大事なこと

商売をしながら道を目指しているといつもどこかで松下幸之助氏の遺訓に出会う。

私も、松下幸之助氏に関する著書は今までたくさん読ませていただいた。
ビデオや関係者の講演を拝聴したことも数えると結構なご縁だ。
生きている時にご本人にはお会いする機会はとうとう得れなかったが、商売を通しての学びの中で日々邂逅をいただいているのかもしれない。
そう思うと生きている方からよりも、亡くなった方と同じ道を歩む中でその方の軌跡や心の共感に出会うことがあるから本当に面白い。

一般的に人は仕事をジャンルわけしている。

とりわけ自分が分けているのだろうが福祉の仕事とか、商売とか教育とか宗教とか、自分の所属するジャンルで自己を位置づけ自己形成をしている。ふつう、人は、よほどのことがない限り何もない素のままという存在を認めることができず宙に浮いてる自分のありのままを認めることがとにかく嫌なのだろう。確かに自分はどんな人かと説明を求められれば、身の回りの職業と肩書き、家族構成、出身地などが一番説明するのに手っ取り早いしそれが自分だと言い切ったほうが尊敬される。大衆も身の回りの人もそういう基準でニンゲンを見ているから無意識にそれが刷り込まれているのだろう。

だからその職業や肩書きを持ったらデタラメなことは絶対にやらない。
それに、その職業が持つ特性から尊敬したり軽蔑したりする基準があるため分けざるをえなかったのだろう。もしその人が矛盾する行動をとったならば、世間からよほど認められた肩書きがない限り自分勝手でただの自己中心的な人だと大衆からいわれるのだろう。しかし、よく本質を観ている人はそんな肩書きは特に気にしていなかったりするものだ。

では、過去の偉人といわれる人たちの実際はどうだっだろうか?

私が読んだ信念のを持った故人の伝記での実際の行動や考え方はまったく違うことに気付く。それにそれは偉人だけに止まらず今残っている文化や歴史の中でもそれは必ず行われてきた。

先人の人たちは、世の中のために商売だからと福祉を貫いていた。
先人の人たちは、世の中のために福祉だからと宗教を貫いていた。
先人の人たちは、世の中のために教育だからと商売を貫いていた。

そしてあの松下幸之助氏も、商売を通して物心の両面の救済をすると示した。
これは商売を通して宗教を行ったのではないか?

私は、別に商売とか宗教とか教育とか福祉とかそのような基準はどうでも良いと思う。

大事なことは、その人の信念で基準を決めそれを実践実行したかどうかだと思う。

世間一般の刷り込みと価値観で大事なことをやろうとすることを留めては絶対にいけない。世間の人は色々なことを言うかもしれない。でもそれは自分を形成するために境界を踏み外れる人を毛嫌いしているだけだからだと私は思う。

誰が何といおうと、商売も宗教も教育も福祉も関係なくニンゲンとしての本質をどんな時も大切にしていきたい。