無責任の無自覚

生きた仕事と死んだ仕事がある。

生きた仕事は、過ちが少なく死んだ仕事は過ちがたくさんある。
これは、別に失敗しないということを言っているわけではない。
それに過ちが悪くて、過ちがないことが良いと言っているわけでもない。

真に生きた仕事は失敗がとても大きな成長の糧になり、その次に繋がっていく。
しかし死んだ仕事は本当に失敗する、なぜならそれは次に繋がっていかないからだ。

まず生きた仕事をするために大切なことはその任された仕事に対してどれくらい、事前に周到に深め正確に準備し何度も自らで本当にその期待に応えられるかを上司に確認して進めたかということが大きく関わってくる。

かの松下幸之助さんはこういう。

「上司が一度承認したからそれで事足りると思ってはいけない、それであなたが承認したでしょうとなるのは言っているその人が間違っている。一度判を押してそれで事足りるとするのはそれではとても真に過ちのない生きた仕事はできるはずがないと思うべきである」と。

生きた仕事をするというのはそういう任されたことを正しく理解しているところに生きた仕事というものがあるのだと私も思う。

これは人生で考えてみても良いだろう。
流されて生きる人と、日々、充実して生きている人の差でも同じであるからだ。流されていく人は、ただ流され死んでいき、充実している人は常に確かめながら内省し生きていくようなものだ。

なぜ、仕事もよくよく確かめ内省して細心の配慮で事前に深めて共に進めていく必要があるのか。
それは自分の会社の中や社会での自らの存在の影響力を正しく知っている、つまりは「責任を自覚」するとということになる。

ただ失敗をしないというのはお使いを依頼された作業を正確に行うことを言うのではなく、仕事を任されるのだから自分という存在が何より仕事を通じて相手(会社やお客様)に与える影響力を正しく理解しその評価に対するきちんとした責任が取れるということになる。

もし作業が仕事となるのなら何も自分の影響を自覚しない死んだ仕事となるし、さらに悪いことには自分が責任を果たしたことにならないから当然当事者意識も問題意識も危機感も育たず、自分が練り上がらず、良い意味でのプレッシャーも感じず遣り甲斐や成長のストレスも正しい方向を向くことがない。

責任がないところに真の遣り甲斐など存在しない。
その遣り甲斐は、その影響力と自覚を自分が持っているから得ることができる

人は、仕事や役割を任されるから命を使おうとし成長し自立する。

会社や社会、上司から役割を任されるのは、その影響力や評価に自分が応えると言うことである。
それを自覚して、その自分の責任を果たすというところに会社や社会を発展させ真の共生と自己実現の両立ができる。

別に自分勝手に作業を進めて、自立しているというのは単なる勘違いでそれは自分勝手に好き勝手動いて周囲の評価を下げて周りへ悪影響を及ぼしているだけで、常に無自覚無責任にやりっぱなしの死んだ仕事ばかりに取り付かれた亡者や所謂世間でいうところの悪い意味でのサラリーマンのようになっているということになる。

私たちがコンサルティングで入っている園でもそうだけれど、子どもたちに対して、また周囲の保護者へ自分がどれだけ影響力があるかを正しく理解しているかで取り組みが変わってくる。もちろんそこを掘り下げれば自然に問題意識も危機感も育っていく。自らの保育の在り方や自分の日頃の生き方としての基本としてもそうだけれど、自らが子どもへ与えてしまう影響力を知り、自分の存在が相手にどれだけの価値があるかを正しく自覚すれば自然に内省的になるし本当に生きた良い仕事ができるようになるものだ。

よくだらしないやみっともないことをする保育者もいる。
よくカッコウや言葉遣い、身だしなみがあまりにも酷い人が居るけれどその人たちが本当に子どもへ対する自分の影響力の自覚があるようにはみえない。

子どもたちには尊敬と慈愛が必要で、もちろん外見をあまり言うのはどうかと思うけれど無自覚・無責任は思いやりをもって反省していくと良いと思う。

また、崇高な理念を掲げるところは自分たち一人一人がその理念に対してどれだけ期待され評価されているかをいつも意識することで自然に自律することができるようになる。

自分の評価を下げないのは周囲への深い思いやりであるし、大きな社会の中で自分の個性や自己実現を存分に発揮できるようにすることに繋がっている。

最近、師匠のブログでオリンピックのことなども書かれていたけれどその自分の影響力や期待度や評価の自覚がないこと自身が無自覚無責任ということになる。師匠はそれに対して、あまり周囲の大人が本人が気づいていないのに言いすぎるから本人が気づけず、自分勝手が自己主張と勘違いしてしまうのではないかと本人に自覚させない周囲の大人たちの教育の在り方そのものにも疑問を提言していた。

例えば、自分の影響力が大きい教師や経営者、コンサルタントと言われ人々へビジョンや方向性を示し導くのが役割となる職業がある。当然方向が間違っていたとなると与える損害も大きく社会や親や子どもたちの人生そのものに対してもその影響力も相当なものだ。

もしもそういう人が飲んだくれてどこかの道端で寝ていたり、社会的に悪影響となる不祥事やみっともない体たらくぶりを露呈したりとあるのは、その責任に対する自覚が足りないから起きることだと思う。

私もそうだけれどやっぱり周りは自分が慕って尊敬している人(教師やコンサルタント)が飲んだくれどうしようもなくなるのはみたくないし、方向性を示してくれた人がだらしなく不祥事を起こすのはとても恥ずかしいことだし嫌な気持ちになるものだ。それに責任が重くなると、遅刻一つや約束一つ、その他些細なことまで不祥事となりその影響力は大きくなっていく。

よくそういう人たちは「人間だから仕方がないよね」と言うけれど、これも師から教わったのだがそういうことを自分で言う人に限って人間だからと言いわけしているだけで決して周りはそういうふうには思ってはいない。

ただ恥なことだと思われるだけだ。

人間だからという受容や肯定は、程度もあるし、また日々一生懸命役割を果たしていてもやっぱりどこかまだ思われるほど強くなれないところがある、その「あるがままの自分の弱さ」をさらけ出すからそれを周囲が認めて人間だからねといわれるだけで決して本人が「別に人間だからさいいだろうこれで」というのは、やっぱりどこか自覚のない無責任があるのだと思う。

これは教師と言われる聖職者、リーダーと呼ばれる経営者、またはコンサルタントと言われる伝道者は、何より世間、会社や、相手へ対する自分の存在価値や影響力を正しく受け取り、それにそって自分の使命を自覚することが自らのミッションを真に達成するには必要なのだと思う。

正しく生きた仕事は周囲を幸せにしていくし、誤った死んだ仕事は周囲を不幸にしていく。それだけの仕事だからこそ遣り甲斐も生き甲斐も生まれて幸せになることができるということだと私は思う。

私たちは生きているだけでも活かされ活かしあっているのだからこそ、何よりそのことに感謝し自分を律していくことをただ自分勝手にやるのではなくもっと周囲への思いやりを優先し自らの責任と自らの自覚により正しく認識して実践していくことを大事にしたい。

カグヤは、子ども第一主義のコンサルタント集団。

だからこそ、その責任と自覚が期待を裏切らないことを肝に命じて常に内省し実践していきたい。

子どもの未来の権利

先日、来日したリヒテルズ直子様と私が現在色々な哲学や思想を教授いただいている吉川宗男先生をセッティングし、話をお伺いすることができた。

もともと私は師匠の真心と王道の実践が世界を易えると信じて何よりも優先して深め徳を明るみにしていくことに命を懸けているのだけれど、それをより幅広く世界や社会へ感化浸透するには最先端でありもっともシンプルな思想をより具現化し、それを自らのオルタナティブと新しい世界の創出の企画の精度を高めるためにも真摯に取り入れている。

もちろん、理屈はさておき国際人である両雄の対談の場を設けることは私の幸せであり、私自身が生きる価値そのものでもあり、本当に好奇心と喜びの中で楽しむことができた。

吉川先生の哲学や思想は、メビウス理論としてお互いが統合的総合創造のエネルギーをダブルスウィングすることで宇宙の絶対バランスを生じ、その瞬間に煌めく一期一会があり、その今の瞬間から奇跡の熱が発生しと・・私にはまだまだその深遠な哲理が理解できていないのですが、何より先生自らの体験と実践によりそのことが持つ力を世のため社会のためにいかしたいと発心しているように改めて感じました。

今年は、中京大学で8月に開催する「世界会議」がありそこでも私も一緒になって同じ道を歩んでいる先生と講演やシンポジウムを楽しむ場や間、そして和が共有できるのを有難く感じています。

そして、リヒテルズ直子様は昨日のブログでも書きましたが差別や人権というもの、また人としての社会の在り方や個々の自立ということを通して、真に幸せになり助け合いの未来を創造したいと、故郷のため、そして独立自尊のためにと勇猛心で活動している維新の志士であるようにも感じました。

その話には、私のあまり知らない哲学者の話や、宗教者の話、そして理論や思考法など様々なことを学ばせていただきました。

Martin Buberの我と汝の話などはもっとゆっくりしたかったと感じました。
本当にわくわくすることばかりで、時間がもっとあればと名残り惜しくなりました。

その中でもまた一つ刷り込みのとれた面白い話がありました。

これは私の解釈ですが物事を考えるとき、そして人との調和や対話を思うとき、如何に物事を排除しないかというところに真実の鏡のようなものがあるということ。

よく大人は口癖のように「必要悪だからという」しかし、これはよく考えてみると変な使い方をしている。よく大手企業などや私たちの教育業界などではこういう類のことを言う人がとても多い。

どんな場面かと言えば、必要悪とは別に大きなことをやらないといけないのだから小さな犠牲は構わない、大きな善をするために「これも必要な悪だ」という使い方だったり、もしくは、自分が悪いと分かっていても、他の方法は全部妥協してその結論をだしたのだからそれでもやるしかないじゃないかと自分を言い聞かせるときに「これも必要悪だから」と使っている。さらに巧妙になってくると、直接必要悪だとはせずこの一見犠牲の山積みの問題をそのままにしておくことが悪なのだ、この悪を排除することが善だからこそ、「悪は悪を以て制することが必要なのだ」と、そういう自論を展開して国民を守るためにと世界を巻き込んで戦争までした国すらもある。

必要悪とは本当に都合の良い言葉だと今まではずっと思っていたし毛嫌いしてきた。

しかし、本質や一流の本物が使うこの「必要悪」とは本当は何だろうか?

私には、そういう方々が使う必要悪は何一つも一切排除しないで新しい選択をするということで使っているのだと思う。

これは例えば、そもそも悪と言われるものもすべてはこの世に必要だとする考え方、病気でもそうだけれどそれが悪いから治療するのではなく取り除くのでもない、それとどのように共生するのか、一緒に生きていく方法を人間らしく導きだすか、もしくは小さな犠牲というものすらもない新しい答えをお互いに話し合いによって決めるということでもいい。

つまりは、本当の必要悪とは、善も悪もともに必要だと言うこと、言いかえれば、善も悪もこの世には存在していないと言う考えかたということになる。

人は話す言葉が生まれたとき、光と闇、熱と冷、個と液などと必ず分かれて物事を表現し理解してきた。しかし私が思うと、自然は最初からわかれたことは一度もない。

すべては総合的創造的必然として成り立っていて、そもそも悪いものをつくるはずがなく、そして同じように善いものをつくるはずもない。

ただ、そこに在った。

そこに在るものは、無と空という名の自然というものだったという解釈ができる。

だからこそ、そこで生きる私たちは常にそういうもの天理から離れることはできるわけがない。

子どもたちにいえてもそうだし、周囲にある動植物もすべては繋がっている世界の住人であるし、それが当たり前というものだと私は思う。だからこそお互いに折り合いをつけているし、お互いで納得できるように生き生き合ってきた。

今は、この人間社会は権力と保身の名のもとに、よく必要悪だ必要善だと、理想と建前を使い分けて偽り生きていく社会風土が蔓延しているようにも思う。

しかし、そんなものあるはずがない。

子どもが安心して暮らせる未来を創るためには排除するのではなく、その子の個性を認めてその子のやりたいことを見守る世界を創らなければ、より大人になって心根が屈折する不自然で偏った大人たちがたくさん生まれてしまう。

それこそが子どもに起きている本当の危機だと思う。

子どもの未来を奪う権利は誰にもない、それを子どもの人権としても良いではないかと私は思う。

私は社業を通して、本当にすべてを調和しそこから真の一手を差し出し支援できるようなホスピタリティとコンサルティングを極めていきたい。

この出会いに感謝し、この出会いをまた実践で活かしていきたいと思います。

一期一会と幸福な時間に感謝します。

個性と愛

オランダからリヒテルズ直子様が来日し、2週間で14回の講演の合い間をぬって私たちカグヤの社内研修を行っていただいた。

色々な問題意識を持つ中で、子どもの人権や社会教育など、幅広い国際感性でこの日本に様々な提案と提言、その方法を示唆してくれる一流の思想の持ち主はなかなかいないと私は思う。

一人で遠いオランダからいつも世界のこと日本こと、人々の自立を通しての平和な社会の実現を願う姿にはいつも感銘を受ける。

今回は、社内のクルー一人ひとりから私たちの取り組みを説明しそれによって気づくことを伝え、私たちが現場で感じる危機感から得た疑問や質問を投げかけて答えていただくという形式を取った。

お互いが実践で感じる疑問はとても叡智があり、それに応える側も自分の問題意識で得た結論から丁寧にすり合わせていく刹那に本質とお互いの使命や役割なども明確にできるとても素晴らしい機会になった。

私自身、クルー一人ひとりが自らで自分の会社での行っている本質的な仕事を説明するその姿に成長を感動し、そして質問の洞察の深さや問題意識の高さにも共感することができた。

人は一日で成長することはない、長い年月をかけて時間をかけて誠意を籠めて関わった真心が次第に相手に感化し、時がきてそれぞれに開花していく。

目の前が如何に変化が少ないと感じても、心の根が育ち、良い栄養分を与えて素直に豊かに幸せであれば必ず人は見事な花を咲かせるのだと予感させる良い機会になったことを感謝しています。

その話の中でも、様々な気づきがあった。

特に興味深かったのが個性の話になる。

「人は自分が自分がと言っている人ほど自分がないことが多いということ、個性があるというのは、自分の中で曲げられない強い心や思いがあること。個性が立っていけば人は幸せになる。幸せであれが学力も身に付く、学力が身についても幸せでなければ意味がない。大切なのは共生していくことで生産性があがるということを知ること、経済優先の社会では無駄が生まれる。

だからこそ、何よりもまず個性を大事にしていくことだと言う。

誰かに批判されても、言い返すくらいのことができるくらい、自分にしっかりしたものを持つこと、そして遠慮しないで、自分を表現すること。」要点解釈

外にはいつまでも自分を守ってくれるような社会はない、だからこそ自らの意志で力強く自分が独立自尊していかないといけないというようなことを仰っていたように思う。

私も日々の実践の中で、様々な批判にさらされる。

子ども第一主義といっても、教育界にいながら私は会社経営をするという経済社会の一員でもある。その中で経済と道徳を一致するには、真に誠実な生き方や在り方をしていることが求められ、そのためにどこまで自分を貫くかというのは自らの心にある揺るがない信念がともに必要になる。

一方では闘い、一方では守り、そしてその両方を混ぜ合わせて認め受容し助け合っていくという実践が日々続いていく。

個性とは自分勝手なことを自由にやることではない、今の時代は自分勝手に何かを好きに進めていけば個性があると勘違いしているけれど、それこそ流されているだけで自分があるわけではない。本当の自分があるとは、周囲をよく思いやり利己心ではなく、自利利他の心で共生し貢献し自らが幸せになり同時に他人も幸せにして自然に感謝して生きていくことであるようなものだと私は思う。

個性が尊重されない世の中に、平和な未来は存在しない。

生きるには道がある。
道で彷徨うのはまだ良い、必ず助けてくれる人が現れる。
私もどんな逆境の中でも最後は助けてくれる人に出逢うことができた。
それを運という、運とはもともと良いものだと私は定義がある。

しかし、道がなく彷徨うのは亡霊の類と一緒になり常に苦しみから抜け出せなくなる。

そして、人が偉大な目標を掲げ道を目指すとき、孤独を感じ諦めそうになる。

しかしそんなときでも道がもし本当に一人孤独であるならば耐えられないようなことも、本気で自分から信じ合える人たちの中で自分の命を預けそして歩むならばその道は一人のようで決して一人ではない。

下記は、私の尊敬するメンターであり顧問の市川康雄さんが教えていただいたことがあります。

「独りは決して寂しくありません。
 心で繋がっていれば、一人でいても百人でいるのと同じです。
 見かけの孤独に惑わされないように。」

心で繋がるということの本質は、どんなことがあったとしても自らの愛に対して誠実であるということに他ならないと私は思う。

幸せであるとは無限の愛をいつでも感じることができるということだと私は思う。

人は一人では生きていけないからこそ、愛に飢えるのではなく真実の愛を感じてそれを無限に持てるように私はなりたい。

遠慮なく自分の個性を心を開いて伝えられるように自分を表現していきたい。

感謝。

愛の循環

自分を知ると言うことはとても難しい、それは自分が器であるがゆえに入っているものが様々に変化していく中で自分がどのようになっているのかを確かめることが難しいからだ。

鏡がある。

鏡は、外側の自らの姿を映し出すけれども内面までは普段は気づかない。しかしもう少しよく観察してみると、器がどうなっているのかを感情という入れ物を外すと客観的に理解することができる。

夜に水面に映る月も空も、そこにあるようでもそこには存在しない。
そこにあるのはただ月と空と水がそれぞれに存在するだけということ。

そう考えると自分というものを見つめると本当の自分を知るということが、自分を探していくことに於いては何よりも大事なことだと思う。

しかし自分の心の動きを観ようとしていくことが自分を見出していくことだとしても、その心そのものが動いているのにその心の流れを感じるというのはとても難しいことだと思う。

平常心というか、そういう心が穏やかで定まらなければなかなかできるはずもなく、どうしてもまだ修行が足りず気づくことができない日々がある。

器としての自分、器の中にある自分、そういうものを含めたものが本当の自分だと思えるにはまだまだ自分から心を開く実践と修練が必要になるように思う。

人は、何か理想を持てば必ず完璧を追う。
そこに落とし穴がある。

私も、子どものためにもどうしても何とかしなければと危機感と問題意識が膨らみすぎると自分を叱咤鼓舞しているうちに次第に臆病になり完璧主義のような職人的人格が形成されどうしても他人に寛容になれなくなってしまう。

現在、コンサルティングを通して様々な経営者や同志にお会いする中でやはり子どものためにと理想を追っている方は同じようになっている人が多い。

しかし崇高な理念や理想とは、自らが掲げた真理や真心への道でもあり、志を持てば必ずその理想は自らを道にいざなっていくものになる。

それゆえに偉大なストレスを一人孤独に抱え込み、マゾのように自分に厳しくなり、今にも折れて押しつぶされそうな人たちもまたたくさんいる。擦り切れてしまってはせっかくのもっている能力が活かされず、疲弊してしまう、それが何よりももったいないと私は思う。

素晴らしい人たちを埋もれさせることは国家最大の損失と言わずに何というのかと私は思う。本来、吉田松陰先生が仰った「草莽崛起」はそういう人たちを自由に表現できる世づくりでもある。

しかし悲しいことに今はその草莽崛起も力を弱められ、この日本の社会はそういう自立した人たちに対してみんなでよってたかって縋り助けてもらおうと依存する性質をもった人たちが教育により出来上がり、その集団が安易に力関係で形成されやすい世の中になっている。

私にとってはそういう草莽の志士であり真面目で効果的な人物たちが次第に諦めてつぶれていくことがもっともこの国の未来を貧しくさせていくのではないかと思い何よりもまた義憤し憤慨している。

そういう真剣な人たちに対して、如何に周囲がもっと心を開き協力するか、そういう人たちのストレスにならないように優しい暖かい環境を用意していくかも、子どもたちの将来のあるがままに繋がっていくと信じている。

そしてリーダーとして自らを鑑がみるときに、自分に厳しく、人にやさしくいたいと思っていてもどうしても心のゆとりや余裕が足りず、また信念に不動の柔軟性がまだ足りずどうしても私自身はそれがまだ実践できないでいる。

本当に追い込んでしまい申し訳ないと思うことがたくさんある。

自分を愛するということは、人を愛するということ、人を愛するためにも自分をどう愛するかは、心の動きや流れを自覚し、本当の自分を知ることであるのだとも私は思う。

そう思うと、愛を循環させることが素直にできない自分にどうしてもジレンマを感じ、それがなかなか思うようにいかないと反省する毎日ですが前向きでありたいとも思っています。

無理をしないで本気であるというのもまた中庸。
ゆっくりしているけれど効果絶大というのもまたまた中庸。

師匠の背中から実践からまた深く学び、私自身の今年のテーマである「適度」がきちんと理解し受容できるような強く優しい人になっていきたいと思う。

かんながらの道の一つにこの愛の循環を取り入れ、本当の自分に向き合っていきたい。

感謝

道を弘める

一昨年、念願の高野山を訪れたとき私は空海の軌跡からいくつかの真言に出逢うことができた。

今では当然と言われるかもしれないけれど、空海の遺す足跡にはすべてに真実があり、その言葉その意には常に誠があり、目指した心には常に普遍的な実践と徳と思いやりがあるように思えた。

どうしてもずっとお会いしたい大切な人の一人だったからこそ、少しの形跡からも多くの感動を得ることができ本当に感謝しています。

高野山では、毎朝、即身成仏である空海にお食事を運ぶ。私はあの朝の光景、行き来するあの修行僧たちが厳かに静寂とともに行う祈りと作法の姿が心に刻まれ今でも鮮明に覚えてあの時の時間が忘れられない。この世にまたいつものように生まれ死に巡りいる私たちが決して忘れてはいけない意味がその行動により示され続けるということ。

心を伝えることは何より行動によるものだと改めて感動することができた。

空海は人が生きたまま仏となれる即身成仏をすることを語り、無常にそして永遠に繰り返される輪廻の中で悟りの道を実践し歩んだ。そしてその独立一人、真実の信仰を座右に厳正に道に正対する姿に、人々の心を救い人間を弘く導くという偉大な誓願を立て、自らがその真理の体現をなさった。

あの日も早朝の暗闇から次第に光がさしこみ、周囲を照らし大いなる自然をみせるあの山での光景の感動に空海の遺戒、「生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し、、、」の本当の意味を考えさせられる機会になった。

何度も生まれ死んでいるのになぜ人はこの悟りに気づくことができないのか、迷う人たちは迷っていることを知らず、その苦しみから逃れられないでもいれるのか、せっかく生まれてきたのだから光の世界を歩もうではないかという強烈な発心がある。

なぜ生まれてきてなぜ死んでいくのか、そういうことを正しく理解できているからこそ、蓮のように闇のまま光になることを望み、そのまま生きて仏になるという壮大な矛盾を受容した新しく示した死生観のモノサシを立てることができたのだと思う。

私もこれを会社ではオルタナティブという言い方をするけれど、私の言うオルタナティブとは以上のような壮大な矛盾の中で一円融合した新しいモノサシであるしそれは平和や安心などの境地を招くことを問う。

これは今を生きる私たちに於いては、「未来未来未来未来のはじめに暗く、過去過去過去過去過去のおわりに冥い」だからこそそういう日々を繰り返していて同じようになるではなく、深く学問し、実践し、創意工夫により新しい悟りの道を志すことでそれぞれに真に心を得なさいというようなものだろうと私は思う。

未来や過去のその空間気間にこそ、天人合一があり、其処にだけ命や魂の意味がある。
私がいつも一期一会でいたいと思うのは其処に真の心が定まっていると思っているからだと思う。

話は変わる。

空海は、日本ではじめて庶民教育学校「綜芸種智院」を開設した。

その学校の特色は、「だれもが自由に学びたいものを学べる」「幅広く専門外のことを学び、視野の広い人物を育てる」「完全給費制とする」という3つ。

この時代は、高級官史や貴族しか入ることができず学べなかったものを貧しい庶民のために門戸を開き儒教・仏教・道教などを創造的に学べるようにしている。人に差別なく、真実や真理を広く学ぶことで道を志す人たちをたくさん増やしていくこと、その柱になる学校をつくるということ。

これは空海、長年の夢だったそうだ。

その総合的教育学校「綜芸種智院」の開校の際に、空海が寄せた念ず言葉に下記がある。

『物の興廃は必ず人に由る。人の昇沈は定めて道にあり。』(性霊集)

(世の中がよくなるのもわるくなるのも、すべては人にある。人の生き方を決めるのは道を求める心である。)

これは、私自身もそうだけれど最初は手探りでも人は体験や経験を通じて、様々な真理と出会い、それを学問によって広く深く学んでいくことで道が現れ自分の命の為すべきことを知ると言うようなことに繋がっていくのではないかとも思う。

いつの時代も、どんな環境下であっても本来世界を易える方法はそんなにたくさんあるわけではない。それぞれに時代や環境にあわせて創意工夫していくことは必要だけれど、変えるには道を志す人をたくさん弘げることにある。

一人でも多くの人たちが、未来に対して、またこの先を生きる人たちのために自らの生と向き合った真実を志と道により示していくことこそが重要で、その道により人々は様々な天や自然からの声に気づけ、幸福と譲り合い、助け合い、素晴らしい世界をまたひとつずつ創造することができるのだと私は思う。

先人が遺した何よりも大切なメッセージをどれだけ私たち子孫は受け取れるか。
それは時空を超えた実践との邂逅であると思う。

これからも子どもたちのために本来あるべきようを見つめ日々の行動を一期一会に学んでいきたい。保育の道も今の仕事の道も私の人生の道もかんながらの道もすべてはこの弘法大師と同行二人の行脚の菩薩の道だと思えばとても豊かで幸せな気持ちで愉快に歩くことができる。

時間差がありましたが、真剣の最中に、出逢えた何よりの有難い贈り物に心から感謝しています。

方針とビジョン

沖縄研修の最終日に入り、方針とビジョンについて話をした。

方針とは、磁石が必ず北を指すようにどこに向かって進めばいいのかを明確に示すものとしてそれぞれが自分が歩んでいる方位を確認するために使っている。そして、ビジョンとはその具体的な行動計画やカグヤで行っている実践やこだわりを明確に示すことで、自分の居場所や会社の理念を可視化して分かりやすく理解することができるために使っている。

カグヤでは年に一度のこのビジョンや方針の研修では、常に意識的に原則や法則などを織り交ぜて普遍的な部分をいくつかの領域に分けて進めている。

今年の方針はDVDを使って映像を用い私と同じような経営方針を貫いている方の講演を一緒に鑑賞し学び合うことにした。それは客観的に異なる分野で同じレベルに居る人を理解し、その人の言葉から異なる角度で理解することでより深く自らの取り組みの質に近づける。

そしてビジョンでは、4つの普遍的な原則に照らしながら自分たちのこだわりや日々の実践の重要性を再確認するために使うことにした。その具体的な実践や自社のこだわりなどの意味を掘り下げることでその価値の高さや重要性を理解してもらうように努めた。

また全体を通して、近々(この一年ほど)の目標についてはこの沖縄研修での具体的な感動体験を通して会社が目指している顧客満足などを心で感じれるような機会と空間を用意し、繋がりの中で自ら気づけるような環境を設定して進めることができた。

全体としては、私の持ち前の透過シンクロニシティを発動し、様々な御縁と邂逅の中で一期一会の学びと皆がそれぞれに自立のプロセスを味わっていくことになる。

集団で何か社会のためになることをするというのは、そのリーダーがどこまで真剣に社員やお客様のために考え抜くかにある。そのかじ取りは、眼前の一喜一憂に心が惑わされ左右されず、ブレず自らの信念を貫くために理念に止まり、不動の心を練り上げ平常心で最期まで使命を完竟し終えると言う覚悟が必要になる。

どの時代も商売に限らず様々な企業や法人は、一方的なサービスを求められる。その中でもいつも方針や理念、その他が盤石になっていなければ様々な問題でその都度経営が左右されることになる。

例えば、保育園幼稚園であれば保護者が要求してくる様々なクレームなどにどのように対応していくかなど常に問題が現れどのようにするのかを求められる。

クレームが来ないから良い園なのではなく、どのような方針とビジョンがあるかでどれだけ周囲が理解してくださっているかということの方がより経営をすることにおいては優先されるのだと私は思う。

社会は自然界と同じように部分でできあがっているのではなく、全体(総合)でできあがっているのだから当然部分を変えることよりも全体として自分がどうあるべきかをよく見定め、本来のあるべきように自分を定めてこそ本当の意味で社会にとって価値のある実践表現と社会貢献を行うことができると私は思う。

そのためにも、部分が全体になるための方針がありビジョンが必要になる。

今回の沖縄では、様々な人たちとの関わり合いの中で私が将来あるべきようを示すことができたように思う。

今回示したことは、数年先ではなく数十年先、数百年先でもそのまま使える真理を伝えたつもりだ。

何千年も前から、ずっと変わらずにあるその心の中の仏性を学ぶために人間は生きる意味を求めてきた。

どんなに時代とともにやることが変わったとしても、その人間の本質はいつまでも変わらない。それは、生きる意味を学ぶために生まれてきたということ。万物の霊長とは、なぜ生きるのかなぜ死ぬのかを考えることによる。闇から光の世界に来たとすれば、単なる繰り返しでなくその中で気づき悟り、その悟りを持って世の中を照らし、すべての生命に思いやりを与えて幸せな世を調和するに至る。

そしてやはり私は子どもたちへの仕事を生業にする以上、常に自利利他の精神を基盤に独立自尊のかんながらの道をこれからも貫いていきたい。

今年も方針とビジョンを示す機会が得られたこと、そして様々な人たちの御蔭や御恩の上に成り立っているこの今に何より深い感謝をしています。

本当に有難うございました。

ぜひ、この一期一会も子どもの未来につなげていきたいと誓います。

共通の体験

今回は沖縄では「大きな和」をテーマに研修をすることになっている。
その和を通じて、けじめと調和の本質を感じ、真にお互いを敬い愛するということの意味を深く学ぶことになる。

この学ぶということは、実践すると言うこと、実践して学んだことを振り返ることで自らの体験に昇華していくことが何よりも生身で心がある私たちの学ぶということの本懐になる。

世界には、色々な問題意識を持つ人たちがいる。

特に、保育の世界には、自らの子ども時代の体験を通じて、この世の中に何が必要なのかや、何がもっとも大切なのかを、自らの心に刻み、それを日々の保育の中で実践し活かしている人たちがいる。

今回もお互いで実践している共通の学びの原点は、子どもへ対する「無償の愛」というものをどのようにそれぞれで感じ、本気でそれを受容肯定してその意味を楽しむかなどの体験を用意し、それぞれが主体的に「ホスピタリティ」からその繋がりを感じて意味を共有する。

人は皆、同じ体験をすることで感じ方が異なることを知る。

そして、同じ時に、同じ場所で、同じものを見て、同じものを一緒に感じることで価値観のそれぞれの異なりや、その素晴らしさを認め合えるようになる。

理念や信条など、それぞれ形には見えないものをどのように可視化して共有するかはもちろん色々な方法があるけれど、まずは同じ体験をともに共感するなかでそれぞれが感じたことを出し合い、受け容れあい、学び合いをすることがもっとも本質的な共通の機会になる。

昨今、特に都市化された中での人々は公私ともに孤立し、すぐに独りよがりに偏り自分の考えでの認識をそのすべてが正しいと勘違いしたり、忙しくなり自分でいっぱいになり周りに見える景色を全否定したりしていると、人々の間にある形のないものを共有することが難しくなる。

それは例えば、信頼関係であったり、尊敬することであったり、譲り合うことであったり、豊かさや味わいであったり、もったいないやかけがえのないことなど、そういう当たり前のことが次第に離れてしまうこともある。

しかし、人間は脳で生きているのではなく”心”で生きているのだから、そういった感動や感激、感謝など、感じることを優先しなければ心を主とした人間らしい生き方をしているとは言い難くなる。

大切なことは、何よりも心を使って感じることがなければ本末転倒になる。

そしてその心を使った共通の体験こそが人と人との感動を生みだし、人間が幸せや生きる意味を真に感じる機会に繋がっていくと私は思う。

私たちは、子どもたちにどんな理念でどのような本物の環境を用意していくのか。
そして見守る中で、子どもたちがどのようなことを体験し学んでいくのか。

園では単に年間行事だからや決めごとだからなど、安易に取り組んではいけない。他にも、本物の繋がり、本物の環境、本物の体験、そのすべては、まず相手を本気で思いやるといった「おもてなし」の心を使わなければ真に本物を用意することはできないと私は思う。

そしてそのことで全ての人や物が本気で主体的に心を通じあわせ感じ合えるような豊かさ溢れる幸せの大きな和になり人々を自立させ真に幸せにしていけるということを忘れてはいけない。

これからもカグヤでは、そういった生きる意味を感じるような本物の環境を用意し共通の体験を増やしていきたいと思う。

沖縄の研修での数々の出会いに深く感謝します。

島の心

今日から3日間、カグヤ社内理念研修として沖縄に来ている。
ここ2年は、毎年テーマが重なる園と一緒に合同で研修をしている。

これは、お互いに学び合い高めあいともに子どもたちを見守る保育道により切磋琢磨しその道を深める機会としてもとても有効なものになっている。

どんなに距離が離れていても、あまり日頃の関わりがなくても、志を共有していれば互いに引き合い、同じタイミングで人は人に出逢うことになる。

人は本気で思えば鏡のように自分の今を周りの人たちが投影する。

本当に、人は自分が観えるようになるにはよほど周りの人たちに真剣でなければできないことなのだろうと改めて思う。

今回、沖縄ではこの理念研修という機会を通してたくさんの園の職員の方々とクルーたちと一緒にお互いを高めあう有難い出会いをいただくことができました。

特に島に着いてからの御出迎えから、温かい心配り、また園まで到着するまでの案内から園内研修後の歓迎やおもてなしなど、そのどの全てもとても感動させてもらうようなものでした。

人は最初は小さなおもてなしではじめても、それを信じて続けていけばそのうちにそれは大きな「感動」になる。

今回いただいたおもてなしの感動も大きな和も一朝一夕にはできるものではないと改めてその実践から積み上げられた人の温かさや優しさの本質を感じることができました。

自分の喜び以上に、相手に喜んでもらうということの素晴らしさ。
それをどうどうと素直に表現できる魅力がある美しい心の人たち。

溢れるほどの心豊かな財産を与えるほどに人は、その心の財産をさらに増やして多くの人たちへ広く貢献していける無限の恩恵力が育っていく。

そこにこれから園で育っていくあの子どもの無限の可能性を感じました。

また研修の中での一円対話では、人生を支えてくて励ましてくれる存在があることを皆で認め合い分かち合い尊重のままに共有することができました。

つい人は自分で自分だけを満たしてしまったり、自分の方ばかりを気にするあまり、周りの見守りや支えてくれている人たちのことを忘れてしまうことがある。

もしくは、忙しくなったり心を何かに囚われたりして不安から一人で孤独で責任をすべて背負ったりしてしまうこともある。

そんな時、その重く暗い闇の底から手を差し伸べて助けたり、追いつめられて人の肩の力を抜かせて楽にさせたり、一人で不安で立ちつくしている人の背中をそっと押して励ましたり、大丈夫だよと心から支えたりするのは、すべて相手を思いやる真心からの眼差しや語りかけにより相手を真に救うことができる。

王道にある、「人は決して一人では生きてはいけない」こと。

だからこそ、いつも生かされ助けられていることに感謝して人を大切に生きていく心を持ち続けていたいと思う。

助け合い生きていかなければ生きてはいけないことを良く知っている島の心。

まだまだ学び、より子どもたちの未来に繋いでいきたい絆を深めていきたい。

大きな和がテーマの一期一会、明日も宜しくお願いします。

感謝

清澄心

いくつかの仕事を通して、いつも自然体を求めて一体自然とは何なのかを考えることが多い。

雑念や不安、また自分を優先する心で仕事をしているといつも余計な仕事が増える。つまりは忙しくなる。心を籠めるには余裕とゆとりがいる。自然界のように循環するには、悠久の流れをいつも抱いている心がそこにいる。

そしてその心と意が清く澄んでいつも真心で物事に正対していけば自然な姿になる。

特に私たちは経済社会の中で自分たちを自己表現している。
その中で多くの刷り込みがあり、それに左右されないような自分(正しい心)を信じる力が必要になる。

私が尊敬する二宮尊徳は、その富財に正対し、増減する財について論語の「大学」を使いその夜話で語っている。

「財は末なり、徳は本なり」と。

そして尊徳は自らその財の中庸のモノサシを「以徳報徳」とし、何より実践を重視し徳を以て世の中に報いることを使命としてその生涯を偽り怠ることがなかった。

道徳や経済を一致するには、何よりもまずその心を澄ませ自らの使命を見つめて損得ではない思いやりを広げる心、つまりは徳を以てその道に根差すことが第一義なのだろうと私も思う。

よく身の回りの教育に従事する方々が理想と建前を中庸だと誤解し、片や良いことをし片や帳尻をあわせるという人をよく見かけることがあるけれど、それでは心が次第に曇り、正しいことができなくなり次第に本懐や本筋が歪み道から離れることになり大損害を得ることになる。

保守保身とは、どうせ無理だと変化に対して変わる勇気を諦めた人たちのこと。

それでは、無限に降り注ぐ天の恩恵を受けて時代にあわせて真っ直ぐに自分の命の光を使って自然におおらかに明るく共生し伸びきることができなくなるのではないかと私は思う。

人はまず自らその道の在り方を見つめ、丹誠を籠めて学び磨いていくことが何よりも自らで与えられた天命に主体で生きる方法だと私は思う。

古えを歩んだ万葉随神の人々は、日々、自然の中で禊ぎをし日々そういう自分の心を清め浄化し、何より平安と命の感謝を大切にしてきた。

しかし今は、何と便利になり、何もしなくても生きることができることが当たり前になり、全てが受け身になり、当然あった当たり前の素直な心や慈愛慈悲、また思いやりや感謝といったそういう生きる規範が蔑になり目に見える世界ばかりが優先され信じられるという慢性的な無機質な生活を送るようになった。

自然に帰すにはまず自ら人心の働きを知り、何より自らそれを省み慎み直す必要があると私は思う。

時代を遡れば環境がたとえ戦時中であってもどんなものであっても、それを実践した人間力を発揮した生き方を示した方は世の中にたくさんいる。

上杉謙信の家訓16カ条、その「宝在心」にこうある

一、心に物なき時は心広く体泰なり
一、心に我儘なき時は愛敬失わず
一、心に欲なき時は義理を行う
一、心に私なき時は疑うことなし
一、心に驕りなき時は人を教う
一、心に誤りなき時は人を畏れず
一、心に邪見なき時は人を育つる
一、心に貪りなき時は人に諂うことなし
一、心に怒りなき時は言葉和らかなり
一、心に堪忍ある時は事を調う
一、心に曇りなき時は心静かなり
一、心に勇みある時は悔やむことなし
一、心賤しからざる時は願い好まず
一、心に孝行ある時は忠節厚し
一、心に自慢なき時は人の善を知り
一、心に迷いなき時は人を咎めず

人が人間力を磨き生きる上で大切なものはいつも原始の真心だと私は思う。
その心の働きを知り、その心をどう修めるかで世界を創るのが人間。

今の人たちに大切なのはその心をまず主体にすることで、自分を大切に生きていくことを優先することだと思う。

自分を大事にとは自分勝手にやることではなく、自分の心を澄ませ優しく思いやりを育みそれを認め合い支え合うという共生の心のことを言う。

今の子どもたちには、自分の心に正直にやりたいことを思う存分やれるように私たちカグヤの社業を使い刷り込みを一つでも取り除き、夢を掴めるような人たちを照らしていきたいと思う。

何より、人間を深く愛し、信じ、子どもたちが自然に豊かに創る未来を遺せるよう自らの実践を以て徳を貫いていきたい。

感謝