一人ではできない

人はなんでも自分ひとりの力でできると勘違いするものがある。特になんでも遣り切れず誰かのせいにして生きていると、これは自分ができたのに何かのせいでできなかったと言い訳をしていると自分ひとりではできないということに気づくこともない。

何でもそうだけれど、自分がその自分ひとりでできると勘違いし、自分ができないということを受け容れないと自分ひとりでやろうとしてしまい周囲に迷惑をかけてしまうものだと思う。

周囲に迷惑をかけないとは、自分一人ではできず周囲のお力をお借りしているから自分はできるのだと謙虚になることを言う。

周囲に迷惑をかけっぱなしになるのは、そういう謙虚さがないからであり自分が一人でやっているのだと勘違いしているからである。そういう人は自分ばかりで責任を負い、自分ひとりでやったのだと思いたいだけの自己満足の世界に浸ってしまうものもある。

若さというのは、自分はどこまで通用するのかを試したいし、自分の力をもっと伸ばしできることを増やしたいということもある。しかしある程度まで遣り切れば、どうもこの成果は自分が出したものではないのではないか、これはどうも何か周囲の不思議な力や人々の親切や協力の御蔭だったのではないかと気づくものである。

そうなれば、みなさんの御蔭なのだから自分がやったのではなく自分がやらせていただいたとなり役割というものを周囲と明確に持つことができる。その自覚をしたことを迷惑をかけないということであり、その先に自立と貢献というものがあるのだ。

よくなんでも自分が結果を負うばかりに、自分だけがそれを遣れば何とかなると視野狭窄になる人もいるけれどそれだって会社の経営資源を使われていただき、会社で留守を守る人がいて、会社を今まで助けてくださったお客様や先人たちまたはその周囲には銀行から顧問、国家に至るまで様々な方々のお力添えがあったから今自分がこういうことをさせていただくのだ。

それをまず自覚することがもっとも自然に理に適ってくるのだ。

自分の人生においてまで、自分がこれまで生きてこれたのはまず両親の御蔭、そして周囲の方々のご支援、学校、病院を含めた社会から国家、など当然そのお力をお借りして今は生きている。

そういうことを思わないというのは刷り込みであると私は思う。

まずは、心を周囲に開き周囲のお力添えにすべてを委ねていくことが協力を引き出すことであり自らも協力に参加していくことでそれが自然の共生である。

とにかく自分ひとりでできるという傲慢な考えをその間違いの刷り込みを捨て去らなければ、何をどう協力しようとしてもできはしない。どこかでそれを心で思っていたらやっぱり相手にやってあげたや自分はやっているなどとつまらない概念にさいなまれ人はそれを嫌悪するものである。

本当に偉大なことをしたいと思ったりすれば当然必要なことだし、人は自分だけの力では何もできないということを自覚すること。そしてどんな小さなこともすべては周囲の見守りの中でできているということを知り、自分の役割を果たすことに喜びを感じて繋がりを感じながら生きていくことが人生というもの。

一人でできるという刷り込みを捨て、最初からみんなの御蔭でできているとしそのお力をお借りするためにまずは自分からお手伝いをさせていただこうという謙虚な心でいることが自立したということだと気づくこと。

子ども達には、そういう自分勝手に生きることを大人が教えるのではなくみんなの御蔭で善かったねと声掛けをし一人ではないということ、いつも皆が見守っていることを伝えて安心できる社会を創造していきたい。

まだまだ刷り込みだらけのこの世界、自分のやるべきことは明確にある。