明徳なる道

この年齢になって、いよいよもって自分の学の深みがないことに気付くことが多い。
そういう意味では師匠の言動や趣味、意味のある知識に驚くばかりだ。
どんな出来事も、雲がかっていない月のように素に物事に光を当て捉えている。
まるで四書五経の『大学』に書かれていることの実践をなさっているようだ。

大学の冒頭にある「明徳を明らかにするに在り。民に親しむに在り。至善に止まるに在り」の心境なのだろう。

俗に著名な方と言われる人たちの講演を拝聴しにいくことがある。
または、売れている有名な方の本を読むことがある。

全部が全部とは言わないが有名といわれる人たちにその後交わると実践と素行を目の当たりにして時折非常にがっかりすることもある。

たとえば、幼い頃に思い出す嫌な大人像の姿である。
きっとそんな感情感覚になっているのだろう。
いわゆる偉い人といわれる人たちの日ごろの陰の姿のことだ。
理想や建前ばかりで、現実は品行方正に欠ける人が多かった記憶だ。
幼心にそんな大人には絶対になりたくないと誓ったものだ。

今になるとそれも仕方ないことも分かるが、仕方なくではなく好きでやっている人もいる。よくそれで子どもたちの純粋な眼を騙せるなと思ってしまう。私が幼い頃はほとんど見抜いたものだ、実際はきっと気付いていないフリをしてあげてその大人のために見なかったことにしている優しい子どもが多いのではないかと思う。

しかし加齢してきて、体験しよく見聞きすると段々見分けができるようになる。

立派で本物の人は、品格や人徳を兼ね備えていて家族を大切にし自分の信念と自靖自献の精神でよく道を歩んでいるものだ。
決してそこからブレるということはない。
それは無為自然であり、無位無冠の人であることが多い。
そして多くの物事から真実を探りそして確固とした死生観を持っている。

そのような人に出会えることは少ない。
だから師匠がそうだと思ったら何が何でもついていく覚悟が弟子には必要だ。
周りがなんと言おうが、自分にしか分からないのだからそれは仕方がない。

孔子にも有名な弟子がたくさん居た。
その中でも弟子がこの世の中を理解し、道を説いていったのだと思う。

保育界には、今この「道」を説いていくことがとかく必要なのだと師匠は仰った。
私もそう思って仕方がない。

老子にある。

「上士、道を聞けば、勤めて之を行う。
 中士、道を聞けば、在るが若く、亡きが若し。
 下士、道を聞けば、大いに之を笑う。」

別に上中下と分けてあるが、覚者はきっと与えられるものに人は最上の叡智を与え、必要に応じてそれを渡す。常に叡智は、受け手側によるのだろう。

だから会社をやっていく以上、これかも色々な市井大衆の中で出会うどんな言葉にも確かな意味を感じ取るようにしながら学を修め、身を修めて貢献していくことを目指したいものだ。