくことは、素晴らしい時を経ていくことに繋がっている。

執着はいろいろとあり、時への執着や歳への執着、物や人、様々に自分の頭は心の澄んだ感応とは逆のことに囚われるのだろうけれど、素直な実践で自然から学べば人は自由に今というものを謳歌することができるのだろうとも思う。

いつも心が澄んでいるのは、自然があるからである。
この地球で私たちは生きているのである。

地球に寄り添い、恵みの中にある今を楽しんで生きたいと思う。子どものように心をむき出しにしながら素直に明るく楽しく笑っている日々を過ごしていきたい。

自然から学び直す

生活が都会的になり、自然にあわせないで生きていると身近なことは人間の都合で何とかなるように勘違いしてしまうことがある。

洗濯物が乾かなければコインランドリーや乾燥機付き洗濯機を使い、食材がなければコンビニか外食で済ますなどと選択肢はすぐに人間にとって便利な方を選択する。

これが自然の中でとなれば、そうはいかず工夫と知恵を働かせて日頃から自然がどのような移り変わりがありそれをどう受け容れ活かすかということを考えるものである。

今では旅の仕方も変わってきていて、雨が降ろうが雷が鳴ろうが交通機関は動いているので当然自分も動くことになる。

今の時代、雨が酷いので行きませんや雷が鳴っているのでお休みしますとはとてもいえるようなことはない。

しかし昔なら、雨が降れば雨宿り、雷が鳴れば外に出ないという風に自然の中で無理をせず自分たちから寄り添っていたのではないか。

動植物も、雨が降れば雨の時にしかできないことをし、晴れになれば晴れの時にしかできないことをする、風に吹かれて自然と共生することを知っている。

自然を征服するということを最良としている文化もあるけれど、その不自然さゆえに無理をして苦しむ人が増えたというのは不便極まりないものであるとよく実感するものだ。人間は自分たちで苦の種を蒔いて、その苦によってさらなる矛盾を生み出そうとする。

本来の人間の成熟さとは、科学も技術も精神もすべて自然から学び共生のバランスに寄り添いシンプルに生きていくことを極めることで刷新していくことで得られるのだろうと思う。

自然を相手に人間ではどうにもならないということを知ることは、足るを知ることになっていく。勘違いから抜け出すためにも自分の都合ではどうしようもできないとすべてを一度受け容れるということはとても大切なことである。

その中で、今は十分ではないか、実はこれが自分の分度に適っているのではないかと考えることで人間は矢印がはじめて自分に向くのである。

自然から学び、自然とともに生きていくというのは、自分の無力さを知るとともに足るものを知ることができるということでもある。

これからエネルギーでもなんでも何を見直すことなのか、何を学び直すのか、自分たちの立ち位置を如何に原点から考えるのか、これからが私たちの時代の本当の進化の臨界点に入る。

日々にすべての自然から学び直していきたいと思います。

精進とは

簡単なことやシンプルなことを理解するというのは難しいことである。

幼児期の子どもたちが簡単に話すわかりやすい言葉も、それを実践するとなるとそれは本当に長い時間かかるものである。

禅に下記のような法話がある。

・・・

唐代の詩人白楽天が、ある日、木の上で座禅を組む鳥彙道林和尚に訊ねます。

「和尚、仏教の教えとは一体なんでしょうか?」

すると和尚はこう答えます。

「もろもろの悪を作さず すべての善を行い 自らその意を浄くせよ 是が諸々の仏の教えなり」と。

しかし、白楽天はそれを聞いて

「そんなことは3歳の子供でも知っていますよ」と呆れて言葉を返します。

すると和尚は、

「3歳の子供が知っていることでも、80歳の老人になっても行うことは難しいものだ」と説いています。

・・・

これはとても大切なたとえであり、このように心を遣って行うというすべての所作行動は頭で分かっていてできることではなくすべてに実践をして学んでいくものであることを意味します。

そしてそれを正しく体得するのにかける時間は、人生のすべてが懸かるといってもいいと私は思います。

思いやりや謙虚さ、正直さや素直さ優しさなどというものはすべてにおいて相当な時間を要するものでありそれは知る事と行うことがあまりにも異質なものであることを実感しているからです。

よくテレビやどこぞの場所で有名な知識人が、さも真理を覚ったかのようにそのノウハウを人々へと語っているときがありますが、しかしそんなノウハウは実際に在り得はせず、死ぬ瞬間まで日々の実践という精進を続けていなければそれは道ではなく真理のままでいるとは言い難いのではないかと私は思います。

私も今、日々の実践の中で如何に知る事の意味のないことか行うことの難しいことかを思わない日はありません。

実践しているときが、なんとなく心が真理を身近に感じ、実践から少しでも離れれば遠くに感じてしまう、いや頭が頭で分かってしまう。これが如何に頭が分からないように実践を続けるかというのが精進の本質だと思っている。

学ぶということは、全身全霊の行為なのです。

そう思えばあの幼児期の子どもたちでも知っている正しい行いは実は本当に難しいのだと思います。よく先生が教えている約束を守ることや、嘘をつかないこと、譲り合うことや助け合うことなどもすべてそれはどの子どもでも今では知っているけれど、それができていないのが今の大人たちなのです。

社会人と言われ、貢献をする場にあってもそれができない大人ばかりです。

だからこそ、まずは日々において如何に心を清め、心を澄まし、心を籠めて心から真心で生活するということが第一なのだと思います。特に自分の影響力を正しく自覚し、人に大きな影響を与え、人の人生を左右するような出会いをリードする仕事につく人はその基本の心の姿勢が何よりも肝心なのであると本当に思います。

常に自分の生き方や在り方そのものを見つめることが、他と心を通わせることになるのだとも思います。相手にあわせていちいち反応したり、相手ばかりを意識して自分を顧みないことは傲慢な気持ちが出ているのだと思います。

道林和尚のいうように、謙虚に素直に学んでいくことが大切なのでしょう。

シンプルなものの中にこそ、真の面白味があり思いやりの心があるとし日々の実践を重んじていこうと思います。

心楽しむ

人は少し離れていただけで成長したことを実感するものである。

子ども達でもそうだし、身近な人たちでもそう、日々に一緒に住んでいるとその成長ぶりが分からなくなる時もあるけれど少しだけでも離れると確かにそこに成長の証をたくさん見つけることができる。

少しずつ微細に変化していく成長というのは、確かなものがありそれが時間をかけることによって偉大なことを成し遂げることを観かけると生命の神秘を感じずにはおれません。

「何かやりたいことがある。」

これを成長の中から見出すことができるのは、その生命が確かに自分の思うようにと真心で生きているのを実感するときかもしれません。

人は自分の願っている方、自分の信じている方に向かってそれぞれに生きようとします。自分の頭の中では望んでいなくても、心が信じている方へと次第に周辺の環境を自分を成長させる方を選ぼうと無意識にでもそこに向かって成長しようとする。

それを信じる事が、成長を助長するということになっているのだと思います。

何を信じるかというのは、自分と自分のいる世界を信じるということ。

つまり成長の通して観ることができる実相の世界こそが誰よりも成長という真理を望んできたから今が存在しているのだと感じれるのだとも思います。

そしてそれをもう一つ鮮明に確信させるものは、感動と出会いというもの。

人は水面下でその成長に必要な出来事を出会いによって結びつけていくのだとも思います。

成長の方向性や成長の方針によってまた出会いという絶妙な縁を結び、その大和の中で新たな自分を発見していき感動しまたすくすくと自然に育っていく。

そういう世界を見守ることが保育だとして、日々は感動に満ちていると実感することがこの学びの歓びの本質であるようにも思います。

忙しい日々に、少しだけ離れてみると成長を歓んでいる心がある。

まだまだありのままのあるがままの速度で、ゆったりと心楽しみながら成長を味わっていきたいと思います。

人の道

原発事故から半年ほどが過ぎ、日常の中に爪痕を遺した放射能の問題も次第に人々の意識から遠ざかり色あせているようにも思う。

目には見えないものを人間は通常あまり意識することはない。

また長い時間不安のままでいるということは精神力が必要になり、楽に生きたいと思うほどに現実を直視せず逃避してしまおうとするのは本能でもあり仕方がないようにも思う。

私たちの身近で起きているおかしなことや危険なこととは、一見するとすべてそのほとんどが目には見えないものである。ある時を境に事故が起きてからそれが目にはっきり映り衝撃を受けるものだ。

世界ではそうやって、隠し通してきたもの見ないようにしてきたものが臨界点を超えて事故となり顕われ、そしてそのうち気にならなくなっていくものである。

これは自然界が不思議なバランスの中で存在している中で今まで生きてきた私たちの処世術であったのかもしれない、それはめまぐるしい自然の変化の偏りの中で如何に順応し如何に適応していくかということが進化と成長の歴史であったからでもある。

しかしそれがもしも人為的な事故であるなら、人として学ぶ必要がある。
精進するのが人の道であるから当然のことである。

同じ失敗を繰り返すのは、先人たちが私たちの子孫のために体験して示してくださった価値を我々が受け取らないことになるからである。生きた価値の上に私たちの価値が上乗せされるのが文明だとしたら、私たちは真に学んでいるかと省みる必要がある。

日常に戻れば、どうにもならないことをどうにかしようとするのはできない、今さら事故前に戻ることなどもできはしないしなかったことにすることもできない。

しかし、どうにかできることをいつまでもどうにもしないというのは人間としての謙虚に素直に学んでいく実践を怠ってはいないだろうか。

日々の生活を見直すことは、あのような悲惨な事故を忘れないためでもある。

「罪を憎んで人を憎まず」、それをした人間がどうかをいつまでも責任転嫁して議論するのではなく、時間を惜しんでそういう事故をあってはらないことだと深く反省し人を責めずに協力して改善するのが人の道なのである。

そして「禍転じて福となし」とあるように、犠牲の上にある今に感謝を忘れず事故を必ず善いことにするという気持ちで真摯に日々の脚下の実践につなげていくことであろうとも思う。

子どもたちのことを思えば放射能の影響のことは胸が苦しくなる、しかし諦めてばかりいられずまず自分ができることからやっていくのが誠実な反省にもなる。

常に自らの襟を正しながら、学び成長し、環境を改善していこうと思います。

心の基礎

生きていく上で、次第に知らなかったことが分かるようになってくる。

今まで当たり前にやってきたことが、ある時それがとても恥ずかしいことだったと思えるようになる。そうなると今までやってきたことが恥ずかしくてできなくなる。

そういう体験が人格を陶冶し、人を謙虚にしていくのだと思う。

それをいつの歳になってもいつまでも気づかずできない人もいる。

それが善くないことだと思っていなかったり、それを深く感じる気持ちや体験が薄いといつまでも分からず気づくこともできなかったりする。他人に迷惑をかけないということの意味が分からないでいるといつまでも恥ずかしいとは思わないのである。

対人関係などでは、例えば誤魔化すことであったり、うそぶくことであったり、忘れたなどと約束を破る事であったり、その場で対面体裁を取り繕うことであったりと、人は信頼という繫がりの中ではじめて協力しあえるということをいつまでも知らないと大人になってからとても恥ずかしいことをしてしまうことがある。

いつも堂々として人と関わるには、心の配慮という基礎力が必要になる。この心の配慮の基礎に常に信が入っているかということである。

人は常に自分のことばかりを考える人ばかりである、だから何をするにも打算や計算をして人と付き合う人が増えるのも頷ける。ちょっと気を抜けば、余裕を失い自分ばかりを優先し相手のことを考えないで行動していることもある。

しかしそれでは本当の意味で自分を周囲に活かしていることになりはしない。

自分を活かすには、常に周囲や相手の立場になって心から慮り自分がどういう行動をすることが最も相手のためになるのかという思いやりを誠実に実践することが自分を貢献のために使っていることになるのだ。

人間は一人で生きていくことは絶対に不可能だからこそ、当たり前のことを正しく自覚し、おかしなことをしないようにするためにも知らなかったことに気付く感性が必要で、それは常に恥ずかしいことを何かしていないかを学ぶことなのである。

子どもたちの模範になるよう常に素直に自分の行動を慎み内省し、謙虚に他人に誠実であることを実践していくことで精進を積んでいきたいと思います。