かんながらの道(自然)

アメリカ型資本主義経済が怒涛の如く押し寄せてきて、周辺の教育や環境が変わり「自然である」ということがとても遠くなってきているように感じる。

太古の昔から日本人という民族は、常に自然と共に歩んできたそうだ。
神道に触れると感じるが自然の中にあらゆる神々が在ることを感じることができる。

それを古事記でいう「八百万の神」というのだろう。

以前、海外でこんな体験をしたことがある。

日本からきた留学生が、旅先で見つけたものをお土産にして大切にしていた。
それを見せてもらいながら私も大切にしている貝殻を見せた。
別の友人は、私に神社のコケを瓶に詰めて送ってくれた。
なんだかとても温かい気持ちになったことを覚えている。

その大切な思いから生きるものの存在を学んだ気がする。

たとえば、鳥や魚などの動物は人間に食べられるためにあるものではないこと。
たとえば、全ての水や土や太陽は人間のために創られたものではないこと。

こんな当たり前のことからも遠く離れてきてる気がする。
アメリカ型の人間万物至上主義的な考え方にはどうも納得することができない。
自然はコントロールするものではないのだ。
自然の中の一部であることを謙虚に受け止めることなんだと私は思う。

よく子どもの「なんで?どうして?」の中にある自然の真理を大人になっても忘れてはいけない。

我々は他の民族と違い、ありとあらゆるものの中に「いのち」があるのだと感じることができるのだ。そしてその子どもたちの持っている人間の中にある在るがままの「自然の心」も見守っていきたいと心から願う。

その情緒的情操観念を持ってかんながらの道とする。

協同的な学び

ニンゲンは関係性の中で、いろいろなこを知りそして成長しあっていくもの。
そのためには、「協同的な学び」も必要だとのことだ。

本日は、熊本で保育研究セミナーを実施している。
参加者の皆様は九州各地からお越しになっている方々だ。
これは長崎で始まった先生方の研修が大好評だったのがキッカケで熊本へ飛び火したものだが自主的に主体的に、園の先生方が自らでセミナーを行うのを我々が後押しするものだ。

もともと何かを学びあうということは相手がいないとできないこと。
この業界ではそれぞれに何かしらの柵があり、なかなか本音で語り合えるという場や機会はとても少ないと思う。

人間は、お互いに距離を保つ生きもの。

ある一定の距離を片方が強引に埋めろうとするのならば、心理学で言う「やまあらしのジレンマ」がやってくる。

お互い最適な距離に近づくためには、多少は痛い思いもしないといけない。
その覚悟もなければ良いものは手に入らない。
等価交換の法則ではないが、必ず代価を支払うこともより高みを目指していく上では避けては通れない道だ。

そんな道を通るときは価値観に軸を置くといいと思う。

同じような考えで、同じような立場で、同じように危機感を感じればその目的のために自分の使命に沿った違った新しい関係性が芽生えてくるからだ。

以前、中国へ留学していたときに人生に大きな影響を与えた本がある。

「7つの習慣」という本だ。

この本がなければ、価値観に従って生きようとは思わなかったかもしれない。
そして出会った学友が価値観の大切さを教えてくれた。

19歳の頃、中国での出会いがなければこの「今」はなかったかもしれない。
創造的な素晴らしい関係はそのような出会いや価値観から始まるのだろう。

思いに集まってくる人たちには、何か特別なご縁を感じる。
これからももっとたくさんの人たちと自らの「価値観」を共有する喜びを分かち合いたいものだ。

幼児業界の常識非常識

以前、GTで「園の常識非常識」というテーマで研修をやったことがある。
この業界では常識と言われていることが如何に他からみると非常識であるのだということをディスカッションしながら見直していくというものだ。
とても好評だった企画の一つだ。

園経営のコンサルティングをなさっている方から伺った話だが、園を立て直す一番簡単な近道は社会的な「一般常識」を再度基礎からしっかりと教え込むことが最も効果があるらしい。挨拶・掃除・お辞儀・お礼・報連相・プロの自覚・・・きりがないがどれも一般常識の範疇だそうだ。

私も業界にいながら色々なお仕事をさせていただくので常識非常識が見えることがある。

たとえば、自園での保育をあまり園同士でストレートに語り合わない、見せ合わないなどもその一つだろう。通常、何かしら業界での様々な集まりや研修はそれぞれで培った技術を開放しお互いが高めあうためにその場を最大限活かしていくものだ。なぜなら業界が目指す理念に対するそれぞれの役割や目的があり、よりお互いが多くの学びを収穫することを目指しているからだと思う。

しかしこの幼児の教育保育業界ではそれはそれぞれの園の独自性だからと、そこに触れようとしないのも「常識非常識の特徴の一つ」だろうと私は思う。
特に教育の業界にこの傾向が根強いが、本音ベースでも建前が常にあり一定の距離は越えることができない。なぜこんなに損なことを選ぶのだろうといつもそのような話しを聞くと考えてしまう。

以前、ある方からこんな話を聞いたことがある。

「どうせ手に入れろうとしても簡単には手に入らないのだからむしろ思い切って全てを隠さず堂々と表に出した方がいい、そうやって開放したものが相手にとっての等価交換になりその御礼としてそれ相応の気付きや学びが返って得られるものだ。」

またブログを書いているとある事例を思い出した、

質問:『丸い器に水を溜めて、葉っぱを中心に浮かべその葉を自分の手前に寄せるにはどうすればいいか?』答え:『それは、水を自分と反対側に押し出せば逆に葉っぱは近づいてくるのだ。』これは以前、小学校で先生から習った授業にあった。きっと自然界の法則はそうなっているのだろう。

また以前お医者さんにこんなことを尋ねたことがある。

その地域のお医者さんは毎月勉強会をずっと近くの同業者とやっている。
でも、私も気になったのでそのお医者さんに聞いてみた。

「そんなに近くのお医者さんとオープンにやって大丈夫なのですか?」

すると、そのお医者さんはこう答えた。

「人の命を預かる大切な使命のある仕事なのだから(それは)当然のことだ、我々は別に特別なことをやっているわけではなく「当然」をやっているだけだ。」

今もその地域は、特に腕が良いお医者さんが多いと評判で県外からもかなり多くの人が病気を診てもらいにやってくる。

私が好きな温泉地で大分県の湯布院があるが、ある時TV番組で特集していた。
毎年大会や研修を行い、お互いの旅館で料理を競い教えあっているそうだ。
そこでもみんなお客さんのために「当然のことだ」と仰っていた。
この地域も県外からたくさんの方々が訪れていつも大繁盛している。

なぜこれが「当然」にできないのだろうか?

きっとこのようなことがなかなかできないのは、誰かが始めた狭い視野での自身の保身や権力の維持からはじまったのだろう。

何だか尊敬する企業人、京セラの名誉会長稲盛一夫氏の言葉を思い出した。

 「動機は善なりか、私心なかりしか」

医療や福祉の仕事は本当に奥が深いなと思う。
自分を犠牲にしてまで人に尽くすわけだから崇高な使命がある本当に特別な仕事なのだろうなと。

明日から2日間、見守る保育研究セミナー九州ブロックが熊本で開催される。

今回の機会が近くであっても、遠くであっても自分よりも大事な子どもたちのために色々な意味で早く常識的に「オープン」になるような時代が来ることを心から祈る。

園内研修2

今日は長崎で園内研修をやった。

職員間で共通理解に取り組むことでスタートをきるというとても良い研修になった。最初は理事長や園長から色々なご要望いただいたが、いざ研修が始まると皆様の熱気や一生懸命さがヒシヒシと伝わり本当に一緒に創り上げた素晴らしい園内研修ができたと思う。

ここは保育の環境がよくとても雰囲気がある素敵な園だった。
これだけの場所にこれだけの施設を用意して、これからの保育を見据えていたことは先見の明があるとしか思えない。
やはり人は、天運機運地運というものがあるのかもしれない。
研修をして人運もあることが分かった。
ご本人は当たり前に思うかもしれないが、実はこれは凄いことだ。

でもそれを引寄せているのはやはりその方の持つご人徳なのだろうと思う。
たとえ場所はどのようなところであろうとも、心が常に高く大きなものを目指していれば距離は全く関係ないのだなと改めて学ぶことができた。

人が何かの使命を帯びて自分から進んで自分より大事なもののためにより高みを目指す姿にはいつも深い感動を覚える。そのような方々にはやはり幸運の女神が運を引寄せてくれるのだろうなと思った。

先日からブログで書いている「サムシンググレート」をここでも実感できた。

人の縁は本当に不思議だ。

お隣同士で働いていても一生出会わない人がいる。
遠く離れていても一瞬の縁であっても出会う人がいる。

素敵な出会いは、その人に対する真理や至誠のお付き合いでのみ得られる真実の邂逅なのであろうと改めて思った。

常に大事なのはお互いが深いところに修めている「共通の思いや使命」を純粋に通わせることなのだと思う。

師匠がいつも仰る「共にお互いが違いを認め合える関係」とはきっと、深いところで共感することがあるからこそはじめて得られる関係なのだろう。

だからこそ、恥ずかしがらずに唯一自分に与えられた使命を通して仲間と一緒に実感し考え取り組んでいくことが本当の出会いを得る近道になるのだ。

人は人の間で生きていくからこそ喜びも悲しみも感じることができる・・・

「これからがスタートだ」という永遠に感謝する一日になった。

熊本での研修会

今日は、熊本市の保育園連盟主催のIT研修で講演をしました。

先日、全国私立保育園連盟神戸大会のIT分科会で話しをした時にお越しになっていた先生から呼んでいただいたのだ。また、雑草の森、青年部、連盟公式ウェブサイト制作などで色々と以前より弊社を本当に御贔屓にしていただいている上得意先様です。
弊社を信頼してくださり本当に有難いことで感謝の気持ちでいっぱいです。

今日はつい日ごろの感謝に気持ちが入ってしまって話す量が多すぎてしまった。
早口になったのではと、せっかくお越しいただいた方々が少し聞き苦しかったのではないかと反省しています。

今日の題目は、「情報リテラシーと活用術」についてだった。

これからパソコンを覚える方、現在使っている方、かなりできる方と様々な方々のご参加なのでどの話しを選択すれば良いかは悩むところでした。
それでも私が選ぶのはいつも自分が実践で体験したノウハウと自らの唯一の経験から得た誠の気づきの部分だけにしています。
どこかの本や他人から得た知識は応用がきかないし、聞き手にとっても得るところは少ないのではと思っています。
それに単なる知識であれば辞書でも簡単に得れますが、体験からくる確信からの答えは直接対面でしか表現して伝えることができないものだからです。

それにやはり自分は誰でもできるようなものはあえてやりたくないし、もっと大事なことや本質はいつも身近にあることを伝えたいと意識して話しをしていると思う。
だから講演前は、ずっと適当なことを言おうとしていないか自分の言葉と確信から話しをしているかと自分自身に返り自問自答を繰り返して臨んでいる。
だからよく「話しが重たくなる」こともあるが、こればかりはなかなかどうしようもない。
師匠は、軽々と真理を語りそれを聞き手の水準で分かるように工夫しているから凄い。自分がまだまだ未熟だと毎回話しをする機会があるたびに感じるものだ。

それはそうと何でも「研修」にお越しになる方々は、参加する段階で大きく開花する可能性を秘めている気がする。ある先生と講演終了後お話しをする機会があったのだが、やはり「はじめの一歩」を踏み出している方は間違いなく確かなゴールを手に入れるのだと思う。その雰囲気もあるし、やろうとする意志やオーラが見える。そのような方を見かけるといつも嬉しくなる。まだまだどんどん新しいことがやれるんだという可能性が子どもたちのモデルになっている気がするからかもしれない。とにかく嬉しいものだ。

今回の機会と邂逅がこれから園のためになればと願う。
そして何かしらのITを活用する場において、地域や子どもたち、子育てする保護者の皆様にとって素晴らしい良き未来が開けることを心から祈り願っています。感謝

サムシンググレート1

先日、致知出版社主催の筑波大学名誉教授の村上和雄先生の講演を拝聴してきた。
村上和雄先生は世界に先駆けてヒト・レニン遺伝子の解読に成功した方で遺伝子学ではかなり有名な方だ。講演内容もどれもとても興味深かったし、村上先生の存在が醸し出す温かさも心情の豊かさも素晴らしいものばかりだった。

特に講演での『サムシンググレート』の存在のお話しは発見だらけだった。

「遺伝子には人間が生まれてから死ぬまでの間のすべての情報が前もって書き込まれている。こんなに大量の情報がどこからそしてどうしてそれが集まってきたのか?そしてどのような仕組みでいったい誰が書き込んだのか?それを考えると眠れないほどになった。」

それが研究を始めるキッカケだったそうです、確かにかなり気になります。

 ニンゲンは未知の存在、それを遺伝子で解明していく・・・・

私の好奇心をそそる内容で、目も耳も心も一瞬たりとも離せませんでした。

「人間が遺伝子のスイッチをいつもオンオフしながら規則正しく指令をだしている。それはいったい誰なのか?意識ではなく深い遺伝子の記憶にある・・・」

「人間にはまだわからない『未知の何者か』がニンゲンの遺伝子をコントロールしているとしか思えない、例えて言えば神や仏と呼ぶ存在かもしれないし、大自然の摂理といったものかも知れませんがこんな不思議なことはない・・・」

そしてこの神秘な存在を『サムシンググレート』と名づけることにしたとのこと。この「サムシンググレート」は科学者が語れるギリギリの範囲の言葉だそうです。一歩間違うと、怪しいだとか宗教だとかになるからだそうです。

しかし神秘に満ちている遺伝子の世界の話だけど、「人間は一体どこからやってきたのか」という深い哲学にも繋がっているように私は感じた。
まるで大宇宙のことを感じるような話しに私も夢中で聞き入っていました。

著書もさることながら講演中のどのお話しをお聞きしていても、好奇心をそそる内容ばかりだった、ぜひまた著書を拝読しご縁をいただきたいものだ。

そしてひとつ、私自身でまた発見があった。

分からないということは、ある意味においては素晴らしいことだということ。
分かってしまうということは、寂しいことかもしれないということ。

分からないことを受け入れ、それを解明するというこで得られる「過ごした意味の存在」こそがもっとも大事なのだろうとも・・・

求めることが正しいと言ってしまうのは簡単だ、でもその過ごした時間の中で手に入れるものはきっとそれぞれだけが持つ深遠なものだしその人だけの神秘的な何かの「気づき」なのだろうとも思った。

これは「見守るほいく」ソフトにも相通じる真理だが、やはり人は分からないものを知ろうとするときに得られるこの『気づき』こそが自他共に受け与えることができる最上の真価なのだろう。それが大事であればあるほど、求める力はより強くなってより答えに近くなっていくのだろう。

人間というものを科学者として科学する深遠な問いを遺伝子で見つめるこの村上和雄先生の洞察は未来の子どもたちにもぜひ伝えたいと思った。

このような方が、子どもたちに人間の存在を科学から語っていただける機会があればもっと神秘な存在も自然に受け容れることができる子どもたちになるのだろうなと。

そしてそうなればと心から願い、この科学するという意味とその道が見得てきた最上の一日となった。

人生二度なし

故 森信三先生の言葉で特別に印象に残っているのが「人生二度なし」です。
そして特に私の座右にしているのが

「人間は一生のうち逢うべき人には必ず逢える。
    しかも一瞬早過ぎす、一瞬遅すぎない時に」

という人のご縁の不可思議さを深く洞察した言葉です。

一見偶然の出来事のように思いがちでも、その背後に、必然ともいえる天のはからい即ち天意ともいうべきものが、どう考えてみても働いているように思われるときがある。

今ある様々な縁も今ある私も実は何かしらの深い縁で繋がっていて、それをしっかり味わい噛みしめお互いに感謝していくということもこの一瞬に込められている気がする。

なかなかできないけれど、それが人の生の真の姿であるような気がする。

森信三先生当人がどのような時代に生き、どのような環境の中でこれらの邂逅に出会ったのかは私にはまったく分からない。しかし道を示してくださった先生の言葉を胸にその道を目指していくことはできる。

きっと森信三先生は「人生二度なし」という一言に、その生の全てが凝縮されていたのだろうと思う。

そして後進を歩む私はそこから学ぶ。

今、目の前にあるすべての出来事は絶対必然とし、絶対最善なのだ。
まずそれを貫き、やらないのに逃げることは「人生二度なし」とはありえない境地なのであろうと思う。

『今』という一瞬に、自己の命を吹き込む。
そう感じながら商売人としての私のご縁に向かいたいと思う。

夏の日の午後

夏も本格的な暑さを迎え、今年も多くの台風がこの町にやってきている。

年間何回もないが、大雨や大雪、地震や台風、濃霧や黄砂など何かの自然現象のせいで仕事が滞るというのも何だかある一面ではほっとする。
この自然現象で犠牲になったり災害を受ける当事者の方々のことさえなければ自然が近くにあることを知り心のどこかでは一種の安心ささえ感じてしまう。
自然は無為にどんなことも当たり前にしていく。
そしてそこに人の世界で言うところの非情ささえ当たり前に併せ持っているもの。

だから自然には人の生き死にさえも、地球の一部として受け容れる無限の包容力があるのだろう。

道元禅師にある

 「春は花 夏はほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり」

ここに自然あっての自己然を感じてしまう。

以前ブログでも紹介した陶芸家の北川八郎先生が仰っていた言葉にこんなものもある。

 「人は、人に与えた喜びや悲しみだけを持ってあの世に逝く。」

生まれた時から死ぬときまで人は多くの出来事と出会い、そして別れる。
何かを築いても、それは見た目は同じでも時が経てば同じものではない。
思い出や思想は、その人本人の生きた主観であるからだ。

以前、尊敬する経済人田坂広志先生の講演を拝聴したときに「万物螺旋の法則」のことを伺った。

螺旋は、横から見れば上にあがっている螺旋階段のように見えるが、真上から見ると同じところをただ丸く廻っているだけだという。

同じようなことをやっても、同じところに戻ることはない。
そう考えるとこれが自然の在るがままで在りのままの姿ということだろう。

人は同じように生きたとしても何もないことは在り得ない。
必ず何か新しいものを次の螺旋を歩むものたちへ遺していく。
見た目は灰となっても確かな何かは残っていく。
特に偉大な人が亡くなると、必ず後進を生きるものへ大切なものを遺していっていると感じるものだ。それは亡くなった後にその道を生きる人が必ず証明するからだ。

そこから我々は邂逅を得て未来への生き方を深く学び修養していくのだろう。
死生観に息づく深き思索の中にこそ、一期一会の意味が訪れる。

野見山広明の名刺の裏に書いたその一瞬の重みが真摯に胸に突き刺さる。
夏の日の午後を静かに過ごす、こんな日にも切々とかんながらの道をゆく。

明徳なる道

この年齢になって、いよいよもって自分の学の深みがないことに気付くことが多い。
そういう意味では師匠の言動や趣味、意味のある知識に驚くばかりだ。
どんな出来事も、雲がかっていない月のように素に物事に光を当て捉えている。
まるで四書五経の『大学』に書かれていることの実践をなさっているようだ。

大学の冒頭にある「明徳を明らかにするに在り。民に親しむに在り。至善に止まるに在り」の心境なのだろう。

俗に著名な方と言われる人たちの講演を拝聴しにいくことがある。
または、売れている有名な方の本を読むことがある。

全部が全部とは言わないが有名といわれる人たちにその後交わると実践と素行を目の当たりにして時折非常にがっかりすることもある。

たとえば、幼い頃に思い出す嫌な大人像の姿である。
きっとそんな感情感覚になっているのだろう。
いわゆる偉い人といわれる人たちの日ごろの陰の姿のことだ。
理想や建前ばかりで、現実は品行方正に欠ける人が多かった記憶だ。
幼心にそんな大人には絶対になりたくないと誓ったものだ。

今になるとそれも仕方ないことも分かるが、仕方なくではなく好きでやっている人もいる。よくそれで子どもたちの純粋な眼を騙せるなと思ってしまう。私が幼い頃はほとんど見抜いたものだ、実際はきっと気付いていないフリをしてあげてその大人のために見なかったことにしている優しい子どもが多いのではないかと思う。

しかし加齢してきて、体験しよく見聞きすると段々見分けができるようになる。

立派で本物の人は、品格や人徳を兼ね備えていて家族を大切にし自分の信念と自靖自献の精神でよく道を歩んでいるものだ。
決してそこからブレるということはない。
それは無為自然であり、無位無冠の人であることが多い。
そして多くの物事から真実を探りそして確固とした死生観を持っている。

そのような人に出会えることは少ない。
だから師匠がそうだと思ったら何が何でもついていく覚悟が弟子には必要だ。
周りがなんと言おうが、自分にしか分からないのだからそれは仕方がない。

孔子にも有名な弟子がたくさん居た。
その中でも弟子がこの世の中を理解し、道を説いていったのだと思う。

保育界には、今この「道」を説いていくことがとかく必要なのだと師匠は仰った。
私もそう思って仕方がない。

老子にある。

「上士、道を聞けば、勤めて之を行う。
 中士、道を聞けば、在るが若く、亡きが若し。
 下士、道を聞けば、大いに之を笑う。」

別に上中下と分けてあるが、覚者はきっと与えられるものに人は最上の叡智を与え、必要に応じてそれを渡す。常に叡智は、受け手側によるのだろう。

だから会社をやっていく以上、これかも色々な市井大衆の中で出会うどんな言葉にも確かな意味を感じ取るようにしながら学を修め、身を修めて貢献していくことを目指したいものだ。

意味を感じる

仕事をしていると色々な人たちや世界に出会う。

昔、イタリアのある大手製造メーカーと仕事を一緒にしたことがある。
その社長は2代目で、大規模なブドウ畑やクルーザーなども持った大富豪だった。
世界中に自社商品を輸出していてヨーロッパでも名の知れた大手企業だ。

その社長に誘われて一緒にイタリア料理を食べにいったことがある。
今までも多くのイタリア料理を食べたがそこでのディナーはいまだに忘れることができない。
あの時、あの場所で、あの緊張感が良かったのか、あの景色が良かったのか、高級感が良かったのか、まだ23歳という若さの自分が世界の大企業の社長と対等に話しができ食事を一緒にできることが楽しかったのか・・・あの光景は今の自分のビジネスマンとしてのビジョンに大きな影響を与えている。

その後、その輸入商材がご縁で今の仕事に出会うことになる。
種はいつも振り返ると想像できないところに全てあった。
だから日々の出来事の中で、未来に関係しないことはないということを知った。

今日銀座の松屋で開催されていた私が大好きな故星野道夫さんの写真展を見てきた。
この方は本当に凄い人だ、ぜひ生前に一度お会いしてみたかった。
その中に星野さんの表情が写っている写真も数枚あった。
星野さんは一体どんな気持ちでファインダーから世界を観ていたのだろうか?
そしていったい誰に何を見せたかったのだろうか?
きっと感動したことを感動するままに、感動を人に伝えることで感動したのだろう。
よく生きた人はよく生きたことを何かしら形にできるのだな・・・

大きな写真を見ながら、心が深く共感した一日になった。

星野道夫さんの遺したコトバの中で特に好きなものがある。

『いつかある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。
たとえばこんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろう。
もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどう伝えるかって。
写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンバスに描いて見せるか、、、
いや、やっぱり言葉で伝えたらいいのかな。
その人はこう言ったんだ。
自分が変わってゆくことだって…。
その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだって思うって。』

人は、何かしらの感動からでしか変わっていくことはない。
だから感動することをいつまでもなくしてはいけないと私は思う。

何がどんな影響を及ぼすのか誰にも分からない。
だから日々の一瞬の出来事から意味を感じる力を大切にしていきたいものだ。