アソビ

現在、カグヤでは刷り込みを取り除く遊びを研究している。

遊びというのは、まさに空間の芸術だと私は思っている。
そして、それは人生そのものの「アソビ」というゆとりにも繋がっていると定義している。

世間ではゆとり教育などといろいろと言われているけれど、本質的なゆとりを知っている大人がどれくらいいるのだろうかと思う。

昔の日本人には、様々な情緒があり、どんな時代や場面であっても、その美しい心のゆとりを失うことがないような深い教養があった。それは自然と共生していればいるほど鋭さを増し、そして微細になっていくのだとも思える。

今は、経済優先の物的惰性の中で様々な精神的ストレスを抱え、そのバランスを取るための遊びになっていたり、孤独に自分だけを見ていることにつかれ、その自分自身を必死で満たすための遊びになっていたりと、遊びの品質もその意味も次第に変わってきている。

遊びとはそんなに浅いものではない。
何よりも楽しみ尽くすには、力がいると私は思う。

そして私はそういった真の楽は、本気の最中にあるものだと常に信じている。
そもそも、真と楽とは隣り合わせにあるもので決して離してみるものでもない。

本当に楽しいというのは、何よりも苦しい中に存在するし、本当の遊びとは、悲しい中で味わい深く存在していたりするのも、そういう観点からのもの。

たとえば、遣り甲斐や生き甲斐を実感しているときに、ふと天を仰ぎ見たその刹那、何処か深い魂からの充実感などが込み上げてくるようなもの。そして、その生きざま、その人の在り方を貫く本気の正対の中にこそ、言い知れぬ何より魂が揺さぶられるような深い楽しみに感動しているようなものだとも思う。

そうやって人に気付きを与え感化し、人生をより良くなるよう本気を引き出していくために、アソビを研究する。
そういうこともあってもいいのではないか、今、私はそう考えている。

最近では、人生、どれだけ彩られていたとしてもそこに「アソビ」がなければ画竜点睛を欠くのではないかとさえ思う。

遊びはまさに総合芸術のためのひと筆。
本気で描けば描くほど、そこに何よりも必要なアソビのひと筆の偉大さを知る。

これからも、私はこのアソビの本質を仲間とともに時間をかけて学び、実践を通して様々なものを掴んでいきたい。

新たなクルーとの出会いと、ワクワクとドキドキを持ってきてくれたその好奇心に改めて深い感謝。これからもお互いの持てる力を融合させ、世界にひとつとないもっともユニークな発見をしていきたいと思います。

子どもたちには、周囲の子どもたちとともに日々たくさんの遊びを通してさまざまな人世の機微の入口を学んでほしい。
生きるとは、学ぶとは、本気とは、楽しむとは、幸せとは、、、そういうことをアソビを通して生きる力を深めてほしい。

子どものためにも、大人の本気を引き出し、刷り込みを取り除くサポートができるように私も思索を深めてこれからも豊かに支援していきたいと思います。

門出

先日、カグヤのクルーの結婚式があった。

結婚式の祝辞を考えながら追憶していると、様々なことが思い出されてきた。

新卒で入社し、初めての社会を体験し、次第に勇気を絞って自立していく凛とした彼の姿を思い出すとその成長の素晴らしさ、可能性、深い人間的魅力や、生きる力に感動して心が震えた。

そしてまたこの日に、その彼がまた一つ、自ら掴み取った輝かしい未来を共に過ごすことができる喜びに深い感謝と感動を覚える。

一つ一つの門出を迎え、人は次第に周囲への思いやりが増え、生きる意味を知り、自分の一番大事な何かを守るために強く優しくなっていく。

人間は、強くなるために前へ進み、優しくなるためにより大きくなる。
それぞれが大切にしているものを守りたいと、自らをさらに自らにしていく。

門出には、美しい未来があり、厳粛な自然の理も現れ、そこからまた人のために生きていくことを誓うという周囲への感謝と邂逅になるのだろう。

本当に、光ある素晴らしい結婚式でした。

これからまた始まる一期一会の新しい健やかな物語を創っていってほしいと願っています。

そして、今、新しい命が宿っていることを知り何よりも嬉しく思っています。

きっとこの誕生に何よりも深い意味があり、このことが何よりもあなたを一層大きくかっこいい大人にしていくことと思います。

カグヤのクルーとして、次世代の子どもへ何を遺してあげるか。

私たちが頂いたたくさんの方々からの感謝、御恩、御縁、気づき、学びを少しでも多くの未来の大切な子どもたちにミッションを通して推譲していきたいと思います。

社業真剣、脚下実践により、大いなる平和な光輝く碧い「海」を開くため、将来へ向かって本気のままで共に襟を正して歩んでいこうと誓います。

最高に美しく豊かな時間を過ごせたこと、心から感謝しています。

キッカケとタイミング

私自身、日々、いろいろなものに出会いがある。

その出会いは、もちろん人と人があるけれど、人と物も、人と時も、人と環境も、そうでないものでも、様々なものと出会いそしてそれを受取って気づき、感動したり感涙することで生きる意味を知り、出会いで成長するということを学んでいく。

子どもたちも、毎日24時間365日、心を外部へ開き偉大な好奇心で様々なものに出会っている。
そして自分が一人ではないことへの喜びを知り、多くの出来事に感化していく、自分が在るようになる。

そして、繰り返しの中で忘れていてもまた一期一会に出会い「魂を揺さぶられる」ような日々を送る。

先日大阪でGTブロックセミナーを開催した時、講演いただいた私が尊敬している安家周一園長がこの魂が揺さぶられるという言葉を使い表現されていた。

子どもへの保育とは、そうやって環境を用意し見守ることで子ども自身の魂の揺さぶられる体験をどれだけたくさんさせてあげられたかだと仰っていた。

私も同感でそれを聴いて保育の本質を理解することができる。

たとえば、本気で正面から真っ直ぐ生きてみるとこの世の中は厳しく冷たい。
それでも諦めずに真剣に歩んでいると、その中にある無二の優しさ暖かさやがあることを知り人生が感動や感謝に彩られていく。

それぞれの道の刹那刹那に、暖かい周囲の見守りや新たな魂の出会いが用意されている。
これを「人生」と呼ぶのだとも私は思う。

決して無難に安定して何も起きなければそれはまさしく人生ではない、問題が次々に起こり自分の思いどおりにならなくてもふとした時に無限の出会い、発見に邂逅があり、そして魂が感動して成長していくことこそが人生というもの。

そして、まさにその人その人に絶妙なキッカケとタイミングが用意されている。

本人が今が良いかどうかで本気で飛び出すのかどうかは、心に深い情緒の安定がいる。
そのタイミングが良いかどうかの判断とは、決して自分勝手にできることはないと私は思う。

だからこそ、よく周りが見守りと思いやりを持って接することで本人が自分で気づき変わろうとする。それが生きるということに繋がって、変わりだす。

つまり、その子やその人が今が本当に良いタイミングかどうかは、自分のことを真心で信じてくれる人たちの愛の眼差しと無償の見守りにより、覚悟を決めるのが最も価値がある時だと私は思う。

そう考えると、関係性発達というのは信じることから始まり信じることで開かれる。

私はつくづくこの「保育・教育」という仕事は面白いなと本当に実感する。

私は、園の外からコンサルティングに入る企業だけれど、自らの社業と自らの信じる実践を通じ子どもたちを見守るということを園と手をつなぎ広げていくことに感動しない日は一日もない。

私自身、これからもたくさんの子どもを愛する本気の人たちに最高のキッカケとタイミングを用意できるように周囲を思いやる偉大な実践を続けていきたい。

いつも夢を語れる人たちを見守り、その夢を叶えられるような一期一会の仕事をしていきたいと願う。

良い仲間に恵まれ、良い師に恵まれ、良い出会いに恵まれ心から感謝しています。

優しさと強さ

先日、33歳の誕生日を迎えカグヤのクルーにお祝いをしていただいた。
たくさんのメッセージを朋やクルーからいただいた。

毎年毎年、この春爛漫の桜花繚乱の季節に新たな門出とご縁をいただき周囲の人たちの有難い暖かな真心に深い感謝を覚えている自分がある。

生きていくというのは、生かされていること、そういうことも日常の喧騒の中や街の風景に流されていくけれど、「誕生」を思うとき一人ではないことや生きる喜びに触れられることはとても幸せなことだと思う。

生きていれば、様々な悲しいことも嬉しいこともある。

そしてその殆ど全てが人と人との間に起きることであり、それにより心傷つき、また癒され、乗り越え、優しくなる。

裏切られても、諦められても、捨てられても、忘れられても、それでも生きる。
大切にされ、信じられ、与えられ、求められ、受け容れられ、だからこそまた生きる。

そういう出会いと別れを繰り返し、生きていくということの本当の意味と掛け替えのない永遠の今の素晴らしさを感じることができる。

ヘレンケラーが遺した言葉に、「心を優しく持ち、耐え抜くことを学ぼう。強い心で生きるために。」がある。

私が好きな言葉のひとつ。

「優しさ。」

人はそれぞれに悲しみの質量はそれぞれで違う、その心が純粋であればあるほど傷つくことも鋭敏になり深くもなる、世間では当たり前のことでさえも、耐えられないほどの悲しみを突如と得ることがある。

時には、本当に沈んでしまい、どうしていいか分からなくなることだってある。

しかし、その一方で必ずといってもいいほど感無量の悠久の歓びも生まれそういうものがいつまでも自分が純粋であるがままでいようとする自分を応援し背後から強く支えてくれていたりする。

ヘレンケラーは、自らの生涯を忍耐と慈愛により貫き、世界の平和のために亡くなるまで自らを真に尽くすことができた。そこには、あの恩師サリヴァン先生との出会いと死出の別れ、病気と三重苦の障碍との正対によるものなのは本人の言葉からも分かる。

そしてそのヘレンケラーはこうも言う、「幸せの扉がひとつ閉じるとき、別の扉がひとつ開く。けれども、私たちは閉じたほうばかり見つめていて、私たちのために開けられた扉に気づかないことが多い。」

人は強くなくてはこの世の中で生きてはいけない、しかしその本当の強さとは様々な悲しいことを乗り越え、それにより真の優しさを手にできたものだけが得られる強さなのだと私は思う。

強さというのは、ただ頑丈なだけではそれは強さではない、優しく柔和な強靭であることが優しさの本質であり真の強さになるのだと思う。

弱いと自分のことだけしか考えないし、自分の中に引きこもってしまう。

本当の優しさと強さは、いつも隣合わせに共に在るもの。
自分以上に自分を越えて、真心と至誠で相手のことを思いやる心。
男らしさというか、志ある男の道としてのそんな生き方にいつも強く惹かれる自分もある。

私はこれからも決して逃げず、様々な門出に正しく心を尽くし全身全霊で関わり、至誠をもって歩みを深め、新たな34歳への旅路を生きていきたいと思う。

それが今までにお世話になった恩人への感謝であり、新しい恩人への誠意になると信じずっと変わらない私の本当のあるがままの心でいようと思う。

これから未来を生きる子どもたちには、待っているであろう過酷な不自然が渦巻く世間の中でも優しいだけではなく、強さという本当の優しさの意味を伝えていけるような自らの実践のモデルを見せていければと思う。

まだまだ私は実践が不足し本当に日々が分からないことばかり、もっと優しく強い存在になれるようにすべての邂逅を天からのギフトとして手を合わせて生きていこうと誓う。

心からの応援と励まし、心に深く染みました。
今の私には何よりの豊かなプレゼントです。

本当に有難うございました。