感謝の性根

人は歩むを進めていく中で、遠くを視たり近くを視たりしながら前へと進んでいくものです。しかし実際は、遠くを視ることもなく足元も視ないで歩みちゃんと歩こうとはしていないように思います。

なぜ理念や初心が必要なのか、そこはちゃんと遠くを視てはブレずに歩んでいかなければ方向を見失ってしまうからです。そしてなぜ内省と実践が必要なのか、そこは足元にあるものを視て全て自分にとって大切な意味があると着実に歩んでいかなければ体験を喪失してしまうからです。

まるで遠くの星を見つめながら足元の花を愛でることや、夢のような景観を楽しみながら手の中にあるコップの水を溢さないようなことは、「歩む」という本質において何よりも欠かせないことのように思います。

目先か将来かではなく、「今、此処」をどれだけ真摯に受け止めているかで目先も将来も大切にできるように思います。それは単に視方だけではなく、組織の在り方にとっても同じことがいえるように思うのです。理念か協力かではなく、理念も協力も大切だと実践するときにだけ、今、此処が生きているからです。

結局は、どれだけ全ての物事を「自分に必要なことだ」と感じるかどうか。一つ一つのことを自分の価値観や偏見で裁いてはあれもこれもと目で追ってばかりで、目ばかりを疲労させるのではなく、目の前の足元にあるものをどれだけ大切なことだと味わっていけるか、そこに将来に対する姿勢や今に対する覚悟、過去に対する感謝が育ってくるように思うのです。

今、起きている全てのことは自分に必要なことであり必然だった。

そう感じるからこそ、全ての出来事を慈しむように味わっていく。その心が内省であり、その有難いご縁や機会を大切に遣わせていただきますというのがいのちの在り方であり、感謝の根がはっているいることのようにも思います。

如何に感謝の根を性根に入れるかは、その人の物の視方の鍛錬に由るもののように思います。全てのことに手を抜かないとは何でも真面目に頑張ればいいのではなく、どのことも全て感謝で有難くさせていただけることにもったいないことだと尽力していくことに似ています。つまり手を抜かないとは手伝うということです。

それを忘れ自分のやりたいことができないからと、目ばかりを疲れて目頭を押さえて眉をしかめていても笑顔もなくなり健康を損ない、楽しくもなくなってきます。手伝える仕合せを自覚することや、今、目の前にきた全てのことに感謝して選ばずに全身全霊でそのことを味わっていける方がよほどの将来のことや周りの人々のことを大切にしているようにも思います。

感謝の性根を伸ばし、今、此処の養分を素直に吸収して生長のご縁を味わっていきたいと思います。

美化~善いところ探し~

人は物事の捉え方で物事の観え方を変える生き物です。

自分がどのように観るかで対象となるものの見え方が変わってくるからです。私たちは物事を観るとき、足りない方を見るか、足りている方を見るかでその見方が異なります。以前、「コップの水の話」を聴いたことがりますがこれはコップに半分水が入っているとして半分しかないと思うか、半分もあると思うか、もしくは水があって有難いと思うかという物の捉え方の話に似ています。

同じ物を視るのなら「美化」した方がいいと思うのですが、実際には減点法で足りていない方ばかりに目を向けては自分のことも美化できずに苦しんでしまうのです。「美化」を辞書でひくと、「美しくすること、美しく変えること」とあります。自分自身を美化するというのは、自分の善いところを探し、自分の善いところを認めるという努力のことです。

以前、「美化」という言葉を知るとき斎藤ひとりさんが「幸せのデコレーション」というたとえ話をしていたのを聴いたことがあります。これはケーキのデコレーションのように、そのケーキをどう飾ってあげるかで幸せが何倍にもなるという話です。とても素晴らしいたとえ話だと感動したことを覚えています。

そもそも美化するというのは、「善いところを観る」という実践です。そのものの持っている持ち味を見つけたり、そのものを尊敬して徳性を発見したりするものです。

人のいいところを探して褒める人は、それだけで人を美化してその人の優れたところを引き出していきます。よく褒めて育てると言いますが、言い換えればその人を美化して育てているということです。善いところを見つけられるのは、自分の善いところを認めているからです。自分の悪いところばかりみてしまうのは、自分に対しても人に対しても減点法で足りないところばかりを探してしまうからです。

「成功する人くさる人(寺田本家23代目当主寺田啓佐)KKロングセラーズ」の中で美化に関してこういう一文が紹介されています。

「美化って、やっているうちに楽しくなって、意識しなくても、自然と美化できるようになるんだね。ただ、今まで美化をしてこなかった人だと、やりはじめの頃は『自分は、まだ相手の欠点ばかり探しちゃうんだ』とか、『自分はまだ人を冷静に判断して、正しいことしかいえないのか』とか、思ってしまうことがあるの。そんなときは、『美化してこなかった自分が美化を心がけようとしている。成長したじゃないか』とか、自分で自分を美化してね。自分を美化することも大事だよ。できない自分で美化すれば、人一人救ったことになる。なおかつ、たいがいのことは美化できるようになるからね」

最初はなかなか美化できず、悪いところばかりを探してしまうけれどそのうちに人の善いところを観ようとしているうちに自分が変わっていくものです。その間も、自分は善いところを探そう、自分はもっと人を認めていこうと努力しているのだから、以前の自分よりも成長しているじゃないかと自分を褒めていくことが美化そのものになっているということです。

競争社会の中で、様々な人から足りないところばかりを指摘され、標準で平均、常に誰かの評価が入って点数をつけられてきたトラウマはそう簡単には拭いされません。しかし善いところを探そう、美化していこうとすることで自他は認められ自他のいのちはより一層光り輝いていくように思います。

素直になりたい、謙虚になりたいと思っても、その初段になるのも一生かかるものです。子ども達のためにも、足るを知り、善いところを認めるところから精進を続けていきたいと思います。

 

心の持ち方~いま、ここ~

人は心の持ち方を学ぶために人生があるとも言えます。

嫌なことがあったときや辛いことがあったとき、そこからどう転じて学ぶかということができるかどうかでその人の成長が確認できるからです。そして心は自我や執着、また不安や恐怖によって出て来難くなってきます。どんなに足掻いてみてもそうなってしまうものは諦めるしかありませんから、その都度心の持ち方を変えて歩みを止めずに進んでいくしかないのも人生であろうと思います。

上手くいかないと思ったり、考えていた通りにいかないときは、どうしてもネガティブになります。そのネガティブさをどう転じてポジティブにしていくかが心の強さでもあり、心を持ち方次第ということです。

例えば、「いま、ここ」という心の持ち方があります。これは心が離れているとき、その心を取り戻すときに「今」に集中し、「此処」に在ることを確認します。すると、彷徨っていた意識が心の在り処を思い出し、心を取り戻すことができるようになる心の持ち方です。

世界では、「リジリエンス力」といって船が波に揺られてもまた元に戻るように、様々な荒波を受けてもそこから立ち直る力、立ち上がる力として注目されています。失敗を恐れず、果敢に挑戦し、失敗から学び失敗から成功へと転じていく力の根底に必須の心の持ち方であると定義しているのです。

これらはすべて「信じる力」の一部分ですが、如何に心が丸ごと信じているかを人は常に問われているともいえるのです。自分の考えの小さなに気付いたり、相手の考えを受け容れたり、人は自分の心の持ち方次第でその器を大きくもでき、また小さくもなります。

自分の成長というものは、如何に心の器を大きくしていけるかにあるようにも思います。そこには、心が現実の世界に負けない強さ、心の世界の方が現実よりも優先される信じる力が人生そのものの醍醐味を決めてしまうからかもしれません。

過去のことを悔いてみても仕方がありあせんし、未来のことを憂いてもどうしようもありません。そんな時は、過去は意味があったとしみじみと味わい、未来は面白くなりそうだとわくわくと感じる、そういう有難いご縁や御蔭様に感謝する心を今に取り戻して今のままでいいと開き直るなら人はみんな素直になっていけるのではないかとも思います。

この素直さというものは「いま、ここ」と密接につながっているように感じます。

子どものことを思えば、どう過ごしていたって時間が過ぎればそのうち子どもたちの時代になってしまいます。どうにかできるのは常に今だけですから、過去や未来を思い煩うよりも今できることに集中して禍福一円に今を味わい盡力していきたいと思います。

地球人財の資質~日本古来の心~

昨日、グローバル人材の資質と実力とは日本古来の心という書き方をしました。これは脈々と古来の親祖から私たちに受け継がれてきた伝統文化とも言ってもいいかもしれません。

私たちはこの日本の風土に活かされ、その風土に見合った様々な伝統を道を実践する中で磨き上げてきたとも言えます。それぞれの国にはそれぞれの風土があり、先人たちが智慧を結集して子々孫々へと資質と実力を譲り渡してきたものが私たちに具わっています。

それは生き方や思想とも言っていいのかもしれませんが、太古の昔からどんな暮らしをしてその暮らしを伸ばしてきたかということです。しかし今は、その暮らしが経済優先の便利な社会構造の中で次第に失われてきているようにも思います。

私たちの伝統文化というのは、身近な職人さんたちや生活の智慧の中に籠められてきました。子どもの頃からその古来からの伝統文化を見ながら、日本古来の精神や思想を身に着けていくことで文化の本質を理解していたのでしょう。

これから国際的な交流はますます増え、いよいよ子どもたちが地球人財として活躍していかなければならない時に、如何に異文化に対する理解を高めつつ、異なる文化をもつ人々と協調していけるかは今の教育環境にかかっていると思います。

自分たちがどのような民であるかを知ることは、相手がどのような民であるかを知ることに繋がります。世界では風土と融合して発明された様々な文化が存在しています。その文化をどうまた融和し合い、互いの相乗効果を高めて尊重して組み合わせていくかが異なりを活かしあい助け合うためには必須の力になってきます。

日本古来の智慧を学び直すことは、日本古来の心に触れることです。

それは私たちの先祖がどんな初心で国造りを行ってきたかという理念と経過をかつての暮らしの産物から学び、その真心をカタチにすることです。

世界ではすでに活躍する日本人が沢山いますが、そのどれもが根底には自分たちの風土の文化をしっかりと身に纏い、そのアイデンティティを持って新しいことに挑戦しています。自分のルーツや自分が何をしたいのか、その初心を持つことで世界はその人をその風土文化の真心の体現者と認めるように思います。そしてそういう人たちが集まってくるからこそはじめて世界は一つの中で互いの異なりを活かしあい真の平和を創造していくことができるように思います。

私が考えるこれからのグローバル教育とは、「異なることを理解し、一緒に協力する意味を教える。」ことではないかと直感しました。それは今の社業で時間をかけて行っている自然に学ぶこと、発酵や稲作にもつながっています。

どんなに時代が変わっても自分自身の生きる願いの中に、先祖たちがみんな生きています。世界はこれから急速に近づいてやがて一つになっていくでしょう。今、私たちが子ども達のために観直していくことはやはり暮らし、生き方の方からです。

先祖を敬い、先祖を慕い、日本古来の心を学び直していきたいと思います。

グローバル意識~資質と実力の本質~

私たち日本人は島国の中にいて国内事情ばかりを優先するあまり、アジア圏をはじめ世界のことを意識することが少なくなっているとも言えます。先日のニュースでも社会課題は国内志向が強く、「紛争鉱物」や「貧困」「人権」など含めたグローバルな課題への関心は低くなっているそうです。

アジア圏に出て各地で活躍している人たちをみていたら如何に国際人として常に全体を観て自分たちがどうあるべきかを考えて行動しているのが分かります。私も高校を卒業してから中国に留学し、その後、英国に留学し、いくつかの国の方々と仕事をし、また今でも関わりがありますが常に世界では共通する問題にそれぞれの人々が様々な異なりを理解し、違いを超えて挑戦しています。

特に今は情報化社会が進み、経済的に密接に繋がり合い、ますます国境がなくなってきていますから世界のある場所で起きた出来事はすぐさま世界全体に影響を与える時代になっています。つまりは私たちは常に地球運命共同体として、私たちは世界の中に生きているということです。

昔のように関わりが薄かった時代はまだ対岸の火事で済んだ出来事も、今ではとても他人事ではなくすぐさま自分たちに多大な影響を与えてきます。世界の未来の問題をどう今解決していくかは、それぞれの人々の意識に懸っているともいえるのです。

そういう意味では日本という国は、世界の中でもとても大切な役割と使命があるように思います。それは老舗に見られるように私たちの伝統は何百年も前から大切に維持され、世界の称賛を受けていることにも見られます。また、瑞々しい国土のほとんどは森林に囲まれ清らかで澄んだ水と、恵まれた気候風土の中で満たされています。もちろん地震や火山も多くありますが、それはまだ産まれたての風土だからこそこのように若い感性に満ちているのでしょう。

先日のシンガポール訪問でも、アジア圏の中でどう私たちがリーダーシップを発揮していかばいいのかを自覚する機会になりました。そして同時に私たちの資質と実力とは一体なんであろうかともう一度、向き合う機会をいただけました。

日本人としての資質とは何か、日本人としての実力とは何か。私はかつての日本古来の心こそ、私はその問題を解決する鍵になると信じています。

最後にシンガポールを考えながら、同じアジア4龍と呼ばれる国家、客家出身の台湾の李登輝首相のことを思い出していました。それぞれにリーダーシップを発揮して、今後の世界でどう国家を運営していけばいいか、歴史はとても未来への参考になります。その李登輝首相が、「世界の偉人たちが贈る 日本賛辞の至言33撰」ごま書房新社の中で日本についてこのように語っている一文があります。

「『進歩』を重視するあまり『伝統』を軽んずるというような二者択一的な生き方は愚の骨頂だと思うです。『伝統』という基礎があるからこそ、初めてその上に素晴らしい『進歩』が積みあげられるのであり、『伝統』なくして真の『進歩』などありえないのです。数千年にわたって営々として積み上げられてきた日本文化の輝かしい歴史と伝統が、60億人余の人類社会全体に対する強力なリーディング・ネーションとしての資質と実力を明確に証明しており、世界の人々からの篤い尊敬と信頼を集めているからです」

古来の心は伝統文化の中に籠っています。温故知新、今こそ日本文化と伝統というものをもう一度学び直しつつ、今後のグローバル人財、地球人財の一人として準備を怠らず実践を高めていきたいと思います。

類は友を呼ぶ~循環に在る縁者~

昨日、田んぼの草刈りをしていて不思議なことを考える機会がありました。現在の田んぼは、稲が分けつをはじめ青々と葉を広げていく時機に入っています。不耕起で自然農で取り組んでいますから、周りの草を刈りつつ、見守りそのものの持つ力を信じて共に育ちあっていくのを援助していきます。

その際、草刈りをしていると稲に似た近縁の雑草があることに気づきます。言い換えればかなり稲にそっくりな似た草草が周りに生えてくるのです。一見するとほとんど見分けがつかないほどのものが、すぐ周囲に生えますから間違って刈ってしまいそうなくらいです。

これは稲だけに限らず、野菜など栽培するものの周りにはよく似た雑草が次第に集まってきます。これは生態系の不思議で、「類は友を呼ぶ」ということが実際にいつも起きているように思うのです。これは全ての生き物に共通する真理であり、御互いに共通するものは互いに引き合っていく性質があるように思うのです。

改めて気づいたのですが生き物たちは、生きていくために一人では生きようとはせずに仲間を求めるように思うのです。この仲間=類というものは、長い間で探し当てた同じ心を持つもの同士とも言えます。互いに助け合っていけば生き残れると感じて、一緒に生きるものを長い時間をかけて得た関係です。それは循環の中に在るご縁で結ばれているかのようにです。

先ほどの稲と雑草稲は、互いに共にあることで他の虫から食べられるのを互いに補完しあうことで全部食べられるのを防ぎ、同時に他の草に空間を占有されないように互いに周囲を抑えて助け合っているとも言えます。

片方の稲は人間の都合で栽培され食べられる実をつけますが、もう片方の雑草稲はあまり食べるものに適しません。しかし人間都合で栽培されてきた稲の方にも本来の野生の中で生きる智慧を自ずから見出し、類を呼び周りと共生しようとしています。

つまり仲間=類とは、共に協力し支え合うために集まってきた縁者なのです。この仲間というものは人間でいう家族や親戚、友人、同志などの縁者であり、似た者同士、同類相求めるのように同じ性質を持つから近寄るのです。蓑の傍に傘が寄るのことわざのように、気が合う者は互いに親しみ集まる、同類のものは自然に集まるのです。

これらの「引き合う惹かれ合う関係」において、自然界はとても絶妙に仕上がっているように思います。周りがどうなっているかを知るとき、自分がどうなっているのかが分かるものです。自分で自分のことはわかりませんが、自分の周りを見て観たら自分のことをはじめて知ることができます。縁者は常に互いに補完しあったり、互いに妨げあったりしますが悠久の長い目でよくよく洞察してみたら、この縁者の関係がお互いにこの地球の厳しい循環の中で末永く生き残るために慈しみ助け合っている縁者なのです。

自然界の絶妙な類友を集める仕組みに、改めて自然の法理を学び直すことができました。縁者はすべて善であるという智慧の気づきも、また田んぼの中から得ることができました。

実際は、収穫をあげ栽培していますから刈り取るのですがその中で他の雑草たちとの共生がはじまり実をつける栽培に適した環境に仕上がってきます。植物たちの集まってくる変化を楽しみながら、如何に共生関係を創っていくか、観察しつつご縁を味わっていきたいと思います。

心のやわらかさ~一生青春~

人間は色々なことを悩みすぎると心が硬くなっていくように思います。一つのことに思い煩いそこに感情が呑まれればどうしてもその執らわれから抜け出すことができなくなります。そうやって自分自身への思い込みが強くなってくると、次第に心が硬くなっていくように思います。

魂を如何に消耗させないでいるかは、常に青春を続けていくことのように思います。

しかし年々、様々な柵が纏わりついてきますし人間はどうしても様々な人たちとのかかわりの中で利害なども発生していますから悩みはつきません。相田みつおさんが「一生勉強一生青春」の中で「年をとって困ることは、身体が固くなるばかりでなくて、頭が固くなること、心が固くなることです。心が固くなると、感動、感激がなくなります。一生青春を保つためには、心のやわらかさを保つこと。そのためには、具体的に何かに打ち込んでいくことだと思います。」と仰っています。

心のやわらかさというものをどう持ち続けるか、そこに魂を消耗させないヒントがあるように思います。

河合隼雄さんが「冗談による笑いは、世界を開き、これまでと異なる見方を一瞬に導入するような効果をもつことがある。八方ふさがりと思えるとき、笑いが思いがけぬ方向に突破口を開いてくれる。」とも言います。

心のやわらかさを思う時、この”笑う”ということを思い出します。笑っていられる心のしなやかさ、そして果報は寝て待てではないですがその時が来るまで面白いことや好きなことにでも没頭して待つこともまた心のやわらかさかもしれません。視野が狭くなり心も硬くなってしまったら、見守りや御蔭様、周囲からの応援にも気づけなくなってしまうかもしれません。

そう考えてみると、「一生青春」というものはあらゆる出来事を楽しむ境地にあるように思います。どんなことがあっても笑っている、何があっても笑って歩んで往く、そういう「笑う門にはいつも福が来る」ように思います。

時折、大切な人のことが理解してあげられず、そして自分がどうしてあげていいのか分からず、ただただ悲しみ、無事を祈りつつも実際は何もできない自分に苛立ち、独り悔しい思いをすることが幾度もあります。しかし本来は丸ごと信じているのだから先に自分の心が硬くなってしまえば、かえってもっとも身近で応援しようとしている自分がその人の邪魔をしてしまうかもしれません。

だからこそそういう時こそ常に明朗快活に心をやわらかく、子どものようなしなやかな姿のままに笑って福を待つことで正直に生きていきたいと感じます。正直さというものは、まっすぐで潔白というイメージもありますが同時にとても柔和な側面もあるように思います。

心に正直に、人生の醍醐味を和らいながらその時が来るまで日々粛々と実践を怠らず天命を待ちたいと思います。

本心本来の自分自身

人は自分の心のことがなかなか分からないものです。頭では分かっていても、自分の心となるとどこにあるのかそしてどうしたいのかが観えなくなってしまうものです。なぜなら人には感情があり理性もあり、そういうものが自分のやりたいことと、本当に本心からやりたいことを入替えてしまったりするからです。

そもそも自分の本心とは何かということを知るというのは人生の一大事であろうと思います。自分の本心が分かり覚悟が決まるなら、迷いも消えて目の前のことに没頭し打ち込んでいくこともできるのでしょう。いや、目の前のことに没頭し打ち込んでいるからこそ自分の本心に出会えるとも言えます。『無になりたいなら頭で考えるな。 目の前のことに没頭さえすれば、 おのずと無になることができる。』と禅の世界では語られます。本心本来の自分自身に出会うというのは無になっていくということなのでしょう。

そして以前、その無の顕現でもある「天命」ということについて神渡良平さんが書いた文章に出会いました。そこにはこうあります。

「天命とは」

現在の仕事を離れて

天から降ってくるものではない

現在の仕事に没頭していれば

自ずから導かれていくのだ

天はそれぞれに

最高の人生を約束している

誰もが持ち味を発揮

できるようになっている

腐ることなく

めげることなく

倦むことなく

努力していこうではないか

自分の仕事に打ち込んでいる人は輝いている(神渡良平)

今の目の前のことに無我夢中に没頭できるというのは”信じている”からに他なりません。この信じているという気持ちは、謙虚で素直な心の在り様です。そして真心を籠めて与えてくださったものを選ばずに全身全霊を懸けて取り組んでいくことで自ずからご縁は導かれて”なるようになっていく”ということのように思います。

そしていつの日か、自分の持ち味が存分に発揮できる日が来るかもしれません。そうやって信じて念じて、信仰のような心持で真摯に没頭している人は周りからみても輝いて観えるのでしょう。独りが輝けば周りもまた輝いてきます、それは天の星々のように満天の宇宙でそれぞれの光を放つ星空のようにです。持ち味のすごさというのは、八百万の神々のようにそれぞれが唯一無二の役割を果たしあういのちになれることです。

つまり天命を知るには、どれだけ真摯に目の前の志事に没頭するかに懸っています。

頭で考えることも大切ですが同時に頭で考えることなどは全体の一部も分かりません、こころのままに、本心のままあるがままに御蔭様御蔭様でと与えてくださったことをさせていただける仕合せと感謝でどんな仕事も取り組むことができるなら人は天を敬いつつ命を天に預けていけるのかもしれません。気づきというものもまた、天に預けているからこそより研ぎ澄まされていくのでしょう。

素直や正直さというのは本心でいることであり天の真心と同じ姿であるということです。

子ども達に天を敬う生き方が譲れるようにあの植物たちや動物たち、虫たちなどの自然な姿から自分の心を静かに見つめ、天と一体になれるように日々を真摯に精進していきたいと思います。

 

地球人財5~地球人としての生き方と働き方~

インドネシアに「未来のリーダーを育てる奇跡の学校」と呼ばれているグリーンスクールというものがあります。特徴はインドネシア・バリ島のジャングルの中に存在し、建物の全てが竹で作られ、電力は太陽光発電で賄われているというこだわりでできています。

さらにそこに入学するための選考は如何に自然環境に対する自分の想いだけでなく、どれだけたくさんの人たちに影響を与えることができるかをテーマに行われます。つまりは自分の生き方と働きかけが何よりも重要であるとし、それを未来型リーダーの原点に据えているところです。

地球人としてどう生きていくか、それをどのようにグローバルに発信していくかをこの学校生活を通じて仲間と刺激し合い自然に解けこみ学び合うという感じです。

なぜ未来型教育である必要があるか、それは持続不可能な生活を続ける私たち地球人の在り方が問われる時代に入っているからです。このままでは持続しないということはもうほとんど全ての人類がそれを知っていても自我欲に負けてしまい何もできないでいることです。

誰かが何とかしてくれるのを待っているのではなく、自分が地球人として何ができるかを考えようとする取り組みこそ未来型教育であると私は定義します。持続不可能な生活に待ったをかけ、如何にしたら持続可能な世の中にしていけるかをそれぞれの生き方や働き方で世界に示していくことが必要なのです。

私が自然農を取り組み、対話や協力、そして思いやりや真心の実践を会社を使って開発したり発明したりするのもすべては持続可能な循環社會を地球人財の一員としてどう世界に発信するかということを悩んでいるからです。それは地球人としての責任であり、子ども第一義を思えば思うほどに未来のことに責任を感じます。

未来がどうなっていくのかは当然今の私たちの暮らし方に懸っています。グローバル人財とは何か、地球人財とは何か、それは自分の生き方や働き方に責任を持つ自分自身のリーダーになれる人物のことでしょう。

このグリーンスクールの理念にはこうあります。

「私たちはまだ種をまいたに過ぎない。本当に重要なことは、世界の人たちが私たちを真似て、さらに改良を加えて行動すること。常にその瞬間の自分の行為が孫世代にどう影響するのかを考えるようになれば、自ずと未来は変わっていくだろう。第二のグリーンスクールをどんどん作ってほしい。私たちは協力を惜しまない。」

地球人財とは自分自身が主体的に自分自身のリーダーになり、世界の常識を覆していけるような本質的な人物であることです。周りがどういう生き方をしていようが、自分自身が決めた生き方を貫ける勇気と信念、愛と平和に生きる徳才の人物です。

自分がグローバル人財でなしにグローバル人財を育てられるわけがありません、自分が地球人財でなしに地球人財も育ちません。だからこそまずは自らが地球人のリーダーとなるべく実践を積み重ねて人類の未来に発信していくことだと思います。

今日からまた日常の実践に回帰しますが、何のために生きるのか、常に地球規模の意識でリーダーシップを発揮できるようカグヤを通して生き方と働き方を磨いていきたいと思います。

 

地球人財4~本質的であるか~

時代は過渡期に入り、国境を超えて人種を超えて多様化はますます進んでいきます。そしてグローバル化していく経済や社會の中では一つの正解を頼りにしてはいけず、あらゆる無数の正解を受け容れていく柔軟性が必要になってきます。

そもそもグローバル人材に求められる力として、コミュニケーション力や相手を理解する力、プレゼンテーション力とか色々と言われていますがそれは手段であろうと私は思います。

ではグローバル人財にもっとも必要な力とは何かということです。

私はそれは「本質的であること」であろうと思います。

なぜなら多くの正解の中で物事を進めていくというのは、本質的かどうかということに由ると私は思うのです。人間にはそれぞれに価値観もありますし、その人の視野の広さが事物を決めてしまっているものです。実際に目の前に見える世界だけを世界だと信じている人と、地球規模で物事を観ている人ではその目に観えているものは異なっているからです。

特にグローバルリーダーともなれば、どれだけの視野で物事を捉えているかは何よりも目的を完遂する上で重要です。そうなると、常に本質的かどうかを確かめなければならなくなるのです。

本質的であるというのは、中庸であり続けるということに似ています。全ての情報の中から右に偏らず左に偏らずそのものの中心を見抜く力、本来のあるべき姿から物事を洞察する力のことです。

本質というのは、世の中の常識に囚われず型破りであるともいえるのです。本当のことが合っているのなら、それ以外のことは別にどうでもいいという柔軟性があるということです。私の言葉で言い換えれば初心や理念がはっきりしているのならば、後は流れに任せて応じて合わせる柔軟性を持っているという感じです。

これらの本質を維持する力というのは、常に自分自身が本質的かどうかを振り返り、常にそこから心を離さずに心を入れて物事に打ち込んでいかなければなりません。信念ともいってもいいかもしれませんが、本質を維持するには常に「何のために」という自問自答を続けて根気強く本質的であることを意識していなければならないからです。

これは心の力とも呼んでもよく、心が育っていなければ本質の維持は難しいのです。それだけ人は世の中の都合の悪くなった現実の帳尻合わせのためのルールや法則に惑い翻弄されているともいえるのです。自然から学ぶ力もまた本質の性質を伸ばすためにあります。教育の在り方を思う時、まず何が自然かがわからないような人物が果たしてグローバル人財と呼べるのだろうかと私には疑問に思います。

グローバルリーダーは、混沌の中でも常に本質を見抜き、本物を確かめ、自然であることに精通している中心人物です。人間の浅はかな多数派の意見や、何かしらの偏った正論などには目もくれず粛々と自分の”生き方と働き方”を変えて世の中に貢献していくのでしょう。

これからは無数の正解があっていいと言われる世の中になると言われます。それは言い換えれば、本質的な世の中に入ってくるという意味でしょう。だからこそいよいよ対話が求められる世の中になっていくでしょう。

子どもたちの道しるべになるように、日々に本質を磨き、自然一円観を伸ばして世界のお役にたっていきたいと思います。