執念

人間には、気力・体力・精神力があると言われます。

この気力とは、どれくらい心が強いかといった心の力であろうと思います。そして精神力はどれくらい自分らしくいるかといった魂の力、そして体力は忍耐、持続といった継続する力であろうと思います。

この3つの力を組み合わせて人間は人生というものに真っ向から挑戦し夢を実現していくように思います。どんな困難に出遭ってもそれを乗り越えて新しい自分を掴み取っていく、そして学び高めていくというのが人格形成でもあろうと思います。

具体的にこれを考えてみると、コツコツと何度でもやり、出来るまで決して諦めない執念を持っているということであろうとも思います。つまりは自分の限界という紙一重のところを超えて、新しい自分と出会い続けるという努力し忍耐し信じることを遣り切るということです。

自分のことを思い返してみると、未熟から大切なものを守りたいものが守れなかったことの出来事の中で、悔しい思いをしたり、辛い思いをしたり、悲しいを思いをして、一人正面から向き合い、避けずに逃げずに立ち向かってきたことで次第にその力も伸びたようにも思います。

負けてたまるか、逃げてたまるかと、自分自身に打ち克ちたいと練習と訓練をしていく中で少しずつそういう執念を育てていくように思うのです。

時の流れに流されないと決めたり、大好きな自分でいたいと決めたり、信じたものを守りたいと決めたり、大切なものを忘れないと決めることで諦めたくないという気持ちが湧いてくるものです。

その諦めたくないと決めた時、何をすることが具体的に諦めないことなのかを特訓することでその執念もまたついてくるように思います。

自分のことをもう一度おさらいしつつも、その力をどのように子どもたちと学んでいくかを探っていきたいと思います。新しいことへの挑戦は、常に自分自身に発見と発明の楽しさを思い出させ、何よりも偉大な夢を与えてくれます。

有難うございます。

古人の遺志

今は文字によって様々なものが残されています。

その文書や文学を通して研究し、それを論文にして発表し学識の中で真理を共有していこうとしています。文書や文学というものの行間には確かにその本質を垣間見え、とても勉強になるのは事実です。

また多くの人達に学びに入るキッカケもまたその文書がある御蔭で入りやすいのかもしれません。しかしそこでもう一つ別の側面を考えていると、文書や文学があるからこそ分からなくなっていくものがあろうとも思います。

本来は、文書や文学というものは最初に現場で何かを志た人たちの実践や事実がありそれを何らかの形で残そうとした道具であるというものです。その道具というものは、思想をカタチにしたものでそれは口伝や石像、その他の仕組みで残そうとした試みということです。

その本来の求めたものが何であったかは文書や文学では分からないはずなのです。

松尾芭蕉に「古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ」があります。

これは弘法大師空海の遺した文から松尾芭蕉が引用したようですが、この言葉であってもこれは単に文書文学ではなくその実践現場の人達の思想の根幹を求めるのは自分の実践現場という意味になるのでしょう。

いくら私もここで文書を書き綴ったとしてもこれは決して分かるものではないはずなのです。どの文書や文学を嗜んでも、その求めたところにむかって自分の人生そのもので向き合って求め行動して噛み締めていくことには適わないのです。

本来の学問というものは、その人の言うことを学のではなくその人が学ぶものを共に学ぶというものが実学なのでしょう。

尊敬する古人たち、尊敬してやまない偉人たちの士魂を受け継ぎこの今を遣り切っていきたいと思います。

活かし合う御役目

心の豊かさや余裕とは何かといえば、自分の役割に感謝できるということです。

人には、それぞれに大切な御役目というものがあるように思います。これは人に限らず、物でもそうですが例えばテーブルであればテーブルの御役目、布団でいえば布団の御役目、コップもお箸も全部その御役目があるものです。

もしもテーブルがベッドを羨ましがればテーブルではなくなってしまいますし、お箸がスプーンを羨ましがればお箸ではなくなってしまうのです。人間も同じく、自分の役割というものを忘れて他の誰かが羨ましくなりそれになろうとしたら本来の自分らしさ、本来の自分の役割を果たせなくなればそのことで御役目の持つ幸せを実感できなくなるのです。

この御役目を少し掘り下げてみますが、この御役目というものは活かされているということです。相手がいるから自分ができるという意味です。

先ほどのテーブルで例えてみれば、テーブルにはテーブルの御役目がありますがそれはテーブルとして使っていただける方がいるからテーブルになるのです。そのテーブルには、お皿を載せたり、食事をしたり、家族が団らんをしたり、お花を飾ったり、色々な尊い御役目を果たせます。

つまりはそれぞれのつながりに於いて、それぞれの関係というものの中に尊い御役目という自分らしさ自分のままでいい体験ができるのです。そのものがそのものとして最も活用できるということは、周囲の存在の御蔭で自分が在るという幸せを実感できるということなのです。

もっとも他を活かすようになるというのは、もっとも自分を活かしているという時なのでしょうから自分がどのような御役目をさせていただいているのかを忘れずに素直に取り組んでいくことが自他両善、自他一体善の実践ということなのでしょう。

つい矢印を外へ向けて自分が余裕もゆとりもなくなるのは、自分の思い通りにやろうとしたり、自分はここまでやっているのにとか、全部自分の力や自分の都合で動かそうとして自分本来の御役目を御座なりにするときかもしれません。

自分の御役目を勝手に変えたり、自分の御役目を忘れるのは心が貧しくなっていくときかもしれません。心豊かに生きていくというのは、自分らしく生き切っていくことのように思います。

相手がいるから自分はその御役目を戴けたことに対する感謝は、何事にもかえ難い有難いことなのです。自分の存在が周囲の御蔭であることに出会いの尊さを、出会いの素晴らしさを、生きている幸せを感じます。

いつどんな時でも、活かし合う御役目があることを決して忘れない自分でありたいと思います。

神話の意味

日本という国が昔、どのようであったのかそれを神話から紐解いていくことができます。

神話というものは、その神話の是非を問わずその神話に託された風土の持つ意味を感得することに重要性があるように私は思います。古事記とは日本書紀とか、はたまた伝承に多少の違いがあったにせよ、その物語の本質、つまりは何を伝承しているのかを実感するのはそれを受け賜っている自分の中の心で味わうものであろうと思うのです。

神話には沢山の智慧があり、回訓があり、そして心があります。

その一つ一つが、今を生きている自分たちに何を語りかけているのかを味わってはじめて自分たちの由来を知覚できるのでしょう。

その一つにヤマトタケルがあります。

物語そのものは、その大和武尊命の一生をそれを見守った方々と出来事の織笠ねによって伝承されているものですがその中にも多くのことが籠められています。

例えば、愛とは何か、義とは何か、勇気とは何か、智慧とは何か、思いやりとは何か、和とは何か、故郷とは何か、家とは何か、抜き出しただけでもこれだけあるのですから、その奥に秘められた語り継ぎたいことは言葉に書ききれないほどあるのです。

こういうものを私たちは自らの和魂の中に見出していくことが神話の本質であろうとも思います。

意味が分からなくても伝承されていくのが私たちの中の神話なのです。そもそも伝承というものは、頭で理解するものではないというものです。それを実感し、それを伝えようとする心と承ろうとする心が通い合い連綿と古代から今にまで引き継がれてきているのです。

一つ一つの話には、一つ一つの心が入っているのです。子ども心に神話を聴けば、その神話の素晴らしさが沁み渡ってくるから不思議です。

またその中に美しい詩があります。心を奏でて言霊になり今の時代にまで響き合ってくるものがあります。その二つの織りあいを合わせてみます。一つは、ヤマトタケルノミコト、もう一つはオトタチバナヒメの詩です。

「大和は国のまほろばたたなづく 青垣山こもれる大和しうるわし」
「さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも」

どのような理想を二人が描いていたか、そしてどのように生きたか、それを実感できるのです。もう一度、理想の国とは何か、その民の目指した美しい生き方を神話に学び見直していきたいと思います。

子どもたちに正しく語り継げるようになりたいと願います。

未来予測

昨日、研修会でオランダ報告を拝聴しながら色々と思いだしたことがありました。時が経ち、ふり返りをしているとあの頃気づいたことが何だったのか、あの頃決意したことが何だったのかを今に実感することができます。

人は、過去の思い出にアクセスするときそのころの自分の決意に出会うのかもしれません。その時に決意した分だけがこの今に反映されていることを思えば、人は行動して決意したことこそが未来そのものになっているということなのでしょう。

未来を予測できないという人がいますが、私にはそうは思えません。
未来とは、この今の決意と覚悟が未来ということになっているからです。

子どもの未来を守ろうというのは、言い換えれば子どものために決意しようということです。未来をこのままではいけないと気づいたならば覚悟を決めて未来が分からくても真摯に取り組んでいくことが何よりも守ることになると信じます。

さて、私がオランダに訪問したのは5年も前になります。

あの頃は、どうしたら教育が変えられるのかと真摯に探し求めていたような記述がノートに残っていました。その中でオランダに訪問し、教育方法などは目もくれず万国万物に共通する物だけを見つめていました。

ある意味では他の視察者が見ようとはしないものだけを観ていたのだからそれを案内してくださった方には本当にご迷惑を有難い機会を与えてくださったと感謝しています。その中で、私が観たものは「質」というものです。

何をすることがもっとも本質であるのか、何をすることが質を高めるものなのかを観続けました。その御蔭で今のカグヤの仕事になったように思います。教育には教育だからこそ学校の先生たちだけではできないことがあるのです。

それは私たちが行っている教育や保育は国造りであり伝承であるから一部の人達だけではできないことだからです。それはまるで父と母がいるように、火と水があるように、御互いの役割は大切な役目をもって調和するのと同じほどに大切なことなのです。

教師や先生ができないことだからこそ、私たちにしかできないことがある。

それを持ち帰ったオランダであったと、今の社業を観ていると実感します。目には観えないものを観るというのは、信念が必要なのかもしれません。子どもたちを思う気持ちは、まったく変わらずとも立場と役割が異なるという歓び、それが人間の素晴らしさなのかもしれません。

引き続き、本質的な仕事によって子どもたちに未来を譲っていけるように日々の決意を新たに挑戦を続けていきたいと思います。

 

善き師友

昨日、久しぶりにドイツ視察にいった仲間との同窓会がありました。

先生を囲んで、その後、学んだことをどのように活かしているか、どのように過ごしているか、近況がどうなっているなどを確認していくのです。

共に同じ先生に学びながら、同じ時機を共にすることを同窓といいます。その期間、楽しかったことをいつまでも忘れずにいられるのは曾ての学んだ歓びをいつまでも忘れてないでいる幸せを味わうのです。

日々は大変なことばかりが起きますが、時折共に学びを志した仲間がいる存在を味わえばこの今も我々は大切なことを学んでいる日々であることを再認識することができるのです。

人生はあっという間ですが、時折に学び合った朋たちの様子を拝見できるということは出会いの素晴らしさを再実感することになり、活かされていることの有難さを再覚認できます。

その中で、ふと自然に感じたことがありました。

私はよく身の周りに素晴らしい人たちが多いと言われることがあります。善い人たちに恵まれて素晴らしい仲間が居て羨ましいとも言われます。それがなぜかということに「そうか」と気づいたのです。

それは善き師、善き先生がいるからではないかと私は思います。

つい若気の至りからか少し上手くいくと自分がすごくなったような気になったり、自分が何か特別なものであるかのような錯覚を起こすものです。それに様々な自我や自尊心から傲慢さというものは自分の知らずしらずににょきにょきと助長していくものです。そうすることで我儘になり孤立したり、性格が直せなかったりすると、やはり善き朋や善き仲間との出会いも少なくなっていくように思うのです。

しかし善き師、善き先生が居る御蔭でそういう自分の傲慢な気持ちも抑制してくださいます。また抑制した後に、省みればその徳、その人格から自分の理想としている姿を学び直し、精進していこうといった謙虚な気持ちになっていくのです。

徳の高い人を師とし先生とするならば、自ずから自分の徳が磨かれるのです。

私の師も先生も私にいつも「責任」というものは何かを教えてくださいます。リーダーであるということがどういうことか、人を導くということが如何なるものかを無言の説法で語りかけて下さいます。

その一つ一つを、朋にする友や仲間と語り合い、戒めつつも歩んでいくことではじめて善きご縁を結んでいくことができるように思うのです。師や先生というものの存在は、学びにおいてはとても大切な仕組みであろうと私は思います。

どのような人を先生にするか、どのような人を師にするか、それは徳を磨くために自分を戒められるような人、調子にのせないような人が善いのかもしれませんね。

どちらにしても、それもまた一期一会の尊いご縁。

そのご縁の尊さに気づいたならばそのご縁を一期一会に大切にしていくことこそが真に自らを磨き学び続ける姿勢につながっているように感じました。

同窓会は、様々なことを再確認することができる素晴らしい機会であり仕組みです。学び合っていく道の日々に、謙虚さから離れることがないように善き師友と共にしていこうと思います。

医は仁術

私達の古来の国造りに於いて最も大切にされてきたのが医と農です。

そしてこれは必ず両輪として天地の和を施すものであろうと私は思います。

江戸時代の学者、貝原益軒は「養生訓」で医とは何かを表現しています。そこには「医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救ふを以て志とすべし」。医術とは、単に人の体の治療をするだけではない。そこに人徳を施す術である、という意味で用いています。

そして「医とならば、君子医となるべし。小人医となるべからず。君子医は、人のためにす。
人を救ふに、志専一なるなり。小人医は、わが為にす。わが身の利養のみ志し、人をすくふに、志専ならず。」ともあります。これは医となるなら君子のような医となれ、小人のような医にはなってはならない。君子の医は、徳をもって人に報いる志に貫かれる。小人の医は自分のことのためだけに用いられて志にはならないという意味でしょう。

医とは何かとここではっきりと定義していますが、医とは人を直すものです。

私はコンサルティングの仕事をしていますが、本来の直すというものはこの医に通じているものがあるように思います。そしてこれもまたかんながらの道の一つであるのです。

何を以って徳と言うかといえば、本質的に直すことができるという意味です。その人が本当に遣りたいと願っていることを実現することや、本来のあるべき姿、根源や根本に帰すということもまた徳を活かした医になるように私には思えます。

私が最も憧れるのは、それを心だけではなく具体的な技術や仕組みも修得し、より現場の人達の御役に立てることです。

今の時代であれば、身体を直す方も大切ですが脳を直したり、本能を正したりする方に医術が必要ではないかと感じています。

刷り込みを取り除くことも、本来の自然に立ち返り生活を改善することもまたそこに私なりの医への強い憧れと希望があるのです。

私が取り組む仕事は常にその本質から離れることはありません。今後も技術を磨き、より具体的に救済を求めて追及していきたいと思います。

学楽量~社會への御恩返し~

人は学びを通して成長していきます。毎日毎日、学びが多く充実しているのはその学びを誰かの役に立てられるという歓びを実感するからです。

日々というものは学びを求めれば求める程に大量の情報量が入ってきます。また同時に大量の情報量を行き来させていくこともできます。それは自分を通して、その学びを誰かのお役に立てることを知っているから情報が入ってくるように私には思うのです。

よく一日のふり返りの時に、今日も沢山のことを学び気づくことができたと有難く実感し感謝している自分があります。同時に、時にはその情報量が整理できずに満腹状態になってしまうこともあります。しかしその後、落ち着いて穏やかに内省が澄めばそれだけ誰かのお役に立てる自分があるんだと実感してまた幸せな気持ちになるのです。

自分が知識が増えるのは、自分に気づきの体験が増えるのは、それだけ誰かのお役に立てるという可能性が増えていくことを実感するのです。人間は見たいものしか見ず、聞きたいことしか聞かない生きものです。

そう考えてみたらこの学びというものを思う時、学びというものを通して何を観て聴くか、その学び一つ一つが自分の存在意義に直結し自分の御役目を自覚し、学びが活かされた時にこそ自らが活かされたという実感に心から感謝することができるのです。

なぜ人は最後まで知識欲があるのか、それがずっと分かりませんでした。しかし、知識を持つことが人の役に立つからだと実感した時、自然に腹落ちするのです。

人間は、繋がっている中で共生しているからこそ誰かが誰かのために役に立つということを誰も教えなくても生まれながらに知っているのです。そしてその役に立つ方法が学ぶことだということも本能で知覚しているのだろうと思います。

知識を体得し智慧に昇華すればするほどに、それがすぐに誰かの役に立てます。そして誰かの役に立てれば、自ずから個性が発揮されそして自他に幸せを創りだしていくことができます。

何のために学ぶのか、それは目の前の人達を幸せにしていくため、そして自分も与えていただいているものをもっと大きくして御恩返しをするためということになるのでしょう。

学びが多いということは学楽量が多いということであり、それだけまだまだ社會に恩返しできる可能性が広がっているというとこと。日々に感謝の心で、学ばせていただいたことを有難く戴き、一つ一つを実践し、それを多くの人達に活用できるようにしていきたいと思います。

報恩感謝の心が仕組みを産み出すのでしょう。

学びを楽しんでいきたいと思います。

危機の本質

先日、あるコンサルティングしている法人の話の中で防災について考える機会がありました。その後、子どもたちと一緒に釜石の奇跡のDVDを見て感じることもありました。

そもそも自然というものは、私たちが考えているようなレベルの存在ではありません。以前、私が大変驚いた話に長崎の島原の噴火があります。山の上から半分近くが噴火と共に吹っ飛び海に落下したという話です。そこから熊本の人吉に津波が起こり津波の高さは30メートルほどもあったという話です。

そんな話を聞いて、危機管理などできるはずがないと実感したのです。

そもそも危機管理ではなく、危機なのです。

子どもたちは自然をなめていません、それはその存在自体が自然に近いものだからです。素直に正直に怖いものを怖がるものです。雷も地震も、台風も自然災害を子どもたちは自然に怖がります。

しかし大人になってくると、人工的に操作された人間都合の出来合いの社会の中で安心安全という中にどっぷり漬かっていくのです。そうすると、まさかそんなことはないだろうとその人工的な存在の中で想定できる出来事のことでの危険が危険だと勘違いしていくのです。

本来は、自然というものは何が起きるか予想がつかないものです。私たちはその中で、自分たちの方を柔軟に変えて時には諦め、時には希望を持ち、自然から学んでいく生き物のように思うのです。

人間の思い通りになると思っている傲慢な考え方が、本当の危機の本質ということです。

結果ばかりを見ようとするのも傲慢な証拠ですし、自分の思い通りになると勘違いしていることもズレテいる証明です。子どもから学ぶのは、子どもも自然なのだから子どもならこういう時どうするかを考えてみたいと思うのです。

危機管理とは、子どもの方が不自然だと勘違いする大人の刷り込みのことなのでしょう。

何かのときは、覚悟を決めて真摯に自分のできる最善最大を行うこと。自然が分からないからこそ常に日頃の準備を怠らず、柔軟に対応できる訓練をしていくことのように私は思います。自然はそうはいっても厳しさもあれば慈しみというものもあるのですから、危機もまた自然から学ぶチャンスとして取り組んでいきたいと思います。

人間関係にも自然農

昨日、ある園の取材の中で自然にまた気づくことがありました。不思議ですがいつも全身の真心で取り組むときはいつも自分に必要な叡智を何ものかに与えてくださっている感覚になります。自他一体にはいつも感謝することばかりです。

話を進めれば、私はここ数年で自然農をはじめて自然というものを考えるようになりましたが一度はじめてみると人間関係のことばかりで悩むことが増えてなぜだろうと思っていたのです。

色々な人たちの関わりの中で、自分の遣りたいことをやろうとすれば様々な人との関わりが発生してきます。その中では、自然の気候が自分の思い通りではないように、人との付き合い方もまた思い通りではありません。

自分を貫こうとすれば、障壁のようなものに遮られそこで自分の傲慢さを学び、そして自分の方を柔軟に変えていくことを知るに至るのです。自然から学ぼうとするとき、謙虚でなければ自然に一人で立つことができないこともまた自覚するのです。

それはやってみながら楽しんでいたのですが、自然と人間を分けていたせいかどこか人間の方との関わりは自然のようにはいかないと少し諦めていたように思います。

しかし昨日、それが一致したのは人は人にも自然があるということです。

自分が正しいと片意地を頑固に貫くことだけが自然ではないということもまた自然を学ぶことになるのです。昨日は、しなやかさの話の中で、三味線の弦を張り過ぎないことの大切さや、負けて克つお話などを拝聴することができました。

人に対しても色々な人たちがいるのだから、自然に包みこむような大らかさを掴んでいくこともまた自然から学ぶことに他なりません。

自然の定義を分けずに人間関係からも見直していきたいと思います。

此処に来て恩師の言うことの本質が少しだけ覗けた気がしました。恩師の仰っていた宮本武蔵や孫子などの「兵法」というものをもう一度学び直してみたいと思います。