伝承の真理

伝承というものは不思議なもので、言葉や文字では伝わらないものもあります。それは感覚として場を通して伝承するものであったり、何か自分の胎内に宿っているものが何かに目覚めるように伝承するものがあります。他にも、音による伝承であったり臭いなどの五感に感応して伝承することもあります。そのどれもが、一期一会であり誰から誰へかというものも奇跡的な確率で巡りあいます。

つまりこれらを深めていくと、伝承は全てご縁によって導かれているということです。だからこそ、伝承者という人たちもまた一期一会の存在です。

伝承者というのはその一生の人生において、ただ一心に伝承を生きていきます。見返りもなく報酬もほとんどありません。しかし、伝承しているという感覚だけは持っているように思います。その人生をやり遂げ、途中で道が絶えたように見えたとしても実際にはきちんと次の伝承者にバトンが繋がっていきます。この絶妙なバトンは、まるで糸が網羅しているように途切れることがありません。

つまり伝承というのは、網羅の中で行われている結びの系譜であり誰かが動けばその動いた網羅がたなびくように他の伝承者に電気信号のようなものが伝導していきます。

波動や音というものも同様に、音は消えているようで消えず網羅した糸を辿っては別のところに伝わっていきます。

この世には目には観えないものがあります。そしてまだ科学では証明できないものがたくさんあります。それは伝統や伝承に関わっているといつも実感するものです。

時代がどうであろうが、普遍的に伝承されてきた真理は変わることはなく伝道が永続しています。出会いを忘れず、ご縁に導かれ、一期一会の伝承に感謝して徳を磨いていきたいと思います。

伝統文化

昨日は、今年最初の聴福庵でのおもてなしの一日になりました。古民家は経年変化がとても豊かですが同時にお手入れする機会も増えていきます。修繕をすることで益々善くなっていくのですが、その分、修繕の工夫も産まれます。

そもそも改善するという意識は、目的を忘れないための大切な伝統です。伝統ということはそれだけ生き方を磨いてきた先人たちの遺徳を感じる機会になります。

例えば、汲んできた井戸水を鉄鍋で時間をかけてじっくりと炭火を入れていきます。御出汁は、お野菜や昆布などで丁寧に引き出します。心を離さず、素材やいのちが活かされるように手を入れます。和食というものは、道具たちを観てもすぐにわかるように全てのいのちを調和させていくプロセスのことです。まさにこれも伝統であり、生き方です。

私たちの伝統文化というものは、全て先人たちが大切にしてきた生き方のことです。伝統文化が消えていくというのは、生き方が消えていくということでもあります。

この生き方というのは、人生の目的のことです。

何のために生きるのか、それを真摯に向き合っていくその人の道のことです。それがずっと長い間、人の間で継承され磨き上げられていきます。それを徳ともいいます。この徳が積み重なっていくことは、生き方が積み重なっていくことでもあります。

私たちはそれを職業としての仕事でしなくても、日々の暮らしの中で実現していけます。日本人の本来の暮らし方は、生き方であったともいえます。

時代が変わっても、大切な生き方は変わらないで子孫たちに道を伝承していきたいと願います。伝統文化の真価を、日々の暮らしの実践でこれからも伝道していきたいと思います。

先住民族の智慧

スリランカで人類最古の先住民族ワニアレットにご縁を得てから、改めて日本の先住民のことも深めてみることにしました。日本にもかつてはサンカやアイヌという先住民族が暮らしていました。狩猟採集生活をし、古代よりずっと山や森に棲んでいたといいます。

そもそも今、私たちの認識している歴史というものは勝者の歴史であり大多数の人たちが教科書及び、国家の指導によって編纂された認知した偏ったものです。歴史というのはまさに多様性であり、本来はそれぞれの種類の人たちから丸ごと聴いて確認することで全体の真の歴史観が磨かれて顕現してくるものです。

多様な民族の神話にはじまりそれぞれの暮らしの中の口頭による口伝、及び実践伝承されてきたものの集合知、集大成こそがこの地球や国土の真の生きているままの歴史ともいえます。

現在のスリランカで先住民族たちの歴史や暮らしが国家により奪われていく姿を目の当たりにして、私たちの国は本来はどうであったのかということを今一度見つめ直してみたいと感じました。

よく考えてみると、山岳修験というものや山岳信仰というものは自然と共生するなかで得た智慧が結集したものです。先住民たちは、薬草をはじめ様々な治療技術を持ち、また狩猟採集によって自然の掟や伝統を守ってきました。さらにはすべての生き物たちと調和し、いのちの循環を促してきた存在です。これは古代のむかしからずっと永続してきた人類のありのままの姿です。人間らしさの徳というものもまた、こういう環境と歴史によって磨かれてきたものであったはずです。

そう考えてみると私がお山の暮らしに惹かれるのは、どこかルーツや根源に惹かれているからかもしれません。本来、私たちの先祖は何処からきたのか。今回のスリランカでのご縁で、何か自分の深いところに眠ったままにいるものが呼び覚まされてきています。

それはかつての先住民族たちの智慧と暮らしの覚醒です。

今の時代だからこそ、先住民族たちの徳に触れ、その徳に救われる時ではないかと思うのです。子孫たちの仕合せで豊かな未来のためにも、これからじっくりとヒコサン・ヤマトとマヒヤンガナ・スリランカを起点にして深めていこうと思います。

5年

来月の2月4日に妙見神社(ブロックチェーン神社)の例大祭と徳積財団5周年記念行事を開催します。有難いことに年々、素晴らしい方々との新たなご縁が増えて徳が循環してきました。

思い返せば、何もないところからすべてははじまりました。あったのは志とご縁だけです。そこに同志が現れご縁が結ばれ導かれて歩んできました。私は特別な資格をもった神職でもなく、職業として神社の運営に取り組んではいません。ただ、一心に神様に恥じないように場を磨いていこう、場を調えていこう、場を清めていこうと日々に祈りを捧げて法螺貝で波動を放ちます。消えていく音を聴きながら、消えない音が世界に響き渡るのを心静かに祈ります。

この5年で不思議なご縁に恵まれ、本当に多くの徳ある方々が参拝してくださいました。そして例大祭だけでなく、行事があるごとに神様にお仕えする巫女さんや演者のみなさまが神楽奉納をしてくださいました。また大切に育てたお野菜や果物、手作りのお菓子や御餅なども奉納してくださいました。その一つ一つを忘れません。

信仰というものは、生き方です。

それぞれが信じた生き方をみんなで織り込み一つの偉大な反物を縫い合わせていきます。光の道のなかをみんなで一緒にこの時代も歩んでいくことが仕合せそのものです。妙見の恩徳に見守られた5年間でした。

また同時に徳積財団を発足しどうやったらお金や便利さ、人間性を失わない世の中にできるかを真摯に向き合ってきた5年間でした。ここでも同じ問題意識を抱え挑戦する仲間に多く巡り会いました。みんなそれぞれの場所で、生き方と働き方を見つめ道を切り拓く挑戦をしています。

私も人類の起源まで遡り、人類とは何か、そして真の人間性とは何かを徳を見つめながら探してきました。スリランカで仏陀の足跡をたどり、最古の先住民族の姿に触れて、伝統的な暮らしの意味を学び直しました。

論語の徳は孤ならず必ず隣有の意味も、一つ前に進みまったく別の意識を得ました。布施や托鉢はそれそのもので一体であるということです。

もう5年、でもまだ5年。

この一歩一歩歩んでいくなかにこそ、徳の道は存在します。

子孫のためにも、人類のためにも、今こそ徳を積む真の意味を伝承していきたいと思います。継続できたこと、ここまでこれたこと、たくさんの見守りとご支援に心から感謝しています。

また例大祭と5周年記念でお会いできるのを心から楽しみにしています。

暮らしの記憶を甦生する

自然界には戦争というものはありません。食べ食べられる存在ではありますが戦争をしているわけではありません。必要以上のものは食べず、生きていくためにお互いに循環の世の中で分け合い暮らします。人間は人間性を失ってから戦争をはじめました。その戦争のはじまりは便利なことを知ったことからはじまります。この世で便利さに気づいた人間が、人間性を失い最後には人間ではなくなっていったのです。

では人間ではないものというものは何か、それは人間ではない何かということになります。不思議なことですが、私たちの認知できないことがこの世にはたくさんあります。空気のように最初からあったものに人間が気づかないように、人間がすべてに気づくことはありません。

しかし、心のどこかで違和感というものを感じるものです。この違和感の正体が空気に気づくための方法かもしれません。

数千年を生きてきた先住民族たちは、自然と共生する術を持っています。自然に寄り添い、自然から守られて生き続けてきました。私達よりもずっと長く存在する自然は、私たちいのちの先生でもあります。

その先生の教えを素直に学び、自然の中にある人間としての徳を磨いていくことで私たちは自然の偉大な仕組みと同化してきました。それは当たり前にあったものです。そこから何かが追加され、現代のようになってきたのです。

伝統文化というものは、法律でもルールでもありません。それは今まで自然界と共に生きてきた人々が持つ暮らしの記憶です。この暮らしの記憶の中には、私たちの人間性が宿っています。

現代においても、私たちがその暮らしの記憶を大切にして歩んでいくのなら人間性は磨かれ徳が積めます。

今、私が取り組んでいることはこの暮らしの記憶を甦生することです。

子孫たちや先人たちに恥ずかしくないように、今を大切に結んでいきたいと思います。

真に豊かな人の道

人間らしさや人間性というものを深めていると色々と気づくことがあります。一般的な定義では、道徳性や思いやりなどを指すようですがでは人間らしくないというものや人間性が低いというものがどういうことか。

例えば、人間らしくないというものは元々持っている人間の要素がないことをいいます。ロボットのように便利なものであったり心がなかったり、何も感じないものです。人間性が低いというのは、道徳的な行動がない人をいいます。自分をコントロールすることができずに荒んでいるなどです。しかし同時に人間臭いという言葉もあるように、コントロールできないけれどそれを何とかコントロールしていこうとする姿を人間として共感するというものもあります。

結局、人間とは何かという問いは当たり前の真理であるにも関わらず四六時中に常に意識することはありません。

私が思う人間性とは、心や感覚を研ぎ澄ませて自然と寄り添い全体を活かす存在です。精霊のような自然界のいのちを調え、静かに穏やかに自らの聖性を全うする。さらに細かく言えば、物た心を大切にし、感謝を忘れずに真心を生きる。丁寧に暮らし、いのりを生き、ご縁に従い最善を盡す。天地自然と同化し、徳を積み、循環の結びを澱まないように歩んでいくというものです。

人は人間性を失うとき、自然から離れます。自然というのは常に人間性と共にあります。私たちが自然に寄り添うとき、人間性は発揮されます。非常に残念なことに、自然に敵対し自然を排除し人間は人間性を失い続けています。

今一度、人間性を取り戻すにはどうすればいいか。

そこには先人たちが生きてきたような暮らしから学び直すことしかありません。便利な道具や欲望を満たす道具が増えていけばいくほどに、私たちの人間性は失われ続けます。

自然から離れることで好き勝手できてきましたが、そのことから人間性を失わってしまえば本末転倒です。いにしえの原初の原点に帰り、人間は人間をやり直すことからこの世を甦生させていくしかありません。

子どもたちに何を残していきたいか、それは真に豊かな人の道ではないかと私は思いますが皆さんはどう思いますか?

丁寧に一つ一つ意識を変えて、道を拓いていきたいと思います。

人間らしさと人間性

スリランカから帰国して少しずつ道中の振り返りをしています。頭で理解するよりも体験から気づいた量が多いとそれを消化吸収していくのに時間がかかります。身体で得た感覚は、思想だけでなく価値観も変化させていきます。自分の変化が気づきそのものですから、何が変化したのかを振り返ると何に気づいたのかがはっきりするのです。

そもそも今回の旅は、ルーツを辿る旅でした。原初の仏陀をはじめ、神話からの人類の伝承を確認するためのものでした。その理由は、原点回帰をするためであったことと、温故知新してあらゆる複雑なものをシンプルにして甦生させていくためです。

徳積の起源であったり、暮らしの根源であったり、普遍的な大道の再確認であったり、そして新たな遊行の一歩を踏み出すことであったりと理由は様々でしたがそのどれもが存在している懐かしい旅でした。

原初の存在とは何か、それは人間らしさです。別の言い方だと人間性ともいいます。もっと言えば、人間とは何かということです。

今の人類は、人間らしさを失っているように思います。人間性というものもまた意識することはありません。しかし、今こそ私たちは徳に回帰し人間性を回復させる大切な時節を迎える必要があるのではないかと私は思います。

ワニアレットの長老をはじめ、スリランカでは人間性の美しい風景をたくさん見ることができました。そこには確かな人間らしい暮らしがあり、そして人間らしい生き方がありました。

お金やビジネス、富の独占や情報化、便利化など人間性を失うリスクに直面してももはやそんなことをどうでもいいかのように日常に多忙に流されていきます。私は決して文明の発明は悪だとは思っていません。しかしそのことにより人間らしさや人間性を喪失することは、真の豊かさや仕合せを手放す結果につながっているようにも感じるのです。

人間はこの地球に生きることを許され、自然と共に寄り添いながら一緒に天寿を全うする仕合せをいただいている存在です。この奇跡はなにものにも代えがたく、人間であることが最幸の歓びです。

人間が人間らしくあるとは一体どういうことか。それは人間が人間性を失わずに生きているということです。人間が人間性を失えば、それは生きた屍であり、希望をうしなった人形のようなものになります。人間らしさや人間性は、私たちがこの世に「生きている」という証明であり実感です。

生きている実感は、日々の暮らしや徳を積む中に存在します。だからこそ、私たちは文明とのバランスを真摯に保ち、人間らしさや人間性を失わないような生き方をこの時代でも実践していくことが平和や共生や自然との循環を保つ最大で最高の唯一の方法になるのでしょう。

私たちが今生きているように子どもたちも未来を生きます。その子どもたちがいつまでもこの世の幸福を謳歌できるように、今の私たちがどのような生き方を実践していくのかは方向性を決める最も大切な真理です。

人間らしさ、人間性をどう磨いていくか、それは私たちが決めます。

これから引き続き暮らしフルネスを通して真心の丁寧な暮らしを積み重ね、徳が循環するような布施と托鉢の遊行をさらに巡礼していきます。

一期一会の仏縁と地縁に感謝して、私の天寿を全うしていきたいと思います。

場に馴染む

身体というのはその場所と同化していくものです。それだけ場の影響というのは身体に大きな変化をもたらします。例えば、昨日までスリランカにいましたが気候や風土に身体が馴染みその土地の空気感と感覚と一体になります。感じる音や味、そして光や臭いまでその土地そのものの感覚になっていきます。途中で中国にも立ち寄りましたが、以前その土地に長く住んでいたからかすぐにその土地の場に馴染みます。帰国して一晩、実家で休めばまたこの場所の空気感に馴染みます。つまり、私たちは場に馴染むことでその場所の感覚に変わっているということです。

身の回りにあるものもその場所に馴染みます。どんなものでも馴染みます。それはその場所そのものと同化するというものです。これはいったい何を意味しているのか。それは場が生きているからです。この場が生きているというのは、その場が発酵し続けているということです。これは漬物の馴染むものにも似ています。漬物は漬ければ漬かっていきます。同様に、万物も場に漬かっていくのです。だからこそ人は、どの場に漬かっているかがとても大切になります。

また馴染むことで、自然にその場で得た感覚を獲得します。つまり身体と体感で得た感覚は、まるで一度覚えて馴染んだ言語を思い出し使えるように自然に馴染んだ場が身に漬かっているのです。

そして馴染んだ感覚の総合力が今の自分のいる場を顕現しています。つまり場が私であり、私が場になるのです。

山に馴染む、岩に馴染む、滝に馴染む、土に馴染む、どのようなものにも馴染むことができます。馴染んだとき、深い関係性が感覚を結びます。この馴染むという感覚は最も大切であるにも関わらずあまりその重要性に気づいていない人が多いように思います。

馴染むことを学ぶことは、場を學ぶことです。場を學ぶことは、いのちを活かし天寿を全うする道を得ることです。

場を磨き、場を創造し、場に馴染む生き方を顕現していきたいと思います。

真実の確認

今回のスリランカの旅は、今まで解明できなかった謎への解明でした。日本で色々と突き詰めても、その元に辿り着くことは簡単ではありません。歴史の変遷のなかで、途中で改ざんされたりあるいは、他の何かと混淆したりするなかではじまりはどうだったのか、そして本当はどのように意味だったのかは伝わっていません。

元々、真実というものも文章や文字では残りません。文章や文字は便利な道具ですが、そこには智慧そのものにはなりません。智慧そのものを確認するとき、智慧その物から伝承できるのです。

そもそも現代人は、自分で確認をしません。自分で確認しないから真実や智慧にも辿り着きません。確認というのは、自分の五感を含めたすべての器官を駆使して確かめるということです。それを誰かに任せずに、自分で全て確認するということです。

自分で確かめてもないものを誰かの知識だけで鵜呑みにするのは大変危険なものです。

人は確認するとき、ではどのように確認するのか。私の場合は全身全霊で確認します。それは脳も使って調べますが、自分の中で一つ一つのことを結びつなげていきます。また原初の記憶を辿り、原初がどうだったのかを調べます。

この原初というのは、はじまりの記憶のことです。物事は最初にはじまりがあり、そこから未来に結ばれます。その最初を知るというのは起源を知るということです。起源を確認しなければ、本当の意味で主体性が発揮するともありません。起源とは、元々のことですべての根源のことです。

確認するのは、人生も同じです。

自分で自分の人生を常に確認することで自分がどこに向かい何が原点なのかに気づきます。人は確認をするのを自分でやめることから世界を歪めていくようにも思います。

一つ一つは些細なことでも、自分の眼と手と足と五感、そして魂や心など全てを使ってこれからも真実を確認していきたいと思います。

 

空白の解明

昨日は、スリランカの伝統医療の先生の実践とお話をお伺いすることができました。この先生は、ビジネスで医療をするのではなく全て布施により治療をされておられます。日本のむかしもお医者さんというのは、お金を取っておらず藪の中に住み無料で困っている人を助けていたといいます。年末年始に治療を受けて健康になった方が御礼にお布施したということが文献にありました。スリランカでは、今では日本では存在しないようなかつての仕組みで医療を実践するお医者さんがいるというのに感動しました。

佇まいは穏やかで聖者のようで、真心を籠めてご家族で私たちを歓迎してくれて色々と伝統医療や薬の作り方からその取り組みの姿勢、伝来の秘術まで惜しげもなく見せてくださいました。

この伝統医療のお医者さんは12代目に入り、先祖から伝来する書物や道具を受け継ぎ今も同じように薬を調合し診察し治療を続けています。まだ34歳という若さでしたが、仙人のような喋りと祈り方で深い安心がありました。

まずダナワンタリという医神に祈り、薬をつくる場所を清め調え、真言を唱え、方位を定め、すべての五大要素の力が入るように丁寧に道具を置いて牛乳や油を入れた銅の壺に薬を調合していきます。火はシナモンの木のみを用いて最初に30分ほど強火を入れたらあとは弱火で7日間かきまぜて薬草のオイルを生成していきます。すべての精霊が壊れないように手作りで丹誠を籠めてつくります。この様子を見ているだけで、この薬がいのちの甦生に大きな効果を発揮するのは容易に想像できます。

現代の西洋医療は成分のみを科学的に分析して、毒を持って即効性があるものを中心に処方します。しかしこの伝統医療は、根源治癒であり自己免疫のバランスを調えなながら病気そのものを中和して根源的なものからじっくりと治癒していきます。

一つ一つの薬草を採る時にも、丁寧にお辞儀をしてお祈りをして分けていただくように関わる姿に私たちは病気に対しても傲慢になっているのではないかと感じる機会になりました。

私たちの身体はどうやってできているのか、そこにはお水や土や植物や火などあらゆる元素が組み合わさって形成しています。その形成しているものの絶妙なバランスによって身体も維持しています。健康であるというのは、それだけ調和が保たれているということですがそこに対する感謝や謙虚さというのは忘れているのではないかと思います。

病気に対しても、その病気が発生した元を辿れば分けていただいているものへの感謝があるはずです。AIなどでもしもこの肉体がいらなくなったとして、私たちはこの肉体を捨てていくでしょうか。私たちの肉体は多くの元素が自然に絶妙に調和し、様々ないのちを吸収し記憶をもって生きています。細胞にも個性があり、心身も唯一無二です。

最後に薬膳料理をはじめ伝統的な揚げ菓子、そして仏陀が悟りをえるときにスジャータから供養していただいたというミルクライスをいただきました。スリランカに今でも息づいている宇宙創生の神話からの霊薬アムリタ、仏陀が悟る前に施していた様々な伝統医療、そしてその初心、とても深い學びをいただきました。

この學びを子どもたちに伝道伝承していけるように帰国後は実践によって恩返しをしていきたいと思います。ずっと探し求めていた仏陀の道、そして医食同源の道、真心の道、暮らしの道、すべてがスリランカのこの10日の滞在で結ばれて空白が解明しました。

仏陀に見守られた西遊記のような旅でしたが、真理は持ち帰ってからが本当の旅です。これからの新たな巡礼を英彦山から新たに復古甦生していきたいと思います。

ご縁を結んでくださった方々、偉大な見守りに心から感謝しています。