邂逅

今年を振り返ってみると、本当にたくさんの懐かしいご縁をいただきました。ご縁は不思議で、歳月を超えて出会うものです。それは師友との邂逅であったり、伝統との邂逅であったり、暮らしや道具との邂逅であったり、何度も繰り返し私たちは結ばれながら円環していきます。

意味のないことはこの世には存在しないとわかっているつもりでも、どうしても視野が狭くなり自分の見ている世界だけに囚われてしまいます。

ふと夜空を見上げれば、星々が無数に広がる宇宙の中に私たちが存在しているのを実感することがあります。この不思議な存在である自分自身を観照すれば、存在しているなにか偉大なものを感ぜずにはおれません。

繰り返し繰り返し、私たちは思い出や体験を記憶にして輪廻転生していくといいますがその一つ一つの出会いもまた輪廻転生しているのかもしれません。いのちを活かすというのは、大きな意味では出会いを活かすことです。

ひとつの出会いから人生が変わり、一つの出会いから意味がついていく・・・

意味が何かを知ることは、自分自身のいのちの旅を知ることです。このいのちはどのような旅を続けてきたか、そしてこれからどこに向かっていくのか、今はどうなのか、その意味は何か、このように内省を続けることで忘れられていた記憶にたどり着くことができます。

それを「邂逅」というのかもしれません。

この一年、いろいろなことがありましたが私の人生にとっては大きな節目の年だったと思います。恩返しに生きる人生に悔いはありませんから、引き続き私の天命を全うできるように日々の暮らしを充実させつつ意味を紡いでいのちの記憶を伝承し、子どもたちに譲っていきたいと思います。

今年も御蔭様に見守られた一年でした、ありがとうございました。

 

評価の刷り込み

人はどのようなことに取り組むことになっていたとしても、その「本質」が変わればやっていることの意味が変わってきます。なぜでは本質が変わってしまうのか、ここには「我」によって左右されることはわかっていますがその「我」は何によって影響を受けるのか。それは評価ではないかと最近は感じています。

その評価は、他人からの評価のことです。

他人からの評価とは、人が自分をどう思っているかとか、または自分が周りからどう思われたいかとか、自分の評価を自分で上げ下げするために基準にしているものです。

自分が好きなことをしていて認められていると実感している人は、あまり他人からの評価を気にしていません。しかし自分自身で認めることができない自信のない人は、いつもその評価に「我」が影響をうけて本質から外れていくように思います。

そもそも何のためにやるのかを知り、その目的のために楽しんで一生懸命に取り組んでいく人は他人や自分がどのように評価しているかどうかなどを気にしてはいません。無我夢中で一心不乱に取り組む人は、「我」を忘れて没頭していきます。そうすることでより一層本質に近づき、その本質の中で得られる真理や得難い智慧の習得や発見や発明に好奇心も活気づいていくように思います。

誰かに認められたいからや自分が認めたいからという「我」が前提を覆したとき、人は本質から外れていきます。

常に「我」に呑まれないように注意し、何のためにやるのかと常に内省と自覚をもって事に当たることこそが本質の維持につながるということでしょう。

誰かや自分の評価ばかりを気にして生きていく人生は、その幸福の価値が本当の自分ではない別のところになってしまいます。それが余計に我を強くし、自分自身を認めることができない原因になっているのでしょう。我を省き、本当の自分自身を取り戻すことがこの評価の刷り込みを取り払う方法かもしれません。

世間がどう評価されようが自他のことを上下で物事を見る癖をやめて、ちっぽけなプライドよりもより大きな目的の実現のために生きていきたいものです。

日々を味わい、今を楽しみ、いただいている機会やご縁に感謝しながら子どもたちに譲っていきたい未来を創造していきたいと思います。

 

 

徳の甦生

今年の一年もまた、温故知新や復古創新に取り組んだ一年になりました。一般的に古くなったものを新しくしていくのは当たり前のことですが新しいものをわざわざ古くしていくというのは当たり前ではありません。

時代的には、技術は進歩していきますからどんどん新しい素材や仕組みが席巻していきます。そうなると古い素材や仕組みが対応できませんから、新しいものに換えざるを得ません。

例えば、昔使っていたポケベルやPHSに戻そうなどといってももう環境がなくなっているのだから使うことができません。それに今更昔の技術に回帰してもメリットもなくなっています。

特にIT技術の革新は早く、ほんのちょっと前まで主流だった技術があっという間に古くなっていきますからこちらの柔軟性や順応力が重要になります。人工知能になればさらに発展の速度は加速するはずです。

これらは古いものを壊して新しくすることです。

しかし先ほどの新しいものを壊してわざわざ古くするとはどういうことか、それは見直しや見立て直しをすることで本来の智慧を甦生することです。そしてそこには職人の技術が必要になります。

つまりは先ほどのIT技術とは異なり、新しいものを改善し見直すにはそれ相応の智慧を持つ人たちの技術が求められるのです。

これは仕事でも同じく、新しいプロジェクトを創るのは簡単ですが過去のプロジェクトを新しくするためには経験や智慧や改善できる技術が必要になります。それは敢えて新しくしない技術といってもいいかもしれません。

昔の智慧を現代に復活し甦生させていくにはどう見直すか、どう見立てるかといった改善の目利きが必要です。そこには思想や哲学、さらには自然観や歴史観、死生観など様々な生き方や生き様、もっと言えば文化に精通していなければできないからです。古民家甦生でいえば、数々の伝統の職人さんたちと意見を合わせながら最適な技術をそこに施していくことで新しいものが古くなっていくのです。そこには職人技術いった伝統の智慧が凝縮されます。

技術といっても、この職人の技術は英語でひとくくりに語られるただのテクノロジーではなく心技体の合一した人格が備わっている叡智の伝統技術です。つまり新しいものを古くするには、人格に伴った伝統技術が必要になるからです。

そしてその伝統技術もっと別の言い方にすればそれを「徳」ともいうのかもしれません。

「徳」が備わってこそ本物の技術を持ち新しいものを古くすることができると私は思います。それは様々なものをモッタイナイと感じる心、ご縁を繋ぎムスブ心、子孫のことをミマモル心、清らかに澄まされたマゴコロ、など、日本の文化を体現する徳が智慧として技術に還元されるということです。

今回の聴福庵の離れの復古創新は、新しいものを古くした一つのロールモデルです。引き続き、子どもたちのためになるような徳の甦生を実践していきたいと思います。

いのちの物語

古民家甦生を通して古いものに触れる機会が増えています。この古いものというのは、いろいろな定義があります。時間的に経過したものや、経年で変化したもの、単に新品に対して中古という言い方もします。

しかしこの古いものは、ただ古いと見えるのは見た目のところを見ているだけでその古さは使い込まれてきた古さというものがあります。これは暮らしの古さであり、共に暮らした思い出を持っているという懐かしさのことです。

この懐かしさとは何か、私が古いものに触れて直観するのはその古いものが生きてきたいのちの体験を感じることです。どのような体験をしてきたか、そのものに触れてじっと五感を研ぎ澄ませていると語り掛けてきます。

語り掛ける声に従って、そのものを使ってみると懐かしい思い出を私に見せてくれます。どのような主人がいて、どのような道具であったか、また今までどのようなことがあって何を感じてきたか、語り掛けてくるのです。

私たちのいのちは、有機物無機物に関係なくすべてものには記憶があります。その記憶は思い出として、魂を分け与えてこの世に残り続けています。時として、それが目には見えない抜け殻のようになった存在であっても、あるいは空間や場で何も見えない空気のような存在になっていたとしてもそれが遺り続けます。

それを私は「いのちの物語」であると感じます。

私たちが触れる古く懐かしいものは、このいのちの物語のことです。

どんないのちの物語を持っていて、そしてこれからどんな新たないのちの物語を一緒に築き上げていくか。共にいのちを分かち合い生きるものとして、私たちはお互いの絆を結び、一緒に苦楽を味わい思い出を創造していくのです。

善い物語を創りたい、善いいいのちを咲かせたい、すべてのいのちを活かし合って一緒に暮らしていきたいというのがいのちの記憶の本命です。

引き続き、物語を紡ぎながら一期一会のいのちの旅を仲間たちと一緒に歩んでいきたいと思います。

経営視線~一緒に働くということ~

人にはそれぞれに自分の見ている視野というものがあります。その視野の広さによって、どこまで物事が観えているかがはっきりしてきます。そういう人たちが集まって集団や組織をつくるのだから、その視野がどのように共通理解されているかで協力の仕方もまた変わってくるものです。

例えば、会社組織でいえばよくバラバラになっている感じがする組織は個々が自分勝手の視野や視点で自分の仕事のところだけをみて働こうとします。目の前の作業ばかりに追われ視野が狭くなってくると余計に会社全体の目的や目標を見失い、自分だけの仕事に没頭しているうちに他を邪魔し自分だけの仕事で良し悪しを判断して非協力的な雰囲気を出していきます。

本人はちゃんと仕事をしていると思っていても、それは自分の小さな狭い視野でのことですから笑えない話ですがひょっとすると仕事はできても会社が潰れたということにもなるかもしれません。

人は自分だけの視野に閉じこもったり、何のためにということを思わずに部分最適ばかりに目を奪われると視野が狭くなっていくばかりです。

そうならないためには日ごろから視野が狭くならないような仕事の仕方、働き方が必要です。言い換えれば視野を広く働く仕組みや訓練が必要だと思います。例えば、全体最適を目指し、なぜ会社にこの仕事が必要なのか、全体的に何を目指しているのか、常に今の自分が取り組んでいることを、長い目で考えたり、さらには広い視点で本質と対峙したりしながらみんなと協力し合って全体最適になっているかと常に視野を広げるフィードバックを求め続ける必要があります。

バラバラではないというのは、個々の勝手な視野で部分最適に行うのではなくみんなで一緒に広い視野を持ち合って一緒に取り組んでいくということです。別にみんなで同じことを一斉にやることが一緒にやることではなく、みんなが同じ目的を共有し同じ視野で一緒に取り組んでいくということがバラバラではないということです。

視野が狭くなるのは、自分自身に囚われたり評価を気にしたり、保身やプライドや我が邪魔していることが大いに影響があると思います。自分の心配をして全体を意識しなくなればそれは視野が狭くなります。協力しやすい風土や、助け合いの風土が自分の視野の狭さによって作業に没頭し閉じこもったことでぶち壊されていることを自覚する必要があります。先ほどの自分の仕事はできたけど会社が潰れたは、言い換えれば自分の作業はできたけどみんなの働きには貢献しなかったということになりかねません。会社やトップが求めているのは部分最適ではないことは明白です。そうならないように「一緒に働くときの働き方」を新たに身に着けなければなりません。

ここで最も大事なことは「常に視野を広げるような働き方をすること」でありそれは自分の心配よりもみんなの心配をすることや、会社が目指している大きな目的や理念の方をみて、本当は何をすることが本来の仕事なのかと常に周囲と一緒に思いやりをもって取り組むこと。つまり常に視野が狭くならないような働き方をすることではないかと私は思います。

目的も本質も知らずに作業をするのは、効率優先結果優先、評価優先で刷り込まれてきた歪んだ個人主義の影響を受けたのでしょうがその刷り込みを打破するためには視野を広げ、視点を合わせみんなで一緒に取り組む新たな習慣を身に着けてみんなが経営者のようになって働いていくことだと私は思います。それをみんなが経営視線になるともいうのでしょう。

引き続き、課題も明確になっていますからどうあるべきか深めていこうと思います。

信じる力

人生には苦しい時というものが何回もあります。その時、私たちは信じる力が減退し弱ってくるものです。その時、自分以外の何かの「信」に頼って自分を信じる力を甦生させていきます。

人は一人ではないと思うとき、このままでいいと思えるとき、信じる力によって救われていくものです。

この信じる力というものは、希望でもあり生きていくうえで自立していくためにとても大切ないのちの原動力でもあります。人間は信じあうことで不可能を可能にし、信じることができてはじめて感謝の意味を実感することができるように思います。

信頼というものは、その信じる力を伸ばすとき、また信じる力を回復するときに欠かせないものです。信頼関係が持てる人との心の安心基地がある人は、どんなに困難が降りかかって信じる力が失われてもその安心基地に頼ることで自分を信じる力を増幅させます。

この安心基地は、一緒に信じてくれる仲間の存在であったり同志やパートナーの存在であったり、どんな時も片時も離れずに自分を信じてくれる内在する自分の魂であったりします。

人はこの安心基地を築き上げるために、それぞれに信じるものへ向かって一緒に力を合わせて取り組んでいきます。人が協力するのは、この信じる力を合わせるためでもあり、安心基地を共に築いていくためでもあります。

誰かと一緒に関わり何かを行う理由は、この信じる力を身に着けてその「信」によって互いの人生を共存共栄していくためでもあります。人は「信」で繋がるからこそ人生の歓びや楽しみ、仕合せを感じられるのです。

その信で繋がることができるのなら、お互いの信を分け合って助け合い自分の使命を全うしていくことができます。人間は時として、自分を信じられなくなる時が必ずあります。夢を諦めそうなとき、孤独を感じるとき、それは自分を強く逞しくしてくださっているのですが信じあえる存在がいることで夢に救われ、孤独よりも愛の大きさを知るのです。

私のメンターが見守るとき『本当の自立とは自分でできるようになることではなく、人に頼ることができるようになること』といつも仰っていますが、これは「信頼」を深めれば深めるほどにその意味の奥深さが分かります。

勘違いした価値観や、刷り込みや常識に囚われればこの自立の意味もはき違えて信じる力を減退するための環境を自らが子どもたちに広げてしまうかもしれません。もう一度、信じるとは何か、なぜ信じるのかと確認しながら本来のあるべき姿に回帰し、信で繋がり、信で頼り合う関係を構築していきたいと思います。

 

信頼の仕組み

一緒に何かを誰かとやるとき、私たちは信頼というものを使います。一緒に仕事をする人のことが信頼できるか、これはチームにおいてはとても重要です。人は何をもって相手を信頼するのか、能力とか、性格とか、気が合うとか、目的が同じとかいろいろとありますが、ひとつは自分自身との付き合い方、言い換えればその生き方、そして共に一緒に生きていく中では頼り頼られる場数によって積み上げられるものだと思います。

そもそも会社や組織では一人でできることはほとんどありません。特に大きな目的があれば、一人ではできないから周りの協力を借りるのです。というよりも、一人でやる人は一人でやることしかやっていないのだから組織の意味が分かっていないのかもしれません。

一人で評価を意識して信頼関係をつくろうとせずに仕事をする人は、仕事がタコツボかしたりブラックボックス化していきます。仕事は効率的になり、自分の思い通りに進めることはできますが信頼関係を築くことが後回しになっていき誰かと一緒に仕事をすることが苦手になることがあるようです。

一緒にしていくなかで、その人の裏も表もみんな観えてきてその人のことを丸ごと理解していく中で人はお互いの弱みを知り合い頼り合うことができます。能力だけで結果だけで信用はし合っても、お互いに信頼できないのでは未来に対して大きな目的を共にするときに本来の成果はでてきません。

お互いに信頼し合うからこそ、共に助け合いそのプロセスも楽しくなり互いに大きな安心の中で未来を築いていくことができるからです。信頼できない人と一緒では、どんなことも心配ですしお互いを丸ごと理解し合って頼り合おうとしない人とは一緒に何かをやろうとも思いません。

一人で仕事をする癖を持っている人は、信頼関係が築けませんし一緒にやろうと思われることもありません。わざわざ失敗するかもしれない人と組みたくないとか、自分ができないと思われたくないとか、誰かとやるのはめんどくさいとか、理由はいっぱいありますが本当は信頼を築くことを怠っているということになります。

信頼し合うために一緒に仕事をするといっても過言ではなく、一緒に何かをやることで日々に信頼関係を築き上げていくのが共に働く仲間である証明でもあります。共に一緒に頼り合っているからこそ、何かあったときに心を許し合って働くことができる。大事な局面において、何を拠所にみんなで協力して力を合わせるか、それが信頼関係を持つということなのです。

今は歪んだ個人主義と責任ばかり押し付けられた過去の組織体験において信頼を築くことが優先順位からかなり低いところにおちています。誰かと何かを一緒にやるという力はこれからの未来において何よりも優先する力になるのは間違いありません。信頼は、つながりをもって人が助け合い思いやり生きていくための最大の仕組みなのです。

子どもたちに、信頼の大切さを譲り遺せる背中を見せられるように、信頼を優先する仕組みをつくりあげていきたいと思います。

未来の危機

マネジメントという言葉の発明者にピーター・ドラッカーがいます。経営をすればこのドラッカーの言葉は共感することが多く、会社とは何か、経営とは何か、何のために経営するのかの道理が語られています。

そのドラッカーの言葉には、目を覚まされることが多くあります。

例えば、「日本が直面しているのは危機ではなく、時代の変わり目=移行期なのです」という言葉。危機とは何か、危機とは変化を迫られているということです。

私の好きな言葉に、GEのジャックウェルチの「change before you have to」があります。これは変化を迫られる前に自らが変わるという意味になります。人間は変化が押し迫ってからその変化に背中を押されてはじめて変わろうとしますがそれは自分から変わったのではなく、変化によって変わらせられたのです。

同じ変化に対応するのであっても、受け身になって変化するのと主体的に変化するのとでは変化に柔軟に対応した本質が全く異なります。主体的な変化とは楽しく発見と好奇心と共に変化そのものになっています。自分の力を用いて変化になったか、それとも外圧的に変化させられたか、そのプロセスは成長や自己のブラッシュアップにおいて大きな差になるのです。

またドラッカーはこういいます。

「起業家は変化を当たり前のものとして見る。自ら変化を起こそうとはしないが、変化を探し、変化を機会として利用しようとする。それが起業家である。

そもそも変化を特別視するか、それとも変化を当たり前だとみているか。変わらないことの方が普通であるか、変わっていくことの方が普通であるか。マネジメントにマンネリはありません、だからこそ常に自分自身をブラッシュアップするために日々に実践を改善し続けるのです。また日々に学んで、自己を新しくし続ける努力を怠らないのです。

今日これをやったらから明日も同じことをやればいいという発想はどこか、自分の力を発揮していないように思います。危機感とは、危険と好機であるとJFケネディも言いましたが常に隣り合わせにある希望と絶望を行き来しながらも挑戦を已めないことで人間は変化そのものになっていけるように思います。

またドラッカーはこう言います。

「変化をマネジメントする最善の方法は、自ら変化をつくりだすことである。」と。

いい経営実践とは、常に自分を変化させ続けること、挑戦を続けていくことだともいいます。

ここまで書いて伝えたいのは、本当の危機(リスク)とは何かと思えば「変化」しなくなることだということです。このまま変わらないと思っていることほどのリスクもなく、危機は突然来るのではなくもう危機だということに気づけるかということなのです。それが変化の中で生きる本能の姿でもあります。

またこうもいいます。

「このような転換期に生き残るためには変化を待っていてはいけない。自ら変革の担い手となりなさい。もちろん大きなリスクがある。でも受身で変化に飲み込まれてしまうより、リスクはずっと小さい。」

自らが変化の担い手になるということ、自分が先に変わっていきなさいということです。

最後に未来学者と称されたドラッカーの箴言です。

「未来を予測するだけでは問題をまねくだけである。なすべきことは、すでに起こった未来に取り組み、あるいは来るべき未来を発生させるべく働くことである。

自分が未来を創り出せと激励があります。未来はこうなるからと予測しただ準備すればいいのではなく、未来を自ら創り出すことのために働くことが未来そのものになることです。言い換えるのなら答えをもって生きていくということです。

カグヤは子ども第一義の理念を掲げ、先に未来を定めています。

引き続き、実践を積み重ねて改善を続けて子どもの未来に生きていきたいと思います。

 

危機感

危機感というものがあります。危機感がある人は、本気を持続できる人であり、物事を先送りしない人のことです。自ら厳しい環境に飛び込んだり、つらく苦しくても厳しい状況に入ってでも現状打破しようとする人たちのことです。

この危機感というものは、現実を直視することで得られるものです。何となく周りに流されていたり、マンネリ化しているとそれは出てきません。この危機感は、命の危険にさらされたり、もしくは絶体絶命になるかもしれないという状況で発揮されていくものです。

身の危険も感じず、安全で安心な中にいれば危機感は減退してきてそのうち危機を感じる力が失われていくものです。しかし人間は危機感があるから対処していくものであり、危機意識が発揮されることによって真剣に取り組んでいくことができるように思います。

埼玉県に展開する食生活提案型スーパーマーケットの会長にこういう言葉があります。

「このままでは、ヤオコーがゆでガエルになってしまう」。実はそんな強い危機感を私は抱いていました。ヤオコーはこれまでずっと増益が続いています。毎年、決算賞与も出て、周囲からも「すごいですね」とおだてられる。厳しい状況に直面せずに会社が成長すると、社員に油断も生じます。ヤオコーの社風は家庭的で、仲がいいのですが、逆に言い訳が通用したり、甘えが生じたりする部分もあります。温かい社風はこれからも必要ですが、競争が激しくなる中で厳しさも求められている。」

ゆでガエルというのは、居心地のよいぬるま湯に長時間漬かっていると身近にやってくる危機にも鈍くなり最後はゆでられて死んでしまうということです。

GEのジャックウェルチも危機感について語ります。

「危機がなければ、人間はどれほど現状に安住することか。実際、あなたの会社のような官僚主義的な組織はぬるま湯のように心地よく、社員は決してそこから出ようとしません。ましてや冷たい水に飛び込みたいという欲求は少しも持っていないでしょう。社員は飛び込もうとしないのですから、背中を押してやる必要があります。」

現状を変えようと強い熱意と情熱がなければ決して何も変わりません。ましては自ら厳しい環境に飛び込もうなどよほど背中を押されなければふつうはしないものです。よく成長する社員や、人物は常に自分をより高いところに運ぶために敢えて厳しい環境に挑んでいくように思います。挑戦することは、自分自身を創り上げていくために必要でそれを効果的に発揮させるのが危機感とも言えます。この危機感があれば、怠惰な人でも自然に学び挑戦し自分自身をブラッシュアップしていくことができるからです。

そう考えてみると、危機感とは生存していくための本能が行っているものです。この本能の減退こそが本当の危機であることが分かります。本当の危機を迎えないために油断こそ大敵であると日ごろから戒めるべきは本能を使い続けることです。

本能を使わずに、頭でっかちにわかった気になった頭だけでなんでも処理していこうとするところにマンネリ化もひろがります。マンネリ化とは本能が失われた状態という事になります。

常に自分の本能を発揮するために健全な危機感は何よりも重要です。

子どもたちに歪んだ生き様を遺さないように常に本能を発揮して危機感と危機意識を醸成していきたいと思います。

聴福力

「読み」と「聴く」という言葉があります。

この読みとは、物事の筋道を読むことで言い換えれば読み解く力であるとも言えます。よく「読みが深い」や「読みが当たる」、「読みが鋭い」という言葉もありますがこの読み解く力は全体を観通す力のことで、過去の経験の洞察や事物をよく観察するときに読みを使います。

しかしこの読みは、時として将棋や囲碁で使われる「勝手読み」のように相手の応手をしっかり考えずに、自分に都合のいい手順を読むことになり独善的に陥ることもあります。これは深読みし過ぎていることで、うがちすぎたということです。このうがちすぎるというのは、辞書で意味を引くと「物事の本質や人情の機微をとらえようと執着するあまり、逆に真実からかけ離れてしまうこと。」と記されます。

つまりは、読みだけで全部を解決しようとすると深読みし過ぎたりうがちすぎたりするということです。読みが外れるのはこういう心の態度が原因になります。なぜ読みだけでいこうとするのかは、聴けないからです。

今度は「聴く」というものがあります。聴くは聴き過ぎや、聴きが外れるとか、聴きが当たらないなどという言葉はありません。分からないときは素直に聴けばいい、また相手のことを深く聴けば聴くほどに共感し受容しますから問題はありません。聴けば真実がそのままに観えますから聴き外れもありません。

読みは独善的になりますが聴くは満善的になります。読みは自分中心になりますが、聴くは全体中心になります。人間は読みだけに頼るのではなく、聴くことが何よりもバランスを保つうえで重要になるということです。

独善的に陥らない方法は、聴くしかありません。聴き上手は常に、周囲の力を借りることができ、また人材を活かすことができます。

私は意味を深めるために、読み解く力は必要だとは思いますが生きていくためにはその意味の本質を理解するために聴くことの方がもっと重要だと感じます。聴くことで人は自他を信じることができ、聴くことで全体の声にならないようなすべての声を受容し円満に循環していくための道理を学ぶことができるからです。

聴福人というのは、独善的な人ではなく満善的な人になるということです。この満善的な力のことを私は聴福力と定義しています。

引き続き、組織の風通しを見極め実践を高めて聴福人の道を弘めていきたいと思います。