類は友を呼ぶ~循環に在る縁者~

昨日、田んぼの草刈りをしていて不思議なことを考える機会がありました。現在の田んぼは、稲が分けつをはじめ青々と葉を広げていく時機に入っています。不耕起で自然農で取り組んでいますから、周りの草を刈りつつ、見守りそのものの持つ力を信じて共に育ちあっていくのを援助していきます。

その際、草刈りをしていると稲に似た近縁の雑草があることに気づきます。言い換えればかなり稲にそっくりな似た草草が周りに生えてくるのです。一見するとほとんど見分けがつかないほどのものが、すぐ周囲に生えますから間違って刈ってしまいそうなくらいです。

これは稲だけに限らず、野菜など栽培するものの周りにはよく似た雑草が次第に集まってきます。これは生態系の不思議で、「類は友を呼ぶ」ということが実際にいつも起きているように思うのです。これは全ての生き物に共通する真理であり、御互いに共通するものは互いに引き合っていく性質があるように思うのです。

改めて気づいたのですが生き物たちは、生きていくために一人では生きようとはせずに仲間を求めるように思うのです。この仲間=類というものは、長い間で探し当てた同じ心を持つもの同士とも言えます。互いに助け合っていけば生き残れると感じて、一緒に生きるものを長い時間をかけて得た関係です。それは循環の中に在るご縁で結ばれているかのようにです。

先ほどの稲と雑草稲は、互いに共にあることで他の虫から食べられるのを互いに補完しあうことで全部食べられるのを防ぎ、同時に他の草に空間を占有されないように互いに周囲を抑えて助け合っているとも言えます。

片方の稲は人間の都合で栽培され食べられる実をつけますが、もう片方の雑草稲はあまり食べるものに適しません。しかし人間都合で栽培されてきた稲の方にも本来の野生の中で生きる智慧を自ずから見出し、類を呼び周りと共生しようとしています。

つまり仲間=類とは、共に協力し支え合うために集まってきた縁者なのです。この仲間というものは人間でいう家族や親戚、友人、同志などの縁者であり、似た者同士、同類相求めるのように同じ性質を持つから近寄るのです。蓑の傍に傘が寄るのことわざのように、気が合う者は互いに親しみ集まる、同類のものは自然に集まるのです。

これらの「引き合う惹かれ合う関係」において、自然界はとても絶妙に仕上がっているように思います。周りがどうなっているかを知るとき、自分がどうなっているのかが分かるものです。自分で自分のことはわかりませんが、自分の周りを見て観たら自分のことをはじめて知ることができます。縁者は常に互いに補完しあったり、互いに妨げあったりしますが悠久の長い目でよくよく洞察してみたら、この縁者の関係がお互いにこの地球の厳しい循環の中で末永く生き残るために慈しみ助け合っている縁者なのです。

自然界の絶妙な類友を集める仕組みに、改めて自然の法理を学び直すことができました。縁者はすべて善であるという智慧の気づきも、また田んぼの中から得ることができました。

実際は、収穫をあげ栽培していますから刈り取るのですがその中で他の雑草たちとの共生がはじまり実をつける栽培に適した環境に仕上がってきます。植物たちの集まってくる変化を楽しみながら、如何に共生関係を創っていくか、観察しつつご縁を味わっていきたいと思います。