リラックス

力むということがある。力むというのは、どこかに力が入っていることを言う。体のどこかにいつも力が入っていれば、どこかに無理をしているのだから思うようにコントロールすることができなくなったりするものだ。

以前、中学で私はバレーボールでとてもサーブが上手だと言われていた頃、いつも自分の体の力が抜けて無駄な力が入らない状態で打つことでどの場所へもどの方向へも正確に打ち込むことができた。

これも同じく、完全に肩の力を抜いて信じきっている状態であり自分の体と心と技術を併せて安定させる方法がもっとも自分を発揮できると自覚した思い出がある。

いつも良い状態を維持するとは、いつでも肩の力を抜くことができることを言う。

もっとも自分を信じて最高の自分を発揮できるようにしておくことこそ、日頃の練習と鍛錬のなせる業であろうと私は思っている。

しかし病気などになると、日頃、無意識に力んでいる場所が体調の悪化によって力めなくなることでその部分がはっきりとむき出しになっていくのがわかることがある。

日々、忙しくしていればリラックスする暇を忘れて没頭してしまうもの。休息の取り方が正しくなければ疲れるのは当然ということになる。

どこか無理をしているというのは、どこかに力んでいるのであり無意識だけれど無理にでもそこを何とか強くしようとしているのだろうと思う。

そう考えてみると人は心も同じく弱い部分は意識の力で日頃は必死に守っているのであろうとも感じた。

体調を壊してみると、三位一体のバランスが同時に壊れるからその心の動きや体の動き、そして感情の動きなど非常に複雑な葛藤を体験することができる。

ほとんどがその弱さの部分であったり、強さの部分であったりを自覚するものでもある。その順序も、節々の痛みも、不安も、日頃よほど力んでいるのだということを正確に知ることができる。

人間は弱さを隠すというのは、強がりともいわれる。そして弱さをさらけ出すことを、強さともいう。

ここであるがままをさらけ出すといっても、それは単に脱力無気力とリラックスとは異なるのは当然だけれど、この強い弱いという話だけではなくそういうものが心技体においてすべて存在しているということがあることは確かだということはよく理解できた。

では、どうやったら病気にならないような身体にしておけるのか。

日頃から素直に、ありのままのものを受け容れ、力まず無理をせず、鍛錬を積み上げていくことであろうとも私は思う。

心が弱ると、他人の暖かさや真心が心に沁みる。体が弱ると、日頃健康である有難みが実感できる。そして感情が弱ると、なんでもない日々がなんと美しいことかと感謝の念にかられるもの。

そういう体験を通して、無駄な力を抜いていくことを学ぶのだろう。

リラックスとは大切なこと。

心を開き、素直に健やかに、毎日の生活を楽しんでいくスローな感性を養っていきたい。子ども達にも、時間や感情、社会の軋轢に疲れ切らないよう、肩の力を抜いて生きることを示せるような自分でありたい。

大学素読の妙味

昨日、致知出版が開催する新春セミナーにクルーの皆と一緒に参加することができた。毎年、この時期にお誘いをいただき新春に刺激を与え合い励まし合い人間学の価値を共有できることはとても幸せな機会であると改めて思う。

今回、私が以前からどうしても直接お会いしてお話をお聴きしてみたかった伊與田覚氏が講演とあっていつにもまして参加するのが楽しみにしていたセミナーだった。

講演がはじまり、参加者全員で大学の素読を行ったのはとても感動的で不思議と体が声を出して読むことで次第に熱くなったことが印象的だった。

自分の声を出して読む素読というのは、伊與田先生によれば感覚器官を刺激することにより感覚を導引していくことだと仰っていたけれどその体験ができたことが何よりも有難いことだった。

また今回も論語、大学についてわかりやすくご説明ただいた。

大学とは、大人(たいじん)の学問でありそれは人に善い影響を与える人物とはということを目指したものでありどのような生き方がそういうものかということを示唆しているもの。

私はこの大学は座右の書のひとつで、何か判断が雑になる際には素読をし心を鎮めるときによく使っている。自反慎独ではないけれど、ちゃんと矢印が自分に向いているかどうかを確かめる書としては最高のものかもしれないと思っている。

講演の中のお話は全部は書ききれないけれど、とても大切なお話ばかりをお聴きすることができた。

特に見識と雑学の話は、私もよく何が違うのだろうと考えもしなかったけれどその違いがはっきりと分かったのは今後深める意味において有難い機会になった。

これは雑学とは、他人の知識をのべつまかなく学び借用し流用するだけで自分のものになっていないものをいう。知という字に「やまいだれ(疒)」の部首がついて、痴という字になる。この痴とは愚かなことであり、いつまでも無明であるという意味になる。

これを現代で言えば評論といい、確かに評論家も有用ではあるけれど所詮借用した知識では100発100中ではないし、場合によっては多くを惑わすことにもなる。

これは孔子が日々の回訓である三省の一つ、「習わざるものを伝へしか」の一文、己の身にもなってない事を妄りに人に語り周囲を惑わせてはおらぬであろうかのことを言っているのだと私は思う。

自分の実体験を通じて知識を深め、気づきを自分のものにしていくことで人格を陶冶することこそ人間が学ぶということの本質であると私は思う。自分のものにならないような内省は内省ではなく、それは論外省であるということだろう。文字通り、筋違いな省みである。

日々、このブログを綴る心構えとして特に大事にしていきたい。

また、私なりのまとめになるけれど「致知を究めれば、心に達する。心に達すればそこから顕われるのが徳である。徳が顕われてくれば天地の道理と一体になり宇宙の調和の中で安んじていくことができる」という意味に解した。

人間学とは、あくまでも自覚するものであり、大切なのは気づきをすべて自分のものにしていくため日々を大切に今の一瞬にすべてを懸けて生き切ることをいう。

こういう時代だからこそ、本筋や本道を貫く姿勢を子ども達へ示していこうと思う。

以心伝心、一期一会、伊與田先生、本当に有難うございました。

無理をしない

自然体でいるというのは、誰に対してもどの世界に向けてもそのままの自分でいることをいい、それは言い方を代えればすべての生命を自ずから尊重しているということになる。

無理をするときは、必ず自分にも無理を強いているしその時は必ず相手にも無理を強いているものである。それは言い換えれば自らが変化するのを避けているということである。

人には向き不向きというものがあり、それはその人自身が本心で選んでいるもの。その人の行動を尊重しよく見守っていればその人は自分にあうものを探していくもの。それを尊重することがまず大事であって、自分の思いやこうなるべきだという気持ちは優先するものではない。

自分に合うとは単にそれをしていると気楽だというものと併せて、どんなに忙しくても大変でも一生懸命に打ち込めてそれが楽しいと思えているということになる。自分に合わないのにあまり無理をしてしまうと、何をやっても楽しめず真剣に打ち込めず続かずすぐに飽きてしまうものだ。

以前、外科医の息子に外科医を継がせようとして手先が不器用だった息子を無理やり継がせて医療事故を起こし閉院した話を聴いたことがある。

これも同じく相手を尊重すれば当然向き不向きがあり情を優先して無理をするのではなく無理をしないで本人の意思を尊重することが大切ということになる。

しかしそこには、父親のためにというものがあり、息子のためにというお互いの愛情の強い思いがそういう無理を強いたのであろうと私は思う。

親子の情は大変解し難く、深い依存関係にあるからこそ、本来、真に思いやれば思いが強すぎて相手が変わることを期待するのではなく自分を変えることが思いやっているこということになると気づくことだと思う。

無理に説得し相手に変化を求めず、他人には無理せず自分の在り方を変えることに専念すればいいということになる。それが自然体の本質であり、自分が変化することが自然であるからだ。

どこかで無理をすれば必ず歪がでて病気になってしまうもの。心の在り方が無理をすれば穏やかではいられずそこから病巣が広がっていくものだとも思う。

無理をするのは、どこか自分の中で外側の世界を思い通りに動かしてやろうという驕りがあり周囲や相手を尊重しないから起きる事であり、謙虚にいつも御蔭様でという感謝の心のままでいれば無理はしないでいられるものだ。

そういう心があるから人はまず自分を変えることを真に受け容れ、変化というものを楽しんでいくのだろうと私は思う。

相手の気持ちに寄り添いながら、相手の人生のためになるように見守り、自分の強すぎる思いは自分を変えるために活かし、相手の強すぎる思いには無理をしないようにと諭していくことを優先していくことが具体的な行動に変えるということ。

感情のほつれや感情の軋轢など、様々ある中で相対的にそれをそこからの基準でいちいち成否を分けるのではなく、中庸や王道のように絶対的に自分を変化生長させていく方がより自然で楽しいとしていくこと。

無理をしバランスを壊すことで、結果周囲に迷惑をかけていくのであれば無理をせず自然体とは変化そのものであることを自覚しこの自らの道を悠然と歩んでいこうと思う。

感謝

自然治癒

何かの病気になると、自らそれを治癒しようとする力が自分自身には備わっていると感じることがある。しかし、病気になっている際は脳が病気であることを何とか解決しようとして何か善い方法はないかと探し出すのだろう。

しかし、自然治癒の観点から考えると人間は自分の体は自分自身が一番理解しているのであり、もちろん経験や知識で病のことを知っている人がいたとしても治癒するのは他でもない自分なのだから自分を信じることになる。

統合医療という考え方がある。

これは、対処療法は体を支援するために薬や治療を施すのであり根源的な治癒は本人の体の免疫機能を高めて自然治癒させていこうとする考え方である。

先日、ガイアシンフォニー第七番にアンドルー・ワイル氏が出演していてとても共感する内容があった。

「病気は変化を起こすための強力な刺激であり、人によっては内面的葛藤を解決する唯一の手段だ。治る患者は、病気を人間的成長のための絶好の機会と考える。言い換えれば、病気こそ本当の意味での贈り物と考えるのだ。
病気を不運と考えることは、治癒の働きを確実に妨げる。病気を自分自身の成長のための贈り物ととらえることが病気を治癒するための最高の手段である」

とある。

これは、機会というものを生き方としてどう捉えているかということでもある。私は、よく自分を変化するとき病気にかかることが多い。脱皮するという言い方をするけれど、あるがままの変化を受け容れることで生長のキッカケにすることができる。

当然、病気の真っ最中は苦しくて辛いもう耐えられないと思うこともある。ここで内面と外面、心と体のバランスの葛藤を乗り越えたときより自然の叡智を自らに感じて原理原則を学び成長することができるようになるのだとも思う。

全ての出来事は天からの贈り物という考え方が大切だということ。不幸だとか幸福だとか考えるのではなく、そのままにあるがままに受け取ることこそ自然を感じているということになる。

そして自然治癒の本質をワイル氏の下記の言葉が物語る。

「治癒は自然の力である。気を楽にして母なる自然の仕事に任せよう。 」

偉大な自然に身を任せ、偉大な自然が治癒するまで病気を気楽に受け容れ、体の回復は自分の体の中にいる地球そのものまるごとの大自然に委ねようということである。

不思議なことがたくさんある中で、その一つ一つを味わい感じながら自然と親しんで生きていきたい。何かの意味が隠れていることを知り、それに気づいて新たな自分と一期一会の出逢いを楽しんでいきたい。

病気という機会も、子どもたちのために活かしていきたい。

態度と反省

マナーというものの中にその人の仕草と態度というものがある。よく現在はマナーが悪いと言われることが多いけれど、その一つに態度の悪さというものがある。

自分本位に生きてきて、誰にも迷惑をかけていないからいいだろうと勘違いして育ってしまうと態度にすぐに顕われてくる。

人は誰にも迷惑をかけないということなど、在り得はしない。生きていれば必ず、誰かに迷惑をかける存在なのは当たり前のことだ。

これを説明すれば人は必ず何かとの関係性の中で存在が成り立っている。自分がいるということは必ず相手がいる。つまりは、必ず繋がっている地球の循環の中で生きているのだから自分が何かをすれば必ず世界で何かが変わっているということになる。

それが身近な組織や集団では顕著に影響していくから、近隣の人間関係で問題が起きたりするものだ。いくら頭で気を遣っていたとしても、やっている態度が変わらないというのはやはり迷惑をかけてしまっているという自覚が足りないということはすぐに分かる。

中村天風にこういう言葉がある。

「結局、態度というのがどれだけ人生の全体を支配するかわからないということを考えなきゃだめなんですぜ」

これは、いくら理解しましたとなったとしても具体的に態度になっていなければ意味がないことを示している言葉であり、言葉や態度、行動がはっきりと人生の全体を支配するのだからいくら頭で変わろうとしても人は変わらないのだということを言っているのだ。

この方は、以前、不治の病から奇跡的な生還をする中で自分が頭で思っていろいろなことを試しても一向に効果がなかったものを自分の態度と行動を変えて人生すべてを変えた方だからこそその言葉の本質は経験に根ざしているのだからとても重い。

そしてもう一つ、とても鋭い反省と後悔の本質を見抜いている。

『反省という心境は、どこまでも自発的なもので、決して他発的でない。しかるに、事実に照らしてみると、往々にそうでないことを、しばしば見聞する。強要に応じないと極度にその人の悪口を言い、盛んに憤慨激怒する人がいる。
感情や理性の判断のみで考えられることがある。「人生は現実と精神との中に、その思案を振り向ける省察(反省)の深さによって、その正邪の結論が決定されると」いう絶対真理を自覚する。』

つまりこれは人から言われてから反省するというのは本当はそれは反省ではない。反省の本質とは自覚することをいい、それは自分で自らが自分の力を使って気づくことをいう。

いつも上司からや誰か人から言われてばかりで反省する癖がついてしまえば、それは反省ではなくまたやってしまったという後ろ向きな後悔だけをしているだけである。

迷惑をかけつづけてもそのうち恥じる事のなく厚顔無恥になってくるのは、そういう後悔をすることで自分を変えることから逃げているからでもある。

自分の人生は自分のものだからこそ、自分が決めて自分でやるかどうかということが何よりも大切なこと、自立に寄り添い誠心誠意で見守るを実践していきたい。

心壁

相手のことを思いやるとは、相手の立場でものが考えることができるということでもある。いつも自分のことで器をいっぱいにしていたら相手の立場になって考えることなど到底できはしない。

自分本位の人とは、いつも自分の感情が優先され素直になれないから感性が鈍り相手のことよりも自分の心の壁が壊せず苦しんでいるのだろうとも思う。

何とかしてあげたいと周りがいくら思っても、その心の壁が強固であるためなかなか人の話を聞きはしない。特に忙しくなったりすると自分の感情だけで自分を満たし客観的に自分を見れなくなり引きこもり自分勝手な行動をし周囲に迷惑をかけていくようになる。そうしているうちに次第に孤立してまた頑なになって壁は厚くなっていく。

次第にエスカレートしていく迷惑も周囲への甘えも周囲への依存もすべては素直でないから起きることであり、素直でないというのは相手の立場や相手の助言を素直に受け入れようとしないから悪循環するものであると思う。

こういうことを繰り返して麻痺してくると、一番怖いのは無意識に思いやりに欠ける自らの言動行為で人を深く傷つけてしまっていると感じなくなることであろうと思う。自分の大切な人や身近な友人たち、自分を心底心配してくれている大切な理解者をなくしていくのもこういうことをやっているからなのだろうと思う。

人の話を素直に聴けるというのは、自分の感情よりも相手がなぜそういうことを言ってくださるのかと相手の心に寄り添うことをいう。相手が困っているから何とかしてあげたいという心に対し、困っていることに助力を惜しまず支援して下さる有難い存在だと思うことが人の話をちゃんと聴いているということであるとも私は思う。

自然のことを感じるときも素直な感性がいる。

風を感じるのも、海を感じるのも、山も太陽も星星も、向こうをあるがままに感じるには素直な心が必要なように、そこに自分の心が相手に向かって開いていなければあるがままに受け入れることも受け取ることできはしない。

太陽の暖かさ、海の冷たさ、風の心地よさも、すべては素直に相手を感じることからはじめて受け取ったといえるのだ。それが自然体ということだ。

循環するというのは、その不自然な心の壁を取り除き心を開いていることをいい、自分の感情で自分の欲求を満たすのではなく相手の立場にたって相手を素直に受け入れることで自分の器を大きくしていくということなのだ。

拒否し拒絶し、外界を遮断することではなく、共感し受容し、内界を開いていくように人のことを自分のことのように、自分のことを人のことのように同時にしていくことをいうのだと私は思う。

弱い人がさらに弱い人を傷つけ、強い人がより強い人を傷つけるというのはおかしなことで、本来は弱い人はより弱い人を助け、強い人はより強い人を助けるという人を思いやる循環があれば人はみんな素直になっていくのではないかと思っている。

心の壁がある人に拒絶されることを恐れてはいけない。

それ以上に、素直でいることの素晴らしさ素直でいることの素敵さを感じて自分がすべてから見守られていることを感じることを大切にしていくのだと思う。

その心の壁は、相手はきっと困っているだろうと素直な感性を開き心配し、相手がどうしたらもっと自然に素直になれるかを考え、真心をもって自分から変わっていくことを大切にしていきたい。

相手にあわせて壁に対して壁で対抗するのではなくその人を尊重し自分自身は素直なままであるがままで自然のままに過ごしていきたい。私自身はいつものように一期一会を感じながら、奇跡の日々を楽しんでいきたい。

みんなのために自分を活かす

何かを行う際に、知識労働者と肉体労働者という定義がある。一般的にはそれを知識を使う脳を中心とした仕事を行う人を知識労働者と思い、そうではなく身体を中心とした仕事を行う人を肉体動労者としていることが多い。

しかし本質はそうではなく、如何に自分を自分で管理し効果があることに適切に自らを使うことができるかという意味を指している。

それは知識と肉体に限らず、自らを自己管理しマネジメントすることができるかどうかということを指している。なぜなら自分がどうしたいかを決めたらそこから逃げずに遣り切る以上、やるならもっとも全体に効果があることを優先していかなければ意味はないと自律しているからできるというものでもある。

自分の人生を楽しみ、みんなのお役に立てる幸せを感じるためにも必要なことだ。

それは利他の心でもっとも自分の強みをみんなのために活かしていこうとすることであり、自分がみんなにとってどんな役割を果たせるのかを考え抜くからこそ自分にしかできないことでお役に立てる確信を持ち働くことができるというものだ。

これをP・F・ドラッガーはこういう言葉で例えている。

「知識労働者を直接、あるいは細かく監督することはできない。彼らには助力を与えることができるだけである。知識労働者は自らをマネジメントしなければならない。自らの仕事を業績や貢献に結び付けるべく、すなわち成果を上げるべく、自らをマネジメントしなければならない。」

と書いている。

これは、自分が全体に対して何をすることがもっとも善いのかを考えて行動していこうとするのは自分自身なのだと告げている。

そして、それがみんなのためになっているかどうかに結び付けるためにも常に自分の心と体と併せた技術を駆使し取り組まなければ成果がでないということを話している。そのための手段としてチームワークがあるのだ。素晴らしいチームは個々の善いところが光っているからだ。

偉大なことをやることは一人の力ではできはしない、だからこそ自分がみんなにとってどんな役割を果たせるのだろうかと自分自身が考え抜きそれをみんなのことを思いやりながら一緒になってやり遂げる。

困ったことは自らが心を開いてリーダーや仲間を頼り、責任をもって遣り切ることで自分の役目を全力で果たすことがもっとも自分の強みを活かしたということになるのだろうと私は思う。

また、こういうことも書いている。

「もし企業が起業家活動の中心であるとするならば、そこに働く知識労働者はすべて起業家として行動しなければならない。知識が中心的な資源になっている今日においては、トップマネジメントだけで成功をもたらすことはできない」(『創造する経営者』)

今の時代はこうやって自分自身をより最大限に活かすことで社会の中で起業していこうと新しい価値観を常に自分自ら表現する時代になったのだから当然、組織のトップだけが指示したりするマネジメントだけでは成り立たず、当然そういう新しい価値観を時代にあわせて表現する組織の人物たちがそれぞれの自分の強みを活かす起業家として行動しなければならないという。

つまりは自分自身を光らせていくのは何よりも自分自身なのだということを自覚することである。

それは自分のためにやるのではなく、みんなのために自分をよりよく活かしていこうとみんなを思いやっていく心の姿勢からスタートすることをいう。

余裕をなくして、心を亡くすと大事なものの優先順位が下がってしまう。そうならないように、いつも日頃からその人と仲良くなり人間関係を築きあげるほうを大事にしていくことだと思う。

まず人は、人との関係を創るところから自分にとっての安息地を持つことを大切にすることだと伝えていきたい。出会いも一期一会も、自分の心構え次第だとし、何よりも楽しむために自分を活かしていくことを示していきたい。

常に思遣りをもって心から行動し、その自分が本当にみんなにとって効果があるかどうかを反省し考え抜き、自分をみんなにとってもっとも価値のある方へとしていくことを大事にしていきたいと思う。

今日も素晴らしい一日になるように、まずは実践を重視していこう。

個々の尊重

今の時代は、昔から続いてきた普通にシンプルに生きていくことが以前よりもずっと難しくなっている。例えば、仕事よりも人を大事にすることや、お金よりも親愛の繋がりを優先することや、スケジュールをこなすよりもゆったりと豊かに生きることなど、以前なら当然だった人間らしい静かな生活ができなくなるのは不思議なことだ。

それは幼いときから周囲の過干渉あり、その人の主体的な自分らしさを周囲が尊重しないときからはじまっているようにも思う。

日本人の特徴として「おせっかい」がある、良きにしろ悪きにしろこれはある。良い方で使われるおせっかいは、老婆心から何か困っていたら放っておけないとのでと親切にすることをいい、悪い方のおせっかいはその人のやることなすこと老婆心から口を出してしまいいちいち不安を与えて邪魔をするということになる。

どちらにしてもこの両方は、余計なおせっかいの分はすべて自分の満足を得たいからやったり相手に見返りを期待しているおせっかいだからおかしなことになるのだと思う。過保護や過干渉はは、自分を変えようとはせず相手を変えようとする心からすべて生まれるものであり相手にあわせてお互いが変わっていたらそれは自立と共生をしているということになる。

しかし、身近でもよく見かけるのは自分と他人が違うとすぐに何か不安になるからや、相手が自分の生き方や価値観が理解できないと思ってしまうとすぐに相手を自分と同じように無理にでもなるようにしようとする。

別にその人はその人だとその人らしいのであればそれでいいではないかと尊重するなら別に干渉する必要はないのに、いちいちそれではダメだとなったりそれではいけないと否定するのは自分がそれでは困るからということなのだろう。

知識が先に来て、知識から疑似体験をするような同質の体験をまだやってもいないのにわかった気になるような社会構造の中ではこういうことを理解することも難しくなってきているのだろうとも思う。

私も過去の教育現場や社会、身近な人から過保護過干渉の中で育ってきた。その刷り込みから抜け出すことはとても難しく、どうしても無意識に思考の癖がありそれをしてしまうことがある。そうではないと思うには、まず自分の生き方を自ら責任を持ち、自分らしくいることを尊重することからはじめなければそれもできはしない。

だからこそ、自分が信じられるように人は他人や周囲を信じ見守りそれを存分にやらしてあげるような寛容な精神、つまりは強く優しい心を磨いていかなければ生きる幸せがわからなくなることもある。

どんなやりたいことの根柢も、人権に根ざしておりそれは全てに「自分がされて嫌なことは他人にはしないという」ものからスタートしているものだからこそ、いつのまにか過去に嫌なことをやられたからそれを仕返しするというのでは抜け出せないし本末転倒してしまいそれでは人としての当たり前の人権を保障していこうとしているわけではなくなってしまう。

みんな違ってみんないいのだから、当然、みんなが違うことを何よりもまず自分から見守り尊重しようとすることが本来の意味での個性の尊重であると思う。

皆が生きる幸せを求める心を、その思いやりの実践や謙虚な行為などはカグヤではこれから特に大事にしていきたい。

子ども達のことを思えば、仕事や職業がどうであれまず人として本質的で根源的な人権が保障されるモデルになる会社を目指していきたいと思う。

改善

何か一生懸命に取り組む際に、いつまでも効果がでないことに本人が気づかなくなるときがある。それは余裕がないということであり、息詰まっているということであることが多い。

一度、そうなってしまうとやればやるほど焦りと不安が生まれさらにそれを盲目に何とかしなければと自分を責め立て追い込んでしまうと逆効果になってしまい何も結果がでていないことに挫折したり失望することもある。

そうなると、小康状態を保ち停滞することになりそれに慣れてしまうといつもどうせやってもという諦め感が生まれそれでも継続していると結果がでないことに何も感じなくなってしまうという悪循環を生む。

人はそういう時は、一度発想を180度転換し考え方もやり方も変えてみるのだという天の声だと受け容れることが必要になる。

しかしそういう時の改善を自己で行うには難しく、私の場合は絶対的に信頼している存在を自らが丸ごと信じ、その師やパートナーに自ら心を開いて自分を診てもらい私は自分の偏見をまず疑い、アドバイスに従い素直さを主軸にそこから抜けることをしている。

自分のことを信じてくれて、この信じる人からの言葉だから何が起きようが自分はその人を心底信じるとなっていればどんな困難も抜けられるものだ。

しかし身近な仕事でよく感じることもあるのだけれど、そういう関係を素直に持とうとしない人は、自分なりに何か一生懸命にやっていてもいつも独善的になるので「そのやり方では効果がないと思うよ」というと自分が否定されたと感じてしまうようで相手に心を開いて受け容れようとせず、「だからこれだけやっているだろ」とか「必死にやっているのになんだ」とかいう態度をとる人もいる。

そうなっては「そのやり方ではいけない今の発想を変えてしまわない」とと話をいくらしても表面上は取り繕い同意しても、自分が言われた通り全部必死でやっているのにうまくいかないのだと、素直に聴き入れないことが多く真面目すぎたり偏って自分の殻の中で努力を頑なにしていればいるほど入り込む余地もない。

そういう時は、少し待って失敗をし本人が自らの体験でおかしいと気づけるまで見守ることしかないかと今は思っている。

しかし生き方を思うとき、いつも自分を指導してくださっていると謙虚に仲間を信じることだったり、自分より信頼する相手の方が自分のことをきっとよく観得ているということに自覚したりと、相手の思いやりをいつも心で受け取るように感性を澄ませて素直でなければ改善することはないと思っている。

改善とは傲慢に自分ひとりの世界に埋没しひきこもり強引に何かに固執していること続けることではなく、いつも「心の素直な善の状態に改める」ということ、つまりは謙虚でいつもいるということであると思っている。

それが生き方としてもっとも大切な素直になるということだ。

素直になっていれば、相手の話を心で聴くことができる。そうすれば、方向ややり方を少し変えればいいだけだったのだと気づきすぐに修正していくことができる。

素直になると、例え上司が「それではだめだ」と言われてもそれを否定されたとは思わないものだ。「もっと善いやり方になるために、どう改めればいいですか」となり今までのやり方を改善できるというもの。

よく指導書に相手を否定せずにまず受容しこうしたらいいと気づかせるとあるけれど日頃の関係がお互いに認め合う良好でなければこういうことも伝わりはしないもの。日頃の心を開いた素直なコミュニケーション、つまり日々の素直さの実践の積み上げによる改善が最終的には効果を決定してくるのだと思っている。

今は、過去を許せない人たちが増えているせいで素直さだけではなくあえて受容しゆるしていかなければ話を聴けななっている人たちが無数にいるように思う。

子ども達のことを思えば、幼児期に信じて信じられるという見守りの心の通じ合いや繫がりがか細く自己肯定感が持てなかったりしていつも自分を卑下して育てばそういう人たちがたくさん育ってしまう。

自分という本当の存在を認め、信じ誰とも比べない場所に尊敬する偉人や聖人と同じものが自分にも宿っていることを知ることが大事であり、それが自分と真に正対することになりそれを安心して対話することで得られる深さを感じる体験を持てるようにしていきたい。

自然の中で感じ受け取る感性をより豊かな人間社会へ転嫁し、今の世の中のおかしな仕組みを素直になって改善するようにと促していきたいと思う。

私は未来を楽観的に信じている。
心のゆとりと余裕を大切にまず相手を思いやり、改善を心から楽しんでいきたい。

アンテナ

何でもそうだけれど、よくよく観察していると効果がないことをやっていたり独りよがりのことをやっているなと思うことがある。もちろん、意味のないものはないので時間が経てば自然にあるべきようへと帰っていくのだろうけれど何のためにやるのかなどを忘れてしまっていると分からなくなるのだろうと思う。

仕事などもそうだけれど、自分のことしか見えず自分が進める事だけしか考えられなくなっているような余裕やゆとりがない状態では人は盲目に必死になるだけだったり自分のやることだけを周囲に押し付けたりしていくようになる。

例えば、仕事をする際よくアンテナを張っている人は自分からいつも周囲を手伝い、皆のために自分はどう動くことが一番善い効果を発揮するのか、全体のために自分が何をやっているのかなど常に自分というものを客観的に見つめる余裕を持っている。

そうしているから、常に先手先手で準備を怠らず、困っている仲間がいれば先に声をかけ手伝いをし、誰よりも全体や仲間のために自分を使うようになっていく。

本当の仕事とは何か、それはみんなを手伝うことであると私は思う。

これは会社でもそうだけれど、今の社会や世界に何が起きているのかをよくアンテナを張りめぐらせ受信し、自分たちがどうあるべきかを考えているから調和するために自分たちを正しく活かしていくことができる。

それを単なる自分の思いばかりで器を満たし、周囲や相手を思いやることなどに器を広げていなければ単に自分勝手に自分のことばかり考えて遣りっぱなしていくことになる。

よく仕事でも、投げっぱなしでやりっぱなし、確認も何もしなくてもなんとなくすんでいるとなっているのは全体がよく見通せていないからであり、周囲の動きが受信できていないからでもある。

常に自らアンテナを立てておくということは、今のような人との繋がりを自分で断ち切っていくような社会ではとても大切な教えになるのではないかと思っている。

自分本位になるのも、自分さえよければとなるのも、繋がりを切らされてただ必死に働かされるというような経済優先の社会が運んだ副産物。これを取り除くのも子どもの将来のためにも大切なミッションの一つだ。

最後に、アンテナとはではどういう心境であるのか。これは私は師もそうだと思うのだけれど明鏡止水の静かで穏やかですべての今をあるがままに受け容れ自然に溶け込むようなものだと思っている。

鋭敏で繊細な感覚がなければ、本当の意味ですべてを受信することはできはしない。大切なことは、静かであることをであり安んじていることでもある。それはブレナイということであろうとも思う。

常に人生は道場。

このカグヤでの道場を、あるがままの境地で楽しんでいきたい。