生き様

価値観が多様化する時代、それは言い換えれば生き方が増える時代とも言えます。その人がどのような生き方をするかは、その人が新しい価値観を創造するということでもあります。

生き方がブレナイ人というのは、自分を持っている人のことです。人の価値観を否定するわけでもなく迎合するのではなく、自分の生き方を定めているということです。よく勘違いされるのは、自分の価値観に固執するばかりに他を排斥し自分勝手に傲慢になるのはそれは生き方とは関係がありません。

生き方を貫こうと思ったら、周囲への思いやりが必要ですし、その生き方をするのは何のためにかということを心の深いところに育てて据え置かなければならないからです。何がもっとも大切なことなのか、そして世界の中での自分の役割とは本当は何なのかを突き詰め、自らの天命に応じて素直に従うような力量もまた問われるように思います。

以前、NHKの大河ドラマで「八重の桜」がありました。その中で、新島八重を夫である新島襄が友人あてに紹介する文面に「ハンサムウーマン」という記述が出てきます。そこにはこうあります。

「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です。」

「生き方がハンサム」なのですとあります。これは八重の生涯を見て観たらすぐにわかります。新島譲は他にもこういう言葉で友人に自分の結婚観について紹介します。

「外国人は生活の程度が違うから、やはり日本夫人をめとりたいと思います。しかし亭主が、東を向けと命令すれば、三年でも東を向いている東洋風の婦人はご免です」

つまりこれは単に西洋か東洋かではなく、男か女かでもなく、お互いの意見を尊重してお互いに認め合い学び合い、そして助け合えるパートナーを言ったのでしょう。

これはまるで志を同じくし、話をよく聴き、自分はこう思うと話ができ議論し合える志士のようです。あの時代、維新の志士では男性ばかりが登場しますが新島襄の同志がたまたま女性であって八重であったということなのでしょう。

自分を持っている人というのは、その心に確かな志があります。

志がある人は、必ずや人物として多くの人たちに影響を与えていきます。そしてその影響を与える根幹にあるものこそ、その人の生き方がどうであるかということです。生き方がブレナイ人になるためにも、目の前の些事や周囲の押し付ける空気に流されず、坦々滔滔と地味粛々に自分の生き様を内省していきたいと思います。

高菜実践

無事に今年の分の高菜を収穫することができました。昨年よりも見た目もよく中身もしっかりした高菜にめぐりを繰り返す中で育つ逞しさを実感します。

ふり返ってみると、めぐりを繰り返すことで生命は強くなるように思います。それを進化と呼ぶのかもしれません。一日一日をめぐり、一年一年をめぐり、百年をめぐり、千年をめぐり、万年をめぐる。生命はずっとめぐりを通して今の生命になってきたのです。

昨年よりも今年がよくできたのは、ひとつのめぐりをこの場所で一緒に越えた証なのではないかと感じるのです。その証拠に、昨年よりもより手に懐いてくる感じや、そのものが今どんな状態なのかを身近に感じるのです。

御互いに必要と仕合い共生関係を結ぶ中で、私たちはお互いに強くなっていきます。進化発展し合うのは、お互いの心の通じ合いに由るのではないかと私には実感するのです。

山川草木、鳥獣虫菌にいたるすべてのものには心があります。

その心を通じ合わせていくことで、はじめて互いの存在を認め合い助け合い見守り合う関係を結べるのです。自然から離れるのではなく、自然に近づいていくことで私たちはいのちを食べ食べられるという信頼関係を結べます。

この地球の中で生きているからこそ、その地球の土の上で地球一体になって仲良く暮らしてきたのでしょう。震災からはじまった自然農の実践、そしてご縁からはじまった高菜漬けですが思い返せばこのめぐりから沢山の学びをいただいています。

つながりを大切に、時間をかけて手間暇と手塩にかける有難さを忘れないように実践を高めてくれる菜、これが高菜だと定め、精進していきたいと思います。

真心の道

今から千五百年前に私たちの国を治めた仁徳天皇がいます。大変思いやりが深い名君として存在し、日本で最大のお墓仁徳天皇陵も大阪に遺っています。

その物語の中には、民を優先し自分を後にするという実践を行ったことが紹介されています。古事記には、その有名な話が紹介されています。そこにはこうあります。

「ここに天皇、高山に登りて、四方の国を見たまひて詔りたまひしく。国の中に煙発たず、国皆貧窮(まづ)し。故、今より三年に至るまで、悉に人民(たみ)の課(みつぎ)、役(えだち)を除(ゆる)せ、とのりたまひき。ここをもちて大殿破れ毀れて、悉に雨漏れども、都(かつ)て修め理(つく)ることなく、器(うつはもの)をもちてその漏る雨を受けて、漏らざる処に遷り避けましき。後に国の中を見たまへば、国に煙満てり。故、人民富めりと為(おも)ほして、今はと課、役を科(おは)せたまひき。ここをもちて百姓栄えて、役使(えだち)に苦しまざりき。故、その御代を称えて、聖帝(ひじりのみかど)の世といふなり」

意訳ですが、丘に登って国内を見渡せば民百姓たちの御米を炊く竈の煙がみえなく民たちが貧窮していることを知った。そのため三年は全ての民百姓への課役課税を免除することにした。自分自身は徹底した倹約を実践し、宮殿は痛み雨漏りしてもそれは器で乗り切り、雨漏りのないところに移って耐え忍びました。そしてのちに国内をまた見渡せば竈の煙が満ちていました。そこで民百姓は裕福になったということで課役課税をまたはじめました。すると民百姓は栄えているから誰も嫌がることもなく進んで取り組んでくれました。この豊かで幸せな時代を称えて聖帝の世と呼ばれています。

論語に、民信なくば立たずがあります。仁徳天皇にとっても、民があって私があるのだから民が富まないのに私が富むはずがないと言います。民が貧しいのなら私も貧しいと自他一体に自分を盡していきます。この自他を分けずに一心同体になって民と共に生活していくということの中に治世の本質が入っているように思います。

後世では、この御人徳を参考に二宮尊徳や上杉鷹山が出てきます。私たちの神話がまだ今も続いていて、この国がどうあるべきかを示すのが親祖より示されています。国のカタチを思うなら、どのような国のカタチを私たちが今まで経てきたかはとても参考になります。

小さな組織でも大きな組織でも、集団でみんなが暮らせばそこには一つの国があります。貧富かどうかではなく、みんなが真心や思いやりを優先する世の中はいつの時代も倖せが香っています。

その道が今でも続いているからこそ徳は孤ならず必ず隣ありということです。

勇気をもって先人たちの通った真心の道を目指していきたいと思います。

一期一会の糸

日々は様々な出来事が滝のように流れていきますが、人の一生は誰にせよ当たり前ではないことに包まれています。当たり前ではないことを言い換えればそれを「奇跡」と呼びます。

人の運命は人それぞれで異なり、霊妙数奇な組み合わせによってご縁が彩られます。あの時、あの一瞬で自分が変わったという体験が今の自分に出会わせています。

そう考えてみると、どれだけ必死に今を大切に生き切るかというのが当たり前ではない奇跡を味わえるということになるのです。

奇跡とはラテン語の古語によれば「驚き」のことを指します。驚きとは人智を超えた何か偉大な力が働いているということです。この驚いた出来事に遭遇する、その奇跡がミラクルという言葉になっていきます。

それに対して日本では御蔭様や有難い、勿体ないという言霊があります。これもまた奇跡に出会うからこそ顕現する言葉です。

人間はなんでも自分の思い通りにしていくことに執着する人や、自分の野心や願望ばかりに囚われていると、足元にある本当の倖せや、他人様から頂戴した思いやりや真心に気づかなくなるものです。そういうときは驚く心や感謝の心を忘れてしまっているかもしれません。

人は自分勝手で生きているのではなく自分が全体に活かされているという一期一会の実感は、当たり前ではないという奇跡の今を歩んでいく中でこそはじめて磨かれていくように思います。

出会いで人格を高めるということは、全体に活かされていることをいつも学び気づき直すということでしょう。

数奇な運命を生きるわたしと、数奇な運命をいただくわたし。
この「驚き」と「感謝」こそが一期一会の糸を結びます。

悠久のめぐりのなかで出会う自己との内省と対話こそ生活の基本です。

一期一会は私の自戒ですが、時は誰にせよ等しく過ぎ去っていきます。いちいち小我に呑まれてできそうにもないことに妄想を走らせず、自分の野望や願望に固執せず、二度とない今に素直心を定めて、訪れ来たものを選ばずに一期一会の糸を紡いでいきたいと思います。

御米

私たちは親祖よりずっと御米を食べて暮らしてきました。

それは国内にある様々な遺跡の中から、炭化した御米が発掘されていることからわかります。縄文遺跡の以前は、陸稲を中心に栽培され、弥生遺跡以後は、水田を中心に栽培されています。

そもそも私たちは自然の一部ですから何と共生をするのかを選択して生きています。この共生とはなくてはならないいのち同根、生死一道の関係のことです。その共生の相手に御米を選んだというのが私たちの親祖です。

人は食べたものでできているものです。何を今まで食べてきたかを観れば、その人のからだが何でできているのか、どこからでてきているのかが理解できます。その元を知ることが自分を知ることであり、その根を確かめることが自分を実現させることのように私は思います。

日本の全ての行事は御米と一緒に学んできたことがカタチになっているものです。それが今では私たちが一番長く食べてきたものを育てたことがないということに大変な危険を覚えます。古来からあるものから離れるということは、自分たちの姿を正しく理解できなくなるということでもあるからです。

御米作りというものは、一生涯の働きであり、御米を食べるということは私たちがなんであるかを知るただ一つの道だと私は感じています。

日本の自然思想家であり医者である安藤昌益という人物がいます。この方の「自然真営道」という著書の中で下記の一文があります。ここに御米とは何かということの真実が書かれているように思うので紹介します。

「米(こめ)は神と同音、米(よね)は世根、稲は寿根(いのちね)の略。稲荷とは人の神身皆稲なれば人常に稲を荷(にな)ふ意。飯は命師(めし)又は身師(みし)の転訛。寿(いのち)は飯中(いいのうち)の略。迷は米吾(わ)を去りて他にゆく意。即ち食を離れた時の心理状態に名づけしものである」

つまり古来、御米こそ日本人のいのちの糧であり心であったということです。

自分がどこから来たのかというのは、これからどこへ向かえばいいのかを自覚する唯一の鍵です。その鍵こそ私は御米であると確信しています。

今年もまた自然に沿った御米作りがはじまりますが、ここで御米から学んだことを後世のために譲り、そして人類の初心のために活かしていきたいと思います。

 

仕事の質

人は人と一緒に仕事をしますが、その際に自分が遣りたい仕事をやるためのその本来の動機というものが一緒に働く人たちにとても大きな影響を与えているように思います。

その仕事のプロセスにおいて、雑でスピードが速いからいいのではなく、遅くても緻密で丁寧であればいいのではなく、その動機が一体どうなっているのかということを確かめるということはあまり議論されていないように思います。

そもそも仕事は本来、誰かのためにやることですから思いやりで行われるものです。誰もが何らかの役に立ちたいという動機があって、仕事に意味を持ち取り組む人にはどんな仕事にも誰かが関わっていることを知っています。しかし仕事が慣れてきたり没頭しすぎると周りが見えなくなってしまっていたりします。そうなると思いやりに欠けて周りとの軋轢をおこしてしまいます。そんな時はそもそも何のために仕事をするのかということを忘れないでいることのように思います。

初心を忘れず、どの仕事をやっている最中であっても決して何のためかを忘れない、つまり常に何のためかを心や腹の丹田に据え置き、その志や真心を維持しながら実践するとき、はじめて自他を倖せにするような速くて丁寧といった両輪が具有するような一流の仕事になるように思います。

そう考えてみると仕事の質というものは、その心構えに由るということなのでしょう。そして仕事の質を左右する責任とは、自分が何のためにそれをやるのかを知り、その意味を決して忘れていないで進めているときに周りにも伝わるものです。

片時も忘れずにどんなときにも自己内省を怠らず、無責任な仕事とは何か、私心でやっている仕事とは何か、我儘になっている仕事とは何か、と省みる実践。つまり克己復礼、そしてこの礼は禮ですから、仕事の真の豊かさもまたそこにあるということです。

周りの評価を気にしたり他人を変えようとばかりせず、常日頃自分自身が果たして自分に打ち克っているかを省みて自己中心的な自己満足に陥らないように私心と向き合い、みんなを慮って思いやりを忘れない実践を積み重ねていきたいと思います。

執らわれない

人が一人前に仕事ができるようになるというのは、様々が定義があるように思います。例えばそれは技術力が極まりミスがなくなることという人もいれば、結果が出せるようになるという人もいます。しかし私が思う一人前は思いやりで仕事ができるようになることであり、なるべく周りに迷惑をかけないようにしていくことのように思っています。

実際、人として当たり前のことができればそういうことは少なくなってきます。しかし実際にそれは大変に難しく、日常の挨拶から片付け、情報共有や労い、御礼など言い出せばきりがありませんが心構えができてその一つ一つのことを実践できつつも同時に一つのことに執らわれない心を如何に持てるかということが大切ではないかと齢と体験を経るたびに思えるからです。

どれだけ自分に打ち克ち我儘をしないで周りを思いやれるかは人間人格修養の一生の課題かとは思いますが、仕事というのはその人格を磨くための大切な機会になっているように私は思います。仕事が面白いのは、そういう自分の心を高め磨くリハビリにもなっているからです。

私がよく讀み直す大好きな本の一つに、千日回峰行を満行された塩沼亮潤さんがいます。この方の著書「執らわれない」(PHP研究所)の中にはその人生体験の中で得られたことを自分の言葉にして紹介している箇所がたくさんあります。

ここで仕事の思いやりについていくつかご紹介します。

『自分が正しいからと言って、強さが先行して優しさに欠けたり、心配りが足りなかったりすると、陰で涙を流す人がいたりします。ちょっとした加減で微妙に変化する人生は、方程式のように毎回同じようにはいきません。』

人は得てしてうまくいったパターンにとらわれてしまうと自分が正しいと思い込みます、そしてそれをやることが一番なのだと周囲を省みずに強引に進めていると周りを知らず知らずに傷つけてしまうものです。独りよがりの正義は思いやりを内包しませんから、正しいよりも楽しい方を選んだり、正しいからいいではなく真心を籠めるという力をつけなければなかなかみんなが倖せになるような行動ができないものです。私もいつも気を付けていますが、どうしても理想と現実の中にある中で頭で思い込み刷り込みに負けて真心や感謝が欠けると人間関係に失敗をしてしまうことばかりです。

『みんなのためにと思って行動しているときに、何か一つのことにとらわれすぎると、周囲との隔たりができたり、ものごとが裏目に出て、逆にみんなに迷惑をかけてしまうことがあります。』

よく法理法則では「部分最適ではなく全体最適を」という言い方をします。人は自分の考えに固執するのではなく、よく周りの意見を聴き相手を慮り譲歩しながら歩むならあまり行動が裏目に出ることもないように思います。きっとこれでいいはずだという思い込みは、不確定な状態では頼りになるのもしれませんがいつも心を周囲に開いていたり、真心や思いやりを忘れないように小まめに自己内省していき聴く姿勢を正していくことが本質的に迷惑をあまりかけない方法かもしれません。

どちらにしても「執らわれない」という塩沼亮潤さんが目指す理想が、私が目標にする姿と一致してその生き方に共感することばかりです。離れていても共に歩んでいる道があること、真っ直ぐに歩まれているその有難い存在に深い感謝を覚えます。

『強くなんかない。清くなんかない。唯そうありたいと、願い続けているだけ。人の一生はみじかい。いかなる道を歩もうか。思いなやむことなく、唯この道をひたすらに。』

執らわれない実践を積み重ねて歩んでいきたいと思います。

自他の尊重~聴く真価~

ブログで何回か聴くということについて書いていますが、改めて聴くことの大切な意味を感じます。人は人の話が聴けなくなるとき、その身が亡ぶと言われます。それはなぜかということです。

諺に「聞くは一時の恥、聴かぬは一生の恥」があります。

「聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥とは、知らないことは積極的に質問するべきだという教えです。つまり知らないことを人に聞くのは、そのときは恥ずかしいと思っても、聞かなければ一生知らぬまま過ごすことになるので、そのほうが恥ずかしい。知らないことを恥ずかしがったり知ったかぶったりせずに、素直に聞いて学ぶべきだという教えということです。」(故事ことわざ辞典より)

人は自分というものがありますから、自分の中でだけで物事を整理していたらそのうち現実からズレてしまうものです。それは人間には自我感情がありますから次第に感情の影響を受けては現実が捻じ曲げられてしまうのです。いくら物事をあるがままにありのままにみていると本人が思っていても、実際は自分の感情が入り込んでいる現実ですから様々な執着がこびりついてしまうのです。

そういう時、優れたリーダーというものは必ず自分に意見するものを近くに置くものです。松下幸之助さんはこういう言葉を遺しています。

「よく人の意見を聞く、これは経営者の第一条件です。私は学問のある他人が全部、私より良く見え、どんな話でも素直に耳を傾け、自分自身に吸収しようと努めました。」

人が話を聞けなくなるというのは、聴きたくないからです。周りの人たちの話を聴くというのは、自分の間違いに気づかなくてはなりません。それは単に間違いに気づけばいいのではなく、真の間違いに気づくということです。

人は分からないことを分かっていたら改善することはできません。自分が分からないことがあると気付いているからこそはじめて分からないことを知るのです。分からない部分が自分の改善点ですが、分からないことを知ろうとしないから改善することがなくなるのです。

人は大なり小なり必ず小さなズレが現実の間で発生します。いくら正論を語り正しい法則を知り尽くしていたにせよ、自然に必ず矛盾は発生します。その矛盾は沢山の人たちの意見に耳を傾けることで矛盾を内包できるようになり絶妙な判断をしていくことができるのです。

自分だけの判断が絶対だと我儘になれば、無理やりに真実を捻じ曲げて上手くいったように錯覚するようになります。その時、その身が亡ぶように思います。周りの人からの意見に耳を傾けることを「衆知を集める」といいます。これは言い換えれば「叡智を結集する」という意味と同義です。

自分一人だけで正解探しをするよりも、もっと信頼できる人たちと一緒に矛盾の中にある真心探しをしていく方が人生はより豊かで楽しいように思います。手段と目的を見失うことがないように、自ら省みて自他を尊重して聴く訓練を積み重ねていきたいと思います。

 

奇跡の今

人類は何万年も前からこの地球で暮らしていたことが遺跡からわかっています。宇宙はどこまで広がっているのか、またどこからはじまったのかも興味があるかもしれませんが同時に人類はどこから来たのかというルーツについても同じく興味があるものです。

そうして時間というものを考えてみると、いつはじまりいつおわるのかは誰にもわからないことに気づきます。ある生き物は7日間で生死をめぐり、ある生き物は数千年で生死をめぐります。生死の長さはそれぞれにとって異なり、人間が定めた時間を物差しにしてみると短命、長命と分別しています。

しかし実際の生物たちは、過ぎた過去のことを憂い、まだ見ぬ未来のこと憂いているか、時間という概念がもしもないのならそういうことを思い煩うこともないように思うのです。

例えば人類があと5万年生きようとします、すると5万年をどう生きるのかを悩めば悩むほどにありとあらゆる準備をしなければなりません。文明を発展させては、もしも地球が滅んだ時のためにと宇宙にも脱出していかなければなりません。そのためにありとあらゆるテクノロジーを開発していくのでしょう。

しかし実際はどうかといえば、宇宙の大きさからみても私たちが準備してもどうにもならないものもあります。太陽が爆発したらおしまいですし、ブラックホールが急に出現してもおしまいです。地球の中にいても急に大噴火が発生し氷河期がきても大変ですし、大地震で大津波がくるかもしれません。何が起きるかはだれでもわかりません。これは決して対処しなくていいというわけではなく、あまりそういうことばかりを考えていたら本当の今という現実から離れてしまわないかということです。

生物たちは今の一瞬一瞬を面白く楽しく過ごしています。どんなことがあっても今から離れずに今を生き切っていきます。そこには自分が7日の生命かどうかなど煩わず、もしくは1000年であろうが関係がありません。今日一日、この今の一瞬一瞬を大事にしていきます。心を今から離さないといった方がいいかもしれません。そうして今から離れないからこそ沢山の奇跡に出会っていくように思います。

よく考えれば、この先のことを憂うよりも今があることがどれだけ有難いことか、昔のことをくよくよするよりも今があることがどれだけ御蔭様であるか、物事の善い方を感じることができることは仕合せなことです。

畢竟、今を大切に生きるということが心でいつも奇跡を感じる方法かもしれません。

奇跡の星に生まれて奇跡の星に今あることが愉しいのでしょう。

ありのままに正しく物事をみるためにも今を愉しみたいと思います。

心の実践

人は共感することで相手のことを深く理解していくことができます。この共感とは単に相手を知ればいいということではないことはすぐにわかります。しかし実際、共感をするということが何かということを理解している人は少ないように思います。

例えば、相手の話を聴くということがあります。これも単に話を聞けばいいのではなく、聴くというのは相手のことを自分のことのように関心をもっているか、もしくはどれだけ自分が心をありのままに開いているかということが関係します。

しかし実際は関心も心も開くこともなく、心を遣わないままに頭が先に出て心が入らないことがあったりするように思うのです。それを自分で気づける人は修正できますが人間が幼いころから大人の社会を身に着けるために世渡りが上手くなって刷り込まれてくる過程でその心の実践を忘れてしまうことがあるように思うのです。

それでは心の実践とは何かということです。

極端な例かもしれませんが、1990年、フランス人の野生動物専門カメラマンを両親にアフリカのナミビアで生まれたティッピという少女がいます。10歳になるまで、原住民たちと共にアフリカの野生動物に囲まれて育ち、生まれつきどんな野生動物とでも仲良くなれたと言います。

この子の動物と戯れている写真を見たら、まるで兄弟か家族のように動物たちと仲良くなっています。動物たちもその子に警戒せず、その子も警戒しません。本来の野生動物は食べ食べられる本能がありますが、生命の進化を観ていたらその相手ではないと思えば自然に近づくことができるのかもしれません。

その中でその子がこういう言葉を語っています。

「私も裸にならなければ、動物たちは心を開かないわ」

ここに共感するということの真意が潜んでいるように私にも感じます。相手が心を開かないのは自分が先に心を開かないからです。そうして開かないからこそ相手は自分に対して心を開いている分しか開いてくださらないのです。

まず自分が心を開くのは相手が先に心を開いてくれてからという人もいますが、人が自ら共感するというのは自分の心をまず開いてから行うことをいうのでしょう。もちろん、心を開けば傷つく時は大きな痛みを伴うかもしれません。しかしそれ以上に相手を思いやり、もしくはそれ以上に冒険したいという気持ちがあれば心はいつも先に出てきてくれるようにも思います。

勿論幼いころの心の傷や痛みは古傷となって今でもズキズキするかもしれません。しかしその傷や痛みは相手を分かろうとした痛みであり、相手を近づこうと冒険した証の傷なのですから自分の誇りであり、また勲章なのです。

仲良くなり助け合いわかり合う共感とは、心のかかわりつながりを持つことです。

小さな勇気を振り絞り小さな一歩を踏み出すことで心は開いていきます。
自然はいつも私たちに心をまるごと開いてくださっています。

仲間に出会える倖せのためにも、敢えて自分から裸になる心の実践を積み重ねていきたいと思います。