万人共通の理念と智慧

GTサミットが無事に終了することができました。毎年この時期に、全国から集まり理念を共有したり新たな一年の方針を確認することは明日への活力になります。昨日は、来年改定される保育所保育指針についての解説と改定のポイントについて藤森代表より話がありました。

昭和40年に制定された保育指針は、平成20年にこれまでの局長通知から厚生労働大臣による告示になり遵守すべき法令として示されたものです。これは保育園においては何よりも優先されるルールであり、この保育指針に沿って保育をしているかどうかが何よりも重要だとされています。

告示化されたものをどれだけの人たちが真摯に捉えているか、全国の保育現場をみていたらまだまだその重要性を理解していない人たちが多い様に思います。同様に遵守するものとして子どもの権利条約というものがあります。

これは1989年に国連で採択され、1990年国際条約として発効 しました。日本は1994年4月22日に批准し、1994年5月22日に発効されました。しかしこれもどれだけの教育機関や施設が重要性を理解しているかを見ているとあまりこれも理解していない人が多い様に思います。

子どもが自分らしく育つ権利というものは、世界中で認められているものです。そして子どもが自分らしく発達することを保障されていることもまた同じく日本としても国家としても何よりも守っていこうと法にまで昇華されたものです。

しかしその法律を違反するような保育や教育が行われていて、好き勝手に大人の都合で子どもの子どもらしく育つことを邪魔されたのなら子どもの人権というものは蔑ろにされてしまいます。子どもが施設で犠牲になる報道が増えてきましたが、もう一度、この当たり前のルールに沿って保育を実践するということの意味を見直す必要があるように私は思います。

そしてこの子どもの権利を守る組織は、職員の権利を守られる組織であり、組織のリーダーだけではなく保護者、関係者も含めて守られる組織になります。子どもの権利条約は大きくは4つに構成されています。

この4つは、「生きる権利」「守られる権利」「育つ権利」「参加する権利」です。お金や経済ばかりを優先するあまり、当たり前ともいえるこれらの人として安心して暮らしていける権利を奪っていくという組織になってしまうのは、この大前提としての子どもの権利条約や保育所保育指針を遵守しなくなるところからはじまっています。そして保育所保育指針は子ども一人ひとりの発達を見守る保育をするということに尽きます。

何を拠所にして保育を実践するかはそれぞれの施設の方針があるのでしょうが、私たちはその前に世界で共通する理念や、人類が共通する智慧をもっと大切にしていく必要を私は感じます。

今の私たちが生活できているのは、このように世界が人間の生き方を大切にし、人類が先人からの智慧を大切に守ってきたからです。それを言語化しているものが、これらの子どもの権利条約や保育所保育指針であるのを忘れてはならないと私は思います。それが何のために行うのかの源泉であり、まさに万人共通の理念と智慧の結晶だからです。

引き続き、私たちもミマモリングを展開する事業者として保育所保育指針の重要性やその真価をしっかりと現場に伝えていきたいと思います。

人類の進化~赤ちゃん~

昨日、東京でGTサミットが開催されました。講師の先生から赤ちゃんの「見る」と「聴く」についての講演がありました。改めて赤ちゃんはどのように見えているのか、聴こえているのかを思うと、私たちが今の時代の社會に適応する前の原始の状態が観えてきます。動物たちと同じように産まれてすぐの存在が如何に全知全能でその後、次第に必要な能力だけを残して他を削っていくという最適化のシステムを持っているのには納得することばかりです。

本来、人間は周りの環境の中で自分自身をどのように役立てていこうか選択していきます。組織や所属、環境が変わればその人もその場所で変化していくものです。頑固に自分を変えない人もいますが、その場合はその頑固が辿りつく先に役に立ちたいものがあるのかもしれません。

しかし実際は、周りを見て環境に適応していくというのが生き物の姿です。動物たちや畑の植物たちも、周りの環境の中で適応していきます。その適応は例えば、長い時間をかけて鳥が飛ばなくなることもあり、地上の生き物が水中に入っていくものもあります。

これは決して数年から数十年で行われることではなく、数百年数千年をかけて行われていきます。これを私は「進化」と呼びます。進化というのは、環境に適応しつつ自分の方が環境にあわせて変化していくことです。

ヤゴがトンボになるように、地中の幼虫がカブトムシになるように進化の過程で生き物は変化していきます。現在の人間が機械を用いておこなっているのは進化ではありません。赤ちゃんをみているとその進化の原点が確認できます。

自分から進化をするというのは、古来からの生き方を伝承しつつ今に温故知新していくことです。進化をやめるのは、自分は変わらずに環境の方を変えていけばいいという人間の傲慢さのようにも思います。如何に便利な技術で、環境をコントロールした気になったとしても、本格的な自然災害に耐えうる持続可能なものは現段階では生まれていません。

人類は改めて、進化とは何か、赤ちゃんから学び直す必要性を感じています。子どもを人類のお手本にして原点回帰する時代も近づいてきているように思います。引き続き、子ども達のためにも環境について深めていきたいと思います。

水の循環

地球は水の惑星と呼ばれています。かつては「水球」と呼んだ人もいます。この地球は常に水で満たされており、水が循環することで全ての生命が生活することができています。どんなに乾燥した場所であれ、必ず水分があります。

私たち人間も体重の半分以上が水分で出来ています。身体の中の水分の働きによって私たちはあらゆる生活が助けられています。食べ物の消化から、毒素輩出、発汗による温度の維持、血液等々、水分がなければ生きてはいけません。

私達は直接的に水分を飲むことで摂取していますが、空気中の水分を呼吸を通して摂取もしています。つまりは四六時中私たちは水分を摂取しているのですから、言い換えるのなら海のイルカや魚たちとなんら変わりはありません。

私達の水はどうなっているか。

水は透き通った透明な水が有機物を介して濁り、また澄まされて透明な水に帰る過程を通っています。言い換えればそこにはその有機物を食料とする微生物の発酵と腐敗により水は澄み渡っていくということです。この発酵も腐敗も水が純化していくプロセスのことを言うだけで結局は、循環の中で生きている生き物たちがどのような純化(生き方)を選ぶかでそのプロセスが変化していき水から水へと浄化を続けていくということです。

ある生き物は、発酵というプロセスを歩みます。それは人体に有用な微生物を活動させそのことで水を綺麗にしていきます。そしてある生き物は、腐敗というプロセスを歩みヘドロのような水を綺麗にしていきます。そう考えてみると、私たちの存在はミニマムにおいては細胞や微生物そのものでありその微生物が行っているのは水の浄化に他なりません。自分の身体を通して水があらゆる変化を行い循環を続けていくということが、地球のシステムです。

そして水はあらゆるものを「透過」します。

この「透過」こそが水の徳であり、水は流れて已むことがないから循環を続けます。その水の循環の中にあってどんな生き方(浄化)をするかはその人の巡りと役割次第です。引き続き、水から学び直してみたいと思います。

古いということ

昨日は、聴福庵の板戸や柱の数か所をベンガラ塗りし乾燥させたあとミョウバンで仕上げを行いました。深くて温かみがあり重厚な暗い紅色は、なんど見直しても見飽きることがありません。かつては縄文以前より土器などにも使われてきたこの紅色の魅力、有史以来から大事に使われて来た染めの色に不思議と心が馴染んできます。

このベンガラは土中の鉄が酸化した『酸化第二鉄』を主成分とする顔料でのことです。このベンガラの名前の由来はインドのベンガル地方で良質のものが取られたことからベンガラニッチという地名が色名になったというのが有力な説です。日本では漢字を当てて紅柄、紅殻と書かれることもあります。

私はこの色のことを「古色」と呼んでいます。つまりは染めにも色々とありますが私たちがかつてから安心して使ってきた色には確かな意味があり、古代の先祖たちが使ったものには自然美の妙があります。草木染めなども、あの浅く澄んだ柔かい色をみていたら心が涼やかになっていきます。色は常に心の機微や感情と密接につながっており、私たちは魂の深いところで色を感じているものかもしれません。

例えば、古木なども独特な色合いを醸し出します。そのものの色に包まれているだけでどこか落ち着く思いがあります。他にも古い伝統的な工法で造られた手作りのものなども傍に置いてあるだけで和んできます。

私達が「古い」と思っているものは、その古さの中に確かな理由があるのです。今の形になっている理由は、長い年月を経て時代の篩にかけられてやはりこの形がもっとも理想だったと試行錯誤の歴史の上に存在している形なのです。

古代の色や古代のもので今の時代にまで受け継がれたものというのは、新しいものにはない原色や原点が息づいているように私は思います。

そういう原色や原点を感じることは、何がもっとも自然であるか、何がもっともシンプルであるかを本能的に直感し、感性を磨くことにも欠かせないものです。

身近の家の中に、日本の伝統の精神が宿っているというのは私たちが常に原点としているのは何かを感じさせる絶妙の先祖代々からの伝承の仕掛けなのでしょう。

引き続き日本文化を学び直しながら、日本人としての感性を磨き直して子ども達に原風景を譲っていきたいと思います。

和紙の文化

昨日は行灯の和紙の張り替えを行いました。紙・裂・糊を使って繊細な木に和紙を張り付けていくのですが慣れない作業でとても集中力を使いました。昔の人たちはこれらのことを身近でいつもやっていたと思うと、丁寧な仕事の大切さを道具から学び直していたのかもしれません。

和紙を使うことは、採光のゆらぎがあり火を灯せば安らぎのあかりになります。プラスチックやガラスにはない、和紙を通った光は部屋全体を癒し夜の闇をより鮮明に映し出します。また西洋のように上から吊った電灯を照らすのではなく、下に置いた行灯を灯すと空間が活き活きと甦ります。日本家屋の贅沢さと豊かさは、この下から全体を包むように照らしたあかりが漆喰などの土壁をはじめ自然の木材や障子、襖の和紙、そして床の間などの奥行のある多重層の空間に御蔭(光と影の調和)をつくりだします。

日本の家屋の伝統美が豊かで美しいのは、先祖から今にいたるまで長い年月日本文化を育て上げて今のカタチにまで美を昇華してきた精神が宿っています。日本家屋の中で夜の闇の美しさに魅了されると、夜が来るのが待ち遠しく仕合わせで堪りません。聴福庵の魅力はこの夜の闇の中の穏かな火が、一期一会の日常の内省に最高の演出を与えてくれます。

話を行灯の和紙に戻せば、和紙はこの日本の夏の高温多湿、冬の乾燥にあわせて伸縮自在に水分を調節して安定する働きを持っています。ログハウスに住んでみて分かったのですが、一年で多湿と乾燥を極端に繰り返す日本の風土では木だと常に膨張縮小を繰り返します。玄関の扉などは、夏と冬で隙間ができたり、場合によっては閉まらなくなるので扉を付け替えたりと面倒なことが発生します。

しかしこの和紙を使えば障子や襖などもそうですが、まったく多湿乾燥の影響なく自然に順応しています。この和紙というものは、日本建築には切っても切れない関係です。

今はあまり見かけなくなりましたがかつては表具師という方々がいて床の間の掛軸をはじめあらゆる和紙を用いた伝統文化を発展させ日本文化として歴史を紡いでくれていました。日本人にとってこの和紙は欠かせない風土の智慧の結晶であり、西洋の単なるペーパーではなく日本人の精神が宿っている和紙なのです。

100年以上前の行灯の和紙の修繕をしながらかつての生活文化に思いを馳せているととても豊かな自然に恵まれた日本風土の美しさを感じます。

引き続き子ども達に日本の文化を繋いでいくためにも、古民家と対話しながら日本文化の砥石に心技体を磨いてみたいと思います。

旬の実践

自然には「旬」というものがあります。これは季節の廻りによってタイミングというものがあるということです。このタイミングを逃すと旬は離れていきます。今の時代はこの季節や旬を気にせずに好き勝手にやりますが実はこれはとても理に適っている古来からの大切な知恵なのです。

今回はこの「旬」というものを深めてみたいと思います。

この旬というのはよく食材で使われます。季節の中でもっとも美味しい時期を指し、この時期のものを食べれば身体にもいいし味も美味しいということです。つまり四季を通してもっとも最も生育条件が揃った環境で育てられ、最も成熟している時期であるのが旬であるということです。

この時の旬というのは「自然の恩恵」をもっとも受けている時期とも言えます。この自然の恩恵に感謝して、その感謝がカタチになったのが旬の定義でもあります。またこの旬には食材に限らないのも旬です。最後の宮大工と言われる西岡常一さんにこういう言葉が遺っています。

「仕事の割り振りでも、季節を考えなきゃなりませんな。働く人は農家の人が主です。だから仕事をするのでも農閑期に使えるように段取りしたものです。今はそれがありませんな。旬がなくなったんです。旬は食べものだけじゃないんでっせ。仕事を進めていく上でも自然の運行と深い関連がありますのや。」

仕事も同じく、環境が整い、環境に恵まれているときは何をやっても上手く事が流れていきます。反対にタイミングがズレてしまうと後の祭りになってしまうことが多々あります。なんでも直観的に行動する人は、このタイミングを逃すことがありません。タイミングを逃さずに行えば自然の流れに従って力をお借りすることができます。

例えば農家などは全部この自然の運行の力を使います。雨季の前に種を蒔けば、水を撒かなくても自然が水を与えてくれます。また雑草も待っていれば秋風が吹いて自然に枯らせてくれます。自分のチカラだけではなく、自然の他力を存分にお借りしてその仕事を成し遂げるのです。

今の時代は、自分の思い通りに動かすことが仕事だと勘違いする人たちが増えこの「自然の運行」や「季節の廻り」というものを無視して自分の都合だけでスケジュールを動かそうとさえします。

しかし何でも物事には「タイミング」があり「旬」がありますから、そのリズムを大切に守りながらそのリズムによって自分を運び動かしていかなければ仕事もまとまるものも全部流れていってしまいます。大事なのは自分の都合か相手の都合かではなく、「流れ」を読むことであり、全体でいま何が動き、何を行うことがもっとも全体の流れを邪魔しないのかと自分から進んでその流れに乗っていくことが必要です。

これもまた旬であるということです。

この旬を逃すとどうなるかは食材でも同じく、熟しすぎて腐ってしまったり早すぎて食べれなかったりします。タイミングを見続けるには自分を優先しすぎてはならないように思います。そして自分を度外視して相手のために真心を盡したり、思いやりから苦労を厭わずに行動していかなければなりません。それが自然そのものに繋がっているからです。

タイミングを逃さないというのは、いつも御蔭様に感謝して御蔭様を見続けている実践、つまりはそこには自分以外の物事がいつも自分を陰ながら助けてくださっているという謙虚に信じ続けているからタイミングに恵まれるのです。

運が善い人というのは、自然の運行に沿っている人ということです。

引き続き、自分の直観を信じて謙虚に学び直していきたいと思います。

自然に直す

昨日は、高菜漬けの漬け直しの手入れを行いました。毎年、秋の出荷に合わせて漬け直しを行っていますが塩加減で発酵しているものですから自分の都合で勝手にスケジュールを変えることはできません。

自然というサイクルというものは、相手に合わせて自分の方の動きを変えていくしかありませんから自分都合でスケジュールを動かしていたら相手は枯れてしまったり腐敗してしまうものです。

常に相手に寄り添い、自然に沿った中で自分の方が見守り続けていくことこそが自然と一体に謙虚に生きていくことのように思います。またその見守りの中で、今、相手がどのような状態なのか、今、どのようになっているのかは気にし合って意識しあって、心を離さず信じ合っている中で距離感が掴めてきます。

毎年同じように作っていても、同じようにできることは一度もなく、少しでも油断すると全部だめにしてしまうこともあります。酒造りや漬物作りは、今では化学薬品や化学調味料で同じように工場で温度なども一定管理して必ずできるものだと思っている人もいますが、自然に作るものが如何に難しいかはやっている人しかわかりません。

そういう意味で、自然に沿ってものづくりをする人たちの生き方、謙虚さにはいつも尊敬の念がこみ上げてきます。

これは作物だけではなく、ものづくりだけではなく、人間関係でも同じことのように思います。自分の都合でスケジュール通りにいったからと、それで人間関係が深くなったのではありません。やはり相手に寄り添い、手入れをし見守り合っていく中で関係が磨かれ育まれていきます。

人は思い通りにしたいという願望から、思い通りではないことを悪とさえ思う人がいます。しかし実際は、不自然だから思った通りにならないだけでそもそも自然が何かと常に正対し内省して自分の方を自然を砥石にして切磋琢磨するのなら思い通りなどというものがないことに気づきます。

そして思った以上のことをいつもしてくださっているという御蔭様の感謝に気づけるのです。今回の漬物であっても、私が不在の間、発酵場の生き物たちや菌類たち、そしてそこの家としてある木樽、そして炭、また漬物石や周囲の木蔭や木々、土にいたるまですべて御互いに活かし合い助け合い補い合いながら共生していました。

そういう場の中で私が作ろうとする高菜も見守られ、安心して出来上がっていきます。この場というもののは、ちゃんとその場を形成する仲間たちの存在が欠かせません。

手間暇をかけて自然に近づいていくことは、自分自身の不自然を直し、生き方を治すことです。引き続き初心を忘れず、何のために実践するのかを大切に取り組んでいきたいと思います。

弱さの本質

人は他人に迷惑をかけてはならないと教育を受けて何でも自分で一人でできる人になるようにと教えられてきているものです。しかし実際に齢を経て実感するのは一人できるものなど存在しないと実感するものです。

今の自分が存在するというのは、ご先祖様のお蔭であり両親が産んでくれたからあります。そして自分一人が育つために膨大な数の方々の見守りが入っています。自分のことばかりを考えて人は生きていますが、その周囲の御蔭さまに目を向けてみると有り難い感謝の中にあって自分が育ってきたのが分かるのです。

「助けてもらわなければ生きていけない存在」、和たちたちは赤ちゃんの頃からそうやって周りに感謝し謙虚にお蔭様の存在と共に生きていくように遺伝子にインプットされてきました。しかしそれをその後の教育によって自分一人の力で生きていくようにと教え込めば、勘違いをしてお金があれば生きていけるや、能力が高ければ生きていける、体力さえあれば生きていけるなどということを思う人もいます。

しかし実際には自然の中にある空気をはじめ太陽や水、そして私たちの食べ物から衣服住まい、すべてのものは他の誰かの存在によって与えてもらい助けていただいているのです。だから迷惑をかけているのは御互い様なのです。そのことから御互いに感謝の心を籠めて「ありがとう」と言います。

世の中では何かをしてもらって「すみません」という言葉もありますが、それを迷惑ばかりかけてすみませんという意味ですがこれを謝罪で使う人もいます。しかし本来のすみませんは、「ここまでこんな私にしてくださって心がざわついて澄みません」という感謝の意味で使われるのです。

常に御互いに助け合い支え合い迷惑をかけあっているからこそその有難さを感じて人は「繋がる」ことができるように思います。一人で生きていく中で自ら繋がりを切っていく人と、皆で生きていくために繋がりを強くしていく人がいます。

先日からの弱さを絆にの「弱さ」の本質は、謙虚であること感謝していること、分を弁えていること、つまりは助けていただいていることを自ら認め周りに感謝していることでその絆を力にしていくのでしょう。

一人で無理をして頑張ってできるようになることが自立ではなく、御互いに支え合って助け合って共に貢献しあう仲間ができることが本当の自立です。歪んだ教育によって、人類の大切な教えを間違えてしまうようなことをしないようにいたいと思います。

助け合うことで強くなっていく絆を大切にし、見守り合う仲間を子ども達に譲っていけるように刷り込みを実践で乗り越えて善きものへと転じていきたいと思います。

 

自分自信

人は自分をさらけ出せないとかっこつけてばかりで本当の自分を隠そうとするものです。先日のべてるの家でも「健常者はすぐにかっこつけるけれどかっこつけている間は治らない」と言っていましたがその通りだと思います。

なぜ治らないのかは、自分をさらけ出さないからアドバイスを正しく受けることできず他人の親切を素直に受け取ることが出来ません。そうやっていつまでも悪循環に陥り一人になると分かってもらえないことばかりに愚痴を言っては最後まで一人ぼっちになってしまいます。

自分の素直に思っていることをさらけ出せるというのは、周りに迷惑をかけていることを受け容れることであり、周りによって助けてもらわなければ生きていけない自分を認めることです。そうすることで周りが自分が思っている以上に自分のような存在に対して本当に善くしてくださっていると実感できるからです。

人は自分一人で生きていこうとして頑張り自分を責めては周りに迷惑をかけない人に成ろうとするものです。しかしどんな人も迷惑をかけていない人などは存在しません。生きていくというのは、身近に居る人たちをはじめその範囲を広げて社會や世界、地球にまで自分の存在が迷惑をかけているのです。そんな迷惑をかけている存在だから要らないのではなく、みんな迷惑をかけあって生きているのだから御互いに貢献し合って共生していこうとするのが自立なのです。

歪んだ自立心を持ったままに刷り込まれ心を閉ざしていると大切な仲間を傷つけ、そして一緒に生きようとする人にまで失礼な態度をとってしまいます。あなたのことを大事に思っている人を自ら遠ざけては自分が苦しんでいる姿を見せても周りは苦しみが増えるだけで仕合わせにはなりません。

人間が仕合わせになるというのは、御互いに本音で付き合う仲間ができることです。それは自らが勇気を出して本当の自分、心をオープンにして素直に正直にあるがままの自分をさらけ出すことです。

周りは自分が思っているほどひどいことはしませんし、自分と御縁があった方々はいつもあなたを見守っている存在だと気づけるのです。引き籠っていて自他をいつまでも交互に責めてばかりいても一緒に歩んでくれる人は現れませんし絆も深まりません。

弱さをさらけ出せるというのは、一人で生きている、一人で生きてきたという勘違いを捨てることのように思います。困った時はすぐに誰かに頼める自分、自分の気持ちを正直に伝えて自分自身のままでいる自分、無理をせずあるがままの自分でいることで周りも安心し心を通じ合わせることができるように思います。

今はそうやって無理したことから無意識に誰にも本音を殺して自分を我慢して生きている人がたくさんいるように思います。相談を受けているとその人自身が自分でも本当の自分がわからないくらいに本当の自分のことがまったく分からなくなっています。そういう自分を取り戻すことができなければ自分を自分で支えることもできず、本当の自信を持つこともできません。長い時間そのような生き方をしてきたのなら、本当の自分を取り戻すためにその「生き方」を取り戻す必要があります。自分らしくいられるということ、自分らしい生き方はその中に存在するからです。

そして自信というのは「自分自信」になることですから、まずはその最初の生き方を換える段階として自分から自分をさらけ出す実践を行うことだと思います。私たちも子ども達に心を開く聴福人であり続けるためにも新たな実践を追加し、共生と貢献によって自立を育む社會を弘げていきたいと思います。

小欲と大欲~理念の商売~

先日、べてるの家では自分たちの体験した病気がそのまま商売のカタチになっていました。同じように私の会社で行われている聴福という実践もまた自分の体験から産み出されたものです。

私は以前から思い込みが強く、理想の自分像というものに近づけるために他人の話をまったく聴かない人間でした。自分のこうありたいを頑固に他人に押し付けては、自分の理想を守るという勘違いをずっと行っていました。

今ではその理想を守ることが私利私欲で小欲そのものの自己満足であったことを自覚し、そのことから自分の他に理想を出す「理念」というものを持つ大切さを商売にしました。理念は大欲であり無欲ですから、小さな我慾を守るのではなく大きな理念を守ることで自分の思い込みを取り払い、周りへの思いやりや優しさを忘れないように自戒を籠めて理念を優先する実践を行ったのです。小さな欲は視野を狭くし大きな欲は理念に回帰しますから理念を常に優先することを大事にして視野を広くしたのです。

そして聴福というものも、自意識過剰で自分を気にするあまり心の余裕を失い他人の話をまったく受け容れなくなることで自分から仲間を断絶し周囲へ不信や疑念をまき散らし大切な人たちへの感謝を忘れてしまうため「聴く実践をする」ことを商売にしたのです。

他にも、自意識の感情に呑まれて何でも自分でできるようになることを優先し一人ぼっちになってしまい孤独が独善になってしまったことを悔い、コーポラティブアクティビティやその他の刷り込みを取り払う実践を商売にました。それに受信するばかりで発信を怠ることで一人で勝手に正解思考に陥らないように風通しをよくするために「ミッションページ」や「一円対話」などの周りと繋がり続けて自分勝手に自己満足に陥らないように商売にしているとも言えます。

自分の体験したことが誰かの役に立っている状態というのは、まさに自他一体であり、それは大欲であり無欲であり理念を実践していることと同じことです。自分が体験することがお役に立てる仕合せは、我慾を超越して理念を実践できる仕合せです。言い換えるのならもっとも理想の自分でいられているという証明なのです。

自分というもののこうありたいが単なる我慾であることに気づくのは、理念を理解するかどうかによります。理念が理解できないでいると全部のことを慾に換えてしまいます。人間が苦しむのも、自分自身との正直で素直な自分を取り戻せないからとも言えます。

弱さを受け容れることや弱さを発信することは、自分自身で歪んでしまっている自己認識を受け容れる行為のように思います。自分が間違っているかもしれないといつも周りに心を開き素直に聴くことは福に転じます。そしてきっと何か理由があるのかもしれないと相手に素直に意見を求め聴くこともまた福になります。

聴くことこそが福になった自分の人生の体験が、「聴福人」という現在です。素直に謙虚になれる人は感謝を忘れない人です。自戒としてまだまだ商売になっていない実践もありますが、それもまたいつかは乗り越えたとき商売になるかもしれません。

理念経営を行うということは、自我欲と理念の異なりを自覚しているかどうかは何よりも大切であろうと私は思います。

引き続き、自分の体験を全て丸ごと自然に誰かの役にたっているような万能薬になれるように自己と正対し理念に昇華する実践を積み重ねていきたいと思います。